第4話:友よさらば(4)
大賢者エラーラ・ヴェリタス。
褐色の肌。銀色の髪。
理知的な青い瞳は、まるで顕微鏡のようにノアを観察していた。
その背後には、黒いドレスを着た美女が、不機嫌そうに鉄扇を構えて立っていたが、ノアの視界は白衣の女性に釘付けになった。
エラーラは、ずぶ濡れのノアを見下ろし、口元に興味深げな笑みを浮かべた。
「ふむ……。『時代に放火した貴族様』のご来院というわけか」
「……僕は貴族なんかじゃない!」
ノアは、掠れた声で訴えた。
「ゴミ山で生まれたんだ。ただ本当のことを言っただけなのに……道具は悪くないって、テオドールは悪くないって言っただけなのに……」
エラーラの瞳が、一瞬鋭く光った。
彼女はしゃがみ込み、ノアのポケットから、微かに光る水晶――テオドールの核を取り出した。
彼女の細い指が、愛おしそうに、そして懐かしそうにその水晶を撫でる。
「……ほう。『タイプR』のコアか。私が昔、ほんの気まぐれで設計図を引いた、可愛い失敗作だ」
ノアは目を見開いた。
「え……?」
エラーラは水晶を光にかざし、独り言のように呟いた。
「鏡なんだよ。純粋すぎたのさ。人間の汚い部分も、綺麗な部分も、全部そのまま映してしまう。だから社会に拒絶された。……だが、見てくれたまえ」
エラーラは水晶をノアに見せた。
それは、泥だらけのノアの手の中で、まだ温かい光を放っていた。
「君が世間に迎合して、『怪物が悪かった』と嘘をついていたら、こいつはただの石ころになっていただろうよ。こいつがまだ光子を放出しているのは、お前が嘘をつかず、自らの意思で『業』を背負う覚悟を決めたからだ」
エラーラは立ち上がり、白衣の裾を翻した。
その姿は、どんな王侯貴族よりも気高く、そして、狂気を帯びていた。
「素晴らしいよ!世界中が責任転嫁の麻薬に溺れる中で、たった一人、正気を保った『特異点』!これは実に興味深い実験体だ!」
「賢者さん、僕は、どうすればいい?僕は一生、悪者のレッテルを貼られて逃げ続けなきゃいけないの?……テオドールは、悪くなかった。悪いのは、僕なんだ!」
エラーラは、ノアに手を差し伸べた。
「道具のせいにせず、環境のせいにせず、自分の足で立ち、自分の罪を背負って生きる。そういう生き方は、『悪者』じゃあない。世の中じゃ『魔王』、あるいは『英雄』と定義するんだよ」
ノアは、自分に言い聞かせるように呟いた。
「……道具は悪くない。それを使う人間の心が悪いんだ」
それは、彼が絶望の淵で見つけた、血の滲むような真理だった。
自分が罪を背負うことでしか、死んだ友の名誉を守れないという、悲痛な覚悟。
「あら。随分と殊勝な心がけね」
その言葉に、ナラティブ・ヴェリタスが反応した。
彼女は優雅に脚を組み直し、鉄扇で空を切った。
「ええ、その通りよ。包丁は料理にも殺人も使える。銃は狩猟にも戦争にも使える。道具そのものに善悪の概念なんてない。それを『悪』だと騒ぎ立てるのは、自らの未熟さを道具のせいにする、三流の敗北者だけよ」
ナラは、フンと鼻を鳴らした。
しかし。
その言葉は、ノアの主張を肯定しているようでいて……決定的に何かが欠けていた。
彼女の言葉には、「当事者意識」がない。
彼女は生まれながらの強者であり、道具に振り回された経験など、ないのだ。
彼女にとって「使い手が悪い」という理屈は、弱者を切り捨てるための冷徹な事実確認に過ぎない。
そこには、ノアが抱えているような「罪の痛み」や「悔恨」は存在しなかった。
「一流の人間なら、道具を支配して当然。暴れている外の連中は、自分自身の人生という『道具』すら使いこなせない愚か者よ。……まったく、美しくないわね」
ナラは冷ややかに窓の外を睨んだ。
「ナラ君?きみの視点は実に直線的で…………そして、退屈だねぇ!」
その空気を切り裂いたのは、エラーラだった。
彼女は試験管を振る手を止め、白衣を翻して二人の前に立った。
その青い瞳は、狂気と理性が入り混じった怪しい光を放っている。
「『道具は悪くない』? 『使う人間が悪い』?実に美しい。だがね、それは不十分だよ」
エラーラは、ノアの手からテオドールの水晶をひょいと取り上げ、光にかざした。
「いいかい?もし、私が『見るだけで使用者の脳を焼き切る絵画』を作って、街中に飾ったとしよう。通りがかった人間がそれを見て死んだ。さて、これは『見るという行為を選択した人間』が悪いのかな?それとも、『そんなリスクの塊を生み出した作者』が悪いのかな?」
ナラが眉をひそめる。
「……極論よ、お母様。テオドールはそんな殺人兵器じゃないわ。学習型の玩具でしょう?」
「本質は同じさ!」
エラーラは嬉々として語り始めた。
「『テディ・タイプR』の設計思想は、『使用者の深層心理を無制限に物理干渉力へ変換する』ことだった。そこには安全装置がなかった。子供の心というのはね、純粋ゆえに、時に核兵器よりも残酷な殺意を抱くものなんだ。『あいつを消したい』『死んでしまえばいい』。そんな一時の感情を、即座に実行可能な凶器に変えるシステム……」
エラーラは、水晶を愛おしそうに撫でた。
「例えば、『持ち主が悲しい顔をしたら、慰めるために周囲の人間を皆殺しにする機能』がついた愛玩ロボットがあったとする。持ち主が泣いた。ロボットは皆殺しにした。ナラ、お前はこれを『泣いた持ち主が悪い』と切り捨てるかい?
私はそうは思わないねぇ。『悲しみ』という入力信号に対する『出力』の設計を誤った、創造主の傲慢さが諸悪の根源だ」
ノアは呆然としていた。
「じゃあ……テオドールを作った人が悪いの?僕のせいじゃ……ないの?」
「早合点するんじゃあないよ」
エラーラは人差し指を振った。
「『創造主も悪い』し、『使用者も悪い』。そして『それを許容した社会も悪い』。……責任というのはね、綺麗に等分できるものじゃないんだよ」
ナラは不機嫌そうに鉄扇をパチンと鳴らした。
「……お母様。あんた、まさか、この期に及んで、あの暴徒たちに塩を送るような真似をするつもり?」
「事実を述べているだけさ。科学者に必要なのは、感情的な擁護ではなく、冷徹な因果関係の解析だよ」
「屁理屈はいいわ!」
ナラが立ち上がる。
「今、議論すべきは『誰が悪いか』なんていう哲学的なお遊戯じゃないわ。現実を見なさい!」
ナラティブ・ヴェリタスは、徹底した現実主義者である。
彼女にとって重要なのは、崇高な理念よりも「今、ここに在る命」と「解決という結果」だ。
犯人探しも、責任論も、生き残った後でやればいい。
今は、目の前の震える少年を守ることが最優先事項なのだ。
「暴徒がドアを破るまで、あと数分もないわよ!」
ナラの一喝に、エラーラはキョトンとして、それからニヤリと笑った。
「……おや。さすがはナラ君。『生存』という生物にとっての至上命題を主張するとは。君の言う通りだ。今は倫理学の講義をしている場合じゃなかったね」
エラーラは白衣のポケットから、奇妙な形をしたリモコンを取り出した。
その顔には、先ほどまでの哲学者の顔ではなく、悪戯を企む子供のような、あるいは世界を転覆させる魔王のような笑みが浮かんでいた。
「議論は終了だ。これより、作戦に移行する。目的は二つ。第一に、ノアの身体的安全の確保。第二に、あの脳味噌の沸いた暴徒たちへの『教育的指導』だ」
ナラは溜息をつき、鉄扇を開いた。
「……まさか全員まとめて吹き飛ばすなんて言わないでしょうね?」
「……もっとエレガントで、残酷な方法をとる」
エラーラは、診察室の壁に掛けられた巨大な王都市街図を指差した。
「いいかい。今の彼らは『集団ヒステリー』という名の無敵状態にある。言葉じゃ止まらない。暴力でも止まらない。彼らを止める唯一の方法は……彼らの信じる『物語』を、言葉と暴力を用いて、根底からバグらせることさ」
「バグらせる?」
ノアが聞き返す。
「そうさ。彼らはノア、お前を『苦労を知らない貴族』だと思い込んでいる。だから攻撃できる。だから憎める。じゃあ、その前提をひっくり返してやればいい」
獣医院の重厚な扉が、今にも破られそうな悲鳴を上げていた。
ナラは、いつものパターンだと思っていた。
このマッドサイエンティストの母親が、とんでもない発明品を出し、派手な演出で暴徒を驚かせ、最後は煙に巻いて「ちゃんちゃん」で終わる。
それが『ヴェリタス探偵事務所』の日常であり、お約束のコミカルな解決劇のはずだった。
しかし。
実験室から出てきたエラーラ・ヴェリタスは、手ぶらだった。
いつもの怪しげな装置も、薬品も持っていない。
ただ、白衣の胸ポケットに、古びた「救星の勲章」だけを差していた。
エラーラは扉の前まで歩み寄り、閂に手をかけた。
「正気!?開けたら雪崩れ込んでくるよ!」
ノアが叫ぶ。
ナラも立ち上がった。
「お母様、ボケるには早いわよ!」
「静粛に!」
エラーラが一喝すると、二人は思わず口を噤んだ。
エラーラは扉越しに、外の暴徒たちへ聞こえるように声を張り上げた。
「諸君!聡明なる被害者諸君!私の研究室へようこそ!君たちの主張は、実に論理的で、美しい!」
外の怒号が一瞬止んだ。暴徒たちは顔を見合わせる。
「君たちは言う。『道具が悪い』『状況が悪い』『被害者だ』と。なるほど、その通りだ!人間は環境の奴隷!自由意志などというものは幻想に過ぎない!君たちが私を襲うのも、君たちの意思ではなく、社会というシステムの欠陥なのだね!?」
『そ、そうだ!』
『俺たちは悪くない! そうさせた社会が悪いんだ!』
暴徒たちが歓声を上げる。賢者が自分たちを認めたのだ。
エラーラは振り返り、ノアにウィンクした。
「そして、ノア君。お前の理論もまた、真理だ。『道具を使う人間が悪い』。『自分の行動には責任を持つべきだ』。……うんうん、実に高潔だ。涙が出るねぇ」
ノアは困惑した。
「ど、どういうこと?彼らの言い分と、僕の言い分は正反対だよ。両立なんてしない」
「いいや、するのさ!」
エラーラは、狂気的な笑みを浮かべて両手を広げた。
「君たちの理論を統合しようじゃないか!『状況』が悪ければ、暴力は正当化される。そして、『悪意ある使用者』は、道具を使って惨劇を引き起こす。……ならば!今、私は『暴徒に襲撃されている』という環境に置かれている!そしてここには、私が作った殺戮用の魔導兵器がある!さらに私は今から……『悪人』だ!」
重厚な扉が開く。
「条件は整った!状況が私に引き金を引かせ、悪人である私が凶器を振るう!君たちは悪くない!さあ!実験開始だ!」
扉が開いた瞬間、先頭にいた男が鉄パイプを振り上げた。
ナラが鉄扇を構えて飛び出そうとした。
だが、エラーラは動じなかった。
彼女は胸ポケットの「黄金の勲章」を指先で弾いた。
それは、美しく、そして禍々しい光を放っていた。
「私はね、かつて、世界の命を救った。だからね、この勲章は『免罪符』なんだよ。私は法に裁かれない。……つまり、ここいる数千人を殺しても、お釣りが来るのさ」
暴徒の男が、エラーラの目の前まで迫った。
エラーラは、銀色の球体のスイッチを押した。
「――『空間焼却』」
音はなかった。
閃光もなかった。
ただ、目の前の男の首から上が、「なくなった」。
血も出ない。肉片も飛び散らない。
まるで、最初からそこに空間しか存在しなかったかのように、球状にえぐり取られて消滅したのだ。
男の体が、糸の切れた人形のように崩れ落ちる。
「……え?」
後ろにいた暴徒が立ち止まる。
「おや、出力が低いねぇ。調整不足か」
エラーラは、テレビのチャンネルを変えるような気軽さで、球体のダイヤルを回した。
彼女が球体を振ると、不可視の波動が扇状に広がった。
最前列にいた50人の暴徒たちの、上半身が一斉に消失した。
肉塊が落ちる湿った音だけが、雨音に混じって響く。
悲鳴が上がる。
パニックが起きる。
エラーラは、心底楽しそうに笑った。
その瞳は、研究対象を見る冷徹さと、子供のような無邪気さで輝いている。
「おや、逃げるのかい?おかしいねぇ!君たちは『環境の被害者』なんだろう?状況が君たちをここに追いやったんだろう?なら、最後まで演じ切りたまえよ!『理不尽な暴力』という環境によって、ゴミのように処理される被害者をねぇ!」
エラーラが一歩踏み出すたびに、空間が削り取られ、人が消える。
血の海などできない。
ただ、人が「不在」になる恐怖だけが積み重なっていく。
「お、お母様……?」
ナラの顔から血の気が引いていた。
鉄扇を取り落とし、ガタガタと震えている。
「嘘……でしょ?いつもの幻影魔法とか……そういうオチよね?だって、殺してるのよ? 本当に、殺してるのよ!?」
ナラは現実主義者だ。
だからこそ分かる。目の前で起きていることが、トリックでも何でもない、純粋な「殺戮」であることを。
彼女が愛した「少し変だけど偉大な母」は、今、ためらいなく大量虐殺を行っている。
「ち、違う……こんなの、僕が望んだことじゃない……」
ノアは腰を抜かし、這いつくばっていた。
彼はテオドールの名誉を守りたかった。
自分の罪と向き合いたかった。
だが、目の前の光景は、そんな道徳的な次元を遥かに超えていた。
エラーラは、逃げ惑う暴徒の背中に向かって、楽しそうに語りかける。
「どうしたんだい?『道具が悪い』と言うなら、この道具を恨みたまえ!『使う人が悪い』と言うなら、私を恨みたまえ!君たちの理論は完璧だ!私は君たちの理論を尊重し、ただ、実践しているだけだよ!」
球体が唸るたびに、民家が、街路樹が、そして人間が、空間ごと消滅していく。
暴徒たちは我先に逃げようとして、互いを踏みつけ、将棋倒しになっていく。
「助けてくれ!俺が悪かった!俺がやったんだ!」
一人の男が泣き叫んだ。
「俺が自分の意思でここに来た! 俺の責任だ! だから助けてくれ!」
エラーラは足を止めた。
「おや。やっと『自分の言葉』を喋ったねぇ、でも……」
男の顔に希望が差す。
「遅いよ。」
エラーラは無慈悲にスイッチを押した。
男は消滅した。
エラーラは振り返り、ナラとノアに満面の笑みを向けた。
ナラは動けなかった。
ノアも動けなかった。
彼らは理解してしまった。
今まで彼らが過ごしていた「ヴェリタス探偵事務所」のコミカルな日常は、エラーラという怪物が「人間のふり」をしてくれていた、ほんの僅かな余興に過ぎなかったことを。
彼女は、本気になればいつでも世界を終わらせることができる。
そして今、彼女は「暴徒の襲撃」という正当な理由を得て、そのスイッチを入れてしまったのだ。
雨音が消えた。
暴徒の声も消えた。
ただ、エラーラの鼻歌と、空間が削れる音だけが、静寂の街に響き渡っている。




