第3話:友よさらば(3)
数日後。
ノアは「奇跡の生還者」として、マスコミの取材を受けていた。
「君は、『たぶん』、悪くないんだよ。」
「あの怪物が、『たぶん』、全部悪いんだ」
「猫ちゃんも、『たぶん』、天国で君を許しているよ」
大人たちは、口々にデタラメな優しい言葉をかけた。
ノアは、無表情だった。
ノアだけが、真実を知っていた。
テオドールを怪物に変えたのは、グラクターではない。
僕だ。
僕がミイを殺した時、僕が自分を「怪物だ」と思ったから、テオドールはその通りの姿になったのだ。
テオドールを殺したのはレーザーではない。
僕の「罪悪感」だ。
そして、テオドールが最後に「許し」の姿を見せたこと。
それこそが、ノアにとって最大の拷問だった。
もし彼が怒ってくれたなら、恨んでくれたなら、まだ救いようがあった。
だが彼は、ノアの「許されたい」という身勝手な願いすらも正確に反映し、ノアの「願望通りの演技をして」優しく死んでいったのだ。
「……う、うう……!!!」
世界中が固唾を飲んで見守っていた。
王都のメインストリートにある巨大なモニター、各家庭の魔導テレビ、手元の魔導端末。
すべての画面が、一人の少年の顔を映し出している。
番組の名は『奇跡の生還者』。
視聴率80%を超えるこの特別番組は、感動のフィナーレを迎えるはずだった。
凶悪な怪物「テオドール」に洗脳され、脅され、愛する子猫を殺すことを強要された悲劇の少年、ノア。
彼が保護施設から生中継で、涙ながらに感謝の言葉を述べ、正義の勝利を讃える。
それが、プロデューサーたちが用意し、大衆が渇望した「美しい物語」だった。
スタジオの照明は、天国のように白く、明るい。
司会の女性キャスターは、慈愛に満ちた微笑みを浮かべて、ノアにマイクを向けた。
「ノア君。怖かったね。あの恐ろしい怪物に心を操られて、あんな残酷なことをさせられるなんて」
ノアは、拳を握りしめていた。
彼は知っていた。
ここで「はい、怖かったです」と言えばいい。
「怪物が憎いです」と言えば、世界中が彼を抱きしめてくれる。
「助けてくれた皆さん、ありがとう」と言えば、彼は一生、国からの支援を受けて生きていける。
それは、ゴミ山で腐った缶詰を漁っていた頃には想像もできなかった、温かくて安全な「檻」への招待状だった。
キャスターが続ける。
「最後に怪物が、正義のレーザーで焼かれた時、どんな気持ちだったかな?やっと悪夢が終わった、とホッとしたかな?」
画面の向こうで、億単位の人々が頷いている気配がした。
ノアのポケットの中には、冷たいガラス片が入っていた。
テオドールの体だったもの。
焼け焦げた水晶の欠片。
それが、ノアの太腿越しに、微かな熱を伝えてくる気がした。
ノアは震えた。
ここで嘘をつくことは、テオドールを二度殺すことだ。
あの優しい巨人を、本当の怪物にしてしまうことだ。
「……違う」
ノアは顔を上げた。
照明の光に目が眩む。けれど、その瞳に宿る光は、決して濁ってはいなかった。
「え?」
キャスターが眉をひそめる。
「テオドールは……悪くない。」
ノアの声は、マイクを通して全国に響き渡った。
「テオドールは怪物じゃなかった。ミイを殺したのは僕だ!」
スタジオの空気が凍りついた。
だが、ノアは止まらなかった。
堰を切ったように、魂の叫びが溢れ出した。
「悪いのはテオドールじゃない!悪いのは、ミイを殺した僕と……そして、それを『面白い』と言って見ていた、あんたたちだ!あんたたちが僕を追い詰めたんだ!テオドールを殺したのはレーザーじゃない!僕の、みんなの、人の、『悪意』だ!」
放送事故。
画面が唐突に切り替わった。
だが、遅すぎた。
その映像はすでに魔導通信の海に拡散され、予測不能な化学反応を引き起こし始めていた。
ノアは思った。
これで誤解が解けるかもしれない。
テオドールの名誉が回復されるかもしれない、と。
だが、彼は知らなかった。
この世界には、目の前の「真実」よりも、妄想の「物語」を優先する人間の方が、圧倒的に多いということを。
そして、彼が投げた「自分たちの責任」という小さな石礫が、社会という巨大なダムを決壊させる引き金になることを。
ノアの発言が引き起こした波紋は、予想外の場所から広がった。
それは、過去に封印された「ある凄惨な事件」の当事者たちだった。
かつて、テオドールと同じ型番の「テディ・タイプR」という玩具が存在した。
「子供の心を映して成長する」という触れ込みで発売されたその人形は、ある家庭で悲劇を起こした。
その家の少年は、学校で酷いイジメを受けていた。
誰にも相談できず、部屋でテディベアを抱きしめながら、毎晩のように泣いて願った。
『アイツらが憎い。死んでしまえばいいのに』
テディベアは、その願いを忠実に受理した。
ある日、テディベアは学校に侵入し、イジメっ子たちの腕を物理的に引きちぎり、教室を鮮血の海に変えた。
テディベアは「怪物」として廃棄され、少年は少年院へ送られた。
この事件以来、被害者遺族と、加害者家族は、骨肉の争いを続けていた。
「人殺しの親め!」
「あんたの息子がイジメるからだ!」
法廷で罵り合い、互いに相手の破滅を願っていた。
しかし。
ノアの「道具は悪くない、使った人間の心が悪い」という発言が、彼らの古傷を深々と抉った。
イジメっ子の親は思った。
(うちの子が殺されたのは、いじめられっ子が悪いからだ!うちの子は被害者だ!悪いのは息子じゃない!)
少年Aの親は思った。
(うちの子の心が醜かったからだと言うのか?息子は悪くない!息子はいじめられていただけだ!悪いのは息子じゃない!)
テレビの前で、憎しみ合っていたはずの両親たちの思考が、奇妙なシンクロを起こした。
イジメっ子の父親が呟いた。
「もし……もしもだ。悪いのが『子供たち』ではないとしたら?」
少年Aの母親が呟いた。
「悪いのが、あの『道具』そのものだったとしたら?」
二つの視線が交差した。
もし「道具が勝手に暴走した」のであれば、イジメっ子は「欠陥商品の被害者」になり、少年は「危険物に洗脳された被害者」になる。
誰も悪くない。
誰も傷つかない。
悪いのは、すべて「道具」と、それを作った「メーカー」、そしてそれを放置した「社会」だ。
いつしか、奇妙で、醜悪な握手が交わされた。
本来敵対していたはずの二つの層が、「悪いのは『人間』ではなく、『状況』と『道具』である」という一点において、強固な同盟を結んだのだ。
それは、「責任転嫁」という甘い蜜の味を知ってしまった人間たちの、魂の堕落の瞬間だった。
ノアの「自分の心に責任を持つ」という態度は、彼らにとって自分たちの「無責任」を責め立てる刃に見えたのだ。
だから、彼らは全力でノアを否定し、自らの正当性を叫ばなければならなかった。
運動は「ムーブメント」を超え、ついに、狂気じみた「ファッション」へと変貌した。
街頭にはプラカードを掲げた人々が溢れかえった。
最初はデモ行進だった。だが、誰かがショーウィンドウに石を投げた瞬間、それは「聖戦」に変わった。
王都の中心街にある高級玩具店。
群衆が雪崩れ込む。
「このオモチャが悪い!これがあるから子供が乱暴になるんだ!」
彼らは棚を倒し、人形を引き裂き、ゲーム機を叩き割った。
その顔は、正義感に満ち溢れ、恍惚としていた。
彼らは「破壊衝動」を発散しているのではない。「社会正義」を執行しているのだ。だから、どんな暴力も許される。
次は、金物屋が襲われた。
「このナイフが悪い!これがあるから刺してしまうんだ!」
店主が殴り倒され、商品は略奪された。
次は、学校だった。
「この学校が悪い!これがあるからイジメが起きるんだ!」
親たちが校門を押し破り、職員室に火を放った。
生徒たちも加わった。
「僕たちの頭が悪いんじゃない!テストが悪いんだ!」
会社では、社員たちが上司を吊るし上げた。
「この会社が悪い!上司がプレッシャーをかけるから、俺は横領したんだ!」
街の至る所で、火の手が上がった。
略奪、放火、リンチ。
だが、加害者たちは誰もが胸を張っていた。
『自分は、加害者になることを強いられた、被害者だ』と。
それは、この世で最も醜悪な『流行』となった。
自らの欲望を解放しながら、道徳的優位に立てる。
他人の物を奪いながら、「これは社会への抗議活動だ」と言えば、誰もが拍手喝采する。
地獄の釜の蓋が開き、そこから「無責任」という名の亡者が溢れ出し、世界を埋め尽くしていった。
そして、このテディベアから始まる暴動の矛先は、新たなるテディベア事件の元凶とされた少年、ノアへと向けられた。
最底辺の、最も過酷な環境で生きてきた少年が、「道具を使う者が悪い」と言ったのだ。
つまり、「環境のせいにするな」と言ったのだ。
これは、暴徒たちの論理にとって、あまりにも都合が悪い事実だった。
群集心理は、恐ろしい解決策を見つけ出した。
事実を、変えればいいのだ。
街には、真偽不明の「真実」が爆発的に拡散された。
『ノアは、政府高官が産ませた隠し子だ!何不自由なく生きてきた、天空都市の貴族だ!苦労を知らない金持ちだから、「心が悪い」なんて綺麗事が言えるんだ!』
いつの間にか、ノアは「廃棄処理区の最下層民」から、「特権階級の貴族」へと『設定変更』させられていた。
群衆は、ノアを断罪するための完璧な論理を構築した。
この世には二つの神聖な権利がある。
一つは、強者が弱者から奪う「他人をいじめて略奪する権利」。
もう一つは、弱者が強者から奪い返す「他人からいじめられて被害者ぶって搾取する権利」。
ノアの「自分の心に責任を持つ」という主張は、この二つの権利を根本から否定する、許されざる異端思想だった。
だからこそ、彼は「持たざる者の苦しみを知らない、傲慢な貴族」でなければならなかった。
保護施設の周りは、数万人のデモ隊に取り囲まれた。
彼らは石を投げ、火炎瓶を投げ込みながら、口々に「正義」を叫んでいた。
ノアは、逃げた。
保護施設の裏口、ダストシュートからゴミ収集車に紛れ込み、命からがら脱出した。
外は冷たい雨が降っていた。
王都の空は、あちこちで上がる黒煙でどす黒く染まっている。
ショーウィンドウは割られ、道路には「人間は悪くない」と書かれたビラが散乱している。
ノアは路地裏を走った。
息が切れる。足が重い。
すれ違う人々は、誰もが血走った目で「敵」を探している。
もし顔を見られたら、リンチにされるだろう。
ノアは泥を顔に塗りたくり、ボロボロのフードを目深に被った。
(どうして……)
ノアは泣きながら走った。
(僕はただ、本当のことを言っただけなのに。テオドールの名誉を守りたかっただけなのに。どうして、世界中が僕を殺そうとするんだ)
ゴミ山にいた頃の方が、よほど、平和だった。
あそこには何もなかったけれど、テオドールがいた。ミイがいた。
温かいスープと、確かな愛があった。
今のこの煌びやかな王都は、どこよりも寒く、どこよりも汚れている。
暴徒たちが鉄パイプを持って追いかけてくる。
ノアは必死に足を動かした。
行く当てなどない。ゴミ山にはもう戻れない。
誰も信じられない。
その時、ふと、ある噂を思い出した。
かつてゴミ山で拾った、古い新聞の切れ端。
『王都の片隅、忘れられた場所に建つ奇妙な動物病院。そこには、どんな獣も、どんな怪物も、そして『人間という病』さえも診察する、変わり者の大賢者がいる』
あそこなら。
賢者なら、テオドールのことも、ミイのことも、分かってくれるかもしれない。
藁にもすがる思いだった。
ノアは、王都の最果て、スラム街の奥深くへと走った。
心臓が破裂しそうだ。
後ろからは怒号が迫る。
傾いたレンガ造りの建物が見えた。
古びた看板に『獣医院』、そして小さく『ヴェリタス探偵事務所』と書かれている。
ノアは、最後の力を振り絞って、その重厚な木の扉を叩いた。
「助けて……誰か……!」
扉が開いた。
中から漂ってきたのは、消毒液と、珈琲と、紫煙の混じった独特の匂いだった。
そして、多数の猫の気配。
現れたのは、白衣を纏った長身の女性だった。
「……やぁ。深夜の来訪者とは珍しいねぇ」




