第1話:友よさらば(1)
王都、廃棄処理区。
錆びついた鉄の山。有毒な色の川。
空には灰色の雲。
そんな世界に、小さな「白」があった。
「ミイ、こっちだ。まだ食べられる缶詰があるぞ!」
少年の名はノア。14歳。
親の顔を知らず、物心ついた時にはこのゴミ山で鉄屑を拾って生きていた。
「ニャゴ」
彼の汚れたジャケットの懐から、小さな白い顔が覗く。子猫のミイだ。
ペットショップから廃棄されて雨に濡れて震えていたのを、ノアが拾ったのだ。
それ以来、彼らは「二人でひとり」だった。
ある雨の日。ノアとミイは、ゴミ山の奥深くで「それ」に出会った。
最初は、ただの黒い泥だと思った。
廃棄された化学薬品か、オイルの塊。それが雨に打たれて蠢いていた。
「……なんだ、これ」
ノアが警戒して鉄パイプを構える。
だが、ミイは違った。
ミイはノアの懐から飛び出すと、その黒い泥に近づき、鼻を近づけて……あろうことか、その泥にスリスリと体を擦り付けた。
「おい、ミイ! 危ない!」
ノアが叫んだ瞬間、奇跡が起きた。
黒い泥が、ブワリと膨れ上がったのだ。
泥はミイの柔らかな毛並みを模倣し、ノアの心にある「温かいもの」のイメージを吸い上げた。
数秒後。
そこには、つぎはぎだらけだが、フカフカの毛皮を持った、巨大なテディベアのような生き物が座っていた。
「……グルル?」
それは、怪物――テオドールだった。
彼はかつて「持ち主の望む姿になる」という機能を持たされ、子供の残酷な加虐心を映し出して事故を起こし、廃棄された失敗作だった。
だが、ここでは違った。
ミイが彼に求めたのは「温かいベッド」であり、ノアが彼に求めたのは「守ってくれる友達」だった。
だからテオドールは、優しくて、温かくて、少し間の抜けた巨人の姿になった。
それからの生活は、灰色の世界における、青春だった。
雨の夜、テオドールはその大きな体でノアとミイを包み込んだ。彼は体温を自由に変えられたので、二人は凍えることがなかった。
ミイはテオドールの頭の上がお気に入りだった。テオドールの耳を甘噛みし、足踏みをする。
テオドールは、壊れ物を扱うように慎重に、巨大な手でミイを撫でた。
「ミイは小さいな。柔らかいな」
テオドールは、拙い言葉で喋ることも覚えた。
「ノアも、小さい。俺が、守る」
ノアは笑った。何年ぶりに笑っただろうか。
「ああ。頼むよ、相棒」
ゴミ山の上で、少年と怪物と子猫は、腐った缶詰を分け合った。
世界中が彼らを忘れても、ここには確かな愛があった。
ミイの喉が鳴らすゴロゴロという音が、三人の心臓の鼓動を一つに繋いでいた。
・・・・・・・・・・
廃棄処理区の朝は、重たい鉛色の空から始まる。
けれど、ここ数日のノアにとって、朝は「絶望の始まり」ではなく、「冒険の幕開け」に変わっていた。
「……ん」
ノアが身じろぎすると、背中にフカフカとした温かい感触があった。
硬くて冷たい鉄屑のベッドではない。最高級の羽毛布団よりも柔らかく、日向の匂いがする毛並み。
テオドールだ。
彼は夜の間、その不定形な体を平たく広げ、ノアとミイを包み込む「生きたベッド」になってくれていたのだ。
「おはよう、テオドール」
ノアが声をかけると、ベッドの一部がボコボコと隆起し、熊のような丸い耳と、つぶらなガラス玉の瞳が形成された。
「オハヨウ、ノア」
少しノイズ混じりの、けれど温かみのある声。
テオドールはノアが起き上がると同時に、ベッドの形から、二本足で立つ愛嬌のある巨人の姿へと、滑らかに変身した。黒い泥のような体が、ノアの安心感を反映して、茶色くてモフモフした毛並みに変わっていく。
「ニャア」
テオドールの頭頂部から、白い毛玉が飛び出してきた。子猫のミイだ。
ミイはテオドールの頭が定位置になっていた。
彼女はテオドールの大きな鼻の頭に飛び降りると、ザリザリとした舌でおはようのキスをした。
「くすぐったい、ミイ」
テオドールが目を細める。彼に痛覚はないが、「くすぐったい」という概念はノアから学習した。ノアがミイにされて笑うことを、彼もまた「心地よいこと」として模倣しているのだ。
「よし! 今日は『宝島』の奥まで行ってみようぜ!」
ノアは勢いよく立ち上がった。
「あっちの区画には、まだ缶詰が埋まってるって噂なんだ」
「タカラジマ! カンヅメ!」
テオドールが楽しそうに復唱し、ミイが「ナァ!」と賛同の声を上げる。
一人と一匹と一帯。奇妙で愛おしい探検隊の出発だった。
彼らが「宝島」と呼ぶのは、かつて遊園地の廃棄物が捨てられたエリアだった。
「ミイ! そっちは危ないぞ!」
ミイは好奇心の塊だった。
彼女は錆びたジェットコースターのレールの上を、軽業師のようにタタタッと走っていく。その先には、キラキラ光るアルミホイルの切れ端が風に揺れていた。猫の本能が、あのヒラヒラを捕まえろと命じているのだ。
しかし、レールの一部が腐食しており、ミイが足をかけた瞬間、ガクリと崩れた。
ミイの小さな体が宙に投げ出される。下は鋭利な鉄屑の山だ。
「ミイッ!!」
ノアが叫び、手を伸ばすが間に合わない。
その時だ。
ノアの背後から、黒い影が猛スピードで滑り出した。テオドールだ。
そして落下の着地点に先回りすると、瞬時にその体を変化させた。
ミイが落ちたのは、鉄屑の上ではなく、巨大な「黒いトランポリン」の上だった。
テオドールが自らの体を膜状に広げ、クッションになったのだ。
「すごいなテオドール! ナイスキャッチだ!」
ノアが駆け寄ると、トランポリンの端からテオドールの顔がニョキッと生えてきた。
「ミイ、タノシイ? ノア、コワイ、ナカッタ?」
テオドールは、ミイが怪我をしなかったことよりも、ノアが青ざめた顔をしたことの方を心配していた。彼にとっての最優先事項は、いつだってノアの心の平穏なのだ。
「ああ、怖かったけど、お前のおかげで助かったよ。ありがとう」
ノアがテオドールの顔を撫でる。
すると、テオドールの体全体が、嬉しさで桜色に発光した。感情に合わせて色が変わる機能まで、彼は学習しつつあった。
本日の戦利品は、奇跡的に密閉が保たれていたフルーツの缶詰と、乾パンが一袋。
夕暮れ時。
空が紫色に染まり始め、街に明かりが灯り始めた。
ここから見る街の光は、まるで宝石箱をひっくり返したように綺麗だ。
けれど、そこはノアたちを拒絶した場所でもある。
三人は、瓦礫の山の一番高い場所に座って、その光を眺めていた。
ノアの膝の上で、遊び疲れたミイが丸くなって寝息を立てている。
その横に、テオドールが体育座りをしていた。
「ノア」
テオドールが静かに呼ぶ。
「アノ光、ナニ?」
「あれは……街の明かりだよ。人間たちが住んでるところ」
「ボクタチ、イケナイ?」
「……ああ。僕たちは汚れてるからね。あそこには入れないんだ」
ノアは少し自嘲気味に言った。
テオドールは少しの間、沈黙した。彼のガラス玉の瞳が、街の光を反射してキラキラと輝いている。
彼は自分の黒い泥の手を見つめ、次にノアの汚れた手を見つめた。
そして、ノアの手をそっと握った。
彼の手は、ノアが望む通りの「人肌の温かさ」を持っていた。
「デモ、ココ、アタタカイ」
テオドールは言った。
「マチ、キレイ。デモ、トオイ。ノア、ミイ、チカイ。アタタカイ。ダカラ、ボク、ココ、スキ」
その言葉は、どんな詩人が紡ぐ言葉よりも、ノアの胸を打った。
テオドールには高度な知能はないかもしれない。
でも彼は、知っている。
物理的な距離の近さと、心の距離の近さ。
自分を受け入れてくれる存在がそばにいることの価値を。
ノアは鼻の奥がツンとするのを感じ、涙を堪えるようにテオドールの大きな肩に頭を預けた。
「……そうだな。俺も、ここが好きだよ。お前とミイがいる、ここが」
テオドールは嬉しそうに、体を少し広げて、ノアとミイを風から守る壁になった。
ミイが寝言で「ニャウ」と鳴き、テオドールの毛皮をギュッと掴む。
「ずっと一緒だぞ、テオドール」
「ウン。ズット、イッショ。ヤクソク」
テオドールは、ノアの心にある「永遠」という概念を読み取り、それを自分のシステムログの最優先事項として刻み込んだ。
バッテリーが切れるまで。
あるいは、体が朽ち果てるまで。
この小さな少年と、小さな猫を守り続けること。
それが、廃棄された怪物が見つけた、最初で最後の「生きる意味」だった。
夜の闇が訪れる。
冷たい風が吹き荒れるゴミ山の中で、三人は一つの塊になって眠った。
そこだけは、世界中のどんな高級ホテルよりも温かく、どんな要塞よりも安全な場所だった。
三人は幸せな夢を見ていた。
明日も、明後日も、この「宝島」での冒険が続くと信じて。




