第2話:刃には刃を(2)
部屋の奥、カーテンの隙間から、リリィが顔を出した。
彼女は、蒼白な顔でピュアを見ていた。
「……ピュア君。……帰って」
リリィの声は震えていた。
「家族を売るなんて……そんなこと、させられない。……私はここに残るわ。それに、ピュア君は売上にならない。だから……」
彼女は、ピュアを守ろうとした。
彼の家族を犠牲にしてまで、自分が救われたくはないという、彼女なりの愛と良心。
だが、極限状態に追い詰められたピュアの耳には、その言葉は全く別の意味に響いた。
『お前には無理だ』
『お前は無力だ』
『お前の愛なんて、その程度だ』
ピュアの中で、何かが音を立てて砕け散った。
「……そうか」
ピュアは、ゆらりと立ち上がった。
その瞳から、理性の光が消え失せていた。
あるのは、暗く澱んだ、狂気の輝き。
「君も……ヴァイパーの味方なんだね」
ピュアは笑った。
爽やかだった好青年の顔が、能面のように歪む。
「清く正しい僕がこんなに頑張ったのに。たくさん指名をして、全財産をかけて、家族まで天秤にかけて……。なのに君は、僕を選ばないんだね」
彼は、懐に手を入れた。
「希望という武器は、あるッ!」
取り出したのは、護身用の短刀だった。
彼は、迷いのない足取りで踏み込んだ。
狙いは、諸悪の根源であるヴァイパーという元凶――ではなく、なんと、彼が愛し、救おうとした「リリィ」だった。
「僕の理想通りじゃない君なんて、いらない!」
愛するがゆえの殺意。
自分の妄想を押し付け、それが叶わないと知るや、対象そのものを破壊して「美しい思い出」にしようとする、究極のエゴイズム。
「リリィッ!」
ピュアが短刀を振り上げる。
ヴァイパーすら反応できない、唐突な凶行。
動けたのは、ナラだけだった。
彼女は、この少年の危うさを、最初から感じ取っていたから。
ナラは、リリィを突き飛ばした。
そして、自らがその射線上に割り込んだ。
ドスッ。
鈍く、重い音が、部屋に響いた。
肉が裂け、異物が体内に侵入する感触。
「……ぅ、っ……」
ナラの身体が硬直する。
ピュアの短刀が、ナラの腹部に深々と突き刺さっていた。
白いシャツに、鮮やかな赤が滲み出し、瞬く間に広がっていく。
「は?……いやキモ!……いやキモいて!」
ピュアは、手を止めた。
彼は、自分が刺した相手がリリィではなく、ナラであることを確認すると、つまらなそうに舌打ちをした。
「……チッ!お前さー。お前、関係ないだろってー」
彼は、短刀から手を離した。
ナラの腹に刺さったままの柄が、小刻みに揺れる。
ピュアは、血まみれになったナラを見ても、腰を抜かしたリリィを見ても、何一つ動揺しなかった。
まるで、ゲームのプレイ中にバグが起きた時のように、淡々と「リセット」を選択しただけのように。
「あーも。あーもーいいや。チッ。……この店は、もうダメだ。あー使えねーっ。」
ピュアは、血のついた手をハンカチで拭った。
「雰囲気悪いし、店員の質も落ちたわ。だめだこれ……隣町に行こう。ルージュ・コレクションか、バニーランド・プチだな。……あそこなら、まだ『彼女候補』がいるかもしれない。」
「なるほど?……姉妹店か。では、割引券をあげよう!楽しんでくるといい!」
「ありがとう!ヴァイパーさん!………………へいワーン!へいツーッ!へいワーンツーツリーフォウッッッ!どっちのどっちのどっちのどっちの!あぞあぞいたいで!どーつんの!……」
彼は、不気味な歌を口ずさみ、小躍りをしながら、崩れ落ちるナラを跨いだ。
そして、リリィには目もくれず、爽やかな足取りでドアを開け、出て行った。
彼にとって、リリィは人間ではなかった。
自分の「正義の物語」を演じさせるための、都合のいい人形。
人形が壊れたなら、新しいものを探せばいい。
その純白の狂気が、部屋に残された者たちを凍りつかせた。
ナラは、膝から崩れ落ちた。
傷口を焼くような熱さ。大量の出血により、視界が白く霞む。
「ナ、ナラさん!?きゃああああ!」
リリィが悲鳴を上げ、駆け寄ろうとする。
だが、それを止める声があった。
「触るな、リリィ」
ヴァイパーだった。
彼はソファに座ったまま、冷ややかな目で瀕死のナラを見下ろしていた。
ナラは、この男の「商品」を守った。
そして、この男の「論理」を肯定し、身代わりとなって刺された。
恩人であるはずだ。
だが、ヴァイパーは葉巻の煙を吐き出し、部下たちに顎でしゃくった。
「店の中で死なれちゃ迷惑だ。ケチがついた」
「オーナー!?でも、彼女は私を……!」
「黙れ。論理的に考えろ。俺は店。ピュアは客。お前は商品。だが、この、ナラティブ・ヴェリタス。こいつは一体なんだ?状況の事実から考えろ。住居不法侵入だ。つまり、強盗だ。それに、ここで警察を呼んでみろ。事情聴取だの現場検証だので、一週間は営業停止だ。その間の損失を、一体誰が補填する?お前か?」
ヴァイパーは、経済合理性の怪物だった。
ナラが死のうが生きようが、彼にとっては「死体処理のコスト」と「営業損失」という数字でしかない。
ナラが彼を守ったという事実さえ、「頼んでもいないのに勝手に動いた部外者のミス」として処理される。
「裏のゴミ捨て場に放り出しておけ。……雨が降ってる。朝までには綺麗に流れるだろう」
部下たちが、ナラを担ぎ上げる。
ナラは抵抗できなかった。意識が遠のき、指一本動かせない。
リリィたちが泣き叫ぶ声が遠ざかる。
彼女たちは、ヴァイパーに逆らえない。逆らえば、生きていけないからだ。
ナラは、店の裏口から運び出された。
そして、生ゴミの臭いが充満する集積所に、ボロ雑巾のように投げ捨てられた。
泥水が跳ねる。
冷たい雨が、ナラの熱い血を洗い流していく。
王都の路地裏。
雨は、止む気配を見せない。
ナラは、レンガの壁に背中を預け、ぐったりと座り込んでいた。
腹部にはまだ、短刀が刺さっている。抜けば死ぬ。抜かなくても、出血多量で死ぬ。
彼女は、震える手で懐を探った。
内ポケットから、煙草を取り出す。
SILENT SMOKE、10ミリ。
一本取り出し、口に運ぼうとする。
だが、手が震えて、うまくいかない。
指先の感覚がない。
タバコは、雨に濡れた地面に落ち、泥にまみれた。
「……あーあ」
ナラは、掠れた声で呟いた。
「……最後の一本……」
ナラは、空を見上げた。
分厚い雲に覆われた、星のない夜空。
憎しみは、なかった。
ピュアを恨んではいない。彼は、彼自身の「物語」を純粋に生きようとしただけだ。ただ、その物語が現実と致命的に噛み合わなかっただけ。
ヴァイパーを恨んでもいない。彼は、彼の「役割」を全うしただけだ。不良在庫を処分するのは、経営者として正しい判断だ。
リリィたちも、生きるために沈黙を選んだ。それもまた、正しい「生存戦略」だ。
誰も間違っていない。
そして、誰も正しくない。
「……正解なんて……」
ナラは、自嘲気味に口角を上げた。
理想を追えば現実に殺され、現実を見れば理想に刺される。
どっちについても、こうして泥の中で一人、野垂れ死ぬ。
それが、探偵という「部外者」の末路。
(……お母様。今日の夕飯、いらないわ)
ナラの意識が、急速に闇へと沈んでいく。
体温が奪われていく。
痛みすら、遠い出来事のように感じられる。
彼女は、ゆっくりと瞼を閉じた。
その姿は、孤独で、惨めで、そしてどこか美しかった。
雨音だけが、世界を支配している。
ナラティブ・ヴェリタスという物語の観測者が、物語の狭間に消えた夜。
それは、王都の歴史には一行も残らない、ありふれた「なんでもない日」の出来事だった。




