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【5位】ヴェリタスの最終定理2 ナラティブ・ヴェリタス  作者: Wan Liyue
刃には刃を

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第1話:刃には刃を(1)

王都の路地裏には、雨がよく似合う。

アスファルトの亀裂に溜まった泥水が、ネオンサインの光を歪に反射している。獣病院の二階、ヴェリタス探偵事務所。

そのドアを叩いたのは、この薄汚れた街には不釣り合いなほど、清潔で、真っ直ぐな瞳をした青年だった。


「――助けてください。愛する人を、悪魔の手から取り戻したいんです」


青年の名は、ピュア・ホワイト。

白いシャツに、洗いたてのズボン。爪の先まで切り揃えられ、育ちの良さと潔癖さを感じさせる20代前半の男。

彼は、ナラティブ・ヴェリタスの前のテーブルに、全財産が入った革袋を置いた。


「彼女の名前はリリィ。風俗店に囚われています。……借金という鎖で縛られ、心ならずも身体を売らされているんです」


ピュアは、胸に手を当てて熱っぽく語った。


「僕たちは愛し合っています。彼女は言いました。『こんな所から逃げ出して、いつかお花屋さんを開きたい』と。……僕は彼女の夢を叶えたい。一生懸命働いてお金を貯めました。これで彼女の借金を返済し、二人でこの街を出るつもりです」


完璧な物語(ナラティブ)だった。

囚われの姫君。それを救い出す騎士。そして、二人を待つささやかだが幸福な未来。

誰もが応援したくなる、純白の正義。

だが、ナラは冷めた紅茶を揺らしながら、気怠げにため息をついた。

彼女の視線は、ピュアではなく、窓の外に向けられている。雨に濡れた街を見ながら、彼女はここ数日、ずっと考えていたことを反芻していた。


(もう……辞めようかしら)


最近、ナラは疲れていた。

他人の揉め事を解決し、泥にまみれ、感謝もされずに去っていく。そんな探偵稼業に、意味を見出せなくなっていたのだ。いっそ、普通の女性として、静かに暮らしたい。そんな「引退」の二文字が、脳裏をよぎる。


「……で?私に何をしてほしいわけ?」


ナラは、気のない声で尋ねた。これが最後の仕事になるかもしれない。そう思うと、ピュアの熱意が余計に眩しく、そして鬱陶しく感じられた。


「立ち会いをお願いしたいんです。相手は『ヴァイパー』と呼ばれる女衒。王都の裏社会を牛耳るヤクザです。……でも、彼は話せばわかる人でもあるんです」


「はああああ?……ヤクザが?話せば?わかる?」


ナラが眉をひそめると、ピュアは顔を輝かせた。


「はい。実は以前、僕が街でチンピラに絡まれた時、ヴァイパーさんが助けてくれたんです。『若者がこんなところで油を売るな』って、食事代を恵んでくれて……店で奢りでセックスさせてくれて。その時にした子がリリィなんです。だから、ヴァイパーさんは、根は優しい人なんです。きっと……」


ピュアは信じ切っていた。

強面の裏社会のボスが、自分のような若者に目をかけてくれているという「特別な関係」を。

だが、ナラの背筋に冷たいものが走った。


(……おかしい)


ヤクザが、何の利益もない一般人に優しくするはずがない。

彼らが笑いかける時は、相手が「これから極上のカモになる」時か、「死ぬことが確定している」時だけだ。

餌付けだ。

ヴァイパーは、この純粋な青年を、時間をかけて太らせていたのだ。何のために? 金のためか? それとも――。


「……いいわ。付き合ってあげる。ただし、期待はしないことね」


ナラは鉄扇を腰に差し、立ち上がった。

彼女の直感が告げていた。この依頼は、綺麗なハッピーエンドにはならない。

なぜなら、この街において「理想」ほど、脆く、そして他者を傷つける凶器はないからだ。



王都歓楽街、イーストサイド。

欲望と体液の臭いが充満するこの街の最奥に、その店「黄金の鳥籠」はあった。

そのオーナールームに通されたナラとピュアを待っていたのは、予想に反する人物だった。

革張りのソファに座っていたのは、醜悪な悪党ではなかった。

モデルのように整った容姿、仕立ての良いスーツを着こなす、長身の優男。

ヴァイパー。

その名の通り、毒蛇のような冷たい色気を放つ優男だった。彼は女性用の細い煙管をくゆらせ、甘い煙を吐き出した。


「やあ。ようこそ、ピュア君。……久しぶりだね」


ヴァイパーは、親愛の情すら感じさせる笑顔で迎えた。

ピュアは緊張しながらも、安堵の表情を見せた。


「ヴァイパーさん!お久しぶりです。今日は、大事な話があって……」


「リリィのことだろう? 聞いているよ」


ヴァイパーは優雅に足を組み替えた。ナラには一瞥もくれない。彼女は壁際に立ち、腕を組んで成り行きを見守ることにした。

ピュアは、持ってきた革袋をテーブルに置いた。


「これが全財産です! リリィの借金と、身請け金! ……これで、彼女を自由にしてください!」


袋の中身は、金貨と宝石。一般市民が一生かかっても稼げないような大金だ。ピュアの「愛」の重さが、物理的な質量となってそこにあった。

ヴァイパーは、革袋の中身をチラリと見て、ふっと笑った。


「……感心だね。すごいな。よく貯めたものだ」


「でしょう!?じゃあ、契約書を!」


「断るよ」


ヴァイパーは短く告げた。

ピュアの笑顔が凍りつく。


「な……なぜですか!? 金は足りているはずです!」


「金の問題じゃない。……君には、彼女を『管理』する資格がないと言っているんだ」


ヴァイパーは、諭すように語り始めた。


「俺は商品を大切にしている。健康管理、メンタルケア、貯蓄指導。俺の傘下にいれば彼女たちは安全だ。君の言う「愛」や「夢」といった不確定なもので、彼女の生活水準を維持できるのか?」


正論だった。悪党の理屈だが、そこには冷徹なまでの「合理性」があった。

だが、ピュアにはそれが我慢ならなかった。

自分が信じていた「理解ある大人」が、急に「冷酷な商人」の顔を見せたことへのショック。そして、自分の崇高な愛を否定された屈辱。


「……ふざけるな!あなたは彼女をモノ扱いしているだけだ!」


ピュアが激昂する。


「俺の『商品』をどう扱おうと、君には関係ないはずだが?」


「だから!彼女は人間だって!僕の恋人だ!金で買えないものがあるんだよ!」


ピュアは感情を爆発させ、テーブルの上にあった花瓶を掴み、床に叩きつけた。

陶器が砕け散る音が響いた。

安っぽい、大量生産品の花瓶。市場で数百クレストで買えるような代物だ。

ピュアは肩で息をしながら、ヴァイパーを睨みつけた。


「どうだ!これが僕の怒りだ!『覚悟』だ!」


部屋が静まり返った。

ナラは、溜息をついた。やってしまった、と。

ヴァイパーは、怒るどころか、口元を三日月型に歪めて笑っていた。

獲物が、自ら罠に飛び込んだ瞬間を喜ぶように。


「……ああ、やってしまったねぇ、ピュア君。だがね、『ありがとう』と、言っておこうか!」


ヴァイパーは、砕けた花瓶の破片を靴先で転がした。


「それは、我が家の家宝でね。……東方の国から取り寄せた、国宝級の壺だったんだよ。」


「は……?い、いや、そんな……安物にしか……」


「俺が国宝だと言ったら、それは国宝なんだよ。この店ではな」


ヴァイパーの声から、温かみが消えた。

そこにあるのは、絶対零度の冷徹さと、捕食者の飢えだけ。


「器物損壊だ。……弁償してもらおうか。見積もりは……そうだな、100,000,000クレストでどうだ?」


「い、一億!?ふざけるな!そんな金……!」


「ないだろうな。わかるよ。男の君が持ってきたそのはした金じゃ、破片一つも買えない。……だがね、女なら払える」


ヴァイパーは立ち上がり、ピュアの肩に手を置いた。

かつて優しく埃を払ってくれたその手が、今は万力のようにピュアを締め付ける。


「君は『覚悟』と言った。俺はね、君の『覚悟』を信じるよ。」


ヴァイパーは、ピュアの耳元で囁いた。


「君には、可愛い妹さんがいたね? まだ14歳だったか。……それと、田舎にはお母さんもいる」


ピュアの顔から、血の気が引いた。


「な、何を……」


「リリィの代わりに、二人をこの店に入れろ。……若い女は高く売れる。母親の方は雑用係として死ぬまで働いてもらおう。それで、この壺の借金をチャラにしてやる」


「き、貴様ぁッ!」


「選べよ、ロミオ君。……愛する恋人を諦めて帰るか。それとも、家族を地獄に落として恋人を手に入れるか。君の『覚悟』を見せてくれ」


罠だったのだ。

ヴァイパーは最初から、ピュアに金を貯めさせ、この店に来させ、暴れさせるように誘導していた。

リリィ一人では飽き足らず、ピュアの家族という「新規在庫」まで根こそぎ搾取するために。

優しさも、理解も、すべてはこの瞬間のための撒き餌。


「あ……あぁ……」


ピュアは膝から崩れ落ちた。

善意を信じていた世界が、反転する。

自分が「正義の味方」だと思っていた物語(ナラティブ)が、「恋人か家族のどちらかを売る悪人」への転落劇に書き換えられる。

ナラは、壁際で拳を握りしめた。

だが、手出しはできない。ピュアが暴れたのは事実であり、ここはヴァイパーの王国だ。法も理屈も、彼の方にある。


「……どうする? 決めるのは君だ」


ヴァイパーは、楽しそうにピュアを見下ろしていた。

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