第1話:刃には刃を(1)
王都の路地裏には、雨がよく似合う。
アスファルトの亀裂に溜まった泥水が、ネオンサインの光を歪に反射している。獣病院の二階、ヴェリタス探偵事務所。
そのドアを叩いたのは、この薄汚れた街には不釣り合いなほど、清潔で、真っ直ぐな瞳をした青年だった。
「――助けてください。愛する人を、悪魔の手から取り戻したいんです」
青年の名は、ピュア・ホワイト。
白いシャツに、洗いたてのズボン。爪の先まで切り揃えられ、育ちの良さと潔癖さを感じさせる20代前半の男。
彼は、ナラティブ・ヴェリタスの前のテーブルに、全財産が入った革袋を置いた。
「彼女の名前はリリィ。風俗店に囚われています。……借金という鎖で縛られ、心ならずも身体を売らされているんです」
ピュアは、胸に手を当てて熱っぽく語った。
「僕たちは愛し合っています。彼女は言いました。『こんな所から逃げ出して、いつかお花屋さんを開きたい』と。……僕は彼女の夢を叶えたい。一生懸命働いてお金を貯めました。これで彼女の借金を返済し、二人でこの街を出るつもりです」
完璧な物語だった。
囚われの姫君。それを救い出す騎士。そして、二人を待つささやかだが幸福な未来。
誰もが応援したくなる、純白の正義。
だが、ナラは冷めた紅茶を揺らしながら、気怠げにため息をついた。
彼女の視線は、ピュアではなく、窓の外に向けられている。雨に濡れた街を見ながら、彼女はここ数日、ずっと考えていたことを反芻していた。
(もう……辞めようかしら)
最近、ナラは疲れていた。
他人の揉め事を解決し、泥にまみれ、感謝もされずに去っていく。そんな探偵稼業に、意味を見出せなくなっていたのだ。いっそ、普通の女性として、静かに暮らしたい。そんな「引退」の二文字が、脳裏をよぎる。
「……で?私に何をしてほしいわけ?」
ナラは、気のない声で尋ねた。これが最後の仕事になるかもしれない。そう思うと、ピュアの熱意が余計に眩しく、そして鬱陶しく感じられた。
「立ち会いをお願いしたいんです。相手は『ヴァイパー』と呼ばれる女衒。王都の裏社会を牛耳るヤクザです。……でも、彼は話せばわかる人でもあるんです」
「はああああ?……ヤクザが?話せば?わかる?」
ナラが眉をひそめると、ピュアは顔を輝かせた。
「はい。実は以前、僕が街でチンピラに絡まれた時、ヴァイパーさんが助けてくれたんです。『若者がこんなところで油を売るな』って、食事代を恵んでくれて……店で奢りでセックスさせてくれて。その時にした子がリリィなんです。だから、ヴァイパーさんは、根は優しい人なんです。きっと……」
ピュアは信じ切っていた。
強面の裏社会のボスが、自分のような若者に目をかけてくれているという「特別な関係」を。
だが、ナラの背筋に冷たいものが走った。
(……おかしい)
ヤクザが、何の利益もない一般人に優しくするはずがない。
彼らが笑いかける時は、相手が「これから極上のカモになる」時か、「死ぬことが確定している」時だけだ。
餌付けだ。
ヴァイパーは、この純粋な青年を、時間をかけて太らせていたのだ。何のために? 金のためか? それとも――。
「……いいわ。付き合ってあげる。ただし、期待はしないことね」
ナラは鉄扇を腰に差し、立ち上がった。
彼女の直感が告げていた。この依頼は、綺麗なハッピーエンドにはならない。
なぜなら、この街において「理想」ほど、脆く、そして他者を傷つける凶器はないからだ。
王都歓楽街、イーストサイド。
欲望と体液の臭いが充満するこの街の最奥に、その店「黄金の鳥籠」はあった。
そのオーナールームに通されたナラとピュアを待っていたのは、予想に反する人物だった。
革張りのソファに座っていたのは、醜悪な悪党ではなかった。
モデルのように整った容姿、仕立ての良いスーツを着こなす、長身の優男。
ヴァイパー。
その名の通り、毒蛇のような冷たい色気を放つ優男だった。彼は女性用の細い煙管をくゆらせ、甘い煙を吐き出した。
「やあ。ようこそ、ピュア君。……久しぶりだね」
ヴァイパーは、親愛の情すら感じさせる笑顔で迎えた。
ピュアは緊張しながらも、安堵の表情を見せた。
「ヴァイパーさん!お久しぶりです。今日は、大事な話があって……」
「リリィのことだろう? 聞いているよ」
ヴァイパーは優雅に足を組み替えた。ナラには一瞥もくれない。彼女は壁際に立ち、腕を組んで成り行きを見守ることにした。
ピュアは、持ってきた革袋をテーブルに置いた。
「これが全財産です! リリィの借金と、身請け金! ……これで、彼女を自由にしてください!」
袋の中身は、金貨と宝石。一般市民が一生かかっても稼げないような大金だ。ピュアの「愛」の重さが、物理的な質量となってそこにあった。
ヴァイパーは、革袋の中身をチラリと見て、ふっと笑った。
「……感心だね。すごいな。よく貯めたものだ」
「でしょう!?じゃあ、契約書を!」
「断るよ」
ヴァイパーは短く告げた。
ピュアの笑顔が凍りつく。
「な……なぜですか!? 金は足りているはずです!」
「金の問題じゃない。……君には、彼女を『管理』する資格がないと言っているんだ」
ヴァイパーは、諭すように語り始めた。
「俺は商品を大切にしている。健康管理、メンタルケア、貯蓄指導。俺の傘下にいれば彼女たちは安全だ。君の言う「愛」や「夢」といった不確定なもので、彼女の生活水準を維持できるのか?」
正論だった。悪党の理屈だが、そこには冷徹なまでの「合理性」があった。
だが、ピュアにはそれが我慢ならなかった。
自分が信じていた「理解ある大人」が、急に「冷酷な商人」の顔を見せたことへのショック。そして、自分の崇高な愛を否定された屈辱。
「……ふざけるな!あなたは彼女をモノ扱いしているだけだ!」
ピュアが激昂する。
「俺の『商品』をどう扱おうと、君には関係ないはずだが?」
「だから!彼女は人間だって!僕の恋人だ!金で買えないものがあるんだよ!」
ピュアは感情を爆発させ、テーブルの上にあった花瓶を掴み、床に叩きつけた。
陶器が砕け散る音が響いた。
安っぽい、大量生産品の花瓶。市場で数百クレストで買えるような代物だ。
ピュアは肩で息をしながら、ヴァイパーを睨みつけた。
「どうだ!これが僕の怒りだ!『覚悟』だ!」
部屋が静まり返った。
ナラは、溜息をついた。やってしまった、と。
ヴァイパーは、怒るどころか、口元を三日月型に歪めて笑っていた。
獲物が、自ら罠に飛び込んだ瞬間を喜ぶように。
「……ああ、やってしまったねぇ、ピュア君。だがね、『ありがとう』と、言っておこうか!」
ヴァイパーは、砕けた花瓶の破片を靴先で転がした。
「それは、我が家の家宝でね。……東方の国から取り寄せた、国宝級の壺だったんだよ。」
「は……?い、いや、そんな……安物にしか……」
「俺が国宝だと言ったら、それは国宝なんだよ。この店ではな」
ヴァイパーの声から、温かみが消えた。
そこにあるのは、絶対零度の冷徹さと、捕食者の飢えだけ。
「器物損壊だ。……弁償してもらおうか。見積もりは……そうだな、100,000,000クレストでどうだ?」
「い、一億!?ふざけるな!そんな金……!」
「ないだろうな。わかるよ。男の君が持ってきたそのはした金じゃ、破片一つも買えない。……だがね、女なら払える」
ヴァイパーは立ち上がり、ピュアの肩に手を置いた。
かつて優しく埃を払ってくれたその手が、今は万力のようにピュアを締め付ける。
「君は『覚悟』と言った。俺はね、君の『覚悟』を信じるよ。」
ヴァイパーは、ピュアの耳元で囁いた。
「君には、可愛い妹さんがいたね? まだ14歳だったか。……それと、田舎にはお母さんもいる」
ピュアの顔から、血の気が引いた。
「な、何を……」
「リリィの代わりに、二人をこの店に入れろ。……若い女は高く売れる。母親の方は雑用係として死ぬまで働いてもらおう。それで、この壺の借金をチャラにしてやる」
「き、貴様ぁッ!」
「選べよ、ロミオ君。……愛する恋人を諦めて帰るか。それとも、家族を地獄に落として恋人を手に入れるか。君の『覚悟』を見せてくれ」
罠だったのだ。
ヴァイパーは最初から、ピュアに金を貯めさせ、この店に来させ、暴れさせるように誘導していた。
リリィ一人では飽き足らず、ピュアの家族という「新規在庫」まで根こそぎ搾取するために。
優しさも、理解も、すべてはこの瞬間のための撒き餌。
「あ……あぁ……」
ピュアは膝から崩れ落ちた。
善意を信じていた世界が、反転する。
自分が「正義の味方」だと思っていた物語が、「恋人か家族のどちらかを売る悪人」への転落劇に書き換えられる。
ナラは、壁際で拳を握りしめた。
だが、手出しはできない。ピュアが暴れたのは事実であり、ここはヴァイパーの王国だ。法も理屈も、彼の方にある。
「……どうする? 決めるのは君だ」
ヴァイパーは、楽しそうにピュアを見下ろしていた。




