第3話:自己愛と性欲(3)
王都の地下深層。
そこは、都市の排泄物が流れ込み、有毒なガスとカビ、そして得体の知れぬ生物たちが蠢く、地図から抹消された禁忌の領域だ。
その絶対的な闇の中を、一つの「光源」が進んでいた。
「……クソッ。目立つことこの上ない」
王都警察のカレル・オータム警部は、自身の両手を見つめ、苦々しく吐き捨てた。
彼の身体は、シリウス・ブライトによってかけられた「聖女の守護」の呪いにより、10万ルーメンもの強烈な光を放ち続けている。
暗視ゴーグルなど必要ない。彼自身が歩く太陽であり、同時に、闇に潜む捕食者たちへの格好の目印となっていた。
「キシャァァ……」
光に刺激された巨大ネズミや変異した蟲たちが、遠巻きにカレルを威嚇する。
だが、襲ってはこない。あまりに光が強すぎて、本能的に畏怖しているのだ。
カレルは、泥と汚水にまみれた通路を踏みしめた。
今回の事件は、単なる失踪ではない。
ルル・オーガストの誘拐。
目撃証言によれば、犯人は「黄金の髪をした美しい男」。
そして、現場に残されていたのは、ルルが買い出し中だった野菜と、一枚のメッセージカード。
『教育実習を始めます』
カレルの胃袋に、焼きごてを当てられたような激痛が走った。
シリウスだ。
あの善意の怪物が、ついに無関係な市民を――それも、社会的に弱い立場の女性をターゲットにしたのだ。
「……臭うな」
最深部に近づくにつれ、カレルは異臭に鼻を覆った。
それは、この場に相応しい腐敗臭や下水の臭いではない。
完熟トマトの酸味。バジルの清涼感。そして、煮込まれた肉の濃厚な香り。
極上のイタリアンの匂いだ。
だが、その奥底に、決定的な違和感が混じっている。
獣臭さ。血の鉄錆臭。そして、排泄物のアンモニア臭。
「美味しそうな匂い」と「生理的な嫌悪感」が混ざり合い、脳が拒絶反応を起こすような、狂気の芳香。
「……ルル君。無事でいてくれよ……」
カレルは、光り輝く手で拳銃を構え、錆びついた巨大な鉄扉を蹴り開けた。
鉄扉の向こうには、カレルの理解を超えた光景が広がっていた。
コンクリート剥き出しの廃墟の一角。
そこだけが、まるで異次元から切り取ってきたかのように、「ファンシーな子供部屋」へと改装されていた。
そして、その席に縛り付けられているのは――ルル・オーガストだ。
「う……うぅ……っ……」
ルルの様子は、尋常ではなかった。
豪奢なドレスを着せられ、手足は椅子に拘束されている。
目は虚ろで焦点が合わず、口の端からは泡と吐瀉物が垂れ流されている。
精神が崩壊する寸前、あるいは既に崩壊した後のような、無防備な弛緩。
「さあ、ルル。飲み込んで。吐いちゃダメだ。栄養が逃げてしまう」
その横で、エプロン姿のシリウスが、甲斐甲斐しくスプーンを差し出していた。
彼の金髪は、地下の薄暗がりの中でも自ら発光しているかのように美しい。
その碧眼は、澄み切った湖のように穏やかで……底知れぬ「虚無」を湛えていた。
「シリウスッ!」
カレルの怒号が、密閉された空間に反響した。
シリウスの手が止まる。
彼はゆっくりと振り返った。
驚きも、焦りもない。まるで、予定していた客人を迎えるような、柔和な微笑み。
「あ、カレルさん。来てくれたんですね。嬉しいなぁ。でも、もう少し静かにお願いします。今、大事な『食事の時間』なんです」
「その娘を離せ!貴様、何の権利があってこんな真似を……!」
「権利?」
シリウスは首を傾げた。
「親が子を教育するのに、権利が必要ですか?
これは『愛』ですよ、カレルさん」
カレルは、テーブルの上を見て、息を呑んだ。
シリウスがルルに食べさせている「料理」。
大皿に山盛りにされたパスタ。
トマトソースの赤に染まっているが、その具材は挽肉ではない。
小さな頭蓋骨。
灰色の毛皮。
ピンク色の長い尻尾。
そして、煮込まれて白濁した小さな眼球。
「……ネズミ……?」
カレルの全身に鳥肌が立った。
ただのネズミではない。この地下魔導炉跡地に生息する、魔力を帯びた変異種だ。
シリウスは、悪びれずにスプーンですくって見せた。
パスタに絡みつく、ネズミの内臓。
「ええ。王都の地下に住む『賢者ネズミ』です。彼らは人間の残飯ではなく、ここらへんに廃棄された古い魔導書や、残留魔力を齧って生きている。だから、非常に知能が高いんです。下手な人間より賢いかもしれない」
シリウスは、真顔で続けた。
「カレルさん。『頭のいいものを食べれば、頭が良くなる』。これは、古来より伝わる真理でしょう?」
「……狂っておる」
カレルは呻いた。それは、原始的な呪術思考だ。
「ルルはね、ちょっと……いや、かなり頭が悪いから。今のままじゃダメなんです。この『ネズミ・パスタ』を食べて、IQを上げてもらわないと」
「やめろ……!そんなものを食わせて、どうなると思っている!」
ルルが、ガタガタと震えながら、涙を流した。
「い、いや……もう、入らない……。お腹の中で……動いてる……キイキイ言ってる……」
「大丈夫だよ、ルル。それは知識の足音だ。君が賢くなっている証拠だよ」
シリウスは、慈愛に満ちた声で囁き、ルルの口についたソースを指で拭った。
カレルは銃口を向けた。
「動くなシリウス!貴様の目的は何だ!なぜルルなんだ!」
シリウスはスプーンを置き、立ち上がった。
そして、カレルに向かって、悲しげな瞳を向けた。
それは、理解力のない生徒に失望する教師の目だった。
「カレルさん!あなたは何も分かっていない!僕がどれだけ傷つき、どれだけ絶望し……そしてどうやって『希望』を見出したかを!」
シリウスは、胸に手を当てて語り始めた。
「僕はね、お母さんが欲しかったんですッッッ!……お!かー!さんッ!がッッッ!」
「……は?」
カレルは呆気にとられた。
「産みの親の話ではありません。僕の魂を包み込み、肯定し、導いてくれる、理想の聖母です。僕にとって、それはエラーラさんとナラティブでした。彼女たちの圧倒的な知性、揺るぎない美学、そして力強さ……。まさに、僕が探し求めていた『母性』の具現化でした。──あとエッチもしたいッ!エッチしてやってもいいと思ったッ!……だから僕は、彼女たちに尽くし、彼女たちの『息子』であり『夫』になることを夢見ていたッッッ!」
シリウスの表情が、一瞬だけ憎悪に歪んだ。
「──でも、あなたはそれを壊した。カレルさん、あなたが僕の悪口を吹き込んだせいで、僕は『お母さん』から捨てられたんです」
シリウスは、カレルの発光する身体を指差した。
「……認めましょう。僕の負けです」
シリウスは、ガックリと肩を落とした。
だが、すぐに顔を上げ、ルルを見た。
その目は、家畜を値踏みするような、冷徹な査定の目だった。
「だから、僕は妥協することにしたんです。『完成された母』が手に入らないなら、『母になる素材』を一から育てればいいと!」
シリウスは、ルルの髪を乱暴に鷲掴みにし、カレルの方へ向けた。
ルルの首が、ガクンと揺れる。
「見てください、彼女を。エラーラさんたちの近くにいて、僕のことを知っていた情報屋のルル。つまり、彼女は『お母さん』の匂いを知っている。そして何より……この、締まりのない顔。いかにも頭が悪そうで、騙しやすそうで、僕色に染まりやすそうな、真っ白なキャンバスだ!」
「貴様……人間を、なんだと思っている!」
「素材ですよ?」
シリウスは即答した。声色一つ変えずに。
「世の中の女性はすべて、僕の『お母さん』になるための候補生です。ですが、彼女は今のままでは不合格だ。バカすぎる。天才である僕の妻となり、僕の母となるには、知性が足りない。品格が足りない。だから、こうしてネズミを与えて、脳を改造しているんじゃないですか」
「ふざけるなッ!それが『愛』だとでも言うのか!」
「愛ですよ?最大の愛です。だって、彼女は生まれ変われるんですよ?賢くなれば、君はエラーラさんのようになれる。そうすれば、僕を優しく抱きしめて、頭を撫でてくれるだろう?僕の『お母さん』になってくれるだろう?……そうして、『お母さん』は息子の奴隷だから、何でも言うことを聞いてくれるから、『彼女』や『妻』にすれば、エッチも毎日してくれる!……世の中の全ての男性は、けして対等な存在が欲しいわけじゃない!自分より大きくて強く、尚且つ自分の言いなりになる『奴隷』を求めているんです!」
シリウスは、ルルの頬に自分の顔を擦り付けた。
甘えるような仕草。
だが、ルルの目には、彼が巨大な幼児――あるいは、母の腹を食い破ろうとする寄生獣に見えていただろう。
彼女は恐怖のあまり、声も出せず、ただ震えることしかできなかった。
「それにね、カレルさん」
シリウスは、再びパスタの皿を持ち上げた。
「これは、生まれてくる子供のためでもあるんです」
「……子供?」
「ええ。僕とルルが結婚すれば、当然子供が生まれます。僕の遺伝子を継ぐのですから、間違いなく天才児でしょう。……そこで、重大な問題が起きるんです」
シリウスは、真剣な顔で言った。
その目は、まだ見ぬ未来の幻影を見つめていた。
「天才の教育方針と、凡人の教育方針は、必ず衝突します。特に、テーブルマナーです」
シリウスは、空中にフォークを突き出し、演説を始めた。
「想像してください、カレルさん! 10年後の食卓を!10歳になった我が子が、パスタを食べる時に、ソースを一滴、テーブルクロスに垂らしたとします!……これは、許されざる『マナー違反』であり、騎士道の欠如です!僕は父親として、厳しく叱責するでしょう!『たるんでいる!』とッッッ!」
シリウスは拳を震わせた。
「しかし!育ちの悪いルルは、きっとこう言うんです!『まだ子供なんだから、いいじゃない。美味しく食べればいいのよ』と!……甘い! 甘すぎる!そんな甘やかしが、子供を甘ったれた人間にし、規律を乱し、犯罪者にし、最終的には国を滅ぼすんです!」
シリウスは絶叫した。
「分かりますか!?たった一滴のパスタソースが、10年後の王都を滅ぼすトリガーになるんです!そんな悲劇を、僕は絶対に許さない!母親たるもの、子供の完璧な手本にならなければならない!だから!」
シリウスは、パスタ皿をルルの顔の前に突きつけた。
「────僕は戦う!子供が生まれる前の、今この、瞬間に!ルルに完璧なフォークの使い方と、高貴なネズミを叩き込んでいるんです!これは、世界の平和を守るための聖戦なんです!」
カレルは、眩暈で倒れそうになった。
狂気の方程式が、シリウスの中では完全な円環をなして成立している。
①奴隷(エッチができる母親や彼女)が欲しい → ②ルルを母にする → ③ルルはバカだから改造する → ④将来の子供と喧嘩しないよう、今からマナーを刷り込む。
この一連の流れに、ルル本人の意思も、人権も、幸福も、1ミリも存在しない。
シリウスにとって、彼女は「僕の理想の家族ごっこ」を成立させるための、ただの舞台装置でしかないのだ。
「さあ、ルル。食べて。一滴もこぼさずに、綺麗に巻いて食べるんだ。……できないなら、胃に直接流し込むよ?」
シリウスが、銀色の漏斗を取り出した。
それをルルの口にねじ込もうとする。
「……い、いやぁぁぁ!」
ルルが最後の力を振り絞って抵抗する。
「やめろォォォォッ!!」
カレルは、迷わず引き金を引いた。
狭い地下室に、銃声が轟いた。
カレルはシリウスを撃たなかった。彼の身体能力なら避けられるし、反撃されれば勝ち目はない。
彼が狙ったのは、シリウスの手元だった。
銃弾は、シリウスが持っていた大皿と、漏斗を正確に粉砕した。
皿が砕け散り、ネズミの死骸と真っ赤なソースが、床にぶちまけられる。
シリウスの純白のエプロンが、汚泥のようなソースで汚れた。
「あ……」
シリウスの動きが止まった。
彼は、床に散らばったパスタを呆然と見つめ、それからゆっくりとカレルを見た。
その顔には、怒りはなかった。
深い、深い「失望」があった。
「もういいです。この場所も汚れました。教育には、清潔な環境が不可欠ですからね……。ルルは預けておきます。今日のところは『不合格』です」
シリウスは、一瞬でルルの拘束を解き、カレルの背後の壁を素手で殴りつけた。
壁が爆発したかのように吹き飛び、巨大な脱出口が開く。
瓦礫の山が崩れ落ち、カレルとルルの間に壁を作る。
「カレルさん。あなたのような『毒親』がいる限り、この街の教育水準は下がっていく一方だ。……悲しいことです」
シリウスは、最後まで自分が「正しい教育者」であるという顔をして、粉塵の中に消えていった。
カレルが瓦礫を乗り越えた時には、もう彼の気配はどこにもなかった。
1時間後。
保護されたルルは、ヴェリタス探偵事務所のソファで、毛布にくるまって震えていた。
彼女は完全に壊れていた。
出された水を見るだけで、「ネズミ……尻尾……」と喚き出し、嘔吐してしまう。
「……かわいそうに。精神汚染寸前ね」
ナラは、ルルの背中をさすりながら、氷のような声で言った。
「あいつ、完全に一線を越えたわね……」
デスクの奥で、エラーラが、モニターに映し出されたシリウスの行動ログと、カレルの報告書を分析していた。
彼女の表情は、いつになく険しい。
「……カレル警部。君は、彼が『諦めた』と思うかい?」
カレルは、発光する手で顔を覆った。
「……いや。奴は『不合格』と言った。つまり、ルル君では力不足だと判断しただけで、目的自体は捨てておらん」
「その通りだ」
エラーラは、冷徹に告げた。
「彼の行動原理は『母への回帰』と『理想の王国の建設』だ。ルル君という『代理母』の育成に失敗した彼が、次に取る行動は一つしかない」
エラーラは、ナラを指差した。
「『本物の母』を手に入れに来ることだよ」
シリウス・ブライト。
母を求める迷子は、今や王都で最も危険なモンスターと化していた。




