第2話:自己愛と性欲(2)
王都の裏路地に、一人の男が立ち尽くしていた。
元・王都騎士団筆頭騎士、シリウス・ブライト。
その碧眼の奥には、狂気じみた「正義の炎」が揺らめいていた。
「ナラティブちゃんは僕を愛していた。エラーラさんも僕の才能を認めていた。僕たちは完璧なチームだったんだ。あのアジト爆破だって、僕の機転がなければ失敗していたはずだ。なのに、なぜ……?」
シリウスの歪んだ認知機能は、自己否定を許さない。
自分が無能であるはずがない。
自分が嫌われるはずがない。
ならば、原因は外部にある。
「……カレルだ!」
シリウスの顔に、冷たい笑みが張り付いた。
「あの古臭くて才能のないカレル警部だ。彼が、僕のいないところで噂を吹き込んだに違いない。あることないこと告げ口をして、僕と二人の仲を引き裂いたんだ」
シリウスは確信した。
カレル・オータム。あの凡人こそが、僕たちの美しい絆を濁らせた「不純物」なのだ。
「可哀想なカレルさん。若い才能への嫉妬と、老いの劣等感にまみれた、哀れな老人……。僕が『救って』あげなきゃ」
シリウスは、懐から手帳を取り出した。
そこには、カレルの自宅住所、通勤ルート、好き嫌い、アレルギー情報までもが詳細に記されていた。
「復讐じゃない。これは『治療』だ。カレルさんが自ら『もう警察を辞めたい』と思い、隠居できるように導いてあげるんだ!」
翌週の月曜日。
王都警察署、捜査一課。
カレル警部は、重い足取りで出勤した。
シリウスという疫病神がいなくなり、ようやく平穏な日々が戻る……そう思っていた。
しかし、署内の空気がおかしかった。
すれ違う部下たちが、カレルを見るなり目を逸らす。ヒソヒソと話す声が聞こえる。
「……なんの話だ」
カレルが自席に向かうと、そこには異様な光景が広がっていた。
彼の無骨なスチールの事務机が、一面「ピンク色」に塗装されていたのだ。
さらに、縁にはレースのフリルが装飾され、椅子の背もたれには巨大なテディベアが縛り付けられている。
「な、な、な……っ!?」
カレルは絶句し、帽子を取り落とした。
「誰だァァァッ!! ワシのデスクを汚したのはァァァ!!」
「あ、警部……」
若手の刑事が、青ざめた顔で駆け寄ってきた。
「それだけじゃないんです。今朝、署長宛てと、監察官宛てに……警部への『感謝の手紙』が500通届いています」
「感謝の手紙!?」
「はい。差出人は『カレル警部を見守る市民の会・代表S』。……内容が、その」
若手刑事が震える手で差し出した手紙の束。
カレルはそれを読み、血管が切れそうになった。
『カレル警部へ。先日は、捜査費の裏金作りのテクニックを教えてくださり、ありがとうございました!』
『勤務中に路地裏で隠れて飲んでいたウイスキー、美味しそうでしたね!』
『不倫相手の女子高生と歩いているお姿、お似合いでした!』
「ふ、ふざけるなぁぁぁ!!」
カレルは手紙を破り捨てた。
「根も葉もないデタラメだ!ワシは酒など一滴も勤務中に飲まんし、妻一筋30年だ!裏金など作ったこともないわ!」
「ぼ、僕たちも信じてます!でも、あまりにも具体的で、数が多いので……。内務調査室が『火のない所に煙は立たない』と……。警部、今日の午後から聴取です」
カレルは頭を抱えた。
S……シリウス。あの男だ。
これはただの嫌がらせではない。
「感謝」というオブラートに包むことで、警察組織のコンプライアンスを逆手に取った、極めて陰湿なリーク攻撃だ。
さらに、机の上には、パクチーが山盛りにされた弁当と、ファンシーなメモが置かれていた。
『殺風景なデスクだったので、可愛くデコっておきました!』
カレルが震える手でキーボードに触れると、
「カレルさん大好き!」
という合成音声が署内に響き渡った。
どのキーを押しても、喋る仕様に改造されていたのだ。
「……殺す。あの金髪野郎、絶対に殺す」
カレルの目から、理性の光が消えかけた。
内務調査室での厳しい尋問を終え、精神的に摩耗しきったカレルが帰宅したのは、深夜1時だった。
彼は、郊外の古いアパートの2階に住んでいる。
薄い壁と、軋む床。だが、ここだけが彼の安らぎの場所だった。
「……疲れた。今日はもう寝よう」
カレルが鍵を開けようとした時。
隣の部屋のドアが勢いよく開き、エプロン姿の男が現れた。
カレルは心臓が止まりそうになった。
シリウスだ。
彼は新妻のようなフリフリのエプロンを着け、手には鍋を持っている。
「貴様、なぜここにいる!」
「引っ越してきました!カレルさんが一人で寂しいだろうと思って!ご近所付き合いって大事ですよね。これ、引越しの挨拶の『特製シチュー』です。カレルさんの健康を考えて、マンドラゴラの根っことスライムの干物を煮込んでおきました!」
鍋の中身は、ドス黒い紫色をしており、ボコボコと泡を吹いている。
異臭が鼻をつく。
「ふざけるなッ! 近寄るな!」
カレルは自分の部屋に逃げ込み、鍵とチェーンをかけ、さらにタンスをドアの前に動かした。
心臓が早鐘を打っている。
職場だけでなく、プライベートな空間まで侵食された。
逃げ場がない。
だが、本当の地獄はこれからだった。
深夜3時。
ようやく浅い眠りについたカレルの耳に、壁の向こうから不気味な音が聞こえてきた。
太鼓のようなリズム。そして、朗々とした歌声。
あぁ~神よ~救いたまえ~
隣に住む~哀れな老人~カレルを~
「……な、なんだ?」
罪を許して~天国へ~連れて行って~
警察クビになっても~ 僕が介護するから~
音楽ではない。「祈り」だ。
シリウスが、壁に向かって大音量でカレルのための祈りを捧げているのだ。
「うるさーーーい!今何時だと思っとるんだ!」
カレルは壁を拳で叩いた。
すると、隣からシリウスの嬉しそうな声が返ってきた。
「カレルさん!起きてたんですね!リズムを取ってくれるなんて!セッションですね!もっと大きな声で歌います!」
さらに、「聖なる鐘の音」まで追加され、部屋全体が共鳴し始めた。
カレルは布団を頭から被り、耳を塞いだが、その歌声は魔力に乗って脳内に直接響いてきた。
「やめてくれ……誰か、助けてくれ……」
名刑事と呼ばれた男が、アパートの片隅で震えていた。
翌朝。
一睡もできなかったカレルは、ふらつく足取りでゴミ出しに向かった。
目の下には濃いクマができ、肌は土気色だ。
ゴミ捨て場には、近所のマダムたちが集まって井戸端会議をしていた。
カレルは挨拶しようとした。
「お、おはようござい……」
しかし、マダムたちはカレルを見た瞬間、露骨に顔をしかめ、サッと距離を取った。
そして、聞こえよがしにヒソヒソと話し始めた。
「ほら、あの人よ……」
「嫌だわ、目が血走ってる……」
「シリウスさんが言ってたわ。『毎晩、壁に向かって呪いの言葉を吐いていて怖い』って」
「『夜中に怪しい薬の調合をしている』って噂も本当かしら」
「あの素敵なシリウスさんが、涙ながらに『僕が命がけで監視しますから、皆さんは逃げてください』って……」
「な……!?」
カレルは言葉を失った。
逆だ。全部逆だ。
しかし、シリウスの美貌と愛想の良さ、そして「元筆頭騎士」という肩書きは、主婦層への殺傷能力が高すぎた。
たった一晩で、シリウスはこのアパートの「良心」となり、カレルは「危険人物」に仕立て上げられていたのだ。
「カレルさん! ゴミは分別してください!」
町内会長が、カレルのゴミ袋を突き返してきた。
「え? ちゃんと燃えるゴミですが……」
「嘘おっしゃい!シリウスさんが確認してくれたのよ。中から、『呪いのわら人形』と『違法薬物の空き瓶』が出てきたって!」
もちろん、シリウスが夜中にこっそり混入させたものだ。
「ち、違います! ワシはそんなもの……!」
「言い訳は結構です!もう、この町内から出て行ってください!不潔です!」
ゴミ袋を抱え、逃げるように部屋に戻るカレル。
カーテンの隙間から、隣のベランダにいるシリウスが見えた。
彼は、優雅に紅茶を飲みながら、カレルに向かってニッコリと手を振った。
それから3日が経過した。
カレルは限界を迎えていた。
職場では「変態ピンク警部」と呼ばれ、家では「騒音の悪魔」として石を投げられ、食事はコンビニのパンのみ。
精神は崩壊寸前だった。
「……逮捕だよ……もう我慢ならん。奴を公務執行妨害とストーカー規制法違反、名誉毀損で現行犯逮捕する」
カレルは、最後の力を振り絞り、自身の尊厳を取り戻すための戦いに出た。
まずは証拠固めだ。
シリウスが自分につきまとっている証拠を押さえる。
夜の公園。
カレルは、公衆トイレの個室に入ったフリをして、待ち伏せをした。
シリウスは必ず現れるはずだ。
「……カレルさん」
個室のドアの上から、ひょっこりと顔が出た。
「うわぁぁぁっ!?」
カレルは腰を抜かした。
シリウスが、上から覗き込んでいた。双眼鏡を持って。
「大丈夫ですか?心配で……。ちゃんと記録取っておきますね!」
「貴様ァァァ!! 覗き見するなァァァ!!」
カレルが個室から飛び出す。
シリウスは、悲しげな顔でカレルを見つめた。
「そんなに怒らないでください。カレルさん、最近顔色が悪いですよ? 運気もどん底です。まるで、闇に飲み込まれそうだ」
「誰のせいだと思っている! 全部お前のせいだ!」
「分かりました。僕が守ってあげます。カレルさんの人生が、これ以上『暗く』ならないように……」
シリウスが指を鳴らした。
「『聖女の守護』!」
瞬間、カレルの身体が、直視できないほどの猛烈な輝きを放ち始めた。
「うわぁっ!眩しい?」
カレル自身が、電球になったかのように発光したのだ。
夜の公園が、真昼のように照らされる。
公園にいたカップルやホームレスが、光に驚いて逃げ惑う。
カレルは自分の手を見た。
皮膚が発光している。瞼を閉じても、網膜が焼けるほど明るい。
これでは眠ることも、隠れることも、張り込み捜査も不可能だ。
「どうですか、カレルさん!これなら、あなたの人生は、文字通り『輝いて』いますよ!」
「……」
カレルの脳内で、何かが焼き切れる音がした。
「シリウス・ブライトォォォ!!」
カレルは、発光しながらホルスターから拳銃を抜いた。
もはや刑事の理性など残っていない。
ただの、光り輝く発狂したおじさんだ。
「公務執行妨害!……ワシのささやかな日常を破壊した罪で、現行犯逮捕する!動くな!撃つぞ!」
カレルは銃口をシリウスに向けた。
その姿は、神々しくもあり、滑稽でもあり、何より悲壮だった。
シリウスは、きょとんとしていた。
そして、みるみるうちに、その碧眼に大粒の涙を浮かべた。
「……逮捕?僕を? どうして?」
「どうして!?貴様の陰湿な嫌がらせのせいで、ワシの生活はめちゃくちゃだ!」
「嫌がらせ……?……ひどいよ、カレルさん!」
シリウスは、本気で傷ついた顔をした。
演技ではない。彼の歪みきった脳内では、全てが純粋な「善意」なのだ。
「僕は、あなたが職場で人気者になるようにデスクを可愛くして!寂しくないように隣に住み!健康を気遣ってシチューを作り!毎日あなたのために祈り!こうして夜道の安全まで確保したのに!」
シリウスは、悲劇のヒロインのように天を仰ぎ、雨に濡れた頬を涙で濡らした。
「ああ、なんてことだ。僕の愛は、凡人には高尚すぎたんだ。カレルさんの小さな器では、僕のあふれる光を受け止めきれなかったんだね……。恩を仇で返されるなんて……!」
「黙れ!もう、御託はいい!」
カレルが詰め寄る。
その瞬間、シリウスの姿が掻き消えた。
元騎士の神速の動き。
彼はカレルの背後に回り込み、耳元で優しく囁いた。
「……カレルさん。あなたは今、興奮して正常な判断ができていません。きっと、疲れているんですね」
「貴様……どこへ行く気だ!」
「僕は旅に出ます。……でも、安心して。僕の『祝福』は、ずっとあなたと共にありますから」
シリウスは、光の粒子となって夜空へと舞い上がった。
翌日。
カレルは、「謎の発光現象」により、無期限の自宅待機を命じられた。
アパートの住人からは「電球じじい」と呼ばれ、窓には遮光カーテンを何重にも貼らなければならなかった。
彼は、部屋の隅で膝を抱え、自分の発する光でできた影を見つめていた。
ヴェリタス探偵事務所。
エラーラとナラは、新聞の三面記事にある
『光る警官、深夜の公園で発砲騒ぎ』という見出しを見ていた。
「……やったわね、シリウス」
ナラが、呆れたように言った。
「あいつ、あたしたちに復讐できないからって、一番弱いカレルを壊しに行ったわね。ほんと、陰湿な男」
「興味深い症例だねぇ」
エラーラは、コーヒーを啜りながら、モニターに映るカレルの生体データを眺めていた。
「自分を正当化するために、他者を『弱者』に仕立て上げ、それを世話する自分に酔う。……典型的な『代理ミュンヒハウゼン症候群』の変異型だよ」
「助けてあげる? お母様」
ナラが尋ねる。カレルとは、それなりに長い付き合いだ。
エラーラは、首を横に振った。
「放置だ。カレル警部も良い勉強になっただろう。『無能な味方』こそが、最大の脅威であるということをね」
カレル・オータムは、今日も光り続けている。




