第3話:発狂と嫉妬(3)
破滅した世界にあっても「向上心」という名の呪いに取り憑かれた男が一人、瓦礫を蹴散らして歩いていた。
男の名はギルゴンボ。
戦前、彼はクロンヴィットの街で「知識人の頭部を物理的に破裂させる」という極めて直接的な手法で殺戮を繰り返した異常者だった。だが、彼の精神はあまりにも支離滅裂であり、犯行声明の代わりに小型犬をじわじわとなぶり殺しては、隣町の喫茶店にレモネード用のシロップと偽って配っては悦に浸るその白痴ぶりから、警察は彼を「天災」あるいは「狂人」として放置した。
世界が「みゅ」と鳴き、知性が霧散していく中で、皮肉にもギルゴンボは「覚醒」した。
「最強であらねばならない。向上心を持たねば、この白痴の世界ですら、埋もれてしまう」
彼は血の滲むような鍛錬を開始した。腐った魔導融解液をプロテイン代わりに飲み、崩落するビルの重みでベンチプレスを行う。その筋肉は、もはや人間の論理を逸脱し、暴力の塊へと変貌を遂げていた。
ギルゴンボは、己の強さを証明するため、王都の果てにある廃墟と化した動物園へ向かった。
標的は、最速の猛獣、チーター。
ギルゴンボは吠え、罪もないチーターに全力の格闘戦を仕掛けた。だが、そこにあったのは、彼が期待した「生存競争」ではなかった。
そもそもチーターという生き物は、自らを「子猫」であるといつまでも自認している情けない生き物である。更には、「子猫」としての誇りすら、王都の不条理によってとっくに消滅していたのだ。
「……ゴロゴロ、ゴロゴ。」
チーターは戦闘を拒否し、不気味な甘い声を漏らしながらギルゴンボの脚に身体を擦り付け、もぞもぞとなつき始めた。
「貴様、向上心はないのか!」
憤怒したギルゴンボは、次に爬虫類館の主、ワニの鼻頭を全力で殴りつけた。
ワニは、鋭い牙を見せもせず、ひどく済まなさそうに背中を向け、泥の中に沈んでいった。まるで「暴力なんて、もう流行りませんよ」と背中で語るかのように。
ギルゴンボは最後に、霊長類の檻へと踏み込んだ。
「チンパンジーよ!猿の知性を捨て、暴力の極致を見せろ!」
だが、チンパンジーたちの反応は、これまでの猛獣とは決定的に異なっていた。彼らは知性を捨てたのではなく、知性を「集団リンチ」という機能に特化させていたのだ。
「ウキャッキャ、キャキャウ。」
チンパンジーたちは一斉にギルゴンボにまとわりつき、その巨体を封じた。彼らはどこからか持ち出した魔導強化済みの鉄棒を構え、統率された動きでギルゴンボを滅多打ちにした。
「最強」を目指した男の身体は、猿たちの無邪気な暴力によって無惨に引き裂かれ、バラバラの肉塊となって石畳に散った。
その様子を、なつき損ねたチーターが呆れた目で見つめていた。他のネコ科の猛獣たちも集まり、深い溜息をついた。
そこへ、一人の女が静かに現れた。
漆黒の毛並みを模した耳を持つネコ科の獣人、ミイ・ヤジマ。
かつて彼女は、王都で最も美しい学生のひとりであり、そしてエラーラ・ヴェリタスの数少ない友人だった。
ミイは、絶望していた。
彼女はエラーラを愛していた。だが、エラーラは常に「論理」と「研究」にのみ目を向け、自分という存在を、実験データの隅にあるノイズ程度にしか扱わなかった。
「エラーラ様……。あんなに混沌が溢れていたのに、あなたはそれを『放置』した。そして、あんな『ナラティブ』とかいう、育ちの悪いがさつな女を隣に置いて、幸せそうに笑っていた……」
嫉妬は、静かな狂気へと転じた。
王都で起きた事件――「無」のパン屋、武装したネコ、爪切りへのテロ。その大半を裏で操り、論理の糸を絡ませては切断していたのはミイだった。彼女はエラーラの気を引くためだけに、世界を崩壊させたのだ。
だが、どれほど凄惨な事件を起こしても、エラーラは「興味深い現象だ」と面白がるだけで、その背後にいるミイの視線に気づくことはなかった。
「エラーラ様。あなたは最後まで、私を『理解』してくれませんでしたわね。ならば、もういいのです」
ミイは、懐から「ミカン」を取り出した。それは、この世で最も美しく、そして最も禍々しい色をした、本物のミカンだった。
彼女はそれを一口齧り、ネコたちに命じた。
「仕上げに取り掛かりましょう。武装ネコ、そして愛すべき猛獣たち。すべてを一つの『完全な不条理』へと統合しますわ。ヴェリタス家の二人が二度と『理解』なんて言葉を口にできないほどに」
彼女の背後には、虚空を睨むプラトン、そして銃火器を構えた武装ネコと、牙を研ぐ猛獣たちが、影のように従っている。
ミイは、震える手で顔を覆い、泥を啜って泣いていたナラティブとエラーラを「優しく」拘束した。それは拘束というより、慈愛に満ちた捕獲であった。
ネコたちがクレッシェンド島に投下した魔導爆弾。その爆発がニーア・リーアを爆死させた際、ミイもまたその余波を浴びていた。しかし、彼女の壊れた精神は、情報のオーバーフローを死ではなく「神のごとき覚醒」へと変換した。
今のミイは、この世界のあらゆる因果を視覚化し、操作できる「天才」へと進化を遂げていた。
「エラーラ様……。やっと、二人きりになれましたわね」
ミイは微笑んだ。その瞳には、湿り気のある、底なしの愛執が渦巻いている。
エラーラは砕けた眼鏡の奥で、親友だったはずの女を見上げた。
「ミイ……。君がこの地獄の……?」
「ええ。そうですわ。あなたが、私がどれだけあなたを愛し、渇望していたかに気づかないからですわよ」
ミイは、エラーラに無理矢理の「決闘」を挑んだ。論理と魔力のぶつかり合い。
エラーラは、目の前に立つミイの異様な魔圧に戦慄していた。
「ミイ……その力、説明がつかない。君は一体……」
「説明? ああ、エラーラ様。あなたはいつだってそうですわね。目の前の私の心が壊れていることより、世界の法則の方が大切なのですわ」
ミイは、一切の迷いなく右手を振った。
残留魔力によって編み上げられた不可視の断頭刃が、空を裂く。
一瞬の閃光。
エラーラの「論理」を支えていた両手が、鮮やかに、そして残酷なまでに優しく切り落とされた。
「……ッあ、あああああ!」
エラーラが絶叫し、石畳に崩れ落ちる。噴き出す鮮血が、ミイの頬を赤く染めた。ミイは愛おしそうに手首を口元へ運び、躊躇うことなく美味しく食べた。
「これで、もうペンを持つことも、難解な数式を書き留めることもできませんわ。あなたの世界には、私を見つめるための瞳と、私を理解するための心だけがあればよろしいのです」
ミイは、地面に転がるエラーラの肩を優しく抱き寄せた。
それを見ていたナラティブが、血を吐くような叫びと共に突進してくる。
「お母様になんてことを! この化け物、ぶち殺し……」
だが、天才へと進化したミイにとって、ナラティブの「がさつな突進」は止まっているも同然だった。
ミイは振り返りもせず、指先をわずかに動かした。
ナラティブの脇の下を、居合斬りのような速度で魔導刃が通り抜ける。
ナラティブは、そのままの勢いで数歩走り、そして糸が切れた人形のように倒れた。数秒の痙攣の後、最強の探偵は、理解不能な地獄の中で絶命した。
「……ナラ君!」
エラーラが悲鳴を上げる。
だが、ミイは、エラーラを超越した膨大な魔力を解放した。
「お可哀想に、エラーラ様。でも、大丈夫。あのがさつな女がいなくなれば、あなたはまた私のもの。……いえ、あなたが私に気づくまで、私は何度でもやり直して差し上げますわ」
ミイ・ヤジマは、天才としての演算を完了させた。
彼女の魔力は、事象の地平線を逆流させる。
死んだナラティブの肉体が修復され、崩壊したビルが逆再生のようにせり上がり、爆破されたコーヒー屋が香りを放ち始める。
「みゅ」と鳴いていた市民たちは、再び知性という名の呪いを取り戻し、日常の喧騒へと引き戻されていく。
王都は、元通りになった。
あのアリス・テレスが死ぬ前、アルがステーキを頬張っていた、あの「いつもの」光景に。
だが、そこには決定的な欠落があった。
平和になった王都の街角。
エラーラは再び研究室に籠もり、難解な論理体系の構築に没頭していた。
その傍らには、生き返ったナラティブが、何事もなかったかのように「一流」を気取って珈琲を啜っている。
ミイ・ヤジマは、窓の外から、あるいは影の中から、じっとエラーラを見つめていた。
彼女の視線は、以前にも増して湿り気を帯び、重く、粘りつくような愛を孕んでいる。
だが。
エラーラは、気づかない。
目の前で起きている「平和」という名の違和感にさえ、彼女の知性は「解決すべき謎」としてしか興味を示さない。彼女は、かつてと同じように、自分に注がれるミイの視線を「無関心」に無視し続けていた。
「……いいですよ、エラーラ様」
ミイは、影の中で静かに笑った。
その手には、再びあのミカンが握られている。
「あなたが私に気づくまで。あなたが、私のこの愛を『理解』することを認めるその日まで。私は何度でも、この世界を壊して、戻して、あなたを私の地獄へ閉じ込めて差し上げますわ」
王都の時計塔が、不気味に時を刻み始める。
それは、永遠に続く「あの日」へのカウントダウン。
知性を持ち、論理を語りながらも、最も大切な真実から目を逸らし続ける者たちの、終わりのない輪舞曲。
ミイ・ヤジマの愛が、王都を飲み込んでいく。
エラーラがいつか、その視線に振り返るその日まで。




