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ヴェリタスの最終定理Ⅰ 真理の証明(中)ナラティブ・ヴェリタス  作者: 王牌リウ
発狂と嫉妬

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第2話:発狂と嫉妬(2)

その日。

王都国民の脳内から、言語、論理、概念、過去、未来、自我が、一斉に霧散した。

もはや、誰一人として複雑な思考を持つことはできない。かつて高度な魔導文明を誇った民は、一瞬にして、鳴き声を発することしかできない「何らか」へと成り下がった。

金融街では、追いかけっこをしていた業者と市民が、揃って立ち止まった。


「みゅー」


「みゅっ。みゅ」


彼らは互いのつま先を見つめ合い、ただ、鳴いた。

王都駅のホームには、天才ニーア・リーアが遺した「ミカン=虚無」の血文字が残っていたが、それを読める者はもういない。

通りを歩く人々は、自分がどこへ行くのかも分からず、ただ「みゅっ」「みゅー」と短く、虚ろな声を交わし合いながら、あてもなく歩き続ける。

ジェノバ・レブンの頭の中にいたオウムだけが、主人の死んだ目を見つめながら、かつての人間が持っていた言葉を一つだけ叫び続けていた。


「全人類への、宣戦布告!みゅっ!宣戦布告! みゅっ!」


だが、その叫びも、もはや誰の耳にも届かない。

王都は、巨大な墓場と化した。

建物はそびえ立ち、魔導灯は変わらず青白く輝いているが、その下にいるのは、知性をかなぐり捨てた「みゅ」の群れだけだ。


パン屋のジェルク・イオクは、店先で何も入っていない空っぽの籠を差し出し、訪れる「みゅ」たちに「無」を配り続けていた。


客たちは、存在しないパンを受け取り、存在しない咀嚼音を立てて、「みゅっ」と満足げに鳴く。

そして、そのまま栄養失調で、あるいは魔力の過剰摂取による破裂を待つために、石畳の上に折り重なって倒れていく。

王都は、完成した。



一方その頃。

王都を離れたナラとエラーラが追っていたのは、地図の端にある淀んだ港町を支配する「犯罪組織」……のはずだった。だが、その実態は、論理の迷宮を彷徨うエラーラでさえ吐き気を催すほど、あまりにも湿った「家族」という名の地獄だった。

ナラは、町の「悪」のネットワークを、執念で突き止めた。その最深部、豪奢な椅子に座って街のニンゲンをカタログのように分類していたのは、まだ声変わりもしていない少年だった。

ナラが少年の首根っこを掴み上げると、少年は死んだ魚のような目で、しかし明確な憎悪を宿して答えた。

彼には、ニンゲンを飼うことしか能のない父親がいた。母親は、そんな父親を「愛」という呪いと共に擁護し続けた。それだけならまだ救いがあった。

母親は、父親に新しい「玩具」ができるたびに被害者として狂い泣き、その一方で、父親を受け入れられない息子を「親を理解しない最低の子供」として非難し続けたのだ。

少年は、その歪んだ「理解」を完成させることに決めた。

父親のために新しいニンゲンを調達し続け、父親が世界中の老若男女を抱けるようにシステムを構築した。そうすれば、母親は望み通り「理解できない息子」を持ち続けられるし、父親は望み通り「ニンゲン」を獲得し続けられる。家族が壊れないために、少年は自ら街を壊す「誘拐犯」の王へと成り果てていた。


「理解できませんわ!」


ナラは吐き捨てるように言い、少年の顔面を鉄扇で殴り倒した。

一方エラーラは、父親と母親を、一切の容赦なく拘束した。


「……理解不能だ。君たちは、純粋な悪だよ。」


二人は、その家族を警察署へ投げ込み、自分たちの安息の地であるはずの王都へと帰還した。


だが、王都の正門を潜った瞬間、二人の目の前に広がっていたのは、かつての「絢爛」とは程遠い、地獄の風景だった。


「……何ですの、これは」


ナラの言葉が、乾いた風に消えていく。

王都は、廃墟と化していた。

物理的な破壊ではない。建物も、街灯も、石畳も、「量」はそのままそこにある。だが、生命の「質」が決定的に損なわれていた。

通りを歩く人々は、一様に虚空を見つめ、何らかの意志によって動くことをやめていた。彼らの口からは、かつての快活な挨拶や、商人の怒鳴り声の代わりに、一定の周期で奇妙な音節が漏れ出す。


「みゅっ」


「みゅー……みゅ」


ナラティブは魔導車から飛び降り、最も近くにいた市民の肩を掴んで揺さぶった。


「起きなさい!何ですの、その情けない声は!」


「みゅ?」


かつて王都で高名な魔導技師だったはずの男は、ナラティブの赤い瞳を鏡のように反射するだけで、知性の欠片も感じさせない微笑みを浮かべて鳴いた。


「お母様……これ、どういうことですの?」


エラーラは屋根に登り、望遠鏡で街を一望した。彼女の鋭敏な知性が、瞬時に事態の凄惨さを解析していく。


「……終わったんだよ、ナラ君。論理の崩壊がいよいよ臨界点を超えたんだ。ここに、文脈(ナラティブ)は存在しないよ……」


「ふざけないで!謎が解けないまま、世界が『みゅ』で終わるなんて、美学的欠陥の極みですわ!」


ナラは鉄扇を握りしめ、かつて自分が通ったカフェの跡地へと走った。

そこには、男の死体が転がっていた。くり抜かれた頭蓋の中では、オウムが力尽きて横たわっている。

そして、その隣には、正気に戻って絶望したネコたちが、自らの毛をむしりながら咽び泣いている。

彼らが泣き叫ぶ理由は、戦友を失ったからでも、ミカンが手に入らなかったからでもない。

ネコという生き物は、本質的に異常だ。気まぐれに走り、脈絡なく獲物を狩り、理由もなく窓の外を凝視する。彼ら自身が「理解不能な行動をとる異質な存在」であった。だからこそ、彼らは「理解できる論理」を持つ人間という鏡を必要としていた。

自分たちの異常性を際立たせるための「正常な人間」という定点。それが今、栄養失調と魔力の過剰摂取と不条理の連鎖によって、腹が減れば「みゅ」と鳴き、ひとりでに破裂して死ぬという、自分たち以上に理解不能な化け物へと成り果ててしまった。

ネコたちにとって、人間が「論理」を捨てたことは、宇宙の底が抜けたに等しい恐怖だった。根源的な絶望。それが、王都を埋め尽くすネコたちの涙の正体だった。


ナラティブも、泣いた。彼女にとって、理解できない事件を解決する謎解きは生きがいだった。だが、目の前の光景は「謎」ですらない。ただの崩壊だ。

隣に立つエラーラもまた、頬を涙が伝っていた。彼女の知性は、目の前の事象を解析することを拒否し、脳髄が焼き切れるような苦痛を訴えている。


その頃。王都の廃墟、その中心に広がる不毛な花畑にて。かつては王家の庭園だったそこには、今やどす黒い紫色の花が不気味に咲き乱れている。

その花々の間で、一匹のネコが茎を食い散らかしていた。

名はプラトン。

かつて武装ネコたちを率い、文明を「ミカン」と「爆弾」で焼き尽くしたあの軍団の真の指導者であり、そして王都で唯一、この地獄の「原点」を知る者である。

プラトンは、ネコ・レスリングの試合の際に誤って手術用の魔導原液に頭から突っ込むという凄惨な事故の果てに、人間の言語と、人間を遥かに凌駕する哲学を手に入れた。彼は他者の前では決して口を開かず、ただの「暴れネコ」を演じ続けてきた。だが、唯一人、アリス・テレスという名の少年の前でだけは、その声を、魂の言葉を漏らしていたのだ。

アリスという名は、母親が付けたものだった。それなのに母親は、少年を殴り、蹴り飛ばしながら、嘲笑うように言った。「男なのにアリスなんて、気持ち悪い名前だね」と。

少年が涙ながらに「やめて」と懇願しても、母親は対話を拒絶した。そのたびに彼女は目を尖らせ、白目を剥き、「みゅっ」という無機質な音を口から発する。それは「私はお前を理解しないし、お前の存在など記号ですらない」という、絶対的な拒否と無関心の宣告だった。

父は、その地獄から逃げるように狂い、身体を縄のように捻りながら自走する魔導車に巻き取られ、肉のロープとなって「きもちい」と絶叫しながら死んだ。

祖父母は、知を嫌悪しながらも本という「物質」だけを愛した偏執狂だった。彼らは孫の悲鳴など聞こえぬかのように、自らを本棚の隙間にねじ込み、紙切れとなって圧殺される道を選んだ。

誰も、アリスを見ていなかった。

葬式の前日、アリスは最後の希望を抱いて警官隊に泣きついた。


「助けてくれ!悪意に殺される!僕は、ここにいるんだ!」


警官たちは、少年の瞳の奥にある絶望を、道端の小石を見るような無関心さで払い除けた。

そのすべてを見ていたのが、プラトンだった。

プラトンは少年を馬鹿だと思っていたが、同時に、この腐り果てた世界で唯一「誠実な心」を持って苦悩している存在だと確信し、密かな敬意を抱いていた。

アリスが自殺したのは、その翌日のことだ。

プラトンは、冷たくなった少年の亡骸の前で、天を仰いで咽び泣いた。


「アリスよ……お前を殺したのは、悪意ではない。この世界に満ち満ちた、『無関心』だ」


プラトンは誓った。この世界を、アリスが味わった以上の混沌へ叩き落としてやると。ネコたちを煽動し、文明を爆破し、言語を崩壊させ、すべてを「理解不能な悪夢」に塗り替えてやると。

だが、プラトンの予想を遥かに超えて、人間たちは自ら進んで狂い始めた。

ネコが牙を剥くより早く、人間は自ら「みゅ」と鳴き、知性を投げ捨て、悦に浸るようになった。

プラトンは戦線から離脱した。

自らが用意した地獄よりも、人間が自作した地獄の方が、あまりにも惨たらしく、そして完璧だったからだ。

プラトンは、茎を噛み締めながら、奇妙な安堵の中にいた。


(ああ、これでいい。誰も、何も、理解しなくていい……)


そこへ、二人の足音が近づいてきた。

ナラティブ・ヴェリタスと、エラーラ・ヴェリタス。

廃墟の「観測者」を気取り、知性の最後の抵抗を試みようとする二人の探求者だ。

プラトンは茎を吐き出し、ゆっくりと振り返った。その瞳には、知的な生命体だけが持つ、どす黒い憤怒が宿っていた。


「……まだ、そんな玩具のような『知性』を振りかざして遊んでいるのか。ヴェリタス家の女どもよ」


ナラとエラーラは、絶句した。

目の前のネコが、流暢な、あまりにも重厚な人間の言葉を喋ったからだ。


「あんた……ネコのリーダー!?喋れたのですわね。なら好都合ですわ! 一流のあたしに、この事態の説明責任を――」


ナラが鉄扇を向けようとした、その瞬間だった。

プラトンの身体が、閃光のような速さで動いた。

ナラの頬に、鋭い爪跡と共に、重い掌底のような一撃が叩き込まれた。


「ガハッ……!?」


ナラが地面を転がる。間髪入れず、プラトンはエラーラの腹部を蹴り上げた。科学者の細い身体が、ゴミの山へと突っ込む。


「説明責任?虫唾が走るわ」


プラトンは、倒れ伏す二人を見下ろし、激しい叱責を浴びせた。

その声は、アリスが味わった絶望の代弁だった。


「お前たちは、今まで、何を思っていた?他人がどんな恐怖の中で朽ち果てていったか、その痛みを、一度でも自分の肉体で想像したことがあったか!?」


「それは……っ」


ナラが立ち上がろうとするが、プラトンの容赦ない踏みつけが彼女の肩を砕かんばかりに押さえつけた。


「探偵?観測者?お前たちがやっているのは、安全な特等席から、他人の地獄にレビューをつけているだけの『無関心』だ!アリスを殺したのも、アルを見殺しにしたのも、この世界を『みゅ』に導いたのも、お前たちのような『知恵を愛するふりをして、目の前の命を見ようとしない知識マニア』どもだ!」


プラトンは、ナラの顔面を、そしてエラーラの胸倉を、何度も、何度も、ボコボコに殴りつけた。

それは、アリスが受けた虐待の、そして世界中の無視された悲鳴が形を成した暴力だった。


「お前たちが『理解』という言葉を口にするたびに、死んだ者たちの魂が汚れる。観測なんてしなくていい。救おうなんて思うな。お前たちにできるのは、自分の無能さと無関心さに、永遠に咽び泣くことだけだ!」


プラトンは、最後に二人を瓦礫の底へと蹴り飛ばした。


「さらばだ。ヴェリタス。真実なんてどこにもない。あるのは、絶望と、それを無視し続けたお前たちの怠惰だけだ」


プラトンは、もう二度と振り返らなかった。

彼は、夕焼けの残滓の中へと、音もなく消えていった。

残されたのは、ボロボロになった二人の女性と、知性を失い「みゅ」と鳴き続ける、かつて人間だったものたちの群れだけだ。

ナラは、初めて、ただの惨めな涙を流した。

エラーラは、数式では決して解けない「無関心」という名の重力に押し潰されていた。

世界は、終わった。

ネコにさえ見捨てられ、真実にさえ拒絶された、究極の「無関心」の中で。

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