第3話:過去の未来が自分です(3)
その日の朝、探偵事務所の空気は、物理法則を無視するほど乾燥していた。
いや、正確には「経済的潤い」が完全に枯渇していたのだ。
「……ないわね」
探偵ナラティブ・ヴェリタスは、冷蔵庫を開けたまま1分間フリーズしていた。
庫内にあるのは、賞味期限が先月で切れたマスタードと、いつかのケーキについてきた保冷剤のみ。
冷気すらも、どこか力なく漂っている。
「お母様。朝食のメニューだけど、『虚無のソテー』と『水道水のスープ』でいい?」
デスクの奥で、賢者エラーラ・ヴェリタスが、床に正座して一枚の羊皮紙を震える手で握りしめていた。
「……ナラ君?事態は、空腹よりも深刻だよ……」
エラーラは羊皮紙を床に置いた。
そこには、王立魔導学会の紋章と共に、無機質な事務文字で、彼女への死刑宣告が記されていた。
『次年度研究予算 査定通知書』
プロジェクト名:『異界渡航者における時間軸の修正及び送還理論』
申請額:金貨100,000,000クレスト
査定額:金貨500クレスト
理由:基礎研究は凍結とする。
追伸:研究室の維持費は自己負担されたし。
「はああああ!?」
ナラが絶句する。
「これじゃあ、研究に必要な魔石の一つも買えないじゃない!……駄菓子屋のお小遣いじゃないんだから」
「それだけじゃない」
エラーラは、さらに別の、赤い封筒を取り出した。
「私の給与体系は『成果報酬制』だ。予算がカットされたということは、私の基本給も連動してゼロになる。そして、ここからが論理的かつ残酷な帰結だ」
エラーラは、赤い封筒を開封した。
「給与が一定額を下回ったため、30年分の魔導ローンと、研究機材のリース料と、先月君が衝動買いしたドレスの分割払いが、『今すぐ全額一括で払え』と言ってきたんだ」
事務所のドアが、ノックもなしに吹き飛ばされた。
入ってきたのは、黒いスーツを着たドワーフの借金取り立て部隊だ。
「エラーラ先生よぉ!学会から『給与差し押さえ不能』の連絡が来たぞ!契約通り、動産を執行させてもらう!」
「ちょ、待ちなさいよ!」
ナラが鉄扇を構える。
「待つんだ、ナラ君!」
エラーラが制止した。
「公的な手続きだ。ここで暴れれば、私は『債務不履行者』から『犯罪者』になり、研究者としての身分を剥奪される。
……持っていかせたまえ」
ドワーフたちは、嵐のように手際よく作業を進めた。
マホガニーのデスク、革張りのソファ、高級なティーカップ、そしてエラーラが愛用していた天体望遠鏡。
すべてが、次々と運び出されていく。
10分後。
そこには、ガランとした空間と、床に座り込む二人の美女だけが残された。
「……信じられない」
エラーラは、何もない空間を見つめて膝を抱えた。
「この私が……世界最高の大賢者が……一夜にしてホームレス寸前だなんて……」
「で……お母様。実際、その研究って何なの?……あたしにはサッパリなんだけど。あんなに値切られるほど、どうでもいい研究なの?」
エラーラは、少しだけ脳を再起動させた。
「心外だね。これは、世界の根幹に関わる『バグ修正』の研究だよ」
エラーラは、床の埃を指でなぞりながら図を描いた。
「いいかい、ナラ君よ。この世界には、稀に『異界』からの漂流者が迷い込む。いわゆる『異世界転移』だ。彼らの多くは、この世界のマナに適応できず、すぐに死ぬか、あるいは奴隷として消費される」
「ああ、たまにいるわね。言葉が通じなくて、変な服を着てる人たち」
「問題は『時間』だ。異界とこの世界では、時間の流れ方が違う。彼らにとっての数日が、こちらでは数十年だったり、その逆だったりする。私が研究しているのは、彼らの肉体に刻まれた『時間情報のズレ』を解析し、彼らを『元の年齢』と『元の時代』に正しく変換して送還する理論だ」
「人助け?」
「違う。これは『防疫』だ。異界の因子は、この世界にとって異物だ。放置すれば、彼らの持つ異質な時間軸が、この世界のマナ循環に干渉する可能性がある。……つまり、私の研究は、この世界の崩壊を防ぐための安全装置なんだよ」
エラーラは、悔しそうに拳を握りしめた。
「それを……!学会の連中は、『金にならない』『軍事転用できない』という理由だけで切り捨てた!無知にも程がある!家の鍵を捨てて、家具を売るようなものだぞ!」
「要するに、バカってこと?」
「バカならまだいい。これは『異常』だよ」
エラーラは、鋭い眼光を放った。
「私の研究は、ここ数年、順調に成果を上げていた。学会の上層部も、その重要性は理解していたはずだ。それが、なぜ突然『方針転換』した?なぜ、前触れもなく予算をカットした?」
エラーラは立ち上がった。
白衣は汚れているが、その背筋はピンと伸びていた。
「これは、単なる経費削減じゃない。……何らかの『意思』が働いている」
二人は、事の真相を確かめるべく、王都の中心にある「王立魔導学会」の本部へと向かった。
しかし、通されたのは煌びやかな会議室ではなく、地下の薄暗い「第3審議室」だった。
そこにいたのは、三人の監査官。
彼らは皆、かつては研究者だったはずだが、今はその目に探究心はなく、ただ手元の電卓と損益計算書だけを見つめていた。
「……では、エラーラ元・大賢者。貴殿の異議申し立てを聞こう」
中央の監査官が無機質に告げた。
エラーラは、持てる限りの論理を駆使して反論した。
「私の理論が完成すれば、時空の歪みを制御できます。これは将来的に、未知の災害を防ぐための……」
「ストップ」
右側の監査官が遮った。
「エラーラ君。我々が聞きたいのは一つだけ。『今、いくら儲かるのか』だ。」
「……は?」
「その『送還技術』を使って、異界から金銀財宝を持ち込めるのか?あるいは、敵国の要人を異界へ追放する兵器として使えるのか?」
「それは私の理論の本質とは真逆です!私の目的は、迷い込んだ人々を救済し、世界の理を正すことであり……」
「金にならん」
左側の監査官が、冷酷に切り捨てた。
「人助け?世界の理?そんな抽象的なもので、飯が食えると思っているのかね?」
「……」
エラーラは絶句した。
「結論だ。貴殿の研究は、軍事的脅威にならず、新たな商材を生み出さず、市場規模が極小。よって、『経済的無価値』と判断する。予算の復活は認められない。以上。」
監査官が、ハンコをドン! と押した。
それは、エラーラの完全敗北を意味していた。
「……待ってください」
エラーラは食らいついた。
「これは……人の命に関わることなんです!異界で彷徨う人々の、尊厳に関わる……!」
「また感情論か。退出しろ。」
監査官たちは、まるで汚いものを見るように手を振った。
警備用ゴーレムが動き出し、二人を部屋から押し出した。
「……何なの、あいつら」
ナラが、怒りで震える声で言った。
「お母様の話、1ミリも聞いてなかったじゃない。『金』『金』『金』……。あそこは学問の塔じゃなかったの? いつの間に『商会』になったわけ?」
かつては静謐な知の殿堂だった場所。
だが今は、壁に『魔法は金なり』といった下品なスローガンがベタベタと貼られている。
行き交う職員たちは、死んだような目で小走りに移動している。
「……おかしい」
エラーラが呟いた。
「学会は、確かに保守的で頭の固い組織だった。だが、これほど露骨に『拝金主義』に染まってはいなかったはずだ。基礎研究を蔑ろにし、目先の利益のみを追求する……。これは、学者の発想じゃない」
エラーラは、懐から先ほどの「通知書」を取り出した。
クシャクシャになった紙を広げ、その末尾の署名欄を見る。
『財務統括本部長室 承認印』
署名はなく、ただ役職印だけが押されている。
だが、この印こそが、全ての元凶だ。
「……行くよ、ナラ君。ここが、我々の予算と家具、そして学会の良心を飲み込んだ、欲望の胃袋だ」
二人は、建屋の最上階にある重厚な両開きの扉の前に立った。
そこには、純金のプレートでこう刻まれていた。
『財務統括本部長室』
エラーラがノックをする。
中から、気だるげで、それでいて粘着質な声が響いた。
「ああ、入れ。ただし、アポなしなら1分1,000クレストだぞ?」
部屋の中央、無駄に巨大なデスクに、その男はふんぞり返っていた。
派手なダブルのスーツ。脂ぎった顔。太い葉巻。
剣崎タカシ。
この学会を牛耳る、諸悪の根源。
「よ。元・賢者様たちが、何の用だ?」
タカシは、椅子を回転させて二人の方を向き、ニヤリと笑った。
その下衆な笑みを見た瞬間、ナラの記憶がスパークした。
(あ……!)
1ヶ月前の路地裏。
あの時の、どうしようもなく情けなくて、気持ちの悪いおっさん。
ナラは、驚愕と共に、奇妙な感情を抱いた。
(嘘でしょ……?あの泥まみれだった負け犬が、たった1ヶ月でここまで登り詰めたの?)
彼女は、タカシの部屋を見回した。
魔法の痕跡は一切ない。
あるのは、金と、権力と、欲望の匂いだけ。
魔力ゼロ、学力ゼロの男が、この「実力主義」の魔法世界で、組織のトップに君臨している。
それは、ある種の「異能」と呼べるものだった。
「……意外とやるじゃない。おっさん!」
ナラがボソリと呟く。
「案外才能あるじゃない!見直したわ!」
エラーラは、タカシの正面に立った。
彼女は、汚れた白衣の襟を正し、毅然と言い放った。
「剣崎本部長。単刀直入に言う。研究予算を戻してほしい。人を救うのは、我々『知を持つ者』の責務だ」
タカシは、葉巻の煙をプカァと吐き出した。
その煙は、エラーラの顔にかかり、彼女を咳き込ませた。
「……おばさん。あのな、ここは慈善事業団体じゃねぇんだ」
タカシは、電卓を叩くふりをした。
「いいか?組織論はシンプルだ。『金になるなら助ける』。『金になる命なら救う』。それだけだ」
タカシは、机の上に足を投げ出した。
ピカピカに磨かれた舶来品の革靴が、エラーラの目の前に突き出される。
「あんたの研究対象……異界の人間だっけ?じゃあ、そいつらは、金を持ってんのか?この学会に利益をもたらす『太客』なのか?違うだろ?金もねぇ、コネもねぇ、ただの難民だろ?そんな『不良債権』を救うために、なんで俺たちの血税を使わなきゃなんねぇんだ?」
「……命に値段をつけるのか!」
エラーラが激昂する。
「当たり前だろう!現実を見ろ!例えばな?道端の乞食と、自分の両親!道端の売女と、自分の恋人!なぜ同じ価値なんだよ!目の前の命を救わずに、なぜ他人にいい顔をするんだよ!エラーラさんよお!お前は悪魔か!」
タカシが机をバンと叩いた。
ナラは、タカシの正論に静かに頷いた。
「いいか!よく考えろ!世間ってのは何でも許してくれる優しい父親じゃねえんだ!『助けてください』はタダじゃねぇんだよ。助けてほしけりゃなぁ……」
タカシは、意地悪く口角を歪めた。
彼は、エラーラのような高潔な人間が、自分の前で屈服する姿を見ることに、歪んだ性的快感に近い喜びを感じていた。
「その『助けてほしい本人』を連れてこいよ。そいつが、この俺様の靴を舐めて、『お金はないけど命だけは助けてください、私は無価値なゴミです』って頭を下げたら、考えてやらんでもないぜ?」
「……なんですって?」
「聞こえなかったか?『土下座』だよ。金がないなら、プライドを売れ。それが、社会のルールだろ?」
タカシは高笑いした。
エラーラは拳を震わせた。
「貴様、それでも……」
「人の子だよ!」
「…………」
交渉は決裂した。
タカシの強欲という壁は、どんな魔法でも破壊できそうになかった。
その時だった。
「お、おい!ここは本部長室だぞ!入るな!」
廊下で、秘書の悲鳴と、誰かが制止する声が聞こえた。
そして。
重厚な扉が、蹴破られるような派手さもなく、ただ静かに、重々しく押し開けられた。
そこから流れ込んできたのは、異臭だった。
古い酒、饐えた汗、そして染み付いた泥の臭い。
「……騒がしいのう」
入ってきたのは、一人の老人だった。
年齢は80代。
腰は曲がり、肌は枯れ木のように乾燥し、老人斑に覆われている。
髪は薄く、白髪が乱れている。
あからさまに、社会の最底辺の老人。
だが。
その老人から漂うオーラは、タカシの成金趣味を圧倒していた。
眼光は鋭く、全身から「修羅場を潜り抜けてきた獣」の残り香が立ち昇っている。
「……あ?」
タカシは、葉巻を取り落としそうになった。
「なんだ、その汚ねぇジジイ!警備員!つまみ出せ!」
警備のオークたちが駆け寄ろうとするが、老人は杖をつきながら、よろよろと部屋の中へ入ってきた。
老人は、ナラとエラーラには目もくれず、濁った瞳でタカシの方を見た。
「『命の値段』か……」
タカシは、一瞬呆気にとられたが、すぐに嘲笑を浮かべた。
なんだ、ただのボケ老人か。
どこかのスラムから迷い込んだゴミだ。
俺の城に、こんな汚物が入り込むなんて。
「なんだジジイ、説教か?金のない年寄りは、大人しく日向ぼっこでもしてろ!」
タカシは、老人に向かって札束を投げつけた。
バサバサと、紙幣が老人の顔に当たり、床に散らばる。
「ほらよ、小遣いだ。とっとと消えな!」
老人は、床に散らばった札束を、じっと見つめた。
拾おうとはしない。ただ、悲しげに、紙切れを見つめていた。
「……金か」
老人は呟いた。
「金があれば、偉い。だが、金があれば、人を踏みつけにしていいのか?親から教わったのか?」
「教わってない!だが、事実だろう!」
タカシが喚く。
老人は、ゆっくりと顔を上げた。
深く刻まれた皺の奥にある瞳が、タカシを射抜く。
「……お前の親父は、ろくでもない男だったのかな?」
「うるせぇ!親父の悪口を言うな!親父は偉大だった!俺に全てを与えてくれた!」
タカシは立ち上がり、机をバンと叩いた。
「ジジイ。お前、俺に何か頼みがあって来たんだろ?」
タカシは、老人の薄汚い服を指差して嘲笑った。
「見ろよ、その格好。社会の底辺。負け組の成れの果てだ。何も手に入れられなかったゴミだ。そんなお前が、この王都の経済を支配する俺様に、対等に口を聞こうなんて100万年早ぇんだよ!」
タカシは、机の上に足を乗せ、ふんぞり返った。
「いいか、ジジイ。さっき俺が言ったこと、聞いてたろ?」
タカシは、指を下に向けた。
「土下座しろ。」
室内が凍りついた。
エラーラが息を呑む。
「な……老人相手に、なんてことを……」
タカシは、恍惚とした表情で続けた。
「お前の命の価値は『ゼロ』だ。そんなゴミが、この俺様と同じ空気を吸ってること自体が、コストの無駄なんだよ」
タカシは、吸いかけの葉巻を灰皿に押し付けた。
「だが、俺は慈悲深い。お前にも、一つだけ売れるものがある。『プライド』だ。」
タカシは、床を指差した。
「やれよ。その汚ぇ額を、この最高級の絨毯に擦り付けろ。『私は生きている価値のないゴミです、どうかお慈悲を』って言ってみろ!」
それは、あまりにも醜悪な、魂の暴力だった。
老人は、動かなかった。
ただ、じっとタカシを見つめていた。
「……聞こえねぇのか?やれっつってんだよ!」
タカシは、護衛のオークに目配せをした。
オークが老人の背後から近づき、老人の細い肩を掴んで、無理やり膝をつかせようとする。
枯れ木のような膝が、音を立てて床についた。
抵抗する力など、老人には残っていないようだった。
「いいぞ!その調子だ!頭を下げろ!地面を舐めろ!泣け!泣けよ!泣いてくれよ!」
タカシが高笑いする。
オークの手が、老人の頭を押さえつける。
老人の額が、ゆっくりと絨毯に近づいていく。
老人の顔が、床に押し付けられた。
完全に、屈服させられた姿。
薄汚い背中が、小さく震えている。
「負け犬の『命』はな、こうやって俺みたいな勝ち組に這いつくばるためのものなんだよ!」
タカシが覗き込むと、床に滴が落ちていた。
「何を泣いてやがる?事実だろ!」
涙だった。
老人は、嗚咽を漏らしていた。
「悔しいか?惨めか?80歳になって、若造に土下座させられる気分はどうだ!?悔しかったら金稼いでみろよ!」
タカシは勝ち誇り、さらに罵声を浴びせた。
彼は信じて疑わなかった。老人が自分の無力さを嘆き、タカシの権力に怯えて泣いているのだと。
だが。
老人の口から漏れた言葉は、命乞いではなかった。
「……情けねぇ」
老人が、床に額を擦り付けたまま、絞り出すように呟いた。
その声は、震えていた。
「……情けねぇなぁ」
「あぁ?何が情けねぇんだ?自分の人生か?そうだろそうだろ!」
老人は、ゆっくりと顔を上げた。
その目は、赤く充血し、涙で濡れていた。
だが、その視線は、タカシを憎んでいるのではなかった。
まるで、傷ついた幼子を見るような、深く、悲しい目だった。
「……金と暴力でしか、自分を守れねぇのか。弱き者をいたぶらなきゃ、立っていられねぇのか」
老人の涙は、枯れた頬を伝い、絨毯に染み込んでいった。
「お前さんのその、異常なまでの残忍さは……強さじゃねぇ。『卑屈さ』だ。怯えてるだけだ。自分が空っぽだってことに気づかれるのが怖くて、必死で虚勢を張ってるだけだ。空っぽだ。……泡だ」
「なんだと……?」
タカシの顔から、笑みが消えた。
老人は、タカシという一個人の向こうに、タカシを歪めた背景を見ていた。
「……80年も生きてきて、こんなに悲しいガキを見るのは初めてだ」
老人は、泣いていた。
自分のためではない。
目の前の、金で着飾っただけの哀れな怪物のために。
愛を知らず、尊厳を知らず、他者を踏みにじることでしか自分を保てない、あまりにも貧困な魂のために。
「……可哀想になぁ。お前さんは、きっと……死ぬまで満たされんのじゃろうな」
その涙は、タカシの心の一番痛い部分を、鋭利な刃物のようにえぐった。
タカシが最も恐れていたこと。
「自分は空っぽだ」という真実を、この薄汚い老人に、憐れみと共に突きつけられたのだ。
「う……う、うるせぇぇぇぇッ!!」
タカシは絶叫した。
顔を真っ赤にし、血管を浮き上がらせて。
「何が可哀想だ!俺は勝ち組だ!お前なんかに同情されてたまるか!ふざけるな!殺すぞ!殺してやる!」
タカシは灰皿を掴み、老人に投げつけようとした。
図星を突かれた子供の癇癪そのものだった。
老人は、オークの手が緩んだ隙に、よろよろと立ち上がった。
「……行くぞ」
「おい!逃げるのか!もっと泣いてみせろよ!金が欲しくねぇのか!裸踊りでもしたらタクシー代は出すぞ?大金出すぞ!……ま、こんなはした金に群がるのはろくでもないって証拠だがな!」
タカシの声が背中に刺さる。
老人は、杖をつきながら、扉の方へと歩き出した。
「……金なんざ、紙切れだ」
老人は、背中越しに言った。
「だがな、若造。お前は、今、もっと大事なもんを失くしたぞ」
老人は、振り返らなかった。
その背中は、来た時よりも一回り小さく、そして枯れ果てていた。
それは、社会的には敗北者の背中だった。
だが、精神的には、タカシを遥かに凌駕する「大人」の背中だった。
「なんだよ、あいつ……!負け惜しみか!気持ち悪いな!」
タカシは、去っていく老人に向かって、灰皿を投げつけた。
ガシャン、と音を立てて灰皿が転がる。
老人の姿は、もうなかった。
室内には、静寂が残った。
ナラは、吐き捨てるように言った。
「理屈は間違ってないかもしれないけど……あんたさ」
彼女は、タカシを軽蔑しきった目で睨んだ。
「あのお爺さん、あんたなんかよりずっと気高かったわよ?」
「うるせぇな!お前らも消えろ!予算なんか絶対に戻さねぇからな!」
タカシは喚き散らした。
彼は勝ったつもりでいる。
だが、彼の心には、得体の知れない巨大な空虚感が広がっていた。
あの老人の涙が、タカシの築き上げた虚構の城に、決して消えないヒビを入れたのだ。
エラーラは、静かに床を見つめた。
そこには、老人が流した涙の跡が、まだ乾かずに残っていた。
「……行こう、ナラ君」
「…………」
二人は部屋を出た。
タカシは、知らなかった。
自分が踏みつけにした老人が、自分の魂の貧しさを誰よりも深く理解し、そして涙してくれた唯一の人間であったことを。




