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ヴェリタスの最終定理2 ナラティブ・ヴェリタス【●印の章だけ読んで】  作者: Wan Liyue 王璃月
過去の未来が自分です

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第1話:過去の未来が自分です(1)

1958年、東京。

高度経済成長の足音が轟音となって響き始めた時代。

山谷。ドヤ街。

簡易宿泊所が建ち並び、日雇い労働者たちの汗と安酒の臭いが染み付いたコンクリートの迷宮。

雨が降っていた。

泥水を跳ね上げるトラックの脇を、一人の少年が歩いていた。

剣崎アキラ。十六歳。

身につけているのは、仕立ての良い白のシャツと、黒のズボン。

彼の顔立ちは、陶器のように整っていた。色素の薄い瞳には、怜悧な知性の光。それは、この掃き溜めのような街において、あまりにも異質だった。

彼は、脇に一冊の洋書を抱えていた。サルトルの『存在と無』。


「おい、坊っちゃんよぉ」


路地裏から、声がかかった。

昼間から焼酎をあおり、博打に興じていたならず者たちだ。


「いい服着てやがるなぁ。その本、売れば一杯飲めるんじゃねえか?」


男たちが三人、アキラを取り囲む。

アキラは足を止めた。表情一つ変えず、ただ静かに男たちを見回した。


「……退いてくれないか」


アキラの声は、鈴を転がすように澄んでいたが、氷のように冷たかった。


「僕は今、思考の途中なんだよ」


「あぁ?」


先頭の男が、アキラの胸ぐらを掴んだ。


「生意気な。労働者を舐めるんじゃねえぞ!」


男が拳を振り上げた瞬間。

アキラは、抱えていた『存在と無』の角を、男の喉仏に叩き込んだ。


「テメェ!」


残りの二人が飛びかかってくる。一人はナイフを抜いた。

アキラは動じない。

彼は幼い頃から、あらゆる学問を修めた。解剖学もその一つだ。

人間の急所、骨格の脆い部分、神経の走行。

それらを理解していれば、破壊に力はいらない。

アキラは、ナイフを持った男の手首を掴み、関節の可動域の逆方向へ、的確に捻り上げた。

男がナイフを取り落とし、手首を押さえてのたうち回る。

最後の一人が、恐怖に顔を引きつらせながらも、ヤケクソで棒切れを振り回す。

アキラは、無防備な鳩尾へ、正確無比な掌底を打ち込んだ。

静寂が戻る。

雨音だけが響く中、三人の男たちが泥にまみれて呻いていた。


「善悪はない。あるのは、力の強弱という物理現象だけだ」


サイレンの音が近づいてくる。

アキラは逃げなかった。

彼は、ただ退屈そうに、雨空を見上げていた。


関東特別少年院。

そこは、少年法という名の温情が通用しない、暴力の特区だった。


「新入りか」


部屋の奥、一番上座に胡座をかいていた男が声をかけた。


「挨拶はどうした、オイ」


取り巻きの少年たちが、ニヤニヤしながらアキラを取り囲む。

アキラは、支給された灰色の作業着の襟を正し、静かに言った。


「剣崎アキラだ。よろしく頼む」


頭は下げなかった。

その態度が、彼らの逆鱗に触れた。


「……テメェ、ここがどこか分かってんのか?お勉強ができる奴が偉いんじゃねえ。喧嘩が強い奴がルールなんだよ」


「非論理的だね」


アキラは、無表情に返した。


「秩序とは構成員の合意によって形成されるべきだ。暴力による支配は、非効率だ」


一瞬の沈黙。

そして、爆発的な怒号。

リンチは、壮絶を極めた。

アキラは抵抗した。最初の数人は、的確な急所攻撃で悶絶させた。

だが、多勢に無勢。そして、ここは狭い檻の中だ。

逃げ場はない。


「気取りやがって!」


アキラの顔面が腫れ上がり、唇が切れ、血が床に滴る。

髪を掴まれ、床に顔を打ち付けられる。

視界が血で赤く染まる。激痛が思考を焼き切ろうとする。

だが。

アキラは、声一つ上げなかった。

命乞いもしなかった。

ただ、腫れ上がった瞼の隙間から、「暴力」をじっと見つめていた。

筋肉の動きを。取り巻きたちの配置を。彼らの呼吸の癖を。

そして何より、「暴力」というシステムの構造を。


(……なるほど。ここでは、学問は無力だ。……ならば、郷に入っては郷に従おう)


アキラは、痛みの中で笑った。


懲罰房。

騒ぎを起こしたとして、アキラは独房に放り込まれた。

光のない、三畳一間のコンクリートの箱。


「……痛いか?」


問いかける声があった。

隣の独房からだ。壁越しに、かすれた声が聞こえる。

ゴンドウ。かつてプロボクサー崩れで、ヤクザの用心棒をしていたという男だ。


「……痛みは、電気信号に過ぎない」


アキラは、口の中の血を吐き出しながら答えた。


「問題は、僕の計算が甘かったことだ。関節技はリスクが高い。一人を拘束している間に、他から殴られる」


「……面白いガキだ。リンチされて、反省じゃなくて戦術の反省か」


ゴンドウの低い笑い声が響く。


「坊主。喧嘩は素人だな。理屈で動いてる。だから動きが硬い。……本物の喧嘩はな、リズムだ」


「リズム……?」


「ああ。相手の呼吸を読め。相手が息を吸う瞬間、そこには必ず『隙』ができる。その隙間に、お前の殺意をねじ込むんだ……お前、ボクサーを目指せ。」


それから毎晩、壁越しの講義が続いた。

ゴンドウは、ボクシングの技術論ではなく、もっと実践的な「殺法」を説いた。

拳の握り方。壁を使った立ち回り。目潰し、金的、噛みつき。

アキラは、独房の中で動き始めた。

シャドーボクシング。

最初はぎこちなかった動きが、日に日に研ぎ澄まされていく。

彼の天才的な脳は、ゴンドウの教えを瞬時に理解し、最適化し、自分の肉体にインストールしていく。

壁に映る自分の影。

それはもはや、ひ弱な文学少年ではなかった。

獲物を狙う、飢えた狼の影だった。


2年後。

1960年。

少年院の重い鉄扉が開いた。

18歳になった拳闘士・アキラの体は、鋼のように引き締まっていた。

門の前には、誰も迎えに来ていなかった。

彼には帰る家も、金も、身分もない。

あるのは、この二年間で鍛え上げた肉体と、権藤から授かった「拳」という技術。

そして、世の中の不条理をすべてねじ伏せようとする、冷たく燃える闘志だけ。

晶は、空を見上げた。


「……行くか」


晶は歩き出した。

泥と埃にまみれた道を。

背中には、少年院での陰惨な記憶と、捨て去った過去を背負って。

乾いた風が、彼の前髪を揺らした。

街の雑踏の中に、一匹の狼が消えていく。


・・・・・・・・・・


1989年、東京。

バブル経済の絶頂期。

日本中が、根拠のない万能感という集団催眠に酔いしれていた時代。

金曜日の深夜、芝浦のディスコ。

重低音のユーロビートが内臓を揺らし、お立ち台ではボディコン姿の女たちが極彩色の扇を振り乱して舞い踊る。熱気と、香水と、欲望の臭いが充満する巨大な空間。

そのVIPルームのソファに、ふんぞり返っている男がいた。

剣崎タカシ。24歳。

仕立てこそ超一流だが、着ている本人の体型が締まりがないため、どこか滑稽に見える舶来品のダブルスーツ。腕にはギラつく高級時計。整髪料で塗り固められた髪と、脂ぎった顔には、知性の欠片もない下卑た笑みが張り付いている。


「おいボーイ!ドンペ!ドンペリだよ!ピンクのやつ!ドンピン!在庫全部持ってこい!あと、そこの踊ってる姉ちゃんたち、全員こっちに呼べ!」


タカシが叫ぶと、周囲の取り巻きたちが囃し立てる。

タカシは鼻の穴を膨らませ、分厚い万札の束を取り出すと、それを扇子のようにして自らの顔を仰いだ。


「ガハハ!飲め飲め!金なんてのはな、使えば使うほど湧いてくる泉みたいなもんだ!俺の親父が、東京中の土地を買い占めてるからな!」


彼は、アキラの息子である。

かつて少年院上がりの素手ゴロからボクシング世界王者となり、その拳と天才的な頭脳で不動産業界の頂点に立った怪物、「剣崎興産」総帥。

だが、その偉大なる父の持つ「学」と「力」の遺伝子は、悲劇的なまでに、この息子には1ミリも受け継がれていなかった。

タカシにあるのは、親の威光と、親から無制限に供給される金と、肥大化した自尊心だけ。

三流私大を裏口入学で卒業し、親のコネで入社。役職は「社長室付・特命係長」などという、わけのわからない飾り物だ。


「ねえ、ターくん。私、誕生日にマンション欲し!」


隣に侍る、売れないモデルの女が甘えた声を出す。


「お、いいぞ!ミナトか?シブヤか?親父に言って、適当な物件の名義、お前に変えといてやるよ!」


タカシは女の肩を抱き寄せ、シャンパンをラッパ飲みし、残りは床にこぼした。

彼には学がない。新聞の経済欄すら読めないし、もちろん読む気もない。

彼には力がない。喧嘩などしたこともないし、少し走れば息切れする、不健康に肥え太った体だ。

彼はただ、バブルという巨大な泡の上に乗っかっているだけの、中身のない風船だった。


翌週の月曜日。昼過ぎ。

アキラは、酷い二日酔いを引きずりながら、丸の内にそびえ立つ自社ビルに重役出勤した。


「おやざあす!剣崎係長!」


廊下ですれ違うエリート社員たちが、壁に張り付いて直立不動で頭を下げる。

彼らの目には、明確に「関わりたくない」という軽蔑の色が浮かんでいるが、貴の鈍感なセンサーはそれを「畏怖」と捉えて満足していた。


「あー、っせぇな。声デけんだよ、貧乏人」


貴は舌打ちをして、自分の個室に入った。

しばらくすると、ノックの音がして、一人の真面目そうな中堅社員が入ってきた。


「失礼します……。剣崎係長……」


「あ?」


貴は、ソファに寝転がって漫画を読んでいた目を上げ、社員を睨みつけた。


「テメェ、俺は今、忙しいんだよ。見てわかんねぇのか?」


「は、はい……申し訳ありません。ですが、今日中に会長の承認が必要で、その前に係長の印が……」


貴は舌打ちしながら起き上がり、書類をひったくった。内容など一行も読まず、適当な場所にハンコを乱暴に押す。

書類を放り投げる。紙が床に散らばる。

社員は慌てて拾い集める。


「あ、あの、係長。今月の接待費の精算も……一晩で500万円というのは、さすがに経理部が難色を示しておりまして……」


社員が恐る恐る切り出した瞬間、貴の表情が豹変した。

貴は、吸っていたタバコを、社員の拾い集めた書類の上に押し付けて消した。


「うるせッ!!」


貴は、サイドテーブルにあった高級クリスタルの灰皿を、社員の顔面目掛けて投げつけた。

社員が悲鳴を上げて顔を押さえる。額から血が流れ出し、白いワイシャツを赤く染める。


「身の程知らず!」


貴は立ち上がり、うずくまる社員の腹を、イタリア製の革靴で蹴り上げた。


「ムカつくんだよ!お前らみたいな、ちょっと勉強ができるくらいで偉そうにしてる奴らがな!」


タカシは社員を蹴り続けた。

自分には何の力もないくせに、親が築いた安全な城壁の中から、一方的に弱者をいたぶる。

それは、かつて彼の父が最も軽蔑した「理性のない暴力」そのものであったが、タカシはそれに気づく知性すらなかった。


その日の深夜。

鬱憤を晴らすために再び六本木へ繰り出し、泥酔したタカシは、真っ赤な外車を自ら運転して帰路についていた。


「クソ!俺は剣崎家の跡取りだぞ!次期社長だぞ!」


アクセルを踏み込む。時速150キロ。首都高を暴走する。

アルコールで麻痺した脳は、恐怖を感じない。

六本木の出口を降り、交差点に差し掛かった時だった。

横断歩道を渡る人影に気づくのが、遅れた。

鈍い衝撃音。フロントガラスにヒビが入る。

何かが宙を舞い、アスファルトに叩きつけられた。


「……あ?」


タカシは急ブレーキをかけた。外車がスピンして停止する。

静寂。

タカシは、震える手でドアを開け、外に出た。

車の数メートル先に、若い女性が倒れていた。ピクリとも動かない。頭から大量の血が流れて、アスファルトを黒く染めている。

酔いが一瞬で覚めた。

駆け寄って確認する、救急車を呼ぶ、そんな発想は彼にはなかった。


「や、やべぇ……死んでる……?マズい……マズいマズいマズい!」


警察沙汰になれば、ただでは済まない。飲酒運転、スピード違反、そして業務上過失致死。

刑務所? 俺が?

そんなの絶対に嫌だ。俺は選ばれた人間なんだ。

貴は、パニックになりながら携帯電話(巨大なショルダーフォン)を取り出し、震える指で短縮ダイヤルを押した。


「もしもし!親父!いや、あの、秘書の田中さん!?お、俺だ!タカシだ!……やっちまった!車で、人を!……ああ、多分死んでる!車が汚くなっちゃったからどうにかしてくれ!金なら親父が払う!親父に言って、揉み消してくれッ!」


電話の向こうの秘書は、慣れた様子で冷静に対応した。

電話を切った貴は、その場にへたり込んだ。


「……助かった。さすが親父の会社だ。きっとなんとかしてくれる」


安堵した途端、再び傲慢さが鎌首をもたげた。


「フン、ついてねぇ女だ。慰謝料が欲しいからわざと轢かれたんだろ。轢いてあげたんだから感謝しろよな」


彼は、自分が奪った命の重みなど微塵も感じていなかった。

すべては金で解決できる。それが彼の世界の絶対的なルールだった。


処理班の到着を待つ間、タカシは現場から少し離れた路地裏に隠れていた。

タカシは高級スーツが汚れるのも構わず、壁にもたれかかってタバコをふかした。


その時だった。

奇妙な低周波音が、路地裏の空気を震わせた。


「あ? なんだ?」


タカシが顔を上げる。

路地裏の突き当たり。ゴミ捨て場のコンクリート塀の前に、それは唐突に出現していた。

直径1メートルほどの、光の球体。

青白く、あるいは虹色に発光し、表面には見たこともない幾何学模様が複雑に明滅している。


「……なんだこれ?」


貴は、タバコをポイ捨てし、千鳥足で光の球体に近づいた。


「誰だ、こんな所にディスコの照明置いたのは。眩しいんだよ!」


彼は、それをただの「奇妙な設置物」としか認識できなかった。

自分の理解を超えるものが、この世に存在するとは夢にも思っていない。

貴は、酔っ払いの気まぐれで、何のためらいもなく手を伸ばした。

まるで、新しいオモチャに触れる子供のように。

その指先が、光の表面に触れた瞬間。

音はなかった。

衝撃もなかった。

ただ、世界が反転した。


「え……?」


タカシの視界が、真っ白な光に塗りつぶされた。

上下の感覚が消え、自分の体の重みが消失する。

六本木の路地裏の臭いも、車の騒音も、湿った空気も、すべてが瞬時に遮断された。

タカシは叫ぼうとしたが、声が出ない。

空気が存在しないのか、それとも喉が機能していないのか。

次の瞬間。

強烈な引力が彼を襲った。

掃除機に吸い込まれる埃のように、彼の体は光の中心へと引きずり込まれていく。

彼の絶叫は、誰の耳にも届かなかった。

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