第2話:逆境と拷問と美談(2)
シフラの回想が終わると、探偵事務所は重苦しい沈黙に包まれた。
ナラは、無表情のまま立ち上がり、壁にかけてあった鉄扇を手に取った。
「……吐き気がするほど、クズね」
シフラは涙を流しながら書いた。
『父は今、私の名前で集めた寄付金を使って、高級クラブで豪遊しています。私が声を出せないので、父が代理人だと名乗って』
「行きましょう」
エラーラが白衣を翻した。その瞳には、大賢者としての冷徹な怒りが宿っていた。
「壊された脳細胞と、切り裂かれた声帯。その代償は、きっちり払ってもらうよ」
王都の歓楽街。高級クラブ『黄金の杯』。
そのVIP席に、バッソはいた。
高価な服を着込み、美女をはべらせ、酒を煽っている。
「いやぁ、うちの娘はね、俺が厳しくしつけたんですよ。昔は数字遊びばかりしてる根暗なガキでねぇ。俺が『歌え!』って教育したおかげで、今の地位があるんですわ。ガハハ!」
「……へぇ。それは素晴らしい教育論ですね」
バッソの背後から、ナラが声をかけた。
バッソは振り返り、ヘラヘラと笑った。
「なんだい姉ちゃん? 俺のサインが欲しいのか?それとも、俺の名曲『チョンポウ』を聞きたいか?」
ナラは、バッソの目の前に立った。
「ええ、聞きたいわね。でもその前に、あんたに聞きたいことがあるの」
ナラの眼光が鋭くなる。
「あんた、娘の喉を切った時、どんな気分だった?」
バッソは、きょとんとした顔をした。そして、すぐにヘラヘラした。
「警察を呼ぶぞ!もう終わったことだろ?でもさ、あいつも悪いんだよ。親父より目立とうとするから。ちょっとしたお仕置きだよ。躾、躾」
罪悪感ゼロ。
この男の中では、娘を殺しかけたことも「ちょっとした失敗」か「正当な教育」に変換されている。
彼にとって他者は、自分の自尊心を満たすための道具でしかない。
「……そう。躾ね」
ナラは、鉄扇を振りかぶった。
ガゴッ!!
鈍い音が響き、バッソの顔面が歪んだ。
歯が数本、宙を舞う。
バッソはソファーごと転がり落ち、悲鳴を上げた。
「い、痛ってぇぇぇ! 何すんだこのアマ!警察を呼ぶぞ!」
「躾よ」
ナラは冷たく言い放った。
「口の利き方がなってないから、教育してあげたの」
バッソは血を吐きながら立ち上がったが、まだヘラヘラしていた。
目は笑っていないが、口元が条件反射のように歪んでいる。
「は、はは……暴力はいけないなぁ……。俺は芸術家だぞ? 警察を呼ぶぞ……」
「黙りな」
エラーラが前に出た。
彼女の放つ魔力が、クラブの空気を凍りつかせた。
「バッソ。お前は、シフラの才能がなぜ消えたか理解しているか?」
「あ? 知らねぇよ。あいつがサボったからだろ」
「違う。脳の萎縮だ」
エラーラは、バッソの胸倉を掴み上げた。
「幼少期からのストレス。そして、人格否定。お前のその『ヘラヘラした態度』と『奇声』が、シフラの脳の前頭葉と海馬を物理的に破壊したんだ。お前は、天才の脳を、スポンジのようにスカスカにしたんだよ」
バッソは目を泳がせた。
「警察を呼ぶぞ!俺はただ、歌を……」
「そう、歌だ」
エラーラはニヤリと笑った。
「お前は自分の歌に絶対の自信があるようだからね。特別に、お前の歌声を『極上の音響』で聞かせてやろう」
エラーラが指を鳴らした。
魔法陣がバッソの耳元に展開する。
『無限反響の呪い』
「警察を呼ぶぞ!あ……?なんだ、耳が……」
バッソが呟くと、その自分の声が、脳内で100倍の音量になって響き渡った。
『あ……? なんだ、耳が……!!!』
「うわっ!?」
『うわっ!?!?』
「うるさい! なんだこれ!」
『うるさい! なんだこれ!!!!』
エラーラは冷酷に告げた。
「お前の発する音は、すべて脳内で増幅され、決して減衰せずに反響し続ける。さあ、歌いな。お前の大好きな『チョンポウ』を。世界一の歌手なんだろう?」
バッソは耳を塞いで転げ回った。
だが、音は耳からではなく、骨伝導と脳内再生で響く。逃げ場はない。
「やめろぉぉぉ! 許してくれぇぇぇ!」
『やめろぉぉぉ! 許してくれぇぇぇ!!!!』
恐怖のあまり、バッソはパニックになり、あの歌を口走ってしまった。
「チョンポウ……! チョンポ……!」
その瞬間、地獄の蓋が開いた。
脳内で増幅された、意味不明で不快極まりない旋律が、バッソの精神をミキサーにかけたように掻き回す。
『チョンポウ! チョンポウ! チョンポォォォォォォ!!』
『アーサーハーラー! アーサーハーラー!! ギャァァァァァ!!』
「ぐぎゃあああああ!! 頭が! 頭が割れるぅぅぅぅ!!」
バッソは自分の喉をかきむしり、床に頭を打ち付けた。
ヘラヘラした笑みは消え失せ、あるのは純粋な苦痛と狂気だけだった。
「自分の出したノイズで、自分の脳を壊すといい。それが、お前がシフラにしたことだ」
エラーラとナラは、のたうち回る男を見下ろし、静かに店を後にした。
数日後。
バッソは精神崩壊を起こし、王都の閉鎖病棟へと送られた。
ヴェリタス探偵事務所の屋上。
雨は上がり、薄日が差していた。
シフラは、手すりにもたれて空を見上げていた。
喉の包帯は取れたが、声は、もう出ない。
ナラが、ホットミルクを持って隣に立った。
「……計算は、戻りそう?」
シフラはゆっくりと首を振った。
失われた脳細胞は戻らない。
かつて世界を記述していた数式は、今はもう、ただの記号の羅列にしか見えない。
歌声も失った。
彼女の中には、広大な「空白」だけが残っていた。
シフラは、持っていたノートにペンを走らせた。
『私は、空っぽです。天才でもない。歌姫でもない。父の言った通り、無能な抜け殻です』
その文字は震えていた。
絶望。喪失。
これからどう生きていけばいいのか、彼女には計算ができなかった。
ナラは、ミルクを一口飲み、空を指差した。
「空っぽなら、いいじゃない。余計なノイズがないってことでしょ?」
シフラが顔を上げる。
「あんたの脳は、壊されたかもしれない。でも、心臓は動いてる。目は見えてる。……うちの事務所、経理が適当で困ってるのよ。お母様はどんぶり勘定だし、私は計算が面倒くさいし」
ナラは、シフラのノートに、ペンで『1+1=?』と書いた。
「これなら、わかる?」
シフラは、その数式を見つめた。
黄金比でも、微分積分でもない。
幼児が最初に学ぶ、最も単純な論理。
彼女の目から、涙がこぼれ落ちた。
怖い。数字を見るのが怖い。
でも、父の歌はもう聞こえない。ヘラヘラした笑い声も、もうない。
ここには、静寂と、ナラの不器用な優しさだけがある。
シフラは、震える手でペンのインクを補充した。
そして、ゆっくりと、震えながらも力強く、答えを書いた。
『2』
ナラは満足げに頷いた。
「正解。採用よ。給料は安いけど、静かな職場よ」
シフラは、泣きながら笑った。
それは、天才の冷ややかな笑みでも、歌姫の営業スマイルでもない。
ただの一人の人間としての、安堵の笑みだった。
どこか遠くで、教会の鐘が鳴った。
その音は、「チョンポウ」などというふざけた雑音を消し去り、王都の空に澄み渡っていった。
シフラの新しい人生は、ゼロからではなく、「2」から始まるのだ。




