第1話:逆境と拷問と美談(1)
秋雨が降る日だった。
探偵事務所の扉が、遠慮がちに叩かれた。
その音はあまりに弱々しく、雨音にかき消されそうなほどだった。
「……どうぞ?」
ナラティブ・ヴェリタスが声をかけると、扉が開き、一人の女性が入ってきた。
びしょ濡れの灰色のローブ。フードを目深に被り、顔の半分は包帯で覆われている。
彼女は言葉を発しなかった。
ただ、震える手で懐から羊皮紙とペンを取り出し、テーブルの上で何かを書き始めた。
その手つきは、まるで筆記具を持つことさえ恐怖しているかのように、頼りなかった。
『助けてください。父が、私の名前を使って金を稼いでいます。父を止めてください』
ナラは眉をひそめた。
「金銭トラブル?うちは探偵事務所……」
だが、奥の部屋から出てきた大賢者エラーラが、依頼人の顔を見て息を呑んだ。
「……その目、その骨格……まさか、シフラか?」
女性の肩がビクリと跳ねた。
彼女はフードを少しだけ上げた。
包帯の隙間から見える瞳は、「王都の至宝」と呼ばれていた頃の輝きを失い、濁っていた。
「シフラ……。10年前、私が王立アカデミーに推薦した神童。『世界は数式で記述されている』と笑った、あのシフラなのかい?」
エラーラの問いに、シフラは力なく首を振った。
彼女はペンを走らせた。
数式は消えました。歌も奪われました。私に残っているのは、醜い傷跡と、父への恐怖だけです』
ナラは、彼女の首に巻かれた包帯に滲む、古く、しかし深い傷跡の予感に目を細めた。
「……話を聞こうか。あんたの身に何が起きたのか」
シフラは震える指で、彼女の人生を壊した「音」と「暴力」の記憶を綴り始めた。
かつて、シフラは幸福な子供だったはずだった。
彼女には才能があった。
他の子供が積み木遊びをする頃、彼女は積み木の配置に黄金比を見出していた。
花びらの枚数に数列を見つけ、雨音のリズムを方程式として理解した。
エラーラは当時を回想する。
「あの子の才能は本物だった。他の分野……生活能力やコミュニケーションは壊滅的だったが、数学という一点において、あの子は神に愛されていた。私は彼女の将来を約束したんだ。『お前は歴史に残る魔導数学者になる』とな」
だが、シフラの父、バッソは違った。
彼は自称「吟遊詩人」だったが、その実態は酒場で奇声を上げて小銭をせびるだけの、才能のない男だった。
彼は、娘の才能を憎んだ。
自分には理解できない記号を書き連ね、大人たちに称賛される娘が、許せなかった。
虐待は、陰湿だった。
シフラが机に向かい、複雑な計算に没頭している時、バッソは背後に忍び寄り、耳元で奇声を上げるのだ。
「おい!シフラ!あそぼうよ!無視するな!」
「……」
「俺の飯はどうした!シフラ!ほーら!えっちしよ!ベッド行こうよ!いっぱい気持ちよくさせてあげるよ?じゃあ、そうだ!『い・ゲーム』しよ!シフラ!ねーえ!俺のお母さんだろ?お、かーさん!ねーってば!お、かーさん!……てめぇこの親不孝者!気取ってんじゃねえぞ!」
「……」
「い!……シフラ!ほら言え!」
「……」
「言え!シフラ!……い!!!」
「……」
「言え!シフラ!さんはい!……い!!!」
「……い」
「違う!……い!!!」
「い!」
「違う!……いーーーっ!!!」
「いーっ!」
「違う違う違う違う違う!シフラ!良いか?……いーーーーーーっっっ!!!」
「いーーーっ!!!」
「いいいいいーーーーーーーーーっっっ!!!いいいいいいいいいいいいいいいっっっ!!!わああああああああっっっ!!!ぢゃいぽーーーっっっ!!!なあああああああっ!!!ぢーぢぢぢぢぢ!いいいいいい!!!うわあああああっ!!!………………………………………………………………………………………ほら!シフラ!言え!『い』を、言うんだ!いかん!!!光る犬が、空から降って来ましたよーーーっっっ!!!構えろーーーっっっ!!!く!来るぞーーーーーーっっっ!!!いーーーーーーーーーっ!!!」
「い、い、い、い、い……」
「は?……『い』ってなんだよ!突然どうした……シフラお前……頭おかしいのか?うるせえよ!!!……ね!ねね!えっ、ちし、よ?」
計算の集中力が途切れる。論理の糸が切れる。
シフラが泣いて抗議しても、バッソはヘラヘラと笑うだけだった。
「なんだぁ?冗談だよ、冗談。親子のコミュニケーションだろぉ?」
殴るわけではない。ただ、不快なノイズと、嘲笑と、人格否定を繰り返す。
その「ヘラヘラした態度」こそが、シフラの精神を最も深く削り取っていった。
そして、シフラは病んだ。
鬱病。
世界が灰色に見え、思考に靄がかかる。
そして、恐ろしい予感が彼女を襲った。
(……数字が、逃げていく)
ある日、数式を見ても、それが意味を持たない記号の羅列に見えた。
昨日まで解けた方程式が、今日は壁のシミのようにしか見えない。
脳の機能不全。論理的思考野の壊死。
シフラは悟った。
「私は、バカになる。父さんに壊されて、何もわからなくなる」
恐怖だった。
自己の崩壊を、明晰な頭脳が予知してしまったのだ。
彼女は数学にしがみつこうとしたが、ペンを持つ手が震えて止まらない。
父のヘラヘラした顔がフラッシュバックし、脳が思考を拒絶する。
だから、彼女は歌った。
それは「数学を捨てた」のではない。「論理が死んでも使える機能」に縋ったのだ。
右脳的な感性。喉の振動。
思考しなくても、声は出る。
彼女は、迫りくる「無能になる日」への恐怖から逃れるように、ひたすら歌い続けた。
皮肉なことに、シフラの歌声には、彼女の悲痛な叫びが乗っていた。
その歌は人々の心を打ち、彼女は王都の酒場で人気の歌姫となった。
数学の天才は死んだが、歌姫として生き直せるはずだった。
だが、悪夢は終わらない。
金を稼げるようになったシフラの元に、父バッソが帰ってきたのだ。
数年ぶりの再会。彼は以前よりも薄汚く、しかし相変わらずヘラヘラしていた。
「よう、シフラ。稼いでるらしいな」
バッソは、娘の稼ぎを我が物顔で懐に入れた。
そして、信じられないことを言った。
「感謝しろよ?俺がお前をいじめて、根性を叩き直してやったから、こんなに歌が上手くなったんだ。数学なんて役に立たないオモチャから、俺が救い出してやったんだぞ?」
シフラは、全身の血が逆流するのを感じた。
「違う……! 私は数学が好きだった!あんたが壊したんじゃない!数字がわからなくなるのが怖くて……怖くて……!」
シフラが泣き叫んでも、バッソはヘラヘラと笑い、娘の肩を叩いた。
「謙遜するなよぉ。でもなぁ、お前の歌はまだまだ『浅い』んだよ。俺のDNAを受け継いでる割には、ソウルが足りねぇなぁ」
バッソは、愛用の安っぽいリュートを取り出した。
店には多くの客がいた。シフラのファンたちだ。
「本物の芸術ってやつを、親父が教えてやるよ」
バッソは、ステージの中央に割り込み、調律の狂ったリュートをかき鳴らした。
そして、あの歌を歌い始めた。
「チョンポウ!チョンポウ!チョンポチョンポ!チョンポウ!アーサーハーラー!チョンポウ!」
客席が凍りついた。
意味不明な歌詞。リズムも音程も破綻した絶叫。
不快な高音と、下品な低音の繰り返し。
それは音楽ではない。精神を逆撫でするノイズの暴力だった。
「チョンッッッ?ポウッッッ!」
バッソは涎を垂らし、恍惚とした表情で叫び続ける。
客が耳を塞ぎ、店主が止めに入ろうとする中、バッソは演奏を止めて、シフラを指差した。
「見たか!これが才能だ!お前の歌なんて、ただの『逃げ』だ!音楽なんていう獣人部落民がする『芸』に逃げたお前は、負け犬だ!『数学』を、なめるな!」
バッソの目が、ヘラヘラした笑みから、どす黒い嫉妬へと変わった。
彼は懐からナイフを取り出した。
「無能な娘だ。親父より下手くそな歌を歌う喉なんて、いらねぇよな?」
一瞬だった。
バッソは躊躇なく、シフラの首を切り裂いた。
鮮血が舞う。
悲鳴すら出ない。
シフラは喉を押さえ、床に倒れ込んだ。
バッソは、血の付いたナイフを持ったまま、再びヘラヘラと笑った。
「やっぱり。本当は声すら出したくなかったんだなあ。本当に声を出したいなら、抵抗するはずだよなあ。抵抗しなかったんだから、最初から歌も歌う気がなかったんだなあ。こうなる運命だったんだよ。警察を呼んだら、後始末も他人任せにする負け犬ってことだからな!……さあ始まりましただい33回のど自慢大賞!今回のゲ…………………………う?……歌います────────イチマルサンチノ!ツツムクン!コノゴロツコチ!ヘンヨ!ドウチタノッカーナ!」
彼は娘が血の海に沈むのを見下ろしながら、歌の続きを口ずさんで店を出て行った。




