第3話:君の命を奪う者(3)
レオの処刑という重苦しい空気の中、沈黙に耐えられなくなったナラティブが、口を開いた。
「お母様。さっきの『社会契約説』ってやつ?要するにヤクザ屋さんの理屈でしょ?……さては、あの子を殺した正当性を、偉そうな言葉で誤魔化してるだけなんじゃないの?」
すると、前を歩いていたエラーラがピタリと止まった。
肩が震えている。
彼女は、自身の愛する「論理」を、極道の理屈と同一視されたことに憤慨していたのだ。
エラーラは、ナラティブに詰め寄った。
「撤回したまえナラ君!君の解釈はあまりに人間的だ!」
「?」
「恐らく、おしとやかメスゴリラちゃんな君は、人間を基準にしているから話の理解が出来ないのだ!いいかナラ君!君はゴリラだよ!まだゴリラではないなら、直ちにゴリラになれ!ゴリラ力が足りない!……これより私が講義するのは『社会ゴリラ説』だ!」
エラーラは、王都の街灯に飛び乗った。
「まず、ゴリラ社会が生まれる前の世界……これを『自然ゴリラ状態』と呼ぶ!」
「……はああああ?」
ナラティブが呆れるが、エラーラは止まらない。
「自然ゴリラ状態において、ゴリラは孤独だ!そこにあるのは、『力』と『バナナ』のみ!右を見ればウホ!左を見ればウホ!気に入らない奴がいればゴリラ力で威嚇し、それでもダメなら拳で語り合う!これはまさに『ゴリラのゴリラに対する闘争』だ!ここでは、いつバナナを奪われるか分からない!……ナラ君!君はこの状態で、安眠できるかね?」
「……うるさいから早く降りてきなさいよ」
「否!それができないのだよ!ゴリラたちは気づいたのだ!『これ、ずっと喧嘩してたらバナナ食べる暇、ないウホ?』と!そこで彼らが発見した概念こそが、『自然ゴリラ権』だ!」
エラーラは、目を爛々と輝かせて空を指差した。
「生まれながらにして、ゴリラは『ウホと叫ぶ権利』と『バナナを追求する権利』を持っている!だが、自然状態ではその権利が守られない!戦っているからね!強いゴリラが全部持っていってしまうのだ!そこで、賢き『哲学ゴリラ者』たちは、ある結論に達した!」
エラーラは、いよいよ楽しくなってきた。
「彼らは言った!『みんなでウホを結ぶウホ!』と!すなわち、『ゴリラ契約』の締結だ!」
エラーラは熱弁を振るう。
「ゴリラたちは、各々が持っている『暴れる権利』を、なんと、……放棄した!そして、それを管理する絶対的な権力者……すなわち『スーパー・バトルゴリラ』を樹立したのだ!スーパー・バトルゴリラは最強だ!スーパー・バトルゴリラは我々一般ゴリラを一捻りだ!」
エラーラは、ナラティブを指差した。
「いいかいナラ君?我々はスーパー・バトルゴリラに従う!けして、スーパー・バトルゴリラが怖いからではない!逆なのだよ!『スーパー・バトルゴリラに従うことで、我々のバナナと昼寝の時間がスーパー・バトルゴリラから保証されるから』だ!これこそが社会だ!我々は自由を失ったのではない!スーパー・バトルゴリラに守られることで、『野性的ゴリラ』から『市民的ゴリラ』へと進化したのだよ!!」
ナラティブは、こめかみを押さえた。
「……お母様。あんた、頭が、おかしくなったの?」
「何を言うか!私は至って論理的だ!いいか、今回のレオの一件も、ゴリラ契約に基づけば明白だ!レオは『群れのバナナ』を独り占めしようとした!これは『ゴリラ契約』への明確な違反行為だ!スーパー・バトルゴリラ、つまりゼインや司法が彼を粛清したのは、群れ全体の秩序を守るための『神聖なるスーパー・ゴリラパンチ』だったのだよ!」
エラーラは、なぜか感動して涙ぐんでいる。
「……なんという崇高なシステム!個々のゴリラは愚かでも、契約によって『一般ウホ』が形成される!」
ナラティブは、ため息をついた。
だが、その表情は少しだけ緩んでいた。
母親なりの、この重苦しい現実を消化するための「馬鹿話」だと気づいたからだ。
エラーラは、路上でブレイクダンスのように回転し始めた。
「結論を言おうナラ君!人間社会は残酷だ!レオの件も悲しい!だが、全てはシンプルなのだ!生きるために群れを作り、掟を守り、時々バナナを巡って争う!それだけのことだ!そこに善悪という高尚なラベルを貼るから苦しくなる!ただ『ウホ(生きる)』と言えばいいのだ!」
ナラティブは、吹き出した。
さっきまで「社会の残酷さ」に押しつぶされそうだった心が、物理的に暴れ回る母親のせいで、バカバカしくなってきたのだ。
「……ほんと、アンタって最高にイカれた科学者ね。あーあ。悩んでたのがアホらしくなってきた」
ナラティブは、鉄扇を閉じた。
「わかったわ。あたしたちは、賢いゴリラになりましょう。スーパー・バトルゴリラに目をつけられないように、でも隠れて美味しいバナナはしっかり確保する。……それでいいわね?」
「その通りだ!理解が早くて助かるぞ、おしとやかメスゴリラちゃん!」
「……」
レオの処刑という鬱屈した空気を、「社会ゴリラ論」という馬鹿話で強引に吹き飛ばした二人は、軽口を叩きながら獣病院への帰路についていた。
街灯の光が、二人の影を長く伸ばす。
悲劇は終わった。
「フム! では帰ったら早速、バナナの糖度測定実験を……」
エラーラが上機嫌で指を鳴らした、その瞬間だった。
物理的な衝撃波が、王都の石畳を波打たせ、ガラス窓を一斉に粉砕した。
鼓膜を突き破るような轟音。
遅れてやってきた熱風が、二人の髪を焦がすほどに撫でていく。
ナラティブが顔を上げると、王宮の方角――先ほどまでレオの処刑が行われていた広場の空が、真昼のように赤く染まっていた。
そして、王宮の象徴であった巨大な尖塔が崩れ落ちていくのが見えた。
「……フム。興味深い」
エラーラが、白衣の埃を払いながら立ち上がった。
青い瞳が、冷徹な計算機の光を宿す。
「震源地は処刑台の直下だ。……どうやら、レオ君の仕業のようだな……」
「え……?」
ナラティブの心臓が凍りついた。
レオは、世界を道連れにしたのだ。
レオは、国家転覆を目論むテロリストだったのだ。
「行くぞ、ナラ君!」
広場は、地獄絵図だった。
処刑台があった場所には、巨大なクレーターができていた。
周囲の建物は半壊し、瓦礫が散乱している。
そして、クレーターの中心部。
そこには、何もなかった。
レオの遺体も、断頭台も。
処刑を見届けていたはずの国王も。
執行人であった騎士団長ゼインも。
二人は、跡形もなく吹き飛んだのだ。
この国の絶対的なルールであった「法」と、それを執行する最強の「暴力」。
その頂点に立つ二人が、たった一人の少年によって、文字通り、粉微塵になったのだ。
「権力の空白地帯、完成だな」
エラーラが、王冠を拾い上げてつまらなそうに言った。
「彼らは『秩序』を守るために少年を殺したが、その少年の『死』そのものが、時限爆弾だった」
静寂が、広場を支配した。
ナラティブは、立ち尽くしていた。
ナラティブは、自分の胸に手を当てた。
彼女の胸の奥底からじわじわと湧き上がってきたのは、「安堵」だった。
自分でも信じられない言葉が、脳裏に浮かぶ。
(王様が死んでよかった。ゼインが死んでよかった。……あの冷酷なシステムが、ぶっ壊れてくれて、本当によかった)
もし、あのままレオが処刑され、石が回収され、王都が平和に戻っていたら。
ナラは一生、「子供を見殺しにした社会」の一員として、罪悪感を抱えて生きていかなければならなかっただろう。
「多数派の大人の利益のために、少数派の子供の犠牲は仕方ない」という、理解はできるが吐き気がする理屈を、飲み込まなければならなかっただろう。
だが、レオはそれを許さなかった。
彼は死ぬ間際に、自分を殺そうとした社会の喉元を食いちぎったのだ。
「……ざまあみろ!」
ナラティブの口から、小さな呟きが漏れた。
それは、市民としては失格の言葉だった。
国を守るべき指導者の死を喜ぶなど、非国民の極みだ。
だが、ナラティブ・ヴェリタスという一人のアナキストとしては、これ以上ないほど正直な感想だった。
彼女は、自分が「秩序側の人間」ではなく、どこまでも「はみ出し者側の人間」であることを再確認し、奇妙な安心感を覚えていた。
自分は、まだ社会の歯車ではない。そう思えたからだ。
「……感傷に浸っている暇はないぞ、ナラ君」
エラーラの冷徹な声が、ナラティブを引き戻した。
エラーラは、空を見上げていた。
「見ろ。空を」
ナラティブが見上げると、王都を覆っていた青白い結界が、ガラス細工のようにひび割れ、音を立てて崩落していくのが見えた。
国王という管理者と、魔力供給源であった星の雫を同時に失ったことで、都市防衛システムが完全に崩壊したのだ。
「結界消失。指揮系統崩壊。戦力の大半が戦闘不能。……現在の王都の防御力は、実質ゼロだ」
エラーラが懐中時計を確認する。
「夜明けだ。結界の消失を感知した周辺の魔獣たちが雪崩れ込んでくるぞ。この街は、数時間以内に地図から消える」
遠くから、獣の咆哮が聞こえ始めた。
地鳴りのような響きが、近づいてくる。
ナラティブは、鉄扇を握りしめた。
能天気な顔は、もうない。
そこにあるのは、自分の居場所を守るために牙を剥く、一匹の獣の顔だった。
「……やるしかないわね」
ナラティブが言った。
「その意気だ!」
エラーラが白衣を翻した。
「これは千載一遇のチャンスだ!指揮官不在の混沌とした戦場!私の開発した新兵器の実験場としては、これ以上ない舞台だよ!ハーッハッハ!」
「アンタってほんと、ブレないわね……」
ナラティブは呆れながらも、口元に笑みを浮かべた。
このイカれた科学者が隣にいる限り、どんな絶望的な状況も、なんだかんだで「実験」や「冒険」に変わってしまう気がした。
東の空が白み始めた。
崩れ落ちた尖塔の向こうから、美しい朝焼けが昇ってくる。
その光は、残酷なまでに平等に、すべてを照らし出した。
そして、迫りくる魔獣の影に怯え、混乱を始める市民たちの姿。
秩序は死んだ。
王都は、さらなる混沌の時代に突入するだろう。
だが、ナラティブは、鉄扇をバッと開いた。
「行くわよ、お母様!」
「ああ。観測開始だ!」
二人は走り出した。
瓦礫と混沌に満ちた、この愛すべき街を守るために。




