第2話:破壊を生み出す者(2)
「さらばだ、エラーラ。握手をしよう!」
私、エラーラ・ヴェリタスは、その手を見た。
「……ッ!」
私は、反射的に一歩下がった。
背中が壁にぶつかる。全身の鳥肌が立ち、胃の底から酸っぱいものがせり上がる。
「……触るな!」
「ん?」
「私に触るなと言っているんだ!その薄汚い手を近づけるなッ!」
私の絶叫に、リニアはきょとんとし、それからニヒルに笑って手を引いた。
「……潔癖症か。孤高の科学者には、他者の体温すらノイズになるようだな。いいだろう。その『心の壁』、嫌いではない」
彼は、独り言をつぶやきながら去っていった。
ドアが閉まった瞬間。
私はその場に崩れ落ち、自分の右手を――彼に触れられそうになった手を――服で何度も、何度も拭った。
「……汚い。汚い汚い……!」
ナラが驚いて駆け寄ってくる。
「お母様!?どうしたの?ただの握手じゃない」
「違う!ナラ君、消毒液を持ってきてくれ!私の皮膚が……細胞が……あの男の『情報』を拒絶しているんだ……!」
これは異常だ。
私は科学者だ。非論理的な感情は持ち合わせないはずだ。
だが、この震えは何だ?
あの「痛々しい無職のおっさん」を見た瞬間に走る、この根源的な恐怖は、一体何だ?
それからの数日間。
私は、研究の一切を放棄し、ソファの隅で膝を抱えていた。
食事が喉を通らない。
眠れば、あの男の夢を見る。
黒いコートを着て、「ククク……」と笑う男の顔が、いつの間にか私の顔に変わっている悪夢を。
「……分析だ。分析しなければならない!」
私は、ぶつぶつと独り言を繰り返した。
なぜ、リニア・アルゴリズムという「ノイズ」が、私の脳髄にこれほどこびりつくのか。
仮説1、恋。
「うぇッ……」
思考した瞬間に嘔吐した。あり得ない。
仮説2、前世の因縁。
彼は「時空の漂流者」などと妄言を吐いていた。
もしや、私の魂が彼を知っている?
かつて私が殺した敵? あるいは、私を殺した殺人鬼?
だから本能が「逃げろ」と叫んでいるのか?
仮説3、平行世界の自分。
私は鏡を見た。
銀髪の、青い瞳の私。
黒髪の、死んだ魚のような目の彼。
似ていない。外見は似ていない。
だが……「現実社会に適合できず、自分の殻に閉じこもっている」という精神構造は?
彼は、私が老いた姿、すなわち「あり得たかもしれない未来の成れの果て」なのではないか?
「……嫌だ……」
私は頭を掻きむしった。
一週間後。
私は限界を迎えていた。
体重はみるみるうちに落ち、目は窪み、幽鬼のようになっていた。
深夜。
私は書斎に入った。
確かめなければならない。
私のルーツを。
私が「何者」であり、なぜあの男に「引力」を感じるのかを。
私は金庫を開け、『ヴェリタス家・家系図』を取り出した。
私の養父である博士の名前の下で、線は途切れている。
博士には実子がいなかった。
そこに、後から付け足されたように、私の名前が書かれている。
『養子:エラーラ(出自不明)』
「……知っている。これは知っている」
私は孤児だ。
22年前、スラム街の掃き溜めで、私はボロ布にくるまれて捨てられていた。
それ以前の記憶はない。
私は、家系図の裏から、封筒を取り出した。
それは、私が拾われた時に身につけていた「遺留品」が入った封筒だ。
博士は「お前が大人になったら見なさい」と言って、遺してくれたものだ。
私は今まで、怖くてこれを開けられなかった。
震える手で、封を開ける。
中から出てきたのは、一枚のメモ用紙だった。
メモには、博士の筆跡ではない、若く、乱暴で、どこか震えた文字で、こう書かれていた。
『エル・アルゴリズム』
エルとは、私の、本当の名前。
そして、アルゴリズム。
「……アルゴリズム……」
私の脳裏に、閃光が走った。
数日前。
リニアが「うっかり」落としていった、あの身分証明書。
そこに書かれていた名前。
『リニア・アルゴリズム』
「……あ、あ、あ……」
呼吸が止まった。
偶然だ。偶然に決まっている。
アルゴリズムなんて名前、たぶん、ぜったい、おそらく、まちがいなく……できれば……王都には掃いて捨てるほどいてほしかった。
私は、這うようにしてデスクに向かった。
王都のデータベースへアクセスする。
指が震えて、パスワードを3回も間違えた。
冷や汗が、キーボードに滴り落ちる。
検索ワード:『アルゴリズム家』
エンターキーを押す音が、銃声のように響いた。
検索結果:1件
「……嘘だ……」
王都に、「アルゴリズム」という姓を持つ家系は、アルゴリズム家ただ一つしかなかった。
私は、モニターに映し出されたデータを食い入るように見つめた。
文字が、意味を持つ記号としてではなく、呪いの呪文として目に飛び込んでくる。
【三男:リニア・アルゴリズム(現在38歳)】
そして、その下に隠された、古い抹消記録。
【長女:エル(22年前に出生、直後に行方不明)】
【父親:リニア・アルゴリズム(当時16歳)】
「……計算……計算だぞ……計算をしろ、エラーラ……」
私の唇が、勝手に動いた。
科学者の習性が、私を地獄へ突き落とす。
リニアは38歳。
私は22歳。
38引く22は……16。
……合致する。
時間的に、矛盾がない。
遺伝子的に、説明がつく。
あの男は。
あの中二病の、痛々しい、妄想に生きる、無職の子供おじさんは。
私の、実の父親だ。
「……………………!!」
私は、キーボードの上に吐瀉物をぶちまけた。
胃の中身などない。胃液と、胆汁と、絶望が混ざった苦い液体だ。
「嘘だ……嫌だ……!あんなのが……あんな『産業廃棄物』が、私の起源!?私の半身!?私の血!?」
私は、汚れている。
私は、生まれた瞬間から、あの「痛々しさ」に汚染されていたのだ。
データには、当時の状況の断片が残っていた。
16歳のリニア。
裕福な商家のドラ息子。
すでに「黒い服」を着て「自分は選ばれし勇者だ」という妄想に浸っていた少年。
そんな彼が、使用人との間に子供を作った。
そして、彼のビデオ記録には、こう記されていた。
『ガキができた。最悪。俺はまだ16だぞ?これから世界を救う旅に出る孤高のソルジャー『ゼロ』だぞ?しかも『ブレイブモード』だぞ?……あ!ゼロごっこしよ!…………「デュクシ、ブゴーン、ダガーン、ブデュデュデュデュ!クソックロプシー!このままじゃ世界が、いくぞゼロランチャー起動!大佐!ブレイブライフル発射します!ダメだ!ゼロ!発砲は許可できない!大佐!オレは撃ちます!やめろ!ゼロ!ブギューン!ブガブガブガブガーン!ドゴーン!次回27話!バンボロ覚醒!お楽しみに!」……だから、ベビーカーとか、俺の「ゼロ・ブレイブ」としての美学に反する。そうだ、捨てよう!これは「修羅の道を行くための、血の断絶」だ。うん、その方が悲劇的でカッコいい!ねえマーマーァ!パーパーァ!こいつ捨ててくるねー!』
「……は?……はああああ!?……ッ、ッ……」
歯が砕けるほど噛み締めた。
あいつは。
あいつは、ただ、「自分のキャラ設定が崩れるから」という理由だけで、生まれたばかりの私を、遺棄したのだ。
命よりも「妄想」。
娘よりも「快楽」。
それが、私の父親の正体だった。
私は、フラフラと立ち上がり、実験室の鏡の前に立った。
そこに映っているのは、いったい、誰だ?
天才科学者エラーラ?
いや、違う。
そこにいるのは、「リニアの娘」だ……。
私の高い知能。
私の科学への執着。
私の社会不適合性。
それらすべてが、あの男の「現実逃避の性質」が、たまたま「科学」という方向に「正しく間違って」発現しただけのものにすぎない。
私は、リニアと同じだ。
彼が「妄想」を着て自分を守るように、私は「知恵」を着て自分を守っている。
彼が「空想」を語るように、私は「知識」を語っている。
私たちは、同じ種族のモンスターなのだ。
臆病で、自意識過剰で、現実を直視できない、哀れなアルゴリズムの血統。
「死にたい!」
生まれて初めて、明確にそう思った。
死んで、この汚れた血を世界から消去したい。
私が生きていること自体が、あの男の「若き日の過ち」を、美化している。
私は、メスを手に取った。
これを首に突き立てれば、楽になれる。
アルゴリズムの呪いから解放される。
「……エラーラ?」
背後で、ドアが開いた。
ナラだ。
彼女は、メスを握りしめた私を見て、息を呑んだ。
「……何してるの?お母様……」
私は、ゆっくりと振り返った。
「なんでもないよナラ君!ただ『失敗作』の処分について考えていただけだ!」
「失敗作?」
「ああ!設計段階から間違っていた廃棄物のことだよ!」
ナラは、悲しそうな顔で私に近づき、メスを取り上げた。
私は、ナラに抱きしめられながら、虚空を見つめた。
私の狂気は、もう……戻れない閾値を超えていた。
ある日の朝。
ナラは、あくびを噛み殺しながらリビングに入った。
いつもなら、この時間にはコーヒーの香りと、実験器具が触れ合うカチャカチャという音が響いているはずだ。
だが、今日は……
「……いない」
実験室を見る。もぬけの殻だ。
デスクの上には、書きかけの論文と、飲みかけの冷めたコーヒー。
そして、部屋の奥にある重厚な鉄扉の鍵が開いていた。
「まさか」
ナラは顔色を変えて走り込んだ。
そこには、巨大なリング状の装置『時間潜行機』が鎮座している。
装置は熱を帯びており、空気中にはオゾンの焦げた匂いが漂っていた。
彼女には機械の操作は分からない。だが、エラーラが「何らか」に追い詰められ、過去へ飛んだことだけは理解できた。
・・・・・・・・・・
光のトンネルを抜け、私――エラーラ・ヴェリタスの意識は実体化した。
強烈な日差し。
湿気を帯びた熱風。
そして、鼓膜を揺らす波の音と、陽気な音楽。
そこは、2年前の『ゼランディア』。
世界地図の南端に位置する、観光立国。
内戦などまだ影も形もない、平和と快楽に満ちた「地上の楽園」だ。
私は「観測者」として、その極彩色の街に立っていた。
直感で、嫌な予感がしたから時を超えてやってきたのだ。
「……探さなければ」
私は、観光客で賑わうメインストリートを抜け、一本裏の路地へ入った。
光が強ければ、影も濃い。
この国は、リゾートエリアの華やかさと、スラム街の貧困が隣り合わせにある「格差の国」だ。
アルゴリズム家の抹消データにあった座標。
スラム街の入り口にある、安酒場。
私は壁をすり抜けて店内に入った。
昼間から酒と煙草の臭いが充満する、薄暗い空間。
その一番奥のボックス席に、「彼」はいた。
「……フッ。この国の酒は、俺の『渇き』を癒やすには軽すぎるな」
リニア・アルゴリズム、当時36歳。
黒いロングコート。サングラス。
蒸し風呂のような店内で、一人だけ冬のような重装備。
王都で見かけたあの「痛々しい姿」そのままだ。
だが、決定的に違うことが一つあった。
王都では「孤独な不審者」だった彼が。
ここでは、「崇拝される王」として君臨していたのだ。
リニアの周りには、現地の若い女性たちが数人、侍っていた。
彼女たちは貧しい身なりだが、目はキラキラと輝き、リニアを「救世主」を見るような目で見つめている。
「リニア様!王都の秘密組織って、本当に魔法使いがいるの?」
「すごいわ! あなたの右手の封印が解けたら、この国の貧困なんてなくなるのね!」
リニアは、サングラス越しにニヒルに笑い、安物のワインを揺らす。
「……約束しよう。俺の『覇道』が成就した暁には、お前たちを王都の『天空城』に招待してやる」
私は、その光景を見て、戦慄した。
王都でのリニアは、ただの「バカ」に見えた。
誰にも相手にされず、一人でブツブツ言っている無害な道化。
だが、ここでは違う。
彼は、自分の「痛々しさ」を、「武器」として使っている。
「……そういうことか!」
私は、科学者としての冷徹な分析を行った。
あの中二病的な言動。
「封印」だの「組織」だの「世界の裏側」だのという荒唐無稽な嘘。
「まともな人間なら、異常者と判断して近づかない。瞬時に距離を置く」。
だが、このスラム街の、教育を受けられず、外の世界を知らない純朴な人々にとってはどうだ?
彼らは「王都」というラグジュアリーな響きに憧れ、現状の貧困から救ってくれる「奇跡」を求めている。
リニアの「痛い言動」は、「まともな人間をあえてふるい落とす」フィルターとして機能しているのだ。
彼の嘘を笑い飛ばすような賢い人間を遠ざけ、彼の嘘を信じ込んでしまうほど「騙しやすいカモ」だけを選別して引き寄せる。
詐欺の手口だ。
「……あいつは、バカじゃなかった……!!!」
私は、霊体の中で拳を握りしめた。
「あいつは、自分の『バカさ』が、特定の層には『カリスマ』として機能することを知っている。王都では誰にも相手にされない鬱憤を、ここでは『神』を演じることで満たしているんだ」
その取り巻きの中に、美しい少女がいた。
白の肌。赤い瞳。
ナラによく似た、10代後半の少女だ。
彼女は、リニアの膝に手を置き、うっとりと彼を見上げていた。
「リニア様……。私、幸せ。こんな汚い街から、私を見つけ出してくれて……」
「……当然だ。俺の『魔眼』は、泥の中の宝石を見逃さない」
リニアは、少女の肩を抱き寄せた。
その手つきに、愛はない。
あるのは、買ったペットを撫でるような、所有欲と優越感だけだ。
・・・・・・・・・・
時間は飛ぶ。
数ヶ月後。
少女のお腹は大きくなっていた。
安宿の一室で、彼女はリニアに縋っていた。
「リニア様……。お腹の子が、動いたの。……王都に連れて行ってくれるわよね? 結婚してくれるわよね?」
リニアは、荷物をまとめていた。
黒いコートを羽織り、鏡の前で髪型をチェックしている。
「……やれやれ。何度も言わせるな。俺は『風』だ。一箇所に留まれば、俺の魔力が淀んでしまう」
「え……?」
「王都で『最終戦争』が始まる。俺が行かなければ、世界は終わるんだ」
少女の顔色が青ざめる。
「嘘……嘘よ!だって、約束したじゃない!この子は……あなたの子よ!」
リニアは、振り返った。
その顔には、罪悪感など微塵もなかった。
むしろ、「悲劇的な別れを演じる俺」に酔っている表情だった。
「……泣くな。これは『愛ゆえの別離』だ。俺の戦いに、お前たちを巻き込むわけにはいかない」
彼は、現地の紙幣を数枚、床にばら撒いた。
「……達者でな。俺の伝説の1ページとして、誇りを持って生きろ」
「待って!行かないで!」
少女が、大きなお腹を抱えて追いかける。
リニアは、その手を乱暴に振り払った。
少女がよろけ、テーブルにぶつかる。
「……しつこい!」
リニアは、冷たく吐き捨て、ドアを出て行った。
少女の絶叫が、スラムの空に響き渡った。
その夜。
少女は、絶望の中で産気づいた。
助産師もいない、不衛生な安宿のベッドで。
「うあぁぁぁぁぁっ!!」
激痛と、裏切られた悲しみの中で、新しい命が産み落とされた。
元気な産声。
赤い瞳の女の子。
ナラティブだ。
少女は、汗と涙にまみれながら、赤ん坊を抱きしめた。
「……ごめんね。ごめんね……。パパは……パパは……」
少女は知っていた。
リニアが「世界を救いに行った」のではないことを。
ただ、飽きたから捨てられたのだということを。
それでも、彼女は赤ん坊にこう告げた。
「パパはね、ヒーローなのよ。遠い国で、悪い人たちと戦っているの。だから……私たちは、ここで待っていましょうね……」
嘘だ。
悲しい嘘だ。
そう信じ込まなければ、彼女の心は壊れてしまうから。
ナラティブ。私の妹。
彼女は、あの男が、ゴミのように捨てた命だった。
私、エラーラは、16歳のリニアに、捨てられた。
ナラは、36歳のリニアに、捨てられた。
私たちは、異母姉妹。
同じ男の、同じ「悪意ある妄想」の犠牲者。
「……許さない」
リニア・アルゴリズム。
お前は、ナラの母親の人生を壊した。
ナラを地獄に突き落とした。
そして、私の人生も……。
・・・・・・・・・・
光が弾け、私は現在へ戻った。
装置から這い出した私は、床に崩れ落ちた。
ドアがこじ開けられ、ナラが飛び込んできた。
彼女は、ボロボロになった私を見て、涙目で駆け寄った。
「どこ行ってたのよ!死んだかと思ったじゃない!」
ナラが私を抱きしめる。
温かい。
南国のスラムで生まれ、内戦を生き延びてここまで辿り着いた、私の妹。
「……ごめんよ、ナラ君。『地獄』を見学しに行っていたんだ」
「地獄……?」
私は、ナラの体を離し、彼女の赤い瞳を真っ直ぐに見つめた。
「ナラ君」
私は、静かに言った。
いつものような、皮肉めいた口調ではない。
研究者としての、冷徹で、残酷な声で。
「君に、問いたい」
ナラは、私の異様な雰囲気に息を呑んだ。
「君は……『悪』を倒したいか?」
「……悪?」
「ああ。魔王でも、ドラゴンでもない。もっと卑小で、粘着質で、人の心の隙間に入り込み、人生を食い荒らす……『寄生虫』のような悪だ。そいつは、弱者から搾取し、自分の手を汚さずに、他人を地獄へ突き落とす。なんの罪悪感も持たず、自分を『主人公』などと信じ込んでいる、悪だ」
私は、リニアの名前は出さなかった。
「私ひとりでは、そいつを倒せない。……手伝ってくれるかい?」
ナラは、理由を聞かなかった。
彼女は、私の瞳の奥にある、決して消えない炎を見ただけだ。
「……愚問ね」
ナラは、鉄扇をパチンと鳴らした。
「それが神様だろうが悪魔だろうが、地獄の果てまで追い詰めて、息の根を止めてやるわ」
「……そうか」
私は、満足げに頷いた。
窓の外、王都の空には、雨雲が去り、突き抜けるような青空が広がっていた。
リニア・アルゴリズム。
私たちは、お前が捨てた二つのゴミが、お前を終わらせる死神だったということを、教えてやる。




