第1話:破壊を生み出す者(1)
●中二病かと思いきや完全ホラー回です。自分の親が中二病だったらどうしますか。
王都のスカイラインを、グレーの雨雲が支配している。
アシッド・レインが、とある探偵事務所を、冷たい湿気で包み込んでいた。
一人は、エージェント・ナラティブ。
もう一人は、マッド・サイエンティスト・エラーラ。
彼女たちは気づいていない。
このルームのデッド・スペースに、「彼」がスタンバイしていることに。
漆黒のロングコートを身に纏った男。
コードネーム・リニア。
彼の存在感は、限りなくゼロに近い。
それは彼が常時発動しているパッシブ・スキル『ファントム・ステルス』による効果だ。
彼は、動かない。
重力すら彼を縛り付けていないかのように、その立ち姿はスタイリッシュかつ、ソリッドだ。
そのコンバット・ポテンシャルはアンノウン。
もし彼がその気になれば、このセクターごとデリートすることなど、指先一つのアクションで完了する。
だが、彼はそれをしない。
彼は「ウォッチャー」だからだ。
(……疼くか。俺の左腕の『ブラック・ドラゴン』よ。……ステイだ。まだクライマックス・フェーズではない)
リニアは、包帯の下でパルスする禁断のパワーを、強靭なメンタルでサプレスした。
その時。
ナラティブ・ヴェリタスが、ふと顔を上げ、コーヒーカップを置いた。
彼女のシックス・センスが、ノイズをディテクトしたのだ。
「……ねえ、お母様」
彼女の視線が、ゆっくりと北東のコーナーへとスライドする。
そこは、物理的には「ナッシング」であるはずの場所。
「あそこに、『誰か』いない?」
エラーラのロジカルな思考回路が、視覚情報のパラドクスにフリーズを起こす。
二人の視線が、リニアにロックオンされた。
その瞬間。
リニアは、計算し尽くされたジャスト・フレームで、ゆっくりとフェイスを上げた。
ニヒルなスマイル。
サイレンス・ブレイク。
「ようやく、俺の『オーラ』にアクセスしたか。……ロング・タイム・ノー・シー。俺のステルス・フィールドを突破するとは、君たちのポテンシャルもレベルアップしたようだな」
黒きコートの男、リニア。
王都のアンダーグラウンドの顔役が、ついにそのベールを脱ぎ、メイン・ストリームへとエントリーを果たしたのである……!
・・・・・・・・・・
私、ナラティブ・ヴェリタスは、呆れを通り越して感心していた。
この男、私が気づくまで、本当に微動だにしていなかったのだ。
呼吸音すら殺し、心拍数すら下げている。
まるで、誰かに見つけられるその瞬間だけを待ち続ける、哀れで健気な森の精霊のように。
「……あんた誰?」
私が鉄扇で、彼の肩をツンと突いた。
コートは少しカビ臭く、そして安っぽいコロンの香りがした。
男は、コートを翻そうとしたが、観葉植物の枝に引っかかった。
「……ッ。……フッ、これも『世界の修正力』か」
彼は何事もなかったかのように植物からコートを外し、ポーズを決め直した。
「名は……リニア・ゼロ・ブレイブ。時空の狭間を彷徨う『漂流者』であり、この世界線の『守護者』だ」
ゼロ・ブレイブ。
あまりにも香ばしい響き。
口に出すだけで舌が火傷しそうな名前だ。
デスクの奥で、エラーラ・ヴェリタスが心底不愉快そうに呻いた。
「……ゼロ・ブレイブ?なるほど?勇気がゼロなのかい?それとも知能指数がゼロなのかい?ナラ君よ、早くその得体の知れぬモルモットをつまみ出したまえ」
エラーラは、いつもの冷静な科学者ではない。
毛嫌いしている。
それも、ただ「変な奴だから」という理由だけではない気がした。
彼女の青い瞳は、リニアという存在の奥にある「何か」を探るように、鋭く細められている。
「待ってよ、お母様。純粋な狂人よ!なんだか面白そうじゃない!」
私は、ソファに座り、リニアに手で示した。
「座りなさいよ、ミスター・ゼロ・ブレイブ。その『世界線』とやらの話、詳しく聞かせてくれる?」
リニアは、「座る」という行為一つにもこだわった。
一度背を向け、コートの裾を払い、重々しく腰を下ろす。
そして、組んだ脚の上に肘を置き、両手を組んで口元を隠す。
「……フッ。俺の話を聞こうとするとは、君も『こちら側』の素養があるようだな、ナラティブ」
「あら、あたしの名前を知ってるの?」
「当然だ!俺は、君たちが過去に解決した『迷い猫事件』も、『下水道スライム事件』も、全て俺の観測範囲内だ」
私は聖母の微笑みを向けた。
「すごいですわ!では、貴方様はずっと私たちを見ていてくださったのですね?」
「ああ!俺の左腕に封印された『黒龍』が、君たちの危機に反応して暴れそうになるのを、抑えるのが大変だったがな」
リニアは、右腕で左腕を強く掴み、苦悶の表情を作った。
「くっ……!静まれ……!まだ『解放』の刻ではない……!」
私は、彼の手元を見た。
爪は綺麗に整えられているが、指先は震えている。
そして、額には脂汗。
彼は本気だ。
本気で「暴れる黒龍」と戦っているのだ。中年男性の肉体の中で。
「……滑稽だ。」
エラーラが、冷徹に切り捨てた。
「君の体内マナ数値を計測させてもらったが、結果は『一般市民以下』だ。不快だ。君の言葉には『実体』がない。中身のない風船が、さも重力を持っているかのように振る舞っている。だいいち、一体何をしに来たのだ。不法侵入だ。さあ、帰ってくれ。」
エラーラの嫌悪感は、異常なほどだった。
彼女は「未知」を愛するが、「虚偽」を憎む。
だが、リニアのこれは「嘘」というレベルを超えている。
彼自身が、その虚構を現実だと信じ込んでいるからだ。
リニアは、エラーラの言葉に傷つくどころか、ニヤリと笑った。
「フッ……。理解できないのも無理はない。科学ごときで、俺の『深淵』を測れるはずがないからな。……エラーラ君。君の知識は『表層』に過ぎない。世界の真実は、もっとドロドロとした『混沌』の中にあるんだよ」
「……く!」
エラーラが、ビーカーを握り潰しそうになった。
私は笑いを堪えるのに必死だった。
この男、最強の魔法使いであるエラーラに向かって、真正面から「お前は浅い」と言い放ったのだ。
無知ゆえの最強。
バカゆえの無敵。
この歪な精神構造は、ある意味で完成された芸術品だ。
「それで、リニアさん。その『守護者』様が、今日はどうして姿を現したのですか?」
リニアは、ふっと遠い目をした。
「……『特異点』が近づいている。俺の右目が疼くんだ。王都に……いや、この次元に、亀裂が入ろうとしている。俺一人では、その『崩壊』を支えきれないかもしれない。……だから、君たちに『協力する権利』を与えに来た」
……要するに、「暇だし寂しいから仲間に入れてくれ」ということだ。
私は、コーヒーを淹れてやった。
「ブラックでいいかしら? ゼロ・ブレイブ様」
「……ああ。俺には『漆黒』が似合う」
彼は、出されたブラックコーヒーを、震える手で口に運んだ。
一口啜る。
眉間に深い皺が寄る。
「……苦」
聞こえてるわよ。
彼は、私たちが目を離した隙に、ポケットから「何か」を取り出し、カップに投入した。
それは、高級菓子店『ロイヤル・シュガー』の角砂糖だった。
しかも5個。
ジャラジャラと投入し、スプーンで猛烈にかき混ぜる。
そして、再びカップを口にし、満足げに「……フッ」と息を吐いた。
「……やはり、この苦味こそが人生だ」
甘いでしょ。絶対、泥水みたいに甘いはずよ。
私は、彼が愛おしくなってきた。
カッコつけたい。
特別でありたい。
でも、苦いのは嫌い。
その矛盾だらけの行動が、彼の「人間としての小ささ」を浮き彫りにしている。
エラーラは、その様子を見て、さらに眉をひそめた。
「……ナラ君。こいつは、ただのバカではないよ」
エラーラが小声で私に耳打ちする。
「え?」
「言葉遣い、服装、仕草。すべてが『どこかの物語』のツギハギだ。彼自身の言葉、彼自身の経験、彼自身の感情……。そういった『オリジナルの核』が見当たらない。まるで、誰かが書いた『設定資料』そのものが歩いているような……」
エラーラの「引っかかり」の正体。
それは、リニアという人間の「空虚さ」だった。
中身がない。
過去がない。
あるのは「ゼロ・ブレイブ」という、意味不明な上書きデータだけ。
一通りの「設定語り」を終え、リニアは満足げに立ち上がった。
「……さて。そろそろ行くか。『時の回廊』が俺を呼んでいる」
ただの帰宅だ。
彼はコートを翻し、出口へと向かった。
その背中は、確かに決まっていた。
だが。
「……ッ!?」
彼は、何もない平らな床で、派手に躓いた。
長すぎるコートの裾を、自分で踏んだのだ。
無様な音を立てて、リニアは転倒した。
「……り、リニア!?」
私は駆け寄ろうとした。
だが、彼は驚異的な速さで立ち上がり、何事もなかったかのように髪をかき上げた。
鼻血が出ている。
膝が笑っている。
「……フッ。今の衝撃……『次元断層』の揺らぎか。くっ、敵も干渉を強めているようだな……!」
「……ふふっ。あはははは!」
私は、お腹を抱えて笑った。
「最高よ!今年のお笑いグランプリ、優勝間違いなしだわ!」
私は涙が出るほど笑った。
こんなに笑ったのは久しぶりだ。
彼は、最高の道化師だ。
だが、エラーラは、笑っていなかった。
彼女は、リニアが転んだ拍子に落とした「何か」を拾い上げ、じっと見つめていた。
「……お母様?どうしたの?」
私が聞くと、エラーラは無言でその「何か」を私に見せた。
それは、一枚の身分証明書だった。
王都の市民なら誰もが持っている、ありふれた登録カード。
そこには、さっきまでの「漆黒の堕天使」の魔法が解ける、残酷な現実が記されていた。
【氏名】リニア・アルゴリズム
【年齢】38歳
【職業】無職(ザガン商会・三男)
【住所】王都第3区・実家
「……リニア・アルゴリズム?」
私は読み上げた。
ゼロ・ブレイブなんて、影も形もない。
ただの、少し変わった名前の、気を違えてしまった、無職のおっさん。
エラーラが、カードの裏面を指差した。
そこには、備考欄があった。
通常は、病歴や特記事項を書く場所だ。
そこに、震えるような、しかし几帳面な文字で、こう書き込まれていた。
『特技:設定制作、衣装デザイン、一人芝居』
私の笑いが止まった。
「……え?」
「彼、自分で分かっているんだよ」
エラーラが、静かに言った。
「彼は、自分が『リニア・アルゴリズム』という中年であることを知っている。知っているからこそ、その現実を塗りつぶすために、『ゼロ・ブレイブ』という皮を被り、必死に演じているんだ」
エラーラの表情には、ついに、恐怖が浮かびはじめた。
私は、カードの写真を指でなぞった。
証明写真の中のリニア・アルゴリズムは、包帯もコートも着ていない、気弱そうで、目つきの悪い、どこにでもいる中年男だった。
「……リニア・ゼロ・ブレイブ」
私は、そのペンネームを呟いた。
「あたしは嫌いじゃないわ。その痛々しさも、必死さも、生き延びるための『サバイバル』だもの」
エラーラは、リニアを肯定したあたしを……はっきりと睨みつけた。




