第3話:孤独な猛獣(3)
30年前の王都、名門女子学院の教室。
私、ナラティブ・ヴェリタスは、透明な観測者として、教室の隅に立っていた。
窓からは春の光が差し込み、埃がキラキラと舞っている。
だが、その美しい風景の中に、一つだけ異臭を放つ存在があった。
16歳のグリゼルダだ。
彼女は、教室の中央で、まるで女王のようにふんぞり返っていた。
圧倒的な美貌。金糸の髪、白磁の肌、宝石のような瞳。
クラスメイトたちは彼女を遠巻きに眺め、憧れと、それ以上の「畏怖」を含んだ視線を送っている。
授業中だというのに、彼女は手鏡を取り出し、自分の顔をうっとりと眺めていた。
初老の教師が、震える声で注意する。
「グリゼルダさん。授業中です。鏡をしまいなさい」
グリゼルダは、ゆっくりと顔を上げた。
その瞳には、教師に対する敬意など微塵もなく、あるのは底なしの軽蔑だけだった。
「先生。この鏡に映る『真実の美』と、あなたの黒板に書かれた『死んだ歴史』。どちらが価値あるものか、分からないのですか?」
教室が凍りついた。
教師は顔を真っ赤にして怒ったが、グリゼルダは「ああ、凡人には理解できないのね」という憐れみの笑みを浮かべて、あくびをした。
私は、彼女の背後に立ち、その思考の深淵を覗き込んだ。
そこにあったのは、反骨精神でも哲学でもない。
ただの「怠惰」と「無知」だった。
彼女は、勉強が嫌いだった。
努力が嫌いだった。
他人の話を聞くのが嫌いだった。
だが、それを認めることは、彼女の肥大化したプライドが許さない。
だから彼女は、脳内で論理をすり替えたのだ。
『私の感性が鋭すぎるから、既存の枠に収まらないのだ』
これは、無敵の論理だ。
テストで0点を取っても、「採点者が私の答えを理解できなかった」で済ませられる。
彼女は、自分が裸の王様であることすら知らず、その若さと美貌だけで「私は世界の支配者だ」と信じ込んでいる。
私は寒気を覚えた。
これは「若さゆえの過ち」ではない。
「学習機能の欠損」だ。
彼女は、外部からの情報をすべて遮断し、自分の脳内で生成された「自分が一番すごい」という妄想だけを栄養にして生きている。
井の中の、蛙。
時は流れる。
20歳。グリゼルダの社交界デビューの日。
彼女は、最高級のシルクのドレスに身を包み、王都の夜会に現れた。
その美しさは会場を圧倒した。
シャンデリアの光を浴びて輝く彼女は、物語の主人公そのものだった。
男たちが群がり、貴婦人たちが息を呑む。
「さあ、ひれ伏しなさい。私が主役よ」
彼女は勝ち誇った顔で、扇子を広げた。
だが、地獄はここから始まった。
外見という名のメッキは、あまりにも薄く、脆かったのだ。
ある高名な伯爵夫人が、好意的に彼女に話しかけた。
「まあ、素敵なドレスですわね。その刺繍は、南部の伝統様式かしら?確か、収穫祭の祈りをモチーフにした……」
それは、教養ある会話のきっかけだった。
だが、グリゼルダには「知識」がない。
彼女にとって、ドレスは「自分が着て輝くための布」でしかなく、背景にある文化や歴史などどうでもよかった。
彼女は、無知を悟られる恐怖を、攻撃で隠した。
「知りませんわ!そんなカビ臭い田舎の伝統なんて!私はただ、いっっっちばん高い店で、いっっっちばん高い布を使わせただけですもの!伝統だの祈りだの、私の美しさの前では霞んでしまいますわ!」
伯爵夫人の笑顔が凍りついた。
周囲の空気が、急速に冷えていく。
それは「失礼」というレベルを超えていた。
文化への冒涜。相手の知性への唾棄。
さらに、ダンスの時間。
彼女はステップを間違えたパートナーの男を、曲の途中で突き飛ばし、大声で罵倒した。
「どこを見ているの!私の足を踏むなんて!これだから三流は困るのよ。もっと私に見合う動きをしなさい!練習してきたの? 私という至宝に触れる覚悟が足りないんじゃないの!?」
音楽が止まった。
男は恥辱に顔を歪め、謝罪して逃げるように去っていった。
その後、誰も彼女をダンスに誘わなくなった。
グリゼルダは、壁際でグラスを握りしめ、独り言を呟いていた。
『……なぜ? なぜ誰も来ないの?私が一番美しいのに。私が一番輝いているのに。この界隈の人たちは、みんな、私のオーラに気圧されているのね。臆病者たち』
私は、彼女の耳元で囁きたかった。
(違うわよ、グリゼルダ。アンタは「外見」がいいんじゃない。「顔」がいいだけよ。社会における「外見(外に見える部分)」とはね、顔、服装、姿勢、言葉遣い、教養、そして「他者への配慮」……そのすべての総体なの。アンタは、中身が腐った綺麗な果実。一口かじれば、誰もが吐き出して捨てるわ)
彼女は、自分の「性格の悪さ」と「頭の悪さ」が、自身の「商品価値」をマイナスにまで暴落させていることに、全く気づいていない。
彼女にとっての人生は、
『私が輝く』→『他人が離れる』→『周りが悪いと結論づける』
という、破滅への永久機関だった。
25歳。
まだ彼女にはチャンスがあった。
その美貌に騙された、何人かの「救い手」が現れたのだ。
だが、彼女はその全てを、自らの手で握りつぶした。
大金持ちの貿易商がいた。彼は誠実な男だった。グリゼルダに求婚し、世界中の珍しい宝石を贈った。
「君を幸せにしたい。世界中を旅して、君の知らない広い世界を見せてあげたい」
『……は? 私に旅をさせる? 私が無知だと言いたいの?
それに、金で私を買おうとするなんて下品だわ。この男、私の美貌をトロフィーにして、自分のステータスを上げたいだけでしょ?私を搾取しないで!』
公衆の面前で、贈られた宝石を地面に叩きつけ、「私を侮辱するな」と罵
天才肖像画家がいた。彼はグリゼルダの「陰のある美しさ」に惹かれた。
「君を描きたい。君の中にある、孤独と渇望をキャンバスに表現したいんだ」
『孤独?渇望?ふざけないで。私は満たされているわ。完璧な存在よ。この男、私の美しさに嫉妬しているのね。私を「哀れな女」として描いて、自分の芸術性をアピールしたいだけ。私が素材?笑わせるわ。主役は画家じゃなく私よ!嫉妬してるくせに!』
私は頭を抱えた。
彼女は、他人の好意をすべて「攻撃」として変換している。
自分に自信がないからだ。
中身が空っぽであることを、深層心理のどこかで知っているからだ。
だから、他人が自分に近づくと、「中身を見透かされるのではないか」「利用されるのではないか」という恐怖が先に立ち、先制攻撃をしてしまう。
そして、最大の悲劇が訪れる。
隣国の第三王子が、お忍びで王都に来ていた際、公園で一人泣いているグリゼルダに声をかけたのだ。
王子は、絵本から抜け出たような美青年だった。
優しく、聡明で、すべてを持っていた。
彼はハンカチを差し出し、微笑んだ。
「美しい方が涙を流すのは、世界の損失です。何かお困りですか?」
【これは、人生最大にして最後の「逆転のチャンス」だった。この手を取れば、彼女は救われたかもしれない。】
だが。
グリゼルダは、王子の顔を見た瞬間、凍りついた。
彼があまりにも眩しかったからだ。
自分にはない「本物の気品」。
自分にはない「余裕」。
自分にはない「愛される自信」。
彼は、努力し、学び、他者を愛することで得た「本物の輝き」を纏っていた。
対して、グリゼルダにあるのは「メッキの輝き」だけ。
彼女の歪んだプライドは、これを「好意」ではなく、「究極のマウント」と認識した。
『……何よ、その笑顔!恵まれた環境に生まれて、苦労も知らずに育ったくせに!私を「可哀想な女」として見て、優越感に浸っているのね?そのハンカチは、私への慈悲?施し?ふざけないで! 私を見下すな!!アンタみたいな「持ってる奴」が、一番嫌いなのよ!!』
彼女は、王子の手を弾いた。
そして、顔を歪めて叫んだ。
「消えろ!偽善者!その綺麗な顔の裏で、私の不幸を笑ってるんでしょ!あんたなんかより、私の方がずっと高貴で、ずっと苦しんでいるのよ!」
王子は驚き、そして悲しげに眉を下げて去っていった。
「……残念だ。君の心は、冬……」
グリゼルダは、去っていく王子の背中に向かって、石を投げた。
「私の方が上よ! 私の方が偉いのよ!!」
私は、その場に崩れ落ちそうになった。
(……なんてこと)
彼女は、相手を受け入れて自分が幸せになることよりも、「相手を見下して優位に立つこと」を選んだのだ!
目の前に垂らされた蜘蛛の糸を、自らの手で焼き切ったのだ!
これはもう、性格の問題ではない。
「幸福になる能力」の欠損だ。
30代。40代。
転落は加速する。
誰も彼女を相手にしなくなった。
親が死に、遺産で食いつないでいるが、屋敷の手入れをする金も気力もない。
私は、彼女の生活空間の変化を早回しで見た。
豪華だった屋敷が、徐々に「ゴミ」で埋め尽くされていく様を。
通販で買ったダイエット器具。
一度しか着なかった派手な服。
読みもしない自己啓発本。
腐った食べ残し。
枯れた花。
彼女は捨てられない。
「これは高かったのよ」
「これはいつか使うのよ」
「これは私の価値の証明よ」
物への執着は、過去の栄光への執着と同じだ。
部屋の惨状は、彼女の脳内そのものだった。
整理整頓ができない。
何が必要で、何が不要か判断できない。
ただ、感情の赴くままに買い込み、散らかし、腐らせる。
彼女は、一日中、曇った鏡の前に座っていた。
厚化粧をして、鏡の中の自分に話しかける。
「この界隈は、みんなバカばかり」
彼女は、日々の些細な出来事を、すべて「自分への攻撃」か「自分への嫉妬」として解釈し、ノートに書き殴っていた。
『○月×日。隣の家の犬が私に吠えた。飼い主が私を嫌わせるように躾けたに違いない。訴えてやる』
『○月△日。雨が降った。私が新しい靴を履いた日に限って降る。天候さえも私に嫉妬している』
被害妄想は、もはや病的な領域に達していた。
彼女の中では、世界中のすべてが敵であり、自分だけが悲劇のヒロインだった。
そのノートの文字は、筆圧が強すぎて紙が破れ、インクは黒く滲んでいる。
それは文字というより、呪詛だった。
エラーラの声が、通信機から聞こえる。
『ナラ君。聞こえるか。魔力濃度が上昇している。彼女の体内に、消化されなかった負の感情がヘドロのように蓄積し、臨界点に達しようとしている。……これは、もはや人間ではない。人間の皮を被った、怨念の爆弾だ』
そして、運命の昨日。
50歳になったグリゼルダ。
彼女は、いつものように厚化粧をして、スーパーへ出かけた。
そこでの出来事は、私が知っている通りだ。
店員をいじめ、私に嫌味を言い、そして私に無視された。
彼女が屋敷に帰った後の光景を、私は見た。
これが、決定的な崩壊の瞬間だ。
彼女は、濡れた傘をゴミだらけの床に投げ捨て、狂ったように叫んだ。
「なんでよ!なんであんな小娘が!男を囲って、楽しそうに笑って、私を『可哀想な人』みたいな目で見るのよ!」
彼女は、鏡台の前に座り込んだ。
鏡に映るのは、化粧が崩れ、皺だらけで、ドブのような目をした老婆。
「……違う。これは私じゃない!」
彼女は震える手で、口紅を何度も何度も何度も何度も塗り直した。
赤く。もっと赤く。
口の周りが血まみれのように染まる。
それは化粧ではない。
「私はまだ女だ」「私はまだ現役だ」と世界に証明するための、哀れなマーキングだ。
「私は美しい。私は特別。私は……私は……」
彼女は、アルバムを開いた。
若き日の自分。輝いていた自分。
王子様の手を振り払った、あの日の自分。
「あの時……もし、あの手を取っていれば?」
一瞬、彼女の脳裏に「後悔」という名の正気がよぎった。
もしあの時、素直になっていれば。
もしあの時、自分の弱さを認めていれば。
今頃、誰かと笑い合って生きていたかもしれない。
だが、彼女の肥大化したプライドは、それを許さなかった。
50年間積み上げた「私は正しい」という石垣を、今さら崩すことはできない。
それを認めてしまえば、彼女の人生は「無意味なゴミ」になってしまうからだ。
だから彼女は、最後の防衛本能として、現実を殺した。
「私は間違ってない!あいつらが悪いのよ!王子も、画家も、社会も、あの探偵の女も!みんなバカで、無能で、私の周りは!価値を理解できないクズばかり!」
彼女は、アルバムを抱きしめた。
その瞬間。
彼女の体内で、何十年もかけて圧縮され、腐敗し、ドロドロに溶けた「自尊心」という名の汚泥が、化学反応を起こした。
彼女の体から、赤い炎が噴き出した。
それは熱くない。冷たい炎だ。
物理的な燃焼ではない。
行き場を失った自我が、物理エネルギーへと変換されたのだ。
「誰か私を見て……!」
彼女の意識が、肉体を離れていく。
拡散しようとするエネルギーを、彼女の歪んだ精神が、強引にねじ伏せる。
『他人を見るなんて許さない!』
『この輝きは、この熱は、私だけのもの!』
『上へ……もっと上へ……神の領域へ……!』
彼女は、天井を見上げた。
その目は、もう何も見ていなかった。
「神様!私を見なさい!私が!ここにいるのよ!世界中が無視しても、あなただけは私を直視しなさい!」
オォォォォォォォォォォォォォンッ!!!!!
彼女の肉体が弾け飛んだ。
屋敷が、ゴミが、思い出が、すべて素粒子レベルで分解される。
そして、その莫大なエネルギーは、彼女の「拒絶」の意志に従い、針のように細く、槍のように鋭く、天へと突き刺さった。
私は、その爆発の瞬間に立ち会った。
あまりにも惨めで、孤独で、誰にも理解されない、「自爆」だった。
視界が白く染まり、私は現在へと引き戻された。
「……はぁ、はぁ……!」
私は、装置のヘッドギアをかなぐり捨て、その場に嘔吐した。
胃の中には何もない。吐き出したのは、精神的な汚泥だ。
「……お帰り、ナラ君」
エラーラが、静かにタオルを渡してくれた。
「……」
私は口元を拭った。
グリゼルダの人生には、劇的な悲劇も、巨悪による陰謀もなかった。
ただ、「素直になれない」「勉強しない」「感謝しない」という、小学生でも直せるような欠点が、何十年も放置され、腐り、癌化し、最後は宿主を殺しただけだ。
「彼女は爆弾じゃないわ」
私は、更地の中心に残る、炭化した遺体を見た。
「『膿』になったのよ。潰すことも、薬を塗ることもせず、ただ、いじくり回して悪化させ、最後は破裂した」
死傷者、ゼロ。
それが、答えだ。
彼女の人生は、ひとりでに膨れ上がり、そうして、ひとりでに弾けた。
「……」
私は、真紅の拒絶塔が消えた青空の下、ボロボロの体で歩き出した。
グリゼルダの遺体は、警備隊によって無造作に袋に詰められ、運び出されていく。
私は背を向けた。
彼女の人生には、教訓も、涙も、共感も必要ない。
ただ、忘却されることだけが、彼女に残された唯一の救いなのだから。




