第2話:孤独な猛獣(2)
王都の正午。
私は、王都第4区のメインストリートを歩いていた。
手には、エラーラに頼まれた研究資材が入った鞄。
ヒールの音が、カツン、カツンと、規則正しいリズムで響く。
すれ違う馬車の車輪の音、露天商の呼び込みの声、遠くの教会が告げる鐘の音。
それらは全て、平和という名の退屈で、しかし愛すべき日常そのものだった。
私は、ふと、足を止めた。
靴紐が解けたわけではない。
野生の勘――いや、私の細胞の一つ一つが、唐突に「死」を感知したからだ。
「……」
私は、空を見上げた。
雲ひとつない青空。
だが、その青の向こう側で、何かが「割れる」気配がした。
音ではない。
気圧の急激な変動による、耳の奥の痛み。
そして、世界から色が抜けたような、奇妙な彩度の低下。
次の瞬間。
世界が、赤に塗り潰された。
予備動作も、警告も、詠唱の時間もなかった。
私の視界の端、数ブロック先の下町エリアから、それは唐突に出現した。
オォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォォンッ!!!!!
言葉では表現できない。
それは爆発音という概念を超えていた。
大気そのものが裂け、空間が悲鳴を上げ、物理法則が崩壊する、断末魔。
鼓膜が一瞬で麻痺し、音のない世界で、衝撃波が私の体を襲った。
「あ……!?」
私は咄嗟に全身の筋肉を硬直させて防御姿勢を取った。
地面が波打った。
堅牢な石畳が、まるで液体のように隆起し、砕け、弾け飛ぶ。
強烈な暴風が、横薙ぎに私を叩いた。
私の体は、意思とは無関係に宙へ舞い上げられた。
視界が回転する。
青い空、赤い光、灰色の瓦礫、そしてまた空。
スローモーションのように、周囲の風景が崩壊していくのが見えた。
レンガ造りの建物が飴細工のようにひしゃげ、屋根が剥がれ飛び、街路樹が爪楊枝のように折れていく。
馬車が空を飛び、逃げ惑う人々の姿が塵芥のように舞う。
「……っ、ぐ、ぅ……!」
背中に衝撃。
私は民家の二階の壁を突き破り、リビングルームを転がり、家具をなぎ倒し、さらに反対側の壁を突き破って、裏通りへと放り出された。
無数の瓦礫と共に、私は地面に叩きつけられた。
衝撃。痛み。そして、熱。
思考が白濁する。
だが、私の生存本能は、意識を手放すことを許さなかった。
ここで気絶すれば、瓦礫の下敷きになって死ぬ。
「……ッ、あああああぁ……ッ!」
私は、血の味をごくりと飲み込み、瓦礫の山から這い出した。
ドレススーツはボロボロに裂け、肌はガラス片で切り裂かれ、血が滲んでいる。
左腕が痺れている。だが、動く。
肺に砂埃が入る。咳き込む。
私は、霞む視界を拭い、顔を上げた。
そして、目の前に広がる光景に、呼吸を忘れた。
王都が、死んでいた。
そこは、数秒前まで私が歩いていた平和な通りではなかった。
大規模な戦略魔法による空爆を受けた直後の戦場。いや、それ以上だ。
視界に入る全ての建物が半壊、あるいは全壊している。
窓ガラスは一枚残らず粉砕され、道路は陥没し、水道管が破裂して水柱が上がっている。
だが、何よりも異様なのは、その破壊の中心にある「それ」だった。
『塔』だ。
レンガや石でできた塔ではない。
純粋なエネルギーの奔流。
血のように赤く、マグマのようにドロドロとした高密度の光の柱が、大地から天に向かって、定規で引いたように垂直に伸びていた。
その高さは、雲を突き抜け、はるか成層圏に至るほど。
太さは、屋敷ひとつ分ほどだろうか。
圧倒的な質量の魔力の爆炎が、周囲に拡散することなく、ただひたすらに「上」を目指して噴出している。
真紅の光は、太陽の光すら遮り、王都全体を赤い色に染め上げていた。
その光景は、大地が流す血の涙か、あるいは神に向かって突き立てられた中指のようだった。
「……なによ、これ」
私は呆然と呟いた。
戦争?侵略?
いや、違う。軍隊の影はない。
ただ、あの「赤い塔」だけが、この破壊の根源としてそこに存在している。
「……ナラ君ッ!」
瓦礫の山から、声がした。
見れば、白衣を煤だらけにし、頭から血を流したエラーラ・ヴェリタスが、巨大な魔導計測器を抱えて這い出してきたところだった。
彼女もまた、この衝撃波に巻き込まれたのだ。
「お母様……生きてたのね」
「私の安否などどうでもいい!見たまえ、あのエネルギー反応を!」
エラーラは興奮と恐怖が入り混じった表情で、赤い塔を指差した。
彼女の眼鏡は割れ、白衣は破れているが、その目は科学者としての冷徹な観察眼を失っていなかった。
「計測不能!測定器の針が振り切れている!これは核融合炉のメルトダウン……いや、恒星の崩壊エネルギーに匹敵する!だが、……おかしいんだ!物理的におかしいのだよ!」
エラーラは、瓦礫を踏みしめながら叫んだ。
「これほどのエネルギーなら、王都は地図から消滅しているはずだ。クレーターの直径は数キロ、いや数十キロに及ぶはずなんだ。なのに、なぜ爆風と衝撃波だけで済んでいる?なぜ、エネルギーが『横』に広がらず、『縦』にだけ伸びているんだ!?」
エラーラは、空を指した。
赤い塔は、大気圏を突破し、宇宙空間にまで到達しているように見えた。
「異常だ。自然界の爆発ではない。爆発のエネルギーのベクトルが、何らかの強烈な意志によって『指向性』を持たされている。……ナラ君。私はこの現象の『中心』に何があるのか、確かめねばならない」
「ええ。……行きましょう」
私は鉄扇を握り直した。
全身が痛むが、アドレナリンが痛覚を麻痺させている。
この惨状を引き起こした原因。
私の野生の勘が、最悪の答えを囁いていた。
あの場所は。
あの赤い塔が立っている場所は。
昨日、私が通りかかった、あの女――グリゼルダの屋敷があった場所だ。
私たちは、地獄絵図と化した通りを抜け、爆心地へと急いだ。
逃げ惑う人々を逆流し、熱源の中心へ。
阿鼻叫喚。
瓦礫の下から助けを求める手。血まみれで彷徨う老人。
王都警備隊が到着し始めているが、彼らもまた、天を衝く赤い柱の威容に飲まれ、立ち尽くしているだけだった。
「どきなさい! 専門家よ!」
私は警備兵を押しのけ、規制線の内側へと入った。
近づくにつれ、肌を刺すような熱気が増していく。
酸素が薄くなり、呼吸が苦しくなる。
だが、不思議なことに「火事」は起きていなかった。
これだけの熱量なら、周囲は火の海になっているはずだ。
それなのに、炎は一本も見当たらない。
ただ、圧倒的な「圧力」だけがそこにあった。
私たちは、ある一画の前に立った。
そこには、あまりにも不自然な境界線があった。
隣の家の塀は、爆風で崩れているものの、焦げてはいない。
庭の草木も、屋敷の方を向いている面だけが枯れているが、燃えてはいない。
だが、一歩その敷地の中に入ると――そこは、完全なる「無」だった。
屋敷も、庭木も、門扉も、郵便受けも。
昨日までそこにあった生活の痕跡すべてが、原子レベルで分解され、消滅していた。
地面は赤熱したガラス状に変質し、巨大な円形のクレーターとなっている。
その中心から、あの赤い光の柱が、轟音と共に噴き出しているのだ。
「フム……。理解したよ」
エラーラが、計測器のデータを読み取りながら唸る。
「これは、通常の爆発ではない。エネルギーが、完全に制御されている。横への拡散を極限まで抑え、すべてのエネルギーを『垂直方向への上昇』のみに変換しているのだ」
エラーラは、天を見上げた。
赤い柱は、空を焼き焦がしながら、どこまでも高く伸びている。
他国の天文台からも観測されたというその光は、まさに「天を衝く槍」だ。
「これはおそらく、『拒絶』だ」
エラーラが断言した。
「『周りのものなんてどうでもいい』『誰も私に触れるな』『私の情熱は、私だけのためにある』……そんな、極めて利己的な精神性が、物理法則をねじ曲げている」
「精神性が、爆発の形を変える?」
「魔力とは本来そういうものだ。術者の意志が形になる。通常、感情の暴走による魔力放出は拡散する。それが自然の摂理だ。だが、このエネルギーは拡散を拒んでいる。世界と交わることを拒否し、ただ自分一人で完結し、神にだけ自分を見せつけようとしている。……これは、孤独な魂の絶叫だよ」
私は、クレーターの縁に立った。
熱い。魂が焼かれるような熱気だ。
だが、それは攻撃的な熱さではなく、触れる者すべてを拒むような、冷徹な熱さだった。
「……死傷者は?」
私は周囲を見渡した。
これだけの破壊だ。何百人が死んでいてもおかしくない。
だが、瓦礫の下から這い出してくる人々は、血を流してはいるものの、生きている。
私は呟いた。
「誰も死んでいない!この爆発、本当に『敷地内』だけで完結している!」
王都の半分を吹き飛ばすほどのエネルギーを放出しながら、紅蓮の大爆発は、誰一人として「道連れ」にしなかった。
……いや、できなかったのだ。
誰にも影響を与えず、誰とも交わらず、勝手に爆発し、勝手に天へ昇っていった。
「……そこに、誰かいる」
光の柱が、徐々に弱まり始めていた。
燃料が尽きたのだ。
赤い光が薄れると、クレーターの中心に、黒い塊が見えた。
私たちは、まだ煙を上げる熱い地面を踏みしめ、中心へと降りた。
そこには、炭化した遺体があった。
グリゼルダだ。
彼女は、何かを大事そうに抱きしめる姿勢で、空を見上げたまま固まっていた。
その顔は判別できないほど焼けているが、大きく開かれた口は、最期に何かを叫んでいたように見える。
『私を理解して』
そんな、悲痛な自己顕示の叫びが、炭になった喉から聞こえてくるようだった。
「……哀れなものね」
私は、その骸を見下ろして呟いた。
「あれだけ『周りのレベルが低い』とか『私が正してあげる』とか言ってたのに。死ぬ時まで、他人を巻き込む才能すらなかったなんて」
火柱が完全に消滅すると、空にはぽっかりと穴が開いたような青空が戻ってきた。
不自然なほど静かな爆心地。
風が吹き抜け、灰が舞い上がる。
そこで、エラーラが遺体の足元に落ちていた「何か」を拾い上げた。
「おや。これだけ燃え残っているよ」
それは、一冊のアルバムだった。
分厚い革張りの表紙は黒く焦げているが、グリゼルダの遺体が覆いかぶさっていたおかげか、中身は奇跡的に無事だった。
彼女が最期の瞬間に抱きしめていたのは、宝石でも金でもなく、このアルバムだったのだ。
「……写真?」
私は、熱を帯びたページをめくった。
そこには、一人の女性の人生が、鮮明なカラー写真で記録されていた。
最初のページ。
裕福そうな庭で微笑む、幼い少女。
レースのドレス、高価な玩具。両親に愛され、世界は自分を中心に回っていると信じて疑わない笑顔。
次のページ。
10代の彼女。
……美しい。
思わず息を呑むほどだ。
輝くような金髪、透き通るような肌、意思の強そうな大きな瞳。
学園の制服を着た彼女は、間違いなくクラスの女王だっただろう。
取り巻きたちに囲まれ、自信満々に顎を上げている。
だが、その手に教科書はない。
そして、20代の頃の写真で、私の手は止まった。
「……嘘でしょ? これがあの人?」
そこに写っていたのは、今の王都の社交界でもトップクラスになれるほどの、絶世の美女だった。
舞踏会のドレスを着こなし、夜会でグラスを傾ける姿は、絵画のように完璧だ。
スタイルは抜群で、男たちが彼女に群がっている様子も写っている。
背後には、豪華な屋敷、高級馬車、煌びやかな調度品。
彼女の隣には、当時の有力者と思わしき男性たちが写っているが、グリゼルダは彼らをどこか冷めた目で見ている。
彼女は、持っていたのだ。
誰もが羨む美貌を。富を。地位を。
人生の全てを手に入れるための「最強のカード」を、彼女は生まれながらに持っていた。
私なんかよりもずっと、イージーモードの人生を送れるはずだった。
「おかしい……」
私はページをめくる手を早めた。
30代。
まだ美しい。だが。……だが!何かが変わり始めている!
目つきだ。
カメラを見る目が、どこか攻撃的で、焦燥感に満ちている。
集合写真から人が減り、一人で写る写真が増えていく。
笑顔が消え、作り笑いのような、引きつった表情になる。
40代。
厚化粧が始まる。服が派手になり、若作りが痛々しくなる。
背景が、徐々に散らかり始める。
豪華だった屋敷が、物で溢れ、薄暗くなっていく。
彼女の表情からは「自信」が消え、「不満」と「怨嗟」が張り付いている。
周りには誰もいない。
ただ一人、カメラに向かって「私はまだ美しいでしょう?」と問いかけるような、必死な自撮り。
そして、最後のページ。
昨日の日付が入った写真があった。
鏡越しの自撮りだ。
背後には、ゴミ屋敷のように物が積み上がった部屋。
鏡に映る彼女は、昨日私がスーパーで見かけた時と同じ、ドブのような目で笑っていた。
しかし、その目は笑っているようで、泣いているようにも見えた。
写真の裏には、震える文字でこう殴り書きされていた。
『世界はまだ、私の真価に気づいていない』
寒気が、した。
憐れみではない。恐怖だ。
これは、人間の「腐敗」の記録だ。
肉体の老化ではない。精神が、魂が、年月をかけてじわじわと腐り落ち、毒素を溜め込み、最後に臨界点を超えて爆発するまでの、詳細なドキュメント。
「……なぜ?」
私は、炭化した遺体を見つめた。
なぜ、これほどのスペックを持った人間が、あんな核爆発のような最期を迎えた?
何が彼女を狂わせた?
どの分岐点で、彼女は「幸せ」ではなく「正しさ」を選び、道を間違えた?
誰からも好かれそうな顔とスタイルを持っていながら、なぜ全てを嫌い、全てから嫌われたのか。
昨日、彼女は私に言った。
『私の若い頃の武勇伝、もっと聞かせてあげるから』
その言葉の裏にあったのは、ただの自慢話ではない。
彼女が自分自身に言い聞かせ続けた、呪いのような「自己正当化の歴史」だ。
「……知りたいわ」
私はアルバムを閉じた。
探偵としての好奇心が、うずいた。
この大爆発の原因は、魔法的な事故ではない。
一人の人間の人生設計の破綻が引き起こした、構造的な災害だ。
「ナラ君?」
エラーラが私を見る。
「単なる興味よ。そう、興味。こんなに恵まれた女が、どういう工程を経て、自分自身を核爆弾に変えたのか。その『製造過程』を、この目で確認したい」
これは、私自身の生き方に対する、確認作業だ。
私もまた、強く、美しく、孤高に生きているつもりだ。
だが、一歩間違えれば、私も彼女のようになるのではないか?
「孤高」と「孤立」の違いは何か。
「自尊心」と「傲慢」の境界線はどこにあるのか。
彼女の人生には、絶対に踏んではいけない地雷の場所が記されているはずだ。
「お母様。過去を見てくるわ。『クロノ・シリンジ』……貸して」
「……使うのかね?」
エラーラは、割れた眼鏡を外し、煤けた顔でニヤリと笑った。
「言っておくが、快適な旅ではないぞ。彼女の人生は、おそらく地獄だ。一人の女が、自分のプライドを守るために、自分自身の人生を殺し続ける、地獄だ」
「構わないわ」
私は、アルバムをエラーラに渡した。
「見るわ、あたしは。彼女が何を拒絶し、何に固執し、どうやって腐っていったのか。その全てを目撃して、あたしの生存戦略の糧にしてやる」
「よかろう。では、ここを臨時のラボとする。グリゼルダの残留思念濃度は極めて高い。今なら、鮮明にダイブできるはずだ!」
私たちは、更地になった屋敷跡に、即席の魔導陣を描いた。
エラーラが、携帯型の魔導端末を取り出し、アルバムに接続する。
装置が唸りを上げ、空間が歪み始めた。
私は、過去へ飛んだ。




