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ヴェリタスの最終定理2 ナラティブ・ヴェリタス  作者: Wan Liyue 王璃月
孤独な猛獣

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第1話:孤独な猛獣(1)

王都は、梅雨。

石畳は黒く濡れ、路地裏からは生活の澱のような臭気が立ち上っていた。

私、ナラティブ・ヴェリタスは、手提げを持ち、傘を差し、下町の大通りを歩いていた。

今日の戦利品は、特売の赤玉卵1パックと、少し筋はあるが色のいい牛肉の塊。そして、季節外れの梨が二つ。

私の頭の中は、今夜のメニューをどうするかという、極めて平和で実利的な計算で満たされていた。

いつものスーパーマーケットの前を通り過ぎようとした時だった。


「――だから! 私が言っているのは『常識』の話でしょう!?」


店の中から、鼓膜をやすりで削るような、甲高くヒステリックな声が響いてきた。

私は足を止めた。

野次馬根性ではない。その声の主が、近所で有名な「あの人」だと気づいてしまったからだ。

自動ドアの向こう、レジカウンターの前。

そこに、彼女はいた。

グリゼルダ。

この下町に古くからある屋敷に一人で住む、独身の中年女性だ。

彼女は今日も、華やかな、時代遅れなブラウスを着ていた。厚塗りのファンデーションは湿気で浮き上がり、口紅は血のように赤い。

かつては美しかったであろう顔立ちは、長年積み重ねられた不満によって歪み、眉間には深い縦皺が刻まれている。

彼女は今、年若い女性店員を吊るし上げていた。


「い?あーたね?あしがこの卵をどッッッんだけ慎重に選んだと思ってんの?それをあーた重たい牛乳パックの下に入れるなんて、モ!信じらんないわ!割れたらどーするの?責任取れるの?あーしが言ってるのはね!割れるかどうかの問題じゃないの。私に対する『配慮』が足りないって言ってんのよ!」


店員は泣きそうな顔で頭を下げている。


「も、申し訳ございません……すぐに詰め直します……」


「謝るだけなら猿でもできるわよ。あーしが言ってるのはね、あーたの『心構え』の話なの。お客様の商品を預かるッッッ!……というプロ意識が欠けているのよ。だーもーい!もーい!もい!私がやるから。……ほら、見てなさい。こうやって、ほら、重いものをね、下にね、軽いものをね、上にね。これが『美学』よ。そ。これ。そーこれ。ね。ほら。これが『教育』なの。感謝なさい。本来ならね、お金を払って受けるようなね、私の指導をね、あなたはタダで受けられたんだからね」


グリゼルダは、店員の手からカゴを奪い取り、これ見よがしに袋詰めをやり直した。

その手つきは確かに手慣れていたが、一つ一つの動作に「私は正しい」「私は優れている」「お前は駄目だ」という無言の圧力が込められており、見ているだけで胃もたれしそうだった。

店内の客たちは、皆、関わり合いにならないように視線を逸らしている。


「また始まったよ」


「グリゼルダさんだ」


「可哀想。新人の子……」


そんな囁きが、雨音に混じって聞こえてくる。

グリゼルダは、完璧に詰め終わった袋を満足げに眺めると、店員に向かって憐れむような笑みを浮かべた。


「ふぅ……疲れるわ。どうしてこの街には、私のように『まとも』な人間が少ないのかしら。どこの界隈に行っても馬鹿ばっか。この世界、私よりまともな人はいないみたいね、まったく……」


彼女はコツコツとヒールを鳴らし、店を出てきた。

そして、店の前で傘を差していた私と、バチリと目が合った。


「……あら。ナラティブさんじゃない」


グリゼルダの声色が、瞬時に変わった。

ヒステリックな金切り声から、粘り気のある、猫なで声へ。

それはまるで、獲物を見つけたヒルが鎌首をもたげるようだった。


「こんにちは。グリゼルダさん。お買い物ですか。」


私は極めて事務的に挨拶した。


「ええ、そうなのよ。でもねぇ、今の店員、本当に酷くて。あしがやーしく教えてあげたのに、ふてッくされた顔をして……。本当に、最近の若い子はどーにかしちゃってるわよ。『感謝』ってものを知らないわよねぇ」


彼女は、私の同意を求めて距離を詰めてくる。

強烈な香水の匂いが鼻をつく。薔薇の香りだが、時間が経って酸化したような、腐った果実のような甘ったるい悪臭だ。


「まあ、教育も、大変、ですね。」


私は適当に流し、歩き出そうとした。

しかし、グリゼルダは私の行く手を塞ぐように、並んで歩き始めた。


「そーなのよんンンン!私ってね!ほら!放っておけない性分でしょう?そ。ダメなものを見ると、つい『正してあげなきゃ』って思っちゃうの。それが私の優しさなのよねぇ……」


彼女は陶酔したように語る。

「放っておけない性分」? 違う。

単に他人の粗探しをして、マウントを取りたいだけだ。

「優しさ」? 違う。

自分の鬱憤を、正義という包装紙で包んで他人に投げつけているだけだ。

時間という可能性や、信頼という可能性を捨てて、自腹を切って、わざわざ嫌がらせをしているだけだ。


私たちは、雨の降る大通りを並んで歩いた。

彼女の家は、私の住むケンジ獣病院のすぐ近くだ。逃げ場はない。


「ところで、ナラティブさん」


グリゼルダが、ぬめっとした視線を私のエコバッグに向けた。


「今日は豪勢なお買い物ねぇ。牛肉?……ふうううん。まーた、あの『居候たち』に食べさせるの?」


彼女の言う「居候」とは、エラーラのことだ。


「あンの白衣の変な科学者と?ナラティブさんも大変ねぇ。あんな『金食い虫』たちを養って。私なら、モ!……耐えられないわ。だてそーでしょーーーング?女の幸せって、誰かに守られることでしょう?それなのに、あーたが男みたいに働いて、家族ごっこを支えて……。なんだかモ!見ていて涙が出てくるわ!」


グリゼルダは、ハンカチで目元を抑えるフリをした。

その言葉の裏には、「あなたより私の方が、女としての幸せの定義を知っている」という選民意識と、「なぜあんな男勝りな女が、楽しそうに暮らしているのか」というドス黒い嫉妬が渦巻いている。


「あたしは、好きでやってますから。」


私は短く答えた。


「ンモーーーんぐ!強がらないでいいのよぉ。あーしには分かるわ!あーた本当は寂しいでしょ?ね?素敵な旦那様を見つけて、可愛い奥様になりたい……そう思ってる顔よ!」


グリゼルダは、私の顔を覗き込んだ。

彼女の目は、笑っていなかった。

黒い瞳の奥に、泥沼のような暗い光がある。


「あーしもね、ずっと探しているの。あーしのこの『他人に尽くす心』を受け止めてくれる、器の大きな殿方を。若い頃はね、それはもうね、引く手あまただったのヨン?大商人の息子さんとか、有名な画家さんとか……みーんな私に夢中だったわ。でもねぇ、どの方も『浅かった』の。私の外見ばかり褒めて、内面の『深さ』を理解してくれなかった。だから、私からお断りしたのよ!」


それは、この界隈で有名な、彼女の鉄板ネタだった。

『私はモテたが、相手のレベルが低かったから選ばなかった』。

この街の誰もが、グリゼルダの哀しき「虚言」と理解している。

この物語ナラティブを守ることで、彼女は今の孤独を正当化しているのだ。


「でもね、最近思うのよ。妥協も必要だったのかしらって。……ねえ、ナラティブさん。あーた、若い男の子とか囲ってるんでしょ?噂で聞いたわよ。よく出入りしている、パン屋の男の子とか」


「あれはただのストーカー被害です。」


「あらあら、照れちゃって。いいわねぇ、若さって。でも気をつけてね。男なんて、所詮は女を利用する生き物なんだから。あーしみたいに『本物を見る目』を養わないと、痛い目、見るわよーーーん?」


彼女は、私を心配するフリをして、私の人生に泥を塗ろうとしている。

私が不幸になれば、彼女は安心するのだ。

『ほら見なさい、やっぱり私は正しかった』と。

私たちは、ケンジ獣病院の前まで来た。

ここが、分岐点だ。


「じゃあ、あたしはここで」


私が背を向けると、グリゼルダは私の背中に向かって、捨て台詞のように言った。


「……あなた、その強気な態度、いつまで保つかしらね。女が一人で生きていくなんて、無理なのよ。いつか誰からも相手にされなくなって、ボロ雑巾みたいに捨てられるわ。……私みたいに、美しく高潔に生きようなんて思わないことね」



私は立ち止まった。

そして、ゆっくりと振り返った。

高潔なものか。

嫌味をひっきりなしに言い続ける怪物が、ただ、避けられているだけだろう。

グリゼルダは、雨の中で傘を差して立っていた。

その姿は、あまりにも孤独だった。

派手な服も、厚化粧も、彼女の空虚さを埋めることはできていない。

彼女の周りには、目に見えない壁がある。

他者を拒絶し、見下し、自分の殻に閉じこもることで作り上げた、堅牢な城壁。

私は、彼女の目を見た。

そこにあるのは、湿り気のある悪意だけではない。

その奥底にある、悲鳴のような渇望。


『理解者がいない』


彼女は、手を差し伸べられたいだけだ。

彼女は、その手を自分から伸ばすことはしない。

王子様が城壁をよじ登り、跪いて手を差し伸べるのを待っている。

そして、もし誰かが登ってきても、彼女は上から石を落とすだろう。


(……ああ、駄目だ、この人)


私は確信した。

探偵としての直感ではない。生物としての本能が告げている。

彼女は「孤独死」する。

遠くない未来。誰にも看取られず、誰にも惜しまれず。

自分自身のプライドという毒に内側から食い荒らされ、腐り落ちるように死ぬだろう。


「……グリゼルダさん」


私は、今まで一度も言わなかった言葉を、実感を込めて言った。


「ご忠告、どうも。……お元気で」


それは、別れの挨拶だった。

永遠の、別れの言葉。

グリゼルダは、フンと鼻を鳴らした。


「ま!変な子。ま!いいわ。今度、ウチでお茶でもしましょうよ。あーしのね!若い頃の武勇伝、もっっっと聞かせてあげるからン!」


彼女は背を向け、自分の屋敷へと歩いていった。

その背中は、雨に濡れて小さく見えた。

私は、獣病院のドアを開けた。


「ただいま……」


私は、湿った外気を遮断するように、ドアを閉めた。

外では、グリゼルダが一人、冷たい雨の中を、誰もいない城へと帰っていく。


──それが、全ての始まりだった。

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