第2話:顔のない悪魔(2)
王都中央広場は、鮮血と臓物のプールと化していた。
だが、その縁に立つ機動隊は、彫像のように動かない。
彼らは「見ないフリ」をしているのではない。組織の論理において、彼らの視界には「何も映っていない」ことになっているのだ。
獣病院のリビング。
エラーラの持つ、国家非常用回線の端末が鳴った。
表示名は『ゴドウィン警務部長』。
昨日、エラーラの警告を「非科学的だ」と鼻で笑い、追い返した男だ。
エラーラは、冷めた紅茶を一口飲み、スピーカーモードで応答した。
『ヴェリタス女史!どこにいる!』
ゴドウィンの声は、裏返っていた。背景からは、怒号と破壊音が聞こえる。
『広場が大変なことになっている!君の言った通りだ! 化け物だ! 物理攻撃しか効かん!おい、君の研究所には「試作兵器」があるだろう!今すぐ持ってこい! 現場を鎮圧しろ! これは命令だ!』
エラーラは、受話器に向かって、氷点下の声で告げた。
「……お断りだ」
『な、なんだと!? 国家の危機だぞ! 予算を増やしてやる!』
「ゴドウィン。昨日の君の言葉をそのまま返そう。『公式記録では、怪物は3年前に全滅している』。……私の目の前のモニターには、ガス管の事故しか映っていないな。私は科学者だ。『存在しないオバケ』を退治するために、高価な試作兵器を動かすことはできない」
『き、貴様ァァァ!!』
「ガス管と仲良くしたまえ。健闘を祈る」
エラーラは通信を切った。
「……馬鹿が。自分の吐いた唾を飲み込む覚悟もないくせに、人に命令するな」
「でも……お母様!」
ナラティブが叫ぶ。モニターには、地獄が映し出されていた。
警察が動かないせいで、被害は拡大の一途をたどっていた。
カメラは、3つの凄惨な光景を捉えていた。
「お、おい! 助けてくれ! 警官だろ!」
若いカップルが、機動隊員の足元にすがった。すぐ後ろには、ハンマーコアラが迫っている。
だが、隊員は、血しぶきで汚れたシールドを構えたまま、無表情で言った。
「下がってください。ここは立ち入り禁止区域です。……現在、ガス漏れが発生しています」
「ガスなわけあるか!後ろに化け物が!」
「化け物などいません。幻覚です」
ハンマーが振り下ろされた。
カップルは、警官のシールドごと、上から叩き潰された。
警官は、自分の体が「カップルの肉と骨と混ざり合ったペースト」になる瞬間まで、直立不動で「規制線」を守り続けた。
ハンマーコアラは、金属と肉が混ざってプレスされた、奇妙な「人肉サンドイッチ」を踏みつけて通り過ぎた。
「な、なんだこの騒ぎは!」
式典の来賓であった内務省の高官が、SPを押しのけて出てきた。
「おい、そこのウサギ! 演出にしては悪趣味だぞ!」
ヤスリウサギは、その高官を「五月蝿い突起物」として認識した。
彼女は、高官の顔面を鷲掴みにした。
ジョリジョリジョリジョリ……。
ヤスリウサギは、高官の顔を、まるで大根おろしのように、ヤスリに擦り付けた。
鼻が削れ、唇が削れ、眼球が削れ、前歯が削れる。
SPたちは、銃を構えることもしなかった。「部長が演出に参加しているだけだ」と判断し、全員が背を向けたのだ。
数秒後。そこには、「ツルツルに磨き上げられた」、かつて高官だった肉塊が、ビクビクと痙攣して倒れていた。
「来るな!」
数百人の市民が、広場の唯一の出口である大通りへ殺到した。
だが、そこは既に警察車両によって封鎖されていた。
「通せよ!」
「ダメです!この先は取材エリアです! 一般人はここから出られません!」
警官たちは、逃げようとする市民を警棒で殴り、広場へと押し返した。
そこへ、後ろからハンマーコアラが突っ込んできた。
前には警察のバリケード。後ろにはハンマー。
人々は、プレス機の中のゴミのように圧縮された。
ハンマーの一撃で、最後尾の人々が弾け飛び、その圧力で中列の人々が前の人々にめり込む。
一番前にいた人々は、警察車両と群衆に挟まれ、内臓が口から飛び出して圧死した。
警官たちは、窓ガラスにへばりついた「市民だったものの顔」を見ても、眉一つ動かさず、ワイパーを動かして血糊を拭った。
ナラティブは、画面の前で震えていた。
「……あんまりよ。これじゃ、ただの屠殺場じゃない」
エラーラもまた、苦虫を噛み潰したような顔をしていた。
ゴドウィンのようなクズはどうでもいい。警察組織が壊滅するのも自業自得だ。
だが。
画面の隅。
瓦礫の陰で、一人の男が、魔導拳銃を握りしめたまま震えているのが見えた。
カレル警部だ。
彼は、部下が全滅し、上司からは見殺しにされ、それでも市民を逃がそうと、掠れた声で叫び続けていた。
「こっちだ! 逃げろ! ……くそッ、俺を見ろ! 化け物!!」
彼だけが、組織の命令に背き、たった一人で「存在しない怪物」と戦おうとしていた。
死ぬ。
あと数秒で、彼はハンマーで潰されるか、ヤスリで削られる。
エラーラは、舌打ちをした。
「……ナラ。準備しなさい」
「えっ? でも、お母様、断ったんじゃ……」
「警察の依頼は断った。
だが……『友達』が死にそうなのを黙って見ていられるほど、私は落ちぶれちゃいない!」
エラーラは、カレルの私用端末に通信を入れた。
『……ッ、ゴドウィン部長!? 助けてくれ!』
カレルの悲痛な声。
「私だ、カレル。泣くな、みっともない」
『……エ、エラーラか!? 見てくれ! 地獄だ! 全滅だ!
俺はどうすればいい!? 上は……上は『何もするな』としか言わない!』
「知っている。だから、私たちが手を貸す。……カレル。組織のためじゃない。お前が死ぬのが癪なだけだ」
『……すまん。すまん……!』
「謝るな。仕事の時間だ。……カレル。お前の権限で、広場の地下ゲート「第4隔壁」を開放できるか?」
『で、できるが……あそこは「建設中の地下鉄トンネル」だ。まだ開通していない大穴だぞ!』
「それでいい。奴らをそこへ誘導しろ。……お前が囮になれ」
『なッ!?』
「奴らは『音』と『動くもの』に反応する。パトカーでサイレンを鳴らして突っ込め。……死にはしない。私が『計算』した」
カレルは、一瞬沈黙し、そして叫んだ。
『……分かった! 信じるぞ!このクソッタレな世界で、信じられるのはアンタの悪知恵だけだ!!』
カレルはパトカーに飛び乗った。
サイレン全開。アクセル・ベタ踏み。
彼は、組織の命令を破り、大音量で叫んだ。
「化け物ども!俺はここだ!」
パトカーが、血塗られた「人間カーペット」の上を疾走する。
ヤスリウサギとハンマーコアラが、同時に振り返った。
「秩序」を乱す、最大のノイズ。
二匹は、カレルのパトカーに向かって、猛然と「直進」を開始した。
「来るぞ! ナラ!」
カレルのパトカーが、建設現場のフェンスを突き破る。
その先は、深さ100メートルの巨大な縦穴。
カレルは、穴の直前でサイドブレーキを引き、ハンドルを全開に切った。
パトカーは激しくスピンし、縁ギリギリで停止した。
だが、後ろから来た二匹には、ブレーキという概念がない。
ヤスリウサギとハンマーコアラは、そのままの勢いでフェンスを突き破り、虚空へと躍り出た。
二匹の怪物が、空中に浮いた、その瞬間。
「……『補導』の時間よ」
建設現場のクレーンの上。
ナラティブが、巨大なレバーを下ろした。
頭上で待機していたのは、地下鉄掘削用の超巨大シールドマシン。
重量500トン。
先端には、ダイヤモンドカッターの回転刃がついている。
落下するシールドマシンが、空中の二匹を、真上から叩き落とした。
魔導も、再生能力も関係ない。
圧倒的な質量差。
二匹は、巨大な鉄塊と、大地の間に挟まれた「虫」のように、物理的に圧殺された。
縦穴の底で、凄まじい地響きが鳴った。
シールドマシンの回転刃が、二匹の肉体を、骨を、仮面を、コンクリートと共に粉砕し、かき混ぜ、均一な「土砂」へと変えていく。
断末魔すら上がらなかった。
・・・・・・・・・・
翌日。
王都警察本部の記者会見場。
壇上には、ゴドウィン部長と、包帯だらけのカレル警部が立っていた。
ゴドウィンは、沈痛な面持ちで語った。
「……昨日の広場での事故に関し、多大なるご心配をおかけしました。一部で『怪物』などのデマが流れておりますが、事実は異なります」
ゴドウィンは、一枚の報告書を掲げた。
「原因は、地下ガス管の老朽化による爆発事故です。
そして、混乱に乗じて現場に迷い込んだ、『身元不明の未成年者2名』が、工事現場の穴に転落するという痛ましい事故も併発しました」
会場がざわめく。
「未成年者? あの巨人がですか?」
「目撃者の証言と食い違いますが?」
ゴドウィンは、カレルを前に押し出した。
「現場で対応にあたった、カレル警部から説明させます。
彼は、自らの危険を顧みず、その泥酔した若者たちを、パトカーで安全な場所へ誘導しようと尽力したのです」
カレルは、マイクの前に立った。
彼の目は死んでいた。
昨日の地獄。ミンチになった市民。磨り潰された部下。
そして、命を賭けて協力してくれたエラーラとナラティブの存在すらも、今、彼の喉元で「嘘」に変わろうとしている。
(……言え。言うんだ、カレル。言わなければ、お前は終わりだ。組織も終わりだ。そして……協力してくれたエラーラたちまで、『現場を混乱させた犯罪者』として指名手配されることになる……)
カレルは、乾いた唇を開いた。
「……はい。私が……現場で目撃したのは……錯乱した、二人の少女でした。彼女たちは……酔っていて……足元がおぼつかず……。私は……彼女たちを保護しようとしましたが……力及ばず……転落事故を……防げませんでした……」
カレルは、深く頭を下げた。
それは、死者への謝罪ではなく、自らの魂を殺すための儀式だった。
「おお……なんと痛ましい……」
「警部は命がけで市民を守り、若者を救おうとしたのか……」
記者たちが涙ぐみ、拍手が起こる。
ゴドウィンが、カレルの胸に勲章をつけた。
『王都警察功労章』
授与理由:青少年保護育成および、現場における適切な誘導措置に対して
それは、この世で最も薄汚い、銀色の金属片だった。
獣病院のリビング。
ナラティブは、中継を見ながら、無言でテレビのコンセントを引き抜いた。
ブツン。
カレルの死んだ顔が消える。
「……終わったわね」
エラーラは、研究費増額の通知書を見ながら、冷めたピザを齧っていた。
通知書の備考欄には『特ガス管調査』と書かれている。口止め料だ。
「ああ。終わったよ。王都は平和だ。怪物はいない。警察は正義だ。……全て、書類通りだ」
ナラティブは、窓の外を見た。
夕暮れの王都は、昨日と変わらず美しい。
だが、その地下には、握り潰された真実と、ミンチになった怪物の死骸と、組織に殺された正義が埋まっている。
「……カレルさん、泣いてたわね」
「ああ。彼はこれから一生、あの勲章を見るたびに吐き気を催すだろう。だが……彼は生き残った。私たちも、彼のおかげで逮捕されずに済んだ。……『三方よし』というやつだよ」
エラーラは、自嘲気味に笑った。
王都の闇は、怪物よりも深く、粘り気がある。
それは「組織」という名の、顔のない悪意。
「……大っ嫌い。この街も、警察も、大人も」
「奇遇だね。私もだよ」
二人は、薄暗い部屋で、苦いコーヒーを飲んだ。
外からは、パトカーのサイレンが聞こえる。
それは、市民を守るための音ではない。
「何も起きていない」ことを証明するために、空虚に鳴り響く、組織の叫び声だった。




