第5話:夢を追う者(5)
王都の郊外、新興高級住宅地。
その一等地に、ひと際目を引く白亜の豪邸が完成した。
門には、絡み合う二匹の蛇を模した紋章と共に、こう刻まれていた。
『株式会社 Y & R ホールディングス 本社兼邸宅』
そこは、元ナンバーワンホストのユリウスと、元魔導通信の女王リルの「愛の巣」だった。
「素晴らしい……これぞ俺たちの帝国だ」
ユリウスはタキシードに身を包み、ワイングラスを片手に庭を見下ろした。
その隣には、純白のドレスを着たリルが寄り添っている。
「ダーリン。ここから私たちの新しい伝説が始まるのね」
二人は結婚した。
そして、「二人の才能を融合させれば、世界を獲れる」という、なんとも漠然とした、しかし根拠のない全能感の元に、会社を設立した。
事業内容は「トータル・ライフ・プロデュース」。
具体的に何をするのかは決まっていない。
だが、彼らは銀行やリウのコネを使い、莫大な融資を引き出した。
総額、300,000,000クレスト。
しかし、その資金の使い道は、事業への投資ではなかった。
この豪邸の建設費、最高級家具、二人のためのオーダーメイドの衣装、そして毎夜開かれるパーティー費用。
事業が始まる前――いや、事業計画書すら書く前に、資金の8割はすでに溶けていた。
「いいかい、リル。これは『投資』だ」
ユリウスは甘く囁く。
「俺たちは一流だ。一流の環境に身を置かなければ、一流のアイデアは降りてこない。この家は、俺たちのブランド価値を高めるための装置なんだ」
「うん、わかってる!あたしたちは選ばれた二人だもんね。貧乏人とは住む世界が違うのよ」
リルは陶酔していた。
彼女の目には、崩壊寸前の収支決算表は見えていない。
見えるのは、輝かしい未来と、それを約束してくれる頼もしい夫の姿だけだった。
数日後。
ナラとエラーラは、リウの屋敷でお茶を飲んでいた。
「……で? あいつら、何やってるの?」
ナラは呆れたように聞いた。
リウは、最高級の紅茶を吹き出しそうになるのを堪えながら、震える声で答えた。
「け、結婚生活……ですわ。毎日、SNSに『最高の朝食』『夫とのミーティング』という写真をアップしていますの。事業の実体は何一つありませんけれど」
「バカねぇ。まあでも、リルが稼いでるなら大丈夫でしょ。
あの子の魔導通信での収益は凄まじいし、ユリウスもやり手なんでしょ?」
ナラがそう言うと、リウは顔を覆い、肩を震わせた。
抑えきれない笑い声が漏れる。
「……ナラさん。貴女、まだ、ご存じないの?」
「何がよ。」
「リルさん……お仕事を……辞めましたのよ!」
ナラはカップを落としそうになった。
「はあ!?辞めたって……魔導通信も?写真販売も?」
「ええ。全てアカウントを削除しましたわ。彼女、こう言っていましたの。『あたしはもう、あんなふうに体を切り売りしたくない。これからはユリウスの妻として、彼を支えるの。彼が世界的な実業家になるんだから、あたしは優雅に彼の帰りを待つだけの『夫人』になるのよ』……って」
ナラは開いた口が塞がらなかった。
「あいつ正気?自分の稼ぎ頭を捨てて、どうやってあの豪邸のローンを払うつもりなの?」
「ですから!彼女は本気で信じているんですのよ!ユリウスが魔法のように金を稼ぎ出してくると!」
リウはついに耐えきれず、高笑いした。
「アーッハッハッハ!傑作ですわ!彼女は『もう頑張らなくていい』『これからは寄生できる』と思って、命綱を自ら切ったのです!」
ナラは眉をひそめた。
「……まあ、でも。ユリウスがいるから平気なんじゃない?
あいつは『夜の王』なんでしょ?リル一人くらい、養える稼ぎがあるはずよ」
その言葉を聞いた瞬間。
今まで黙っていたエラーラが、震え出した。
「お、お母様? どうしたの?」
エラーラは、青ざめた顔でリウを見た。
「……リウ君。まさかとは思うが……。その『ユリウス』という男も……」
リウは、涙を拭いながら、満面の、悪魔のような笑みで頷いた。
「せいかいっ!……ご名答ですわエラーラ様。ユリウスも……『夜の王』を引退しましたの!」
「は?」
ナラは思考が停止した。
リウは、歌うように続けた。
「彼もこう言っていましたわ。『俺はずっと夜の世界で体を張ってきた。だが、ついに見つけたんだ。リルという完璧な金ズルを。これからは彼女をプロデュースするだけで、寝ていても金が入る』……と」
部屋に、氷点下の沈黙が落ちた。
エラーラが、震える声で解説した。
「……つまりだ、ナラ君。ここにいるのは、『夫に寄生して楽をしようと仕事を辞めた女』と、『妻に寄生して楽をしようと仕事を辞めた男』だ」
二人の寄生虫。
互いに相手を「宿主」だと思い込み、互いに相手の血を吸おうとして、同時に吸血管を突き刺したのだ。
「……ゼロだ」
エラーラが呻く。
「ゼロにゼロを掛けても、ゼロにしかならない。……これは、経済的な『対消滅』だ」
リウは、恍惚とした表情で天井を仰いだ。
「そうですわ!お互いが『相手が払ってくれるはず』と信じて、シャンパンを開け、シャンパンを開け、シャンパンを開け、そうして行き着いた果てで、豪邸を建てたのです!資金の8割はすでに消失!残りは2割!……さあ!さあさあ!そして来月には最初の『支払い日』がやってきますわ!……ああ、想像するだけでご飯が3杯食べられますわーッ!」
ナラは、背筋が凍るのを感じた。
それは、薬物中毒の悲劇とも、暴力沙汰の恐怖とも違う。
人間の「愚かさ」と「怠惰」が、化学反応を起こして爆発する寸前の、静かなる破滅の予感だった。
そして、その日は来た。
月が変わる日。すなわち、様々な請求書が届く日である。
『Y & R ホールディングス』の豪奢なリビング。
大理石のテーブルの上には、山のような封筒が積まれていた。
建設費の分割払い。家具のローン。外車のリース代。パーティーのケータリング代。
そして、二人が「投資」と称して使い込んだクレジットカードの請求書。
総額、50,000,000クレスト。
ユリアスは、優雅にコーヒーを飲みながら、封筒の山を指で弾いた。
「リル。支払い手続きをしておいてくれ。俺はこれから、来期の『ビジョン』について瞑想するから」
リルは、ソファでネイルを乾かしながら、キョトンとした顔をした。
「……え? ダーリン、何言ってるの?支払いはあなたの口座からでしょ?」
「は?」
ユリウスの動きが止まる。
「だって、あたし、仕事辞めたもの。口座にお金なんて入ってないわよ。ダーリンが稼いでるんでしょ? 『夜の王』なんでしょ?」
ユリウスの顔から、余裕という名のメッキが剥がれ落ちた。
「……おい。冗談だろ?お前、魔導ネットの収益はどうした?月50,000,000クレスト稼いでたんじゃないのか?」
「だから! 全部辞めたって言ったじゃない!アカウントも消したわよ!だって、ダーリンが『俺がプロデュースしてやる』って言ったじゃない!『俺に任せておけば、お前は女王でいられる』って!」
「それは、『お前が稼ぐ金を俺が管理する』って意味だ!
俺が働くわけないだろ! 俺は経営者だぞ!?」
「はあ!? 何それ!あんた、あたしのヒモになるつもりだったの!?あたしは専業主婦になるつもりだったのに!」
二人の視線が交差する。
そこにあったのは、愛ではない。
「当てが外れた」という絶望と、相手に対する底なしの憎悪だった。
「……金は?」
ユリウスが震える声で聞く。
「ないわよ」
リルが即答する。
「俺もない」
静寂。
テーブルの上の請求書の山が、突然、巨大な墓標のように見え始めた。
彼らは気づいてしまった。
この豪邸も、ドレスも、タキシードも。
すべては「相手が払う」という妄想の上に成り立っていた、砂上の楼閣だったことに。
「ふッざけるなッ!」
最初に爆発したのは、ユリウスだった。
彼は飲みかけのコーヒーカップを壁に投げつけた。
高級なカップが砕け散り、白い壁に黒い染みを作る。
「俺は! お前という『商品』に投資したんだ!この家も! 結婚式も! 全てお前の価値を高めるための演出だ!それなのに、勝手に引退だと!? 詐欺だ! 結婚詐欺だ!」
「詐欺師はあんたでしょッ!!」
リルも負けじと、テーブルの上の花瓶を投げつけた。
「『俺についてこい』!? 『世界を獲る』!?口だけじゃない! ただの無職のヒモ男!あたしの稼ぎを当てにして近づいてきた寄生虫!返してよ! あたしのキャリアを返して!あんたのせいで、あたしは全てを失ったのよ!」
「お前が勝手に辞めたんだろうが!この……薬中の売女が!俺が拾ってやらなきゃ、お前なんて今頃路地裏で野垂れ死んでたんだぞ!」
「なんですってぇぇぇ!この元ホスト崩れが!年増の男娼!あんたこそ、あたしの金がなきゃただの着飾ったゴミじゃない!」
罵倒は、もちろん物理的な暴力へと変わった。
ユリウスはリルの自慢の黄金の尻尾を掴み、引きずり回した。
リルは獣人の爪を立て、ユリウスの整った顔面を切り裂いた。
「ギャアアア!俺の顔が!商売道具が!」
「離せ!尻尾が抜ける!殺してやる!」
彼らは、互いに相手を「食い物」だと思っていた。
だが、食い物がなくなれば、あとは互いの肉を食い合うしかない。
高級家具が倒れ、シャンデリアが落ち、ガラスが割れる。
愛の巣は、数分で修羅場と化した。
その地獄を、窓の外から眺めている影があった。
ナラ、エラーラ、そしてリウである。
リウは、持参したオペラグラスで室内を覗き込み、恍惚の表情を浮かべていた。
「ブラボーですわ!見てください、あの躍動感!愛を囁き合っていた口で罵り合い、抱き合っていた腕で殴り合う!これぞ『共依存』の末路!人間のなせる業の結晶ですわ!」
リウは、『震えて』いた。
「……止めた方がいいんじゃないの? 死人が出るわよ」
「放っておきなさい」
エラーラが冷たく言った。
「これは自然界の摂理だ。宿主を失った寄生虫同士が、共食いをして自滅する。……手出し無用だ」
やがて、騒ぎを聞きつけた債権者たちが、屋敷のドアを蹴破った。
オークたちは、暴れる二人を取り押さえ、淡々と業務を遂行した。
「家具、没収」
「宝石、没収」
「この家も、差し押さえ」
「待って! 俺は関係ない! こいつが悪いんだ!」
ユリアスが叫ぶ。
「嫌ぁぁぁ! あたしのドレス! あたしの靴!」
リルが泣き叫ぶ。
オークのリーダーは、二人に一枚の紙を突きつけた。
「あんたら、夫婦で連帯保証人になってるから。二人合わせて300,000,000クレスト。体が動く限り、死ぬまで働いてもらうよ。……最近、北の鉱山で人手が足りなくてねぇ」
二人は、顔を見合わせた。
互いへの憎しみ。後悔。そして絶望。
だが、もう遅い。
二人は手錠で繋がれ、一つの鎖で結ばれた。
それは「永遠の愛」ではなく、「連帯債務」という名の、死ぬまで切れない鎖だった。




