第3話:夢を追う者(3)
粉砕された壁、ひしゃげたパイプ椅子、床に散らばるオムライスの残骸と、割れた魔導写真の破片。
「……被害総額、5,000,000クレストだ」
『ぷにぷにファクトリー』の店長マキヤは、瓦礫の山の上で電卓を叩き、冷徹な声で宣告した。
その視線の先にいるのは、昨夜の騒動の元凶であるナラではない。
逃げたナラの教育係であり、騒動の発端となった客の担当キャスト――狐獣人のリルだった。
「え……?」
リルは、瓦礫の中にへたり込み、耳を疑った。
「あのナラティブって女は逃げた。身元も不明だ。だが、あの女を雇ったのは俺だが、指導したのはお前だ。連帯責任だ。それに、お前が客とトラブルを起こさなければ、あんなことにはならなかった」
マキヤは、リルの目の前に借用書を突きつけた。
「この店を直す金、お前が払え。払えないなら……わかってるな?裏の『加工所』に回すぞ。お前のその皮と内臓なら、そこそこの値がつく」
リルは震えた。
逃げ場はない。獣人である彼女には、人権などないに等しい。
警察に行けば、逆に「器物破損の共犯」として逮捕されるだろう。
この王都において、弱者には「搾取される自由」しか残されていないのだ。
「……はい。わかり、ました……」
リルは、死んだ目で借用書に指印を押そうとした。
その時だった。
カツン、カツン、と瓦礫を踏みしめる優雅なヒールの音が響いた。
「あらあら、随分と散らかっていますわね。これでは、せっかくの美しい尻尾が埃まみれになってしまいますわ」
現れたのは、豪奢なドレスを纏った金髪の美女。
画家であり、ナラの友人――リウ・ヴァンクロフトだった。
「あ、あんたは……昨日のへんなひと!」
マキヤが叫ぶ。
リウは扇子で口元を隠し、マキヤを一瞥もしないまま、従者に合図を送った。
従者がうやうやしく開いたアタッシュケースの中には、マキヤが生涯かけても拝めないほどの、黄金の延べ棒と高額魔導債券が詰め込まれていた。
「……な、なんだこれは」
「買い取りますわ」
リウは、まるでコンビニでガムを買うような軽さで言った。
「……すべてを」
「は……?」
「自己紹介が遅れましたわね。わたくし、リウ・ヴァンクロフト。王都の魔導鉄道網を敷設した『ヴァンクロフト製造』の役員……まあ、ただの道楽娘ですけれど」
マキヤの顔から血の気が引いた。
ヴァンクロフト。王都の経済を裏から牛耳る、超特級の財閥だ。
逆らえば、翌日には王都の地図から実家ごと消される。
「この店は、わたくしが買い取りました。オーナー権限に基づき、貴方には解雇を言い渡します。退職金として金貨10,000,000クレストあげますから、二度とこの子の前に顔を見せないでくださる?……さもないと、わたくしの私兵団が、貴方を物理的に『加工』しに参りますわよ?」
「ひぃぃぃ! わかりました! 消えます! 一生消えますぅぅ!」
マキヤは金貨を鷲掴みにし、脱兎のごとく逃げ出した。
瓦礫の中に残されたのは、リウと、呆然とするりるだけだった。
少し遅れて、ナラとエラーラが到着した。
「……遅かったようね」
ナラは、状況を察してため息をついた。
彼女もまた、リルを救うために戻ってきたのだが、財閥の力技には勝てなかったようだ。
「リルさん」
リウは、へたり込むリルの前に膝をつき、その震える手に触れた。
「怖かったでしょう。もう大丈夫ですわ。貴女を縛るものは何もありません」
リルは、リウを見つめた。
そして、その瞳に奇妙な光が宿った。
それは安堵ではない。もっと粘着質で、卑屈な光だ。
リルは、突然リウの足元に額を擦り付けた。
「……お願いします」
「え?」
「あたしを……リウ様のペットにしてください!」
リルは必死だった。
「店長がいなくなっても、あたしには行く当てがない!お金もないし、住む場所もない!リウ様!尻尾、好きなんですよね!?触っていいです!毎晩ブラッシングさせます!足拭きマットにしてもいいし、首輪をつけて散歩してもいいです!だから……あたしを飼ってください!」
かつてのナンバーワンキャストのプライドなど、微塵もなかった。
彼女は「自由」を恐れていた。
誰かに所有され、管理され、餌を与えられる「家畜」の安寧を、自ら懇願したのだ。
ナラは眉をひそめた。
「リル、あんた……」
だが、リウは頬を染めて身悶えした。
「ま、まぁ! なんという素晴らしい提案!貴女のような美しい獣人が、わたくしの専属ペットに……!夢のようですわ! 最高のアートですわ!」
リウの性癖と、リルの依存心が、最悪の形で噛み合ってしまったようだった。
「……待ちたまえ。」
それまで静観していたエラーラが、冷徹な声を上げた。
「リウ君?君が誰を飼おうと勝手だが、この個体には少し違和感がある」
エラーラは、リルの痩せこけた腕と、異常に拡大した瞳孔を見ていた。
「リル君。君はなぜ、そこまで金と保護に執着する?借金は消えたはずだ。普通の仕事を探せばいいだろう」
リルは、ビクリと肩を震わせた。
そして、潤んだ瞳でナラたちを見上げ、ポツリと語り始めた。
「……妹がいるの」
「妹?」
「うん。じゃあ、ミウ?っていうんだけどね。あの子、獣人なのに……すごい魔力を持って生まれたの」
「…………」
リルの話は、涙を誘うものだった。
獣人でありながら魔力を持つ「先祖返り」の妹。
彼女を王立魔導アカデミーに入れ、差別から救うためには、年間500万マナという莫大な学費が必要なのだと。
「ゴンゾウみたいなクソ客に頭を下げて……タツヤみたいなストーカーに怯えて……ゲロを吐きながらシャンパンを飲んで……そうやって貯めた小銭が、あの子の未来になると思ったら、耐えられた。……あたしは泥まみれでいいの。ミウだけは、空に行かせてあげたかった」
リルは、ボロボロ泣いた。
その姿は、悲劇のヒロインそのものだった。
ナラは胸を打たれ、リウはハンカチで目頭を押さえる仕草をした。
「なんて……なんて健気な姉妹愛ですの!わかりましたわ! ミウさんの学費、わたくしが全額支援しますわ!リルさんは、わたくしの屋敷で、何不自由なく暮らせばいいんですのよ!」
「ほ、本当ですか!?」
リルの顔が輝いた。
「ええ。すぐに手配しますわ。では、契約金代わりといっては何ですが……とりあえず生活費として、これを」
リウは、財布から数万クレストの札束をリルに渡した。
その瞬間だった。
リルが札束を掴んだ瞬間。
彼女の雰囲気が、一変した。
「……あ、あは……」
彼女は、ナラたちにお礼を言うでもなく、震える手で懐から「小瓶」を取り出した。
そして、渡されたばかりの札束を、その小瓶に詰め込もうとするかのような、奇妙な手つきをした。
「……それ、何?」
ナラが尋ねる。
リルは、虚ろな目で笑った。
「ん? これ? ……サプリよ」
「サプリ?」
「そう。『高濃度魔力サプリ』。これを飲むとね、肌がツヤツヤになるの。尻尾の毛並みも良くなるの。美容と健康のために、あたしは『投資』してるのよ」
リルは小瓶の蓋を開けた。
中に入っていたのは、蛍光色の粉末。
王都の裏社会で流行している、依存性極大の違法薬物『エンジェル・ダスト』だった。
エラーラの表情が凍りついた。
「……それは美容サプリではない。脳の報酬系を焼き切り、魔力回路を暴走させる劇薬だ。君のその手の震え。なるほど……異常な発汗……禁断症状だね。……君は……」
「……」
リルの動きが止まった。
そして、ゆっくりと顔を上げた。
そこに、先ほどまでの「健気な姉」の顔はなかった。
あるのは、焦点の定まらない、欲望と自己正当化にまみれた、醜い中毒者の顔だった。
「……違う!」
リルが呟いた。
「妹なんていないわよ!そんな金食い虫、いたら邪魔じゃない!あたしはあたしのために! あたしの美しさのために頑張ってきたの!」
ナラは息を呑んだ。
嘘だった。
妹の話も、学費の話も、すべて同情を買い、金を引き出すための「設定」だった。
「リル、あんた……」
ナラが詰め寄る。
「それは、毒よ?そんなもののために、自分を売ってたの!?」
すると、リルは猛然と叫び返した。
その論理は、あまりにも流暢で、そして決定的に狂っていた。
「はああああん?体に悪い?やめろ?あんたたち、何様のつもりッッッッッ?」
リルは立ち上がり、瓦礫の上で演説するように両手を広げた。
「じゃあ聞くけど!あんたたちは、赤信号を一生渡らないの?」
「……はあ?」
「急いでる時とか、車が来てない時とか、黄色信号でも渡るでしょ?それだって『死ぬかもしれないリスク』よね? 命がけよね?じゃあ同じ!あたしがサプリを飲むのも、それと同じ!『綺麗になる』『元気になる』っていうメリットのために、リスクを取って渡ってるだけ!なんで信号無視はよくて、サプリはダメなの?矛盾してるじゃない!おかしいわよ!はい論破!」
ナラは、呆れ果てて言葉が出なかった。
信号無視と薬物依存。次元の違う話を「リスク」という言葉だけで同一視する、典型的な依存者の詭弁。
さらに、りるは泣き叫んだ。
「それに!あたしはこれのために、クソみたいな店で、クソ客に頭を下げてきたの!プライドを捨てて、ゲロ吐きながらシャンパン飲んで!これでも必死に!必死に!必ッッッッッッッッッッ死に頑張ってきたのよ!今ここで薬をやめたら、あたしの今までの苦労はどうなるの?今までの人生が、全部間違いだったっていうの?あんたたちは責任取れるって言うの?」
サンクコストへの執着。
自分の人生が「間違い」だったと認める恐怖から逃れるために、さらに深い地獄へと突き進む。
彼女は、引き返せないのではない。引き返したくないのだ。
りるは、小瓶を胸に抱きしめ、ナラたちを睨みつけた。
「あんたたちが金を出さないなら、じゃあもういい。あたしを否定するなら、あたしはここで死ぬ。じゃあもう死ぬ!はいもう死ぬ!薬が買えないなら、禁断症状で苦しむくらいなら、ここで舌を噛み切って死んでやる!そしたらあんたたちは『人殺し』よ!可哀想な獣人を追い詰めた差別主義者よ!一生後悔すればいいわ!」
自殺をほのめかし、相手の良心につけ込んで金をせびる。
それは、彼女がコンカフェで客に対して無意識に行っていた「支配」の技術そのものだった。
ナラは、鉄扇を握りしめた。
怒りで手が震える。
この女は、被害者ではない。
自ら望んで自傷行為をして、周囲を巻き込む「泥沼」そのものだ。
「……行くわよ、エラーラ、リウ。こいつはもう手遅れだわ。信号無視して事故りたいなら、勝手にすればいい!」
ナラは背を向けた。
エラーラも頷く。
「同感だ。底なし沼に関われば、こちらも沈む」
だが。
リウだけは、動かなかった。
「……リウ?」
リウは、扇子で口元を隠したまま、じっとりるを見つめていた。
軽蔑でも、憐憫でもない。
どこか、壊れた玩具を見る子供のような、昏い好奇心を宿した目で。
「……面白いですわ」
リウが呟いた。
「え?」
「黄色信号の理論……破綻していますけれど、その必死さ、その浅ましさ。薬のために嘘をつき、自分を正当化し、死ぬと喚くその醜さ。……ゾクゾクするほど、退廃的ですわ!」
リウは、リルに歩み寄った。
そして、リルの手にある小瓶を取り上げ……るのではなく、さらに追加の札束を握らせた。
「!?」
りるが目を見開く。
「リウ!あんた正気!?」
ナラが叫ぶ。
リウは微笑んだ。
「支援しましょう。貴女がその『信号』を渡りきるのか、それとも途中で轢かれて肉塊になるのか。自ら『考えて』行動するのです……わたくしが、特等席で見届けて差し上げますわ!」
リウは、リルの頬を撫でた。
「屋敷に来なさい。薬でも、宝石でも、好きなだけ買い与えてあげますわ。その代わり……貴女が完全に壊れるその瞬間まで、わたくしの『所有物』としていてくださいましね?」
リルは、札束を抱きしめ、狂ったように頷いた。
「は、はい!リウ様!あたし、何でもします!いい子にします……!」
ナラは、言葉を失った。
リウは、リルを救ったのではない。
「観察対象」として、飼うことを決めたのだ。
「……行こう、ナラ君」
エラーラが促した。
「契約は成立した。我々に介入する権利はない」
リウは、リルの手を引き、迎えの魔導タクシーへと乗り込んでいった。
リルは、ナラたちに一瞥もくれず、ただ札束と小瓶だけを見つめていた。
「……後味、悪いわね」
ナラは吐き捨てた。
「ああ。だが、これが現実だ。彼女は信号を無視した。そして、リウという狂人に拾われた。……おそらく、悲劇にしかならないだろうね……」
二人は、夕暮れの路地裏に取り残された。




