#02
#02
午後五時十五分。
とっくに勤務時間は終わっていたが、誰も帰る気配がない。
自席にじっと座ったままで、無心に端末を操作している。
でもそれは、勤務時間内とはまた別の、独特な活気を醸し出して、事務室内は盛り上がっていた。
そんな中、俺だけが帰る準備をしていた。
今日はどうしても早く帰りたいのだ。
そう朝から決めていた。
俺は、こっそり電源を落とすと端末を閉じた。
カバンを抱えて席を立とうとした時だった。
「あの、お願いしたの、発注していただけたでしょうか?」
後ろから声がして、見ると女性が立っていた。
何処か気が小さそうな、メディカルケア課の小山さんだと気がついて、俺は慌てて、机の上のクリアファイルの中を探した。
「あ! まだやってない!」
午前中に頼まれたのを、すっかり忘れてしまっていた。
俺は、何となく罰が悪くて、けれど、あえて横柄な態度を取って見せた。
俺の方が先輩なのは明らかで、少しぐらいいいだろう。
そう思った。
「あの、困るんですけど!」
案の定、小山さんは、今にも泣き出しそうな表情になって、それでも、何とか笑みを作ろうと頑張っている。
「って言われても、まだやってないんだから仕方ないだろ!」
俺はカバンを抱え椅子にふんぞり返った。
「困ります!」
すると小山さんは、口をへの字に歪ませた。
姿勢を正し、両手を体の前に置き、一歩こちらに踏み出して来る。
「どうしても必要なんです! 無いと困るんです!」
流石に俺は焦った。
これ以上は、いけないと思った。
パワハラとかいろいろ煩いし。
「ごめんごめん! わかったよ!」
そう言って、笑顔で小山さんを拝んで見せた。
「明日! 明日に一番でやるよ!」
だからといって、今はしない。
だって、今日は早く帰りたいのだ。
端末の電源も落としてしまったし、今からやる気は毛頭なれない。
俺は半笑いで、小山さんの様子を伺った。
屹度結んだへの字口で、小山さんもしばらくこちらを見ていたが、ふっと何かの糸が解れて、唇の隙間から白い歯がこぼれた。
「わかりました」
と、吐き出すように言って、小さく頭を下げた。
「それでは明日、お願いします」
「うんうん! わかったわかった! こめん、こめんねー! 朝一でやるよ!」
俺は、片手で森本を拝むようにしながら、カバンを肩に引っ掛けて席を立った。
「それじゃー、お先に!」
「お疲れ様です」
俺は、小山さんに見送られ、まだまだ仕事で活気溢れる事務室を出た。
廊下にでると、すぐ目の前に西階段がある。
それをそのまま降りれば、この旧庁舎の一階エントランスへと出ることができる。
事務室のある八階から、降りるときは一度もエレベーターを使ったことはない。
いつだってそうだし、今日だってそのまま西階段を降りるつもりだったのだ。
ところが何故か、ふと、廊下を右へと曲がっていた。
俺は、西階段を降りることなく、エレベーターホールへ向かって、黒いタイル張りの廊下を小走りに歩いていた。
ほかの事務室にもまだ大勢居残っていて、賑やかな声が漏れ聞こえてはくるが、廊下には人の姿は疎らだった。
もちろん、帰ろうとしているのは自分だけで、誰もがまだまだ居残るつもりなのだろうと、勝手に思った。
それでも俺はカバンを肩に掛けてそのまま黙々と歩いた。
廊下を真っ直ぐ歩き続けて、ふと、気づくと人の姿がまったくない。
賑やかな声も聞こえなくなっていて、早足で大股な自分の足音だけが聞こえていた。
そんな静まり返った廊下で不意に、何処かの突き当たりで左へ曲がってしまいたい。
そんな衝動に襲われた。そのときだった。
突然、視界が大きく開けて、広いホールに入っていた。
体育館ほどの大きさがあるだろうか。
黒い廊下がそのまま伸びて、違和感なく歩き続けていた。
一人で放り出されても、天井がとても高くて開放的な空間に感じる。
見ると、左側一面には、エレベーターが十機以上並んでいて、右側の全面が窓になっている。
午後五時を過ぎてはいたが、外にはまだ日があるようで、ホール全体がとても明るい。
一見すると、ここはエレベーターホールなのだが、余りにも広過ぎてとても不自然に思えた。
そもそも、こんなに沢山のエレベーターが設置されていた記憶はない。
何機あったのかは即答できないが、少なくても自分の知っているエレベーターホールとは全然違うと、俺は思った。
しかも、自分以外には誰もいない。
いくら皆が仕事で居残っているとはいえ、こんなに広いホールに一人きりなんて可笑しいじゃないか。
そんな違和感を感じながらも、何故か歩く足は止まらなかった。
広いホールをふらふらと、早足の大股でどんどん真っ直ぐ歩いていた。
そのときだ。
突然、背後で足音がして、自分の足音と重なって聞こえた。
俺は驚いた。
怖いと思いながら、反射的に振り向こうとして、ふと、右前方のそんなに遠くないところに人がいるのに気づいた。
看護師だろうか。
白衣のズボンとジャケットを着た女性が、ストレッチャーを押しながら同じ方向に歩いている。
いつの間にいたんだろうか。
メガネをかけた看護師の女性はすらっと背が高く、明らかに年上に見えた。
自分一人だと思っていた俺は、思わず駆け寄っていた。
「あの、すいません!」
そう声をかけようとしたが、ストレッチャーの上を見て言葉が詰まった。
小柄な女性が一人、俯せに乗せられている。
年齢はわからない。
けれど、いったい何があったのか。
その女性はボロボロで、服の有無もわからないほど全身が傷んでいる。
しかも、上半身がストレッチャーから連れ落ちていて、乱れて絡まった長い髪と灰色の細い腕がぶらぶらと揺れていた。
それはまるで乗せられているというより、無造作にただストレッチャーの上に置かれているだけのように見えた。
「何があったんです?」
そう聞こうとして、でも、それよりも先に、看護師の女性が口を開いた。
「何故あなた、西階段を降りなかったの?」
俺は戸惑った。
「何故」と言われても、理由なんかあるわけがない。
気づいたら、こちらに向かって歩いていたのだ。
そう思っていると、心なしか看護師の女性が足を速めたような気がした。
俺も慌てて歩調を合わせた。
でも、そのときだ。
突然、背後でまた足音がした。
俺は焦った。
こちらの歩調に合わせるようにして、後ろからついて来る。
俺は闇雲に怖いと感じた。
けれど、振り向こうと思った。
「ダメよ! 今は無理だから」
けれど、すぐに看護師の女性に止められた。
背後の足音も聞こえなくなっている。
「まったく! 何がいけなかったのかしら」
そう言ってまた、足を速めていく。
俺は、訳が分からずに、それでも、看護師の女性について歩いた。
「えっと、どうなってるんです? 何かがついて来るみたいなんですけど!」
するとまた、背後で足音がした。
やっぱり俺に歩調を合わせて、すぐ後ろについて来る。
俺は怖くて今度こそ、振り返ってしまおうとした。
でもすぐに、看護師の女性が強い口調で言った。
「あなたはこのまま真っ直ぐ歩いて!」
「えっ?」
俺は意味がわからない。
このままでは後ろの足音に追いつかれてしまいそうで怖いではないか。
しかも、ストレッチャーを押す看護師の女性はすぐにまた足を速めていく。
俺も慌てて後に続くが、背後の足音も一緒になってついて来る。
「ちょっと待ってください!」
堪らず声をかけると、
「あなたは東階段で降りなさい!」
そう言って、看護師の女性は一気にストレッチャーを押し出した。
確かに左側全面に並ぶエレベーターのその先に、東階段のフロアが見える。
今、このまま走り出したら逃げ切れるかもしれない。
そう思ったとき、背後で足音が大きく何度か踏み鳴らされた。
俺は、焦って驚いて、二人を残して走りだそうとした。
でも、そのときた。
階段フロアの手前のエレベーター、一番右端の一機が丁度ドアが開いて待っているではないか。
それは正しく大型タイプで、看護師の女性もストレッチャーを押してまっしぐらに向かっている。
このまま一人で階段なんてとても無理だ。
咄嗟にそう思った俺は、堪えきれずにエレベーターへ向き直った。
「俺も乗ります!」
と、看護師の女性とストレッチャーの後ろから、割り込むように飛び乗っていた。
途端に後ろでドアが閉まって、けれど、忙しく床を踏み鳴らし、何かも勢いよく迫って来る。
俺は慌てて手を伸ばして、パネルの「閉まる」ボタンを連打した。
一瞬、大きな黄色い何かが向こうに見えたような気がして、でもすぐに、ドアはしっかりと閉まり切った。
続けて何かがぶつかって、大きな音が庫内に響いたが、エレベーターは何事もなくすっと下り始めていた。
大きな音もしなくなって、庫内にはエレベーターの駆動音だけが聞こえる。
「何なんだっ? あれはいったいっ!!」
思わずほっとして大きな声を上げていた。
「ねー、見ましたよね! あれ、なんなんですかね?」
そして、看護師の女性に同意を求めるようと話しかけた。
すると、看護師の女性は呆れ様子でぽつりと言った。
「あなたが中途半端にこっちへ来るからよ!」
「えっ?! 俺っ?! 俺っすか?」
「そう。しかも、エレベーター、乗っちゃうし!」
俺には意味がわからない。
けれど、何だかカッとして、思わず大きな声を上げた。
「そりゃー乗るでしょ! 普通は乗るはずです! だって、エレベーター来てるんですから!」
ところが、やっぱり看護師の女性は呆れた様子で、パネルを指さした。
「これ、一階は止まらない」
「あっ?!」
俺は唖然とした。
パネルの一階から五階までの停止階ボタンがない。
まるごと省略、省かれていて、その間が空白になっている。
「じゃあー別に!」
俺は慌てて「B1」のボタンを押した。
地下一階は、確か駐車場のはずで、地上一階への行き方は何となく記憶にある。
問題ないと俺は思った。
ところが、看護師の女性はやっぱり何処か呆れた様子で、また訳の分からないことを言った。
「まあ、いいわー! 思っていたのと随分違うし、このままでは使えないから!」
俺は、何も答えず話しをしないで、じっと黙っていた。
相手にしてはいけない。
そう思った。
だいたいこの庁舎には保健施設はない。
この看護師の女性は、本庁からの出張なのだろうが、それにしても態度が悪い。
俺はそう思って、顔を背けた。
ところが不意に、看護師の女性が俺の名前を呼んだ。
「ねえ、山口くん!」
俺は、焦った。
「はい」
結んでいた口が反射的に返事が漏れて、背けていた顔で恐る恐る看護師の女性を見た。
すると、無表情なメガネがこちらを見ている。
どうして名前を知っているのか、俺は必死に頭を巡らせたが、まったく記憶がない。
どうしていいのかわからずに、じっとメガネを見ている俺に、看護師の女性は指を差してぽつりと言った。
「名札、付けっぱなしよ」
「このまま中に入ればいいのに」
俺はそう思った。
事実、今まさに暖簾を潜る子ども連れがいた。
白髪の頑固そうな黒縁メガネを指で屹度上げながら、ガタイの良い老人が、孫と思しき小学生の兄弟を連れて中へ入っていく。
けれど郷田はそのまま入り口を通り過ぎで外壁伝いに歩いて行った。
「周りを確認して、それからだ。中に入るのは!」
何がそんなに気になるのか、俺にはまったくわからない。
だいたい郷田は大浴場が大好きではないか。
すぐにでも入ってしまえばいいのにと、無責任にもそう思った。
けれど、郷田は仕事出来てる。
だkら、郷田がまだ入らないというのだから仕方がない。
とにかく郷田について、先を急いだ。
外壁だと思っていたものは違っていた。
建物施設を隠すように囲んでいる、背の高い石の壁だ。
この、表通りに面した施設への入り口を残して、それは隙間なく続いている。
中の様子を伺い知ることはできず、看板や幟がはためく入り口を過ぎてしまうと、表通りからでも何の施設なのかまったくわからない。
行き交う車も人も少ないようで、混み合うことはなさそうに思ったが、露天があるだけに曇り空が気になった。
一雨降る前に大浴場に入りたい。
そう思ったとき、ふと、背の高い石の壁が途切れて、右へ折れた。
郷田はそのまま壁伝いに右に曲がって、俺も後に続いた。
表通りからはなれて、私道に入ると、急に辺りが静かになった。
すぐ脇には片側一車線の公道があるが人気がない。
施設を囲むように広がる住宅街は物音一つしなかった。
私道は幅が二メートルぐらいで、とりあえず舗装されている。
「とりあえず」と思ったのは、アスファルトが凸凹でいかにも古い私有地といった雰囲気があったからだ。
右手には、表通りから続く背の高い石の壁が何処までも伸びて隠すように施設を取り囲んで、左手には公道とを明確に分けるように古ぼけたガードレールが敷地全体を囲っていた。
そして、何よりこの施設は、敷地全体が周囲よりも数十センチ嵩上げかさ上げされている。
古ぼけたガードレールよりも低いところに公道があり、その公道に合わせて閑静な住宅街が立ち並んでいた。
記憶に間違いがなければ、この辺りはまだ平坦な地形のはずで、だとすると、大浴場の都合上、嵩上げが必要だったということになるのだが、それは図面を見ていないことにはわからない。
などと考えながら、施設の私有地をどんどん奥へと歩いて行った。
ところが、強固そうな背の高い石の壁に思えたのだが、意外にも施設内の音が漏れ聴こえてくる。
巨大であろう浴室に響く客の声。桶の音。
何処か心地良い湯の匂いまで漂ってきて、もう我慢なんかできない。
俺は思わず石の壁にへばりついてそのまま見上げた。
すると今度は、さっきの爺さんと少年二人が、和室に通され寛いでいるような気がして、畳の香りが鼻腔を突いた。
「入りたい……」
「だったら、早く確認を済ませてしまおうぜ。ほら、行くぞ」
「ああ、わかったよ」
すぐに俺も、先を行く郷田の背中を追った。
でもそのとき、ふと思った。
そーいやー、何で俺たち、この施設に来たんだっけっ?
俺は思わず曇った空を見上げた。
けれど、何も思い出せない。
そもそも大浴場の施設監査なんて俺たちの仕事の範疇外ではないか。
資格もなければ権限もない。
確かに郷田は施設管理だが旧庁舎のだし、そもそも一般事務職ではないか。
図面だって、簡易的な見取り図を以前何度か見ただけで、建築用の図面なんて、俺も郷田も見たことがないはずだし、見たってわかるわけがない。
いったいどうして、大浴場に来ることになったのか。
俺は、ぞっと寒気がして、前を歩く郷田の背中に叫んでいた。
「おい、郷田! 考えてみればまだ勤務時間中だっ! こんなところにいて、バレたらやばいぞ!」
そのときだった。
歩いていた足元が、ふんわりとした何かを踏みつけて違和感を感じた。
俺は、何気なく足元を見て、唖然とした。
いつの間にか、アスファルトの私道がなくなっている。
その代わりに俺たちは、何処までも鬱蒼と茂った蔓草の上にいた。
「げっ?! 何だこりゃっー!?」
と、思ったときには蔓草に靴を滑らせ転がりそうになった。
俺は慌てて石の壁にしがみついたが、足だけが何度も蔓草に滑って宙を切る。
するとその都度、蹴り上げられた蔓草が舞い上がって、後ろの方でばさっと大きな音を立てて落ちた。
「何だよっ?! 何処だここっ!?」
俺は辺りを見回して、息を飲んだ。
そこにはもう、アスファルトだった私道は何処にもない。
ただ、辺り一面に沢山の蔓草が折り重なって散り積もっているだけだった。
それは、決して鬱蒼と茂っているわけではない。
ただそこに、数センチの高さまで散り積もっているだけなのだ。
しかも、よく見ると、二メートルはあったはずの道幅も、何故か一メートルほどしかなくなっていて、古ぼけたガードレールも消えている。
いつの間にかすぐそこは崖っぷちで、背の高い木々の青々とした枝葉が目の前に見えて、かなり高いとすぐにわかった。
落ちたらただでは済まないと全身に鳥肌が立つ。
「何だこりゃっー?! いったい何処だよ、なー郷田っ!?」
俺は怖くなって壁を掴みなおすと、叫ぶように郷田を見た。
けれど、足だけがまた滑って、蹴り上げた蔓草が崖から落ちて行くのが見えた。
「郷田っ、戻ろうっ!! これ、何かヤバイッ! 可笑しいってっ!」
ところが、前にあるはずの郷田の背中がない。
慌てて周囲を見回すと、いつの間にか後ろにいた。
うかつにも、蔓草の上で仁王立ちになり、両手を腰に当て真っ直ぐ前を見据えている。
それはとても不安定で、見ているだけで落ちてしまいそうな、耐え切れない危うさが辛抱堪らない。
「おい、ちょっとっ!? もっとこっちっ! もっとこっちで壁に捕まれってっ!! 早くっ! 早くっ!」
身振り手振りを交えながら、俺は必死に郷田に訴えた。
けれど、すぐに自分の靴が蔓草に滑って、また何度か後ろに蹴り上げていた。
「危ねえっー!? ちょっとヤバイよ、もう戻ろうっ!!」
俺は焦って、なおも足を滑らせながら、無我夢中で上半身から平らな壁にへばりついた。
「ちょっとヤバイよっ?! マジでヤバイッ!! もう戻ろうっ!! 戻った方がいいってっ!!」
けれど郷田は、俺の言うことを聞かない。
未だ仁王立ちのままで、両手を腰に当て、じっと正面を見据えている。
「バカ言えっ! 戻るわけないだろっ! さあ、行くぞっ!」
そう言って郷田は、落ち着いた面持ちで俺を促した。
「えっ?! マジでっ!?」
俺は惘然と行く手を見た。
「これ、まだ行くのっ!? 本当にっ?!」
途方もなく先は長いと思った。
しかも、道幅が急に狭まっているように見える。
それなのに蔓草が更に散り積もっているからはっきりしないのだ。
全体的に崖の方に斜めに傾いているようにも見えて、俺は怖かった。
俺は、完全に腰が退けた。
無理だと思った。
けれど、郷田は違っていた。
「当たり前だろ! これは試されてるんだぜ! 左回りができるのかってなっ! 悔しいだろっ!」
進む気満々な郷田は、訳の分からないことを口走った。
「何だよそれっ!」
俺は、一度で理解できずに聞き返していた。
「だからっ! 時計回りができるかって、試されてるんだよっ!」
それでも俺は意味が分からず、もう一度聞き返した。
「試されるって誰に?」
「煩いぞっ! いいから行けよっ!」
でも結局、郷田は怒り出してしまい、俺は仕方なく両手で壁をしっかりと掴んで、左足をゆっくりと踏み出した。
けれど、踏み出したとばから左足が滑りだして、すぐに踏ん張る右足と一緒に崖の方へと動き出す。
俺は急いで壁を掴みなおすと体ごとへばりついて、慌てて両足を引き寄せた。
すると、無駄に力の入り過ぎた両足が、何度も思いっきり後ろを蹴り上げて、沢山の蔓草が舞い上がってはそのまま崖から落ちるのがよくわかった。
「くそ怖えええっー!! 超怖えええっー!!」
俺は天を仰いだ。
「やっぱ無理だっ!! もう戻ろうっ!」
いったい何でこんなことをしているのか。
俺はひどく後悔をした。
「バカっ! まだ駄目に決まってるだろ!」
けれど郷田が、すぐに怒鳴られた。
「最低でもあの角だ! あの角から右手を覗き込んでやる!」
郷田はそう言って、俺の肩のところで目線を合わせて指を差した。
その指の先、ほんの二メートルぐらいのところで、石の壁が途切れていて、右へ曲がっているのがわかる。
「ほら! キリキリ歩けよ、山口!」
そう言って促す郷田は、相変わらず落ち着いていて、いつの間にか堂々として見えた。
あれ? もしかして、大丈夫なんじゃないのかな?
俺は、ふと、郷田にそんな安心感を抱いている自分に気づいた。
「わかったよ!」
俺は、両手で壁を掴んで、左足をそっと踏み出した。
続いて右足を出して、俺はゆっくりと前に進んだ。
ところが、数歩行ったところで、踏み付けた蔓草が滑り出して、両足が崖の方へと流されていく。
「超ヤベッー?! マジ落ちるっ!?」
俺は慌てて石の壁にしがみついて、蔓草に滑る両足をばたつかせた。
けれど、一瞬、後ろで足が落ちて焦って振り向いた。
いつの間にかすぐそこが崖で道幅が五十センチもなくなっている。
しかも崖に向かって蔓草が急に斜めになっているから、足がすぐに落ちてしまう。
「うううlっー怖いっ!! もうダメだっー!!」
俺はまた、上半身で壁にへばりついて天を仰いだ。
でも、やっぱり両足が滑り落ちて行く。
「ほらっ! しっかりしろよ!」
不意に郷田の声がして、ズボンのベルトから体が浮いて、そのまま石の壁に押し付けられた。
「一々騒ぐな! もうそこだろーが!」
呆れたように郷田は、すぐそこを顎でしゃくって指し示して見せた。
確かにそこには角があって、石の壁が右へと曲がっている。
「ああ、すまん!」
落ち着き払った郷田の態度に、不思議と俺の気持ち不安はなくなった。
これなら全然平気なんじゃないのか!?
根拠のない確信すら湧いてきて、俺は自然と胸を張っていた。
そして、壁にへばりついたまま、慎重に左足から踏み出して、続けて大きく伸ばした左手で、石の壁の角をしっかりと掴んだ。
「着いたっ!! 着いたぞ、郷田っ!!」
俺は叫んだ。
そして、全身を踏ん張って、そのまま石の壁から顔を出した。
出してみて、俺は愕然とした。
石の壁は相変わらずに背が高くそそり立っていた。
けれど、その壁と崖の間に、もう余計な幅は殆どない。
見た目、三十センチ程度はありそうだったが、蔓草が折り重なって散り積もっていて、実際にはもっと狭いように感じた。
崖は急に落ち込んでいて、少し向こうに青々とした木々の枝葉のてっぺんが見えていて、その高さが想像できる。
ふと、風が戦ぐと、体が持って行かれそうで、俺は恐怖した。
「無理無理っ!! もう無理、マジ無理だからっ!! 戻ろうっ、これ、ヤバイからっ、とっとと戻ろう!!」
俺は、背後の郷田に叫んだ。
石の壁をしっかりと掴んで、体重だけを移動させた。
そのとき、何気なく足元が見えてぎょっとした。
足元の幅が三十センチもなくなっている。
それは、靴の幅より明らかに狭くて、蔓草に乗っている踵は完全に崖の外にあるのがわかった。
「ヤバイヤバイヤバイマジでヤバイッ?! これ落ちるってっ!? マジで落ちるってっんだよっー!?」
俺は焦った。
とにかく慌てた。
「怖いっ!! 助けてくれっー!!」
もう一歩も動くことができない。
とにかく足が滑らないように、石の壁の角を掴んで上半身でへばりついた。
「少しは落ち着けよ、山口!」
右隣の郷田も、同じように石の壁にへばりつきながら、それでもやっぱり落ち着いていた。
「このまま進むぞ! もたもたするなよ!」
「バカ言うなよっ?! 無理に決まってんだろっ!?」
「山口よー! やる前から諦めてどうするんだ? だいたい二人でいつまでもこうしていても仕方がないだろ!」
でもそれは、何処か偉そうな物言いで、俺はカチンと頭にきた。
「ふざけんなよっ! 郷田が無茶言うから、こんなことになってるんだろっ?!」
そう怒鳴ったときだった。
左足がストンと滑って、すぐに右足も蔓草を滑りだすのがわかって、俺は焦った。
落ちるっ!?
と、わかって、咄嗟に石の壁を両手で掴みなおそうとしたが、もう遅い。
目の前には蔓草があって、両手でいっぱい抱え込んでいた。
でも、生えているわけではなく、ただ散り積もっているだけの沢山の蔓草は、腕の中で宙を掴む感覚で、まったく手応えなんかない。
俺は焦った。
もっとしっかりとした何かに掴まりたくて、とにかく闇雲に手を出した。
けれど、蔓草以外は何もなくて、どれもこれもが手応えがないまま、俺はみるみる落ちていった。
それはまるでスローモーションのようで、はっきりとして見えた。
だからといって何かができるわけではなく、ただ足から真っ直ぐに崖を落ちて行く自分がわかるだけだった。
全身が蔓草と擦れて当たって音がする。
無意識に目を瞑り、体に力を入れて、声も出さずに歯を食いしばった。
不意に左足の裏が何かに触れて、慌てて何かを掴もうと手を出した。
何でもいいから掴まって、体を支えてしまいたい。
そう思った。
すぐに右足の裏も何かを捉えた。
そのまま立ってしまおうと、無我夢中で手に触れた何かを掴んでいた。
ところが、掴んだと思ったものはやっぱり蔓草で、俺は途端にバランスを崩して放り出された。
物凄い勢いで転がって、それでも体制を整えようと、慌てて全身で踏ん張った。
すると、自分が立っていることに気づいて、俺は目を開いた。
そこはすっかり地上のようで、足元からずっと周囲に地面が広がっているのがはっきりと見えた。
俺は、無意識に歩きだしていた。
何事もなかった体を装って、澄ましてみせた。
でもすぐに、腰が曲がり膝が砕けて尻餅を搗いた。
特に痛いわけではない。
ただ、力が抜けただけだ。
そう理解できるまでに、少し時間がかかったような気がした。
慌てて周囲を見回すしたが、人の気配はなかった。
辺り一面、土と緑で囲まれている。
でもそれは、蔓草とは全然違う緑の草で、地面の土もはっきりとしていた。
何本もの木々もあったが、崖の上から見るよりもずっと少なく疎らに感じる。
しかも、あんなにあった蔓草は、まったく見当たらなかった。
「落ちたんだよな。俺……」
そう呟いたときだった。
不意に黒のパンツスーツが視界に入って、
「こんなところにいた」
と、頭の上で声がした。
釣られるように顔を上げると、見知った女性が立っていた。
「坂下、さん……」
一つに束ねた長い髪を、風に静かに戦がせながら、同期の坂下がそこにいた。
俺は慌てて立ち上がったものの、罰が悪かった。
郷田に誘われ、勝手に職場を抜け出して来てしまったのだ。
まさか探しに来られるなんて思わなかった。
俺は、何となくそっぽを向いて、スーツの汚れを手で払った。
「行きましょう。もう皆、先に出てるから」
迷惑そうな顔をして、呆れたように坂下は言って、ふと、指し示すように背を向けた。
その坂下の向こう、少しはなれたところに、片側一車線の公道があって、路線バスの停留所が見えた。
ここはいったい何処なんだ?
そう思いながら、俺は坂下に駆け寄った。
「ああ、でもちょっと待ってよ!」
俺は、何事もなかったように平静を装おうとしたが、無理だった。
まだ足がよろけて、変に体がくねってしまった。
「まだ郷田がっ!」
「まだ郷田がっ!」
俺は、誤魔化すように大きな声を出して後ろを指さした。
「郷田が上の大浴場にいるんだよ!」
そう言って、今自分の落ちて来た崖を見上げて愕然とした。
何だっ!? これ……
そこには、綺麗にで整備されたニ、三メートルほどの高さの傾らか斜面があった。
その上には、公園の一部を形成する小規模な建造物があるのが見える。
けれど、大浴場はない。
背の高い石の壁も散り積もった蔓草も何処にもなかった。
「あれっ? おかしいなー! 俺、確かここから落ちて!」
俺はそう言って斜面の上を見上げた。
けれど、これでは傾らか過ぎて落ちるようなことはない。
だいたい大浴場のあの石の壁がないのだから、ここではないのかもしれない。
俺は、辺りを見回した。
けれど、やっぱり見当たらない。
そもそも小高くとか高台になっているのはこれだけで、他にはないのだ。
「あれ? どうなってるんだ?」
俺は、仕切りに斜面の上に目を凝らした。
「何をしに行ったの?」
不意に訝しげに坂下が言った。
「立ち入り検査だよ!」
「何の?」
「大浴場施設のさー!」
「そんな権限持ってないでしょー」
「いや、俺じゃなくて郷田が!」
そこまて言って、俺は慌てて口を継ぐんだ。
郷田も坂下も同期だ。
郷田がそんな権限も資格も持っていないことぐらい坂下だって知っている。
俺は、これ以上の言い訳は無駄なように感じた。
「ふーん」
俺の様子を見ていたのか、少し間があって、わざとらしく坂下は相槌を打つと、ちらっと傾らかな斜面の上を見た。
でもすぐに、
「まあ、いいわ」
そう言って、バスの停留所の方へと歩き出した。
「行くわよ。バス、来るから」
「あ、ああー」
俺も覚束無い足取りで後に続いた。
停留所に着くと、丁度向こうからバスがやって来るのが見えた。
巡回バスとかではなく、新庁舎行きの普通の路線バスだった。
でも、俺はこの路線を知らない。
ここはいったい何処なのか。
そうは思っていたものの、停留所の名称を見て取ることができないまま、バスに乗り込んでいた。
車内はガラガラで乗客は誰もいなかった。
中程の一人がけの座席に坂下が座るので、俺もそのすぐ後ろの座席に腰を下ろした。
そのときだ。
ふと、左の窓越しに、さっきの背の高い石の壁が広がって、俺は思わず身を乗り出した。
慌てて額を窓に押し付けて、後ろに流れれる光景に目を見開いた。
するとすぐに幟がいくつもはためいて、さっき見たばかりの大浴場の入口が現れた。
「ここだ、ここっ! やっぱりあったじゃないかっ! 大浴場!」
俺は思わず声を上げた。
その入口の暖簾の前に、郷田が一人立っているのを、俺は見落とさなかった。
一瞬、視線が合ったような気がして、でも、すぐに後ろに過ぎて行った。
バスはもう、大浴場を通り過ぎて、窓の外には普通の町並みが広がっている。
俺は、椅子に座り直して、
よかった。郷田も無事だったのか。
と、安堵した。
「健康センターだから、出張先」
不意に、前の席の坂下が背中越しに話しかけてきた。
「全員、先に行ってる」
「あ、わかった」
なら、大丈夫かと安心した。
すべての班で健康センターにいるのなら、坂下と一緒に何気なく作業に加われば目立つことはない。
郷田も無事だったし、特に咎められることはないだろう。
抜かりのない郷田のことだ。
職場にも何食わぬ顔で戻ることだろう。
そう思った。
俺と坂下は新庁舎でバスを降りて、そのまま健康センターまで歩いて向かった。
曇り空だったが、雨が降る気配はまったくなかった。
「有害物質? このセンターにかね!」
検診を終えて事務室に戻って来た健康センターの高木センター長は、手にした辞令と鈴木係長を交互に見ながら、困惑した様子を顕にしていた。
「馬鹿なー! そんなこと有り得んだろー!」
高木センター長の言葉に頷きなたら、控える数人の中年女性の主査たちは、一様に表情を強張らせて鈴木係長を凝視している。
けれど、鈴木係長はお構いなしだ。
「と、言われましても、発生してしまったものは仕方がないもんでねぇー!」
だらしなく近くの机に載せていた中年太りの体をわずかに仰け反らせて、すっと腰を上げると、前のめりに高木センター長に迫りながら顎を突き出して見せた。
「まあー今、うちの者が現場は抑えてますんでねぇー! 皆さんは即時退避! 健康センターは直ちに閉鎖しますんでヨロ!」
「そっ、そんないきなりっ!」
すぐに、副センター長の女性が声を上げた。
遠巻きに囲んでいるほかの職員たちも、じっとこちらを睨み付けてくる。
俺は、雰囲気に耐えられず、無意識に坂下の背後に身を隠していた。
けれど、やっぱり鈴木係長はお構いなしだった。
「いやいやー! いきなりってのはわかりますけどねぇ! すでに皆さんには即時退避、施設閉鎖命令が出てるわけですから! 直ちに新庁舎に設けられた健康センター中央局へ異動頂ければと思うわけですがねぇー!」
そう言ってもう一度、高木センター長に顔を突き出した。
「ね。高木局長!」
「ああ、そ、そうだな……」
高木センター長は頷いて、手に持っていた辞令を副センター長にも閲覧させた。
「えっ!? 全員そのまま異動なんて? 私が課長?!」
「あそこの最新機器を使えるんですね? 設備が整ってるから楽しみじゃないですか!」
「皆で異動なんて、凄い! こんなの初めてですよ!」
顔を強張らせて立ち並ぶ何人もの職員たちが、一斉に笑顔になって盛り上がっていく様は、なかなか異様な光景に俺には思えた。
ぶち抜きのフロア全体が、いつの間にか騒がしくなって、誰もが楽しげな声を上げる。
煩い。
俺は、とてもじゃないが居た堪れなかった。
けれど、坂下が適当な机を見つけて図面を広げるものだから、本田班長や村上さんも集まってきて輪になった。
何処かに電話をしていた青木主査まで加わって、全員で図面に目を落としている。
遅れてここに来た俺は、鈴木係長の近くにはいたくなかった。
サボっていたとバレたくはないし、それを咎められるのが嫌だった。
ほかの班員もいるところで紛れてしまうのが確実に誤魔化せると、とっとと現場とやらに行きたかったのだが、班長が行かないのだから仕方がない。
俺は坂下の後ろでじっとしていることにした。
「青木!」
高木センター長とこそこそ話しをしていた鈴木係長が、不意に青木主査を呼び付けた。
駆け寄る青木主査に耳打ちをすると、妙な笑みを浮かべて、ポンポンと肩を何度か叩いてみせた。
「はい」
軽く頷く青木主査の背中を押して、また楽しそうに鈴木係長は笑った。
すると、青木主査は、センター長席のところに進み出て、センターの職員たちを見回してから大きな声を出した。
「それでは皆さん! 緊急です! あと、五分で退避を完了させまーす!」
どっとフロアが湧いて、一斉に動き出した。
五十人はいるだろうか。
それら全員の意識が同じ方向へ向かうのは圧巻で、俺は思わず目を奪われた。
でもすぐに、ポケットに両手を突っ込んで与太って歩く鈴木係長が正面に見えて、俺は焦った。
せり上がった額のシワと薄くなった頭部がこちらを向いて、その鋭い目に睨まれて、威圧される。
気づくと鈴木係長はすぐ目の前にいて、腹部に重い拳がずしりと押し当てられた。
「何っ、勝手なことしてだこらっ! あー!」
それは、周囲が騒がしい中でもはっきりと低く響いて、腹部にまた、二回、三回と重い拳が押し当てられる。
「すっ、すいません!」
すぐに謝罪したつもりだったが、はっきりとはしない。
それどころか、体が勝手に前屈みになってしまい、そのまま崩れてしまいそうだ。
「ふざけてんのかっ? こらっ! 何っ、にやついてやがるっ! あー!」
そう思ったたときには、左腕を捕まれ、無理矢理立たされて、なおも腹部に拳を重く何度も押し当てられる。
「すっ、すいませんでしたぁっ!」
俺は、今度こそ真面目に謝罪した。
けれど、苦しくて声が出ない。
思わず前かがみになりたくで、でも、鈴木係長の膝にももを突き上げられて、どうすることもできなかった。
鈴木係長は、中年太りなんかではんく、本当にガタイがいいことがよくわかる。
「たくよっー! だからお前は信用できねえんだよっ! 昔からなっー!」
掴まれた左腕を小さく強引に捻り上げられて、なおも腹部に拳を押し当てられると、ももが膝で数回蹴り上げられた。
「調子に乗ってんじゃーねえぞっ! こらっー! 何っ、笑ってるっ? 馬鹿にしてんのかっー! あっー?」
無精ひげが頬に擦れて耳元で鈴木係長の声が響いて聞こえる。
「すいっ! すいませんでしたっ!」
俺は、必死に大きな声を出した。
今度こそ謝罪したつもりだった。
でも、一向にやめてはくれない。
「さけんなよっ! この野郎っー! 甞めてんのかっ?! あー!?」
左腕を強く捻られて、腹部を拳で膝でももを突き上げられて、勝手に涙が溢れていることに気づいた。
「係長っ! それで薬科材の配置なんですが、どうしますかっ?」
不意に、坂下の声がして、目の前に線の細い背中が割って入った。
「あー? あーそうだな!」
鈴木係長は、気の抜けた声を上げた。
でも、俺はそのまま突き飛ばされて、近くの壁に背中からぶち当たった。
一瞬、訳が分からなくなって、そのまま尻餅を搗いていた。
でも、慌ててすぐに立ち上がって、何事もなかったかのように姿勢を正してみせると、周囲に視線を走らせた。
捻られた左腕も、拳や膝で蹴り上げられた全身にも、痛みなんて感じない。
ただ、無性に頬が強張るから、無意識に片手をズボンのポケットに突っ込んで、小さく舌打ちをしてみせた。
けれど、やっぱりそれはやり過ぎだと、慌てて周囲を見回した。
ところが、事務室内は異動の準備で大騒ぎになっていた。
センターの職員は誰もが大慌てで、こちらの様子なんて気になんてしていない。
しかも、俺が属する本田班は、すでに鈴木係長を中心に輪になっているではないか。
俺は、素早くポケットから手を抜いて、澄ましてその輪に加わった。
まだ何となく、頬が強張っているようで、本田班長の説明に、仕切りに相槌を打った。
この健康センターは、リフォームこそ繰り返してはいるが建築から半世紀以上この場所に経っていた。
中庭を備えた口の字型の二階建て。
一階、二階共に、ロの字に廊下を一周することがだきる作りだ。
中庭といっても緑はない。
アスファルトに覆われているだけで、自然光を取り入れることを目的とした作りのようだと、本田班長は説明した。
その中庭の地下には、何故か建物に沿ってロの字型に排水路が通っていた。
その排水路はサブのようで、建物を外側からロの字で囲むメイン排水路と駐車場で合流していた。
建物施設は、一階に各種検査施設。二階に事務室とホール、会議室などがあり、エレベーターはない。
階段が正面玄関を入ってすぐ左と、北東奥にある。
敷地は、大型の駐車場と正面玄関のある南側の一辺が隣接していてかなりの広さがあった。
中庭を通った排水路が建物の下水を集めて駐車場で一時的に大きな貯水槽を作っているのが図面から分かる。
施設の出入り口は、正面玄関のはか、廊下に接した南西と北東の合計三ヶ所ある。
南西の出入り口はセキュリティーロックの付いた職員の通用口で、北東はゴミ集積所への通用口のようだった。
何処も今となっては完全に旧式で公共施設、特に健康センターとしてはいかがなものかと思われる作りであるのが図面からでも読み取ることができる。
中でも、建築当時から一度も手加えされていない場所が二箇所あった。
北東の出入り口脇にあるボイラー室と駐車場の地下の下水の一時貯水槽だ。
ボイラー室は、そのまま梯子で屋上の高置水槽に出ることができる特殊な作りをしているほか、地下には、直接、防火水道が引かれ、防火水槽も備えている。
しかし、あくまでもボイラー室単独の構造になっていて、ほかとの共有部はなかった。
けれど、駐車場地下の下水の一時貯水槽は違っていた。
中庭のサブ排水路が合流するメイン排水路の南東の角に位置して、そこから、敷地外へも伸びている。
云わば、ジャンクション的役割があるにも関わらず、一度も整備の記録がないのは不自然だと、本田班長は首を捻った。
けれど、鈴木係長が間髪入れずに口を開く。
「まあ、どうせこんなボロ施設だ! 糞詰まりなんて日常茶飯事だったんだろうよ!」
そう言って笑った。
俺も思わず吹き出しそうになって、でも、誰も笑わないので、慌てて口をへの字に結んだ。
「全部でロの字は四つもあるね」
「駐車場の地下が怪しいですかね?」
本田班長と村上さんが真剣な表情で図面を睨む。
けれど、そんな二人を鈴木係長は一蹴する。
「ばーか! なわけねーだろ! 奴ら屋外には出ないんだ、ボイラー室に決まってんだろ!」
今度こそ俺は口元が綻びそうになった。
何故なら、有害物質の発生源は基本、屋内と決まっているからだ。
この場合は、間違いなくボイラー室を警戒するのがセオリーなのだ。
それなのに、頓珍漢な事を言い出している村上さんは、知識的には自分以下なのだなと思うと、何となくほっとして、嬉しくなった。
「なら、薬科材はボイラー室周辺に配置するということでいいですね」
「そーいうこった!」
本田班長が念を押すと、鈴木係長は、図面上のボイラー室を人差し指で叩いて、そこから廊下を南北に滑らせた示した。
「つー訳で、俺は面倒だからよ、先、車戻って薬科材出しとくから! お前ら、ボイラー室寄って、先行の伊藤たちの報告聞いて来てくれよ!」
「わかりました」
本田班長を先頭に、村上さんが続いて、坂下と俺も事務室を出た。
そのまま廊下を進んで、北東の階段を降りると、すぐに古ぼけた鉄の扉が開け放たれているのがわかった。
「お疲れ様です!」
坂下がそう言って、
「いやはや、古いねー!」
本田班長が苦笑しながら室内を見回した。
ボイラー室は、「機械室」とプレートの貼られた扉から中へ入ると階段を数弾降りた半地下になっていた。
そこはとても薄暗く、予想以上に広かった。
「本田さん! ここ、築五十年なんてもんじゃないっすよー!」
「八十年ぐらい経ってるかなー!」
先に来ていた伊藤班と石川班の面々がすでに室内に散らばっていた。
発生源を特定、あるいは、ある程度目星を付けるのが目的のはずだった。
俺たちも、本田班長を先頭に坂下と一緒に入口から数弾、階段を下りて、周囲を見回した。
ボイラー室には窓はなく、複数の配管が天井や壁を縦横に走っていて、壁際には大きな配電盤が据え付けられていた。
それらにそっと隠すように古びた鉄の箱があちらこちらに置かれていた。
すでに、伊藤班と石川班の合計八名は、それぞれそれに取り付いて、開かれた鉄箱の中身を物色していた。
「一九三一年、軍令部からの書類がありますぜっ!」
「こっちもだっ!」
「ほら、すぐそこ、陸自の駐屯地があるからじゃないですかね?」
「おおー! そうかっ!」
誰もがすっかり興奮して、鉄箱の中身の書類に夢中になっている。
本田班長は、呆れ気味に苦笑すると、
「それじゃ、僕らは係長を手伝ってくるよ!」
と、一同に告げると、俺たちにボイラー室を出るように合図した。
俺たちはすぐに回れ右をして階段を上り廊下へ出た。
「薬科材、どのぐらい必要なんだろうね」
俺は、何となく隣の坂下に尋ねた。
そのときだった。
「班長!」
と、坂下はそっぽを向いて、息を詰まらせた。
見ると、東廊下の窓越しに中庭を挟んだ南廊下の正面玄関の二重の自動ドアが確認できる。
その自動ドアの前に、大型な卵型をした真っ黄色な物がいるのが見えた。
それはまるで大型の着ぐるみのようにも見えるのだが、時折、小刻みに上下に震えて、左右に揺れた。
「有害物質!?」
俺は初めて見たそれを、無意識にそう思った。
しかも、その着ぐるみの丁度真ん中。口元らしきあたりに、男性のスーツ姿の下半身がぶらぶらと揺れている。
それは、丁度、有害物質に頭から食いつかれているようで、するするっと吸い込まれていくように見えた。
「か、係長……」
俺は思わず息を飲んだ。
でも、どうしていいのかわからない。
有害物質は自動ドアから入って来たことに間違いなくて、そのまま南側廊下を東廊下へ向かっている。
まさか、発生源が屋外だなんて、考えもしなかった。
俺は、ただじっと、力なく揺れている鈴木係長の下半身を見ていた。
けれど、ふと、自動ドアの右脇にある階段の途中に青木主査が屈んでいるのが目に入った。
「鍵を掛けて回って来い!」
俺が、その合図に気づいたときには、本田班長がボイラー室に声をかけていた。
「おい、皆っー!」
俺たちは、ボイラー室に鍵を掛け、北東の出入り口の戸締りをを済ませると、北側廊下から西側廊下を通って、青木主査のいる南側階段へと着いた。
「本田班は薬科材を運び入れて!」
有害物質は丁度、東側廊下に差し掛かったところで、癖なのか何度か真黄色な大きな体を上下して左右に震えて見せながらゆっくりと進んでいた。
鈴木係長の下半身は、もう殆ど残っていない。
片方の靴の脱げた両足が僅かに見えるだけだった。
「伊藤班と石川班はあれを取り囲むように薬科材をおくよ!」
青木主査がそう言って、床に図面を広げると、伊藤班と石川班の面々が輪になった。
俺たち本田班は急いで、でもそっと自動ドアから駐車場に出た。
鈴木係長は、もう殉職決定なのだ。
階級的には文句なく指揮権は青木主査になり、もちろん誰も不満はない。
「だからお前は信用できねえんだよっ!」
さっき言われたことを思い出して、俺は思わず口元を綻ばせた。
「さまあみろ!」
駐車場には、すでに俺たちリカバリー課の三台しか車が残っていなかった。
薬科材を積んでいたバンは、やっぱり貯水槽の一番近くに止められていた。
リアバックが開いたままで、脇に台車が置かれたままで、すでに薬科材も殆ど積み上げられている。
近くに革靴が片方だけ無造作に転がっているのが、とても生々しく感じた。
今さっき、「ざまあみろ!」と思ってしまったことを何となく後悔した。
俺は、率先して残りの薬科材を台車に積み上げると、そのまま押して走って戻った。
二重の自動ドアは電源が切られていて、近づくと青木主査が手動で押し広げてくれた。
そのまま真っ直ぐ屋内に入ると、すぐに伊藤班と石川班の面々が集まって来て、薬科材を持って東西の廊下へと散っていく。
あの真っ黄色な有害物質は、ボイラー室の近くにまで達しているのが、中庭の窓越しに見て取ることができた。
まだ、鈴木係長の体は見えているのか。
ここからではわからない。
俺は何となく気になって、思わず身を乗り出していた。
「本田班は先に撤収! 車で待機!」
でも後ろで、青木主査が小声で言って、はっとした。
気づくと、自動ドアにはシャッターが下ろされ、本田班長と村上さんが何やらひと作業を終えたらしく駆け寄って来ていた。
「撤収、こっちだから」
坂下に促されて俺は台車を押して南西の職員通用口へと向かった。
本田班長と村上さんもついて来て、青木主査だけが一人、伊藤班と石川班の作業待ちで残っている。
その姿は今までになく堂々として、立派に見えた。
「最後にゲート閉めますね」
「あ、頼む」
台車を荷台に戻すと、本田班長に坂下は言った。
それを聞くと何となく、居ても立ってもいられなくて、俺も本田班長に許可を求めていた。
「あ、自分も一緒に、いいですか?」
「構わないよ」
そう言って、笑顔を向ける本田班長は、いつの間にか白い手袋を身に付けて、無造作に転がっている片方だけの革靴を掴んで、そっとビニール袋に入れている。
ああ、係長の……持って帰るのか、どうするんだろ?
俺はふと、疑問に思った。
でも、すぐにどうでもよくなった。
「ざまあみろ!」
また脳裏を過ぎって、小さく鼻で笑ってそっぽを向いた。
だって、俺は暴力を振るわれた被害者なのだ。
だいたい、本田班長も村上さんも坂下も、誰の様子は変わることなく、係長を悔やんでなんかいないから、俺が加害者を気に病む必要はまったくない。
そう思った。
本田班長は、そのまま助手席に座り、村上さんが運転席に乗り込んだ。
坂下がゲートの方に向かって行くから、俺も一緒に移動して、ほかの班が出て来るのを待った。
「だって、係長が食われちまったんですよ!」
「仕方ないよ。こればっかりは」
「それは冷たいよ! 青木さん!」
間もなくして、声が聞こえて、通用口から小走りに、伊藤班と石川班、そして最後に青木主査が姿を見せた。
「あいつの所為でしょ、山口! あいつが来たから係長が死んじゃったっ!」
「そうだよ! いくら特別手当が付いてるったって、元々うちらは一般事務だからな!」
一瞬、俺の名前が聞こえたような気がした。
確認しようと耳を澄ました。
けれど、ゲートのところに立つ、俺と坂下の姿を見て取ると、誰もが一斉に口を噤んで、それぞれの車に乗り込んでいく。
何だっ? 俺がどうかしたのか?
そう思ったが、すでに坂下は公道に出ていて、車の出るタイミングを図っていた。
出遅れた俺も、急いでゲートから出て辺りを見回した。
丁度すぐに信号が代わって、車の通りがなくなった。
「オーライ! オッケイですっ!」
坂下が両手で大きく丸を作って見せると、伊藤班と石川班の車がそのまま出て行く。
最後に村上さんの運転する本田班のワンボックスがゲートを出たところで止まった。
俺が手動でゲートを閉めて、セキュリティーキーを坂下が掛けた。
「お疲れ様」
急いでワンボックスに乗り込むと、奥に青木主査が座っていて薄い笑みを向けてくる。
俺は、何て言っていいのかわからずに、
「あ、いえ」
と、だけ言って、青木主査の隣にそっと座った。
「はい、オッケーです!」
坂下も乗り込んできて、左横に座る。
ワンボックスはすぐに走り出して、そのまま一気に向こう側の車線を大きく右へ曲がる。
俺の体も大きく振られて、坂下に触れた。
慌ててシートベルトを装着すると、坂下のシートベルトの装着音もすぐそばで聞こえたが、すでにワンボックスの走行姿勢は安定した。
そのまま上り坂を走って、先を行く二台に追いついた。
俺は、青木主査に何か話しかけられるのではないかと思った。
でも、青木主査は本田班長から渡された片方だけの革靴を手にしたまま、特に何も話さない。
俺は、自分から何か話題を振るべきなのかと頭を巡らせたが、どうしていいのかわからなかった。
俺は、居心地の悪いまま、じっと黙って過ごしていた。
「くそっー! あの黄色野郎ーがっ!」
「屋外に発生するなんてよぉー!」
旧庁舎にあるリカバリー課に戻ると、青木主査と三人の班長は、会議だといって事務室を出た。
各班員たちは集まって、今さっきの出来事を話しをしているようだった。
でも、本田班は黙って自席に着いていた。
「あいつの所為じゃん! 係長が死んじゃったのって!」
「嘘っ!? そうなんですか?」
やっぱり自分のことが言われていると俺は思った。
この中では配属が一番最近だからって、俺に当たるのは勘弁して欲しい。
そう思った。
そもそも俺は被害者で、鈴木係長は加害者なのだから。
けれど、そんなことを彼らに言っても仕方がないのはわかっている。
鈴木係長は、その、のらりくらりとした態度と豪快な冗談で周囲を沸かせる一方で、横柄ながら大胆に素早く的確に仕事をこなすことで、絶大な人気を得てきたのだ。
元々は俺だって、鈴木係長のことを慕っていた。
でも、今は違う。
当たり前だ。
「だからお前は信用できねえんだよっ!」
突然、そんなことを言われて、暴力を受けたんだ。
きっと、ずっと前から俺は嫌われていて、暴行するチャンスを狙っていたに違いない。
そんな奴、死んだって構うものか。
そう思いながらも、俺は自分に違和感を感じた。
そんな気持ちを見透かすように、ほかの班のざわつきが盛り上がって聞こえた。
俺は何だか落ち着かず、何をすればいいのかもわからなくなった。
焦って隣を見ると、長い髪をいじりながら、坂下が端末に目を落としていた。
正面の席の村上さんもじっと端末の画面に見入っている。
俺は、二人に習って端末を開くと、薬価材の在庫の管理画面を展開した。
さっきは、持っていった二十四箱全部使ったから……
二十四箱と入力して、ふと思い立って坂下に言った。
「薬科材って、今日使った分、発注した方がいいのかな?」
「うん。これからもっと使うから」
「今発注すれば、今日中に届くんじゃないかな」
坂下は長い髪をいじりながらこちらを向いて、正面の村上さんのメガネも口を挟んでくる。
「わかりました!」
俺は、二人に返事をすると、アイコンをクリックして専用の発注書を展開させた。
「一緒にこれも発注頼むよ」
脇からメモが差し込まれ、本田班長が立っていた。
「あ、わかりました」
メモには、FA-1携帯用薬科材カートリッジが二八八個と手投げ式小型薬科材が一四四個もあった。
「こんなに、ですか?」
俺は驚いた。
配属されてから消耗品担当になった俺は、薬科材を何度か発注しているが、これだけの数は初めてだった。
でも、本田班長は澄ました顔を俺たち三人に向けた。
「薬科材を常時携帯するってさ。ボチボチを駆除することに決まったよ!」
でも、何のことやら俺には意味がわからない。
さっき坂下の言っていた、「これからもっと使うから」と、関係があるのだろうか。
そんなことを考えていると、すぐに坂下が立ち上がった。
「では、携帯用を持ってきます!」
「うん。頼む!」
本田班長が頷いて、倉庫に取りに行くのだとすぐにわかった。
ならば消耗品担当は自分ではないかと、俺も腰を上げた。
でも、少しだけ早く立ち上がった村上さんのメガネに止められた。
「僕が行く。山口くんは発注を頼むよ!」
「あ、わかりました」
確かに自分は発注を済ませるべきだと思いなおして腰を下ろした。
ほかの班がどっと湧いて、一気に周囲が慌ただしい空気に包まれて行く。
鈴木係長を失って早々、薬科材を携帯できるとあって、士気が上がるのは当然だと俺は思った。
まあ、別に俺には関係ないけど!
不意にそう思って、慌てて端末に向かう。
俺は、発注書に本田班長のメモを追加記入して、送信ボタンを押した。
何だかもやもやする。
展開した画面に「発注完了」と表示されれ、発注した内容が一覧になって見ることができた。
俺は、それを確認しながら、納期が今日の午後五時であることを本田班長に報告した。
「うん。わかった。在庫には気をつけておいてね」
本田班長は、そう言って笑みをむける。
「はい。わかりました!」
俺は、即答しつつもふと小さく首を傾げた。
在庫に気をつけろって、そんなに使うのかー? これ!
でもすぐに、ほかの班がまた熱気を帯びてどっと沸いた。
まだ、鈴木係長のことを口々に言っている。そんな気がした。
皆、やる気満々だし、確かにこれなら、相当の在庫が必要かもなー!
俺はそう思った。
間もなくして、倉庫に行っていた村上さんと坂下が台車を押して戻って来た。
二人に気づいたほかの班の連中が、すぐに台車に群がってガサゴソと漁りだした。
どんだけ駆除したいんだよ。馬鹿々々しい!
俺は、何だか嫌悪感を感じて、彼らに背を向けると、端末を見た。
けれど、画面は「発注完了」のままで何も変化がない。
それでも、画面を睨み付けると端末に食い付いた。
何がっ、係長の鈴木だっ!
そんな思いが込み上げてきて、慌てて俺は、口をへの字に強く結んだ。
するとそのとき、突然脇から目の前に何やら差し出されて、俺は慌てて仰け反った。
何事かと思わず顔を顰めると、すぐ隣に坂下がいた。
「これ、今から常時携帯だから」
いつの間に人混みから抜け出していたのか。
持っていた、携帯用の薬価材を手渡してきた。
「あ、ありがとう」
光沢のない黒い、でも、一見すると、円筒状の細長い鉄パイプのような重厚感のあるそれは、実際にはとても柔らかくて軽量だ。
材質はプラスチックかゴムでできていて、すっきりコンパクト。
携帯するには適している。
握り易いグリップも付いているが、打撃には不向きだ。
「使い方、わかる?」
円柱状のカートリッチも手渡されて、坂下は訝しげな表情を向ける。
「あー。一応、わかるはずだけど!」
俺は、曖昧な物言いをしてしまってから、急いで頭を巡らせた。
確か、この課に配属されてすぐ、教わったはずなのだが、何故か記憶がはっきりしない。
無意識にグリップエンドを上にして薬科材を持ち直した。
途端に、はたと気がついて、
そうだっ!
と、カートリッジをグリップエンドの中央に押し当てると、そのまま沈み込んで筒の中に収まっていく。
続けてもう一つカートリッジを押し込みながら、確か、全部で五個入るはずだと思い出した。
「大丈夫なようね」
すべてのカートリッジを装填し終えた様子を見て、坂下が薄い笑みを向けた。
俺は、無意識にグリップを掴み直した薬科材を徐ろにジャケットの内側に装着してみせると、
「ああ、だって、習ったからね!」
と、ジャケットを叩いてみせた。
けれど、誰に習ったのか、思い出せない。
そんなもやっとした俺を見て、それでも坂下は満足そうに頷いて言った。
「午後からうちの班は庁舎内で活動だから」
「庁舎内って、この中で?」
俺は意味がわからず、床を指差した。
だってこの庁舎にはロの字の廊下は何処にもなくて、まさか出るとは思えなかった。
すると、薬科材にカートリッジを詰め込みながら、村上さんがやって来て、
「そうなんだよ。ここって古いだろ。だからさ、結構出るんだよねー!」
と、言った。
「へぇー! そんなところで事務室構えていたなんて驚きですわ!」
俺は何だかムカついて、無意識に口走ってしまい、慌てて口を継ぐんだ。
先輩に向かって何言ってんだっ!?
けれどふと、俺の脳裏に、巨大な黄色い卵型の着ぐるみのような有害物質が、鈴木係長の半身を咥え込んでいる様が蘇った。
何だよっ! 俺の所為かよっ!
俺は、唇を噛み締めて椅子の上で小さくなった。
「まあ、うちは班行動だから、とりあえず、昼食済ませてしまってよ!」
本田班長が声をかけてきて、三人で返事をすると、
「行こう。食堂」
と、坂下に誘われた。
けれど、村上さんは黙って背を向けた。
そのすぐ前に、すっかり人のいなくなった台車が一つあって、数個のダンボールを載せたまま放置されていた。
「あっ! 自分がやりますっ!」
俺は、慌てて席を立った。
もう発注は済んでいる。
そもそも消耗品担当は俺なわけで、何より先輩を差し置いて、同期の女性と先に食堂へ行くわけにはいかない。
「いいよ、僕がやる!」
でもすぐに、村上さんに断られた。
テキパキと空の段ボールを積み直していく。
「君は先に食堂に行きなよ。山口くん!」
「はあ、でも、担当は自分なんですが……」
何をそんなにムキになっているのか、まるで取り付く暇もなく、村上さんは一人で台車を押して行ってしまった。
「先に行ってますからねー!」
その後ろ姿に坂下は、珍しく大きな声を出すと、村上さんは背中で手を上げた。
そのやり取りが何故か羨ましくて、俺は村上さんの後ろ姿を睨みつけていた。
「行こう。食堂」
「あー、そうだな」
坂下に声をかけられ、ふと見ると、すでにもう、ほかの班の連中の姿はない。
「もう、混んでるかも」
俺は、坂下に促されて食堂に向かった。
「そうだな。まずあっち、左の奥から始めようか」
昼休みが終わって早々、本田班の四人は、地下駐車場に来ていた。
各部所の庁用車が置かれてはいるが、庁舎機能が新庁舎へ移行されてから、広い駐車場の殆どの車室が空いたままになっている。
リカバリー課で使っている車両もここにあるので、地下駐車場には俺も何度か降りてきたことはあった。
けれど、庁用車はエレベーターのそばに集められているため、こんな奥まで来るのは初めてだ。
「わあー! マジで広いですねー!」
もうずっと後ろになってしまった庁舎からの直通エレベーター。
そこから何人かの人が降りて来たのが見えたのだがよくわからない。
けれど時期に、大きな音を響かせて、数台の庁用車が出口へと走って行くのが見えた。
それが、伊藤班と石川班の車であることは、俺にも何となくわかった。
彼らニ班は外回りで、本田班だけが庁舎内での活動なのだ。
自分が経験不足だからなのかと、俺は気になった。
「大方の役所の機能が新庁舎に移って三年目。もうこんなに荒れちゃうんですね」
「元々古いからね。使わなくなるとあっという間だよ」
村上さんと本田班長が先を歩いて、その後ろを坂下と並んで一緒に続いた。
使われていない車室が永遠と並び、薄暗い電灯に湿ったホコリの匂いがして、確かにすっかり寂れている。
何処からか聞こえてくるボイラーの排気音がやたらと大きく響いていた。
そんな地下駐車場の一番奥、左側の車室に着くと、本田班長が俺を向いて言った。
「それじゃあ、始めるよ。山口くん!」
「はい!」
やっぱりこれって、俺が初めてだから、だから気を使われているのか?
と、思いつつも返事をしたときには、坂下を正面に、右斜め後ろに本田班長、左斜め後ろに村上さんと、三人が俺を囲むようにして薬科材を手にしていた。
俺も慌てて薬科材を手に握ると、正面の坂下が何かを真上に放った。
ような気がした。
でも、すぐに白く一瞬だけ輝いてよくわからない。
「自分のペースでエレベーターの方へ歩いてくれて構わないよ! 山口くん!」
「え? はい!」
本田班長の声がして、返事を返したものの、何だかよくわからない。
自分のペースって何だ? どうすればいいんだ?
そう思ったときだった。
突然、真後ろで音がした。
「ボチボチ、ボチボチ……」
いや、音ではなくて、声。男の声だと、俺は想った。
焦って振り返ると、そこには誰もいない。
ただ古ぼけたコンクリートの壁があるだけだ。
けれどまた、
「ボチボチ、ボチボチ‥…」
と、声がして、俺は慌てて辺りを見回した。
すると、アスファルトの床にぼんやりと映る自分の影の後頭部のすぐ後ろで、目玉のない口を開いたままの真っ黒な頭部がいることに気がついた。
それは今にも噛み付いて来そうで、俺は逃げ出すよう前につんのめって、思わず坂下にしがみついた。
「何かいるっ?! 誰かいますよっ!?」
表情のない、でも少し驚いたような坂下の顔が目の前に迫って、すぐに後ろの村上と本田班長が言った。
「あー、わかってる!」
「今、やってるよー!」
二人とも、特に慌てる様子もなく、手に持った薬科材をこちらに向かって翳してはゆっくりと動かしている。
「大丈夫。気にすることなんてないわ!」
「あっ!? ごめん!」
うっかりしがみついたままだった坂下に真剣な表情をされて、俺は慌てて手をはなした。
「ボチボチなんかにどうこうされたりはしないから!」
「ああ、そうなんだ!」
動じる様子のない坂下が、何故か少しムキになっているように見えた。
けれど、それは俺がしがみついたからではなく、何かもっと別な事だとすぐにわかった。
けれど、俺にはそもそも坂下の言っていることがわからない。
俺がそんなことを考えていると、
「ボチボチ、ボチボチ……」
と、すぐ頭の後ろで声がして、無意識に逃げ出すように飛び上がってやっぱり坂下にしがみついた。
「ごっ、ごめんっ!?」
俺は慌てて坂下からはなれようとした。
でもすぐに、
「ボチボチ、ボチボチ……」
とされて、それは周囲から一度に沢山聞こえてきた。
「いるっ!! いますよ沢山いますっ!」
アスファルトには、口を開いた真っ黒な頭部だけの影がいくつも自分の後頭部に迫って来るのが見えた。
「わああっー!?」
俺は叫んでまた坂下にしがみついた。
けれどすぐに、アスファルトの真っ黒な頭部の影は全部消えて、でもまた、真後ろで、
「ボチボチ、ボチボチ……」
と、声がして口を開いた真っ黒な影が現れるが、すぐに消えた。
「凄いですね。効果抜群!」
「山口くん! 後一時間はこんな感じだからね。徐々に慣れていかないと終わんないし、坂下さんが大変だから!」
そう言われてはっとした。
見ると、村上さんと本田班長の薬科材が俺の背後をゆっくりと撫ぜるようにしていることに気づいた。
それは、ボチボチを薬科材に吸い込むことで消滅させているように見える。
「ボチボチ、ボチボチ……」
と、立て続けに、次から次へと現れても、すぐさま二人の薬科材がそれらに近づけられて、吸い込んで消滅していく。
「わたしたちも加わらないと、時間内に終わらないから」
「ご、ごめん。坂下さん」
坂下にもそう言われ、俺は今度こそ謝罪して手をはなした。
確かに、ボチボチに近寄られても、痛くも痒くも何でもなくて、怖がるようなものでは全然ない。
なのに、一人で大騒ぎして、女性にしがみついてしまうなんて。
俺は恥ずかしいやら情けないやら、どうしていいのかわからない。
こういうのって、セクハラ、だよな。
でも、すでに坂下の視線は俺にはなくて、後ろの二人とは違う所に薬科材を伸ばして、真っ黒な影を吸い込んでいる。
俺も三人を見習って、持っている薬科材を手薄なところへと差し出しては、真っ黒な影を吸い込んでいった。
「その調子だ。山口くん! そのままゆっくりエレベーターの方へ歩いてみようか!」
「はい!」
俺は、伸ばした薬科材でボチボチを吸い込みながら足をゆっくり踏み出した。
すると、すぐ正面に坂下が立って、
「ついてきて」
と、差し出した薬科材に視線を置いたままで、それでもちらっとこちらを見た。
「ああ!」
俺も、周囲に視線を走らせ、ボチボチに薬科材を伸ばしながら返事をした。
でも、坂下との間隔が近いように思えて、セクハラになりはしないかと俺は一人で戸惑った。
それでも、坂下に促されるようにして歩き出すと、すぐ後ろから、本田班長と村上さんの動く薬科材の気配もついてきた。
「ボチボチ、ボチボチ……」
と、繰り返し何度も、すぐ間近で男の声が聞こえる。
目玉のない、口の開いた真っ黒な頭部だけの影があちらこちらから迫って来る。
でも、ただそれだけだ。
思っていた以上にボチボチの数が多いけれど、多いだけで、だから四人ひと組なんだと俺は思った。
気づくと正面の坂下のことも意識することなく、後ろに二人とも息を合わせて、薬価材を動かすことに専念することができていた。
これがボチボチの駆除なのだ。
そう思ったときには、辺りはすっかり明るくなって、目の前にエレベーターがあった。
「残り、三十秒!」
すると、後ろの村上さんが急に声を上げた。
えっ? 何が三十秒だって……
俺は意味がわからず、でも、迫るボチボチにとにかく薬科材を翳して、駆除を続けた。
「ボチボチ、ボチボチ……」
と、男の声に混じって村上さんがカウントを始めたのが残り十からで、0になると今度は班長の本だが指示を出した。
「よしっ! 終了ー!」
突然、そう言われて、俺は意味がわからず、でも、誰もが散開するものだから、俺も自然とそれに習っていた。
「くそー疲れたっー!」
思わず叫んで、そのまま座り込みたくなったが、流石にそれは我慢した。
「お疲れ様」
一つ背伸びをした坂下が薄い笑みを向けていた。
「やっぱり凄いよ。数が半端ない!」
「そうだね。成果は充分に出せたと思うよ」
村上さんも本田班長も、肩で息をしながら、それでも満足そうな笑みを浮べる。
「山口くんが、頑張ってくれたお陰だね!」
「そ、そんなことないですよ!」
本田班長に唐突に言われ、俺は慌てて答えながらも、複雑な気持ちだった。
一人で怖がって大騒ぎしていた自分が、班のために役に立てているとは到底思えない。
「だからお前は信用できねえんだよっ!」
不意に鈴木係長の言葉が蘇って、唇を噛み締めた。
やっぱり、気を使われてるんだ……
そう思ったときだった。
「あれ、ボチボチの声がしない!」
俺は、慌てて周囲を見た。
でも、あの口を開いた真っ黒な頭部だけの影は何処にもない。
「あいつら、いなくなってる! いないですよ、何処にも!」
俺は慌てて、三人に怒鳴った。
「だから、一時間、経ったから」
でも、坂下は冷静に答えた。
すぐに続けて、本田班長と村上さんも笑顔を向ける。
「続けたいなら君らだけでやりなよ。流石に年長者は連続は無理!」
「いやいや、山口くんが今すぐ続けるって言ったって、僕は休むからね!」
その様子に俺はほっとした。
別に、気を使われているんじゃない。
一時間、休むまもなく集中して駆除し続けてたのだ。
充分な成果というのはともかく、自分だって役には立てているのかもしれない。
そう思った。
「俺も、休みたいっすっ!」
俺は苦笑して、頭をかいた。
すると不意に、坂下が持っている薬科材を翳して見せた。
「それに、四人とも、カートリッジが全部切れてる」
見ると、薬科材の先端部分だけが丸く青く何度も点滅しているのがわかる。
それは、坂下のだけでなく、四人全員の薬科材が同じ状態になっていた。
これには本田班長も気付かなかった様子で、
「たった一時間で凄い成果だ! 予想以上だ!」
と、興奮気味に声を上げた。
本田班は、休んでる場合ではなくなった。
カートリッジの交換のため、格納室へと向かった。
「お疲れ。流石、早いわね」
地下駐車場から更に地下に下ると格納室があって、そこには看護師の女性がいた。
「元気そうでよかったわ。山口くん」
「あ、はい。どうもっす」
本田班長と同世代に見える、島崎と名乗った白衣のズボンとジャケット姿のその女性は、看護師ではなかった。
有害物質の研究をしている、リカバリー課の研究者だ。
だから、自分と同年代の村上さんや坂下は、「島崎先生」と呼んでいた。
けれど、島崎先生がどんな研究をしているのか、俺は具体的なことはわからない。
端末はあるものの、格納室にはこれといった、研究者っぽい機器を置いていない。
「地下駐車場がこの調子なら、もう、何処でも平気そうね」
そう言って、大型のカウンターデスク越しに薬科材を受け取ると、手際よく、使用済みのカートリッジを取り出して、パッキンに詰めていく。
同じようなパッキンが島崎先生の後ろの大型な台車の上にいくつも載せられて積み重ねられていく様は、作業員という印象だ。
俺は、渡された新しいカートリッジを装填しながら、室内を見回した。
大きなカウンターデスク内には、パッキンを載せた大型の台車のほか、ストレッチャーのような機器が何台かあった。
カウンターデスクの外には椅子が数脚あるだけで、「格納室」という部屋の名称の由来もはっきりしない。
ただ、カウンターデスク内に大きな鉄の塊がある。
それは重厚な扉のようで、もしかするとあの中が格納室なのかもしれないと、俺は思った。
「ね。山口くん!」
「あ、はい!」
不意に島崎先生に名前を呼ばれ、俺は焦った。
何故か思わず畏まり、声が裏返った。
そんな俺を愉快そおに、島崎先生は微笑んで見つめてから、ぽつりと言った。
「頑張ってね」
格納室で薬科材に新しいカートリッジを詰め込んだ本田班は食堂のある最上階へと向かった。
とは言っても、ここ旧庁舎は十二階建てだ。
食堂は、その最上階の全フロアを使った開放的な空間とその見晴らしの良さが売りで、当時の旧庁舎の目玉だったらしい。
現在では、見晴らしは決していいとはいえないものの、南側をすべて窓ガラスとした徹底した作りの食堂は、天井も高くて、今でも充分に開放感を得ることができると俺は思っていた。
そんな食堂は、午後になって、すっかり人気がなくなっていた。
その食堂の外側を真っ直ぐ伸びる北側の廊下で、本田班はボチボチの駆除を始めることになった。
何故ここなのか。
三人はわかっているようだったが、俺には理由はわからない。
今更聞くこともできずに、俺も当然わかっているような顔をした。
「準備はいいかい。山口くん!」
「はい! いけます!」
本田班長が、俺に声をかけるのを確認して、やっぱり坂下が何かを真上に投げたような気がした。
でも、それを見て取る間もなく、すぐに真後ろから、
「ボチボチ、ボチボチ……」
と、声がした。
目玉のない頭部だけの真っ黒な影が、口を開いてちらっと見えて、でもすぐに、続けて同時に四方から声が聞こえてくるものだから、そのまま一斉に駆除が始まった。
今度は慌てて逃げ出すようなことはなく、正面で向かい合う坂下にしがみついたりもしなかった。
何より、ボチボチの数が地下駐車場よりも明らかに少ない。
引切り無くボチボチは寄って来るものの、その出現頻度は圧倒的に減少していて、誰もに余裕があるように感じた。
「あれ、随分少ないっすよね!」
「直線だから、ここ」
「このぐらいが丁度いいかなー、僕は」
「でも、これじゃあー、一時間でカートリッジを使い切るってことにはならないだろうけどね!」
一時間後、確かに本田班長の言った通りになった。
誰一人として、薬科材のカートリッジを使い切ることができなかった。
でも、不思議なことに、ボチボチの姿も周囲から消えた。
「あれ? ボチボチがいなくなりましたけど!」
と、俺が三人を見回すと、坂下が面倒くさそうな表情を向けた。
「一時間、経ったから」
「あ、そうか」
知っていて当然のような顔をして言われて、俺は、慌てて頷いた。
でもやっぱり、意味がわからない。
一時間経つとボチボチがいなくなるとでもいうのか。
何だかよくわからないまま、四人は食堂に入って一休みすることになった。
それぞれ適当に飲み物を持ってテーブルを囲んだ。
今の一時間で、四人はカートリッジを一個半から二個使っていた。
勤務時間を考慮すると、あと一時間でカートリッジを使い切る必要があると、本田班長は言った。
「五時を過ぎても厄介だしね」
その上で、地下駐車場は除外すると付け加えた。
「八階のエレベーターホールが無難なところがな」
「そうですね。山口くんいるし!」
本田班長の提案に素早く村上さんが同意して、坂下が小さく頷いた。
何でオレ?
と、思いつつ、妙に広くてエレベーターが何機も並ぶホールが脳裏に浮かんだ。
「どうして、八階のエレベーターホールなんですか?」
気づいたときには、俺は身を乗り出して、三人を見回していた。
「山口くんいるし!」という村上さんの言葉も気にはなったが、何より、行ったことのないエレベーターホールの光景が引っかかった。
「以前、駆除に失敗したんだよ」
本田班長はそう言って腰を上げた。
「それじゃあー行こうか!」
四人で、西階段を降りて八階へ向かった。
賑やかな事務室が並ぶ廊下を真っ直ぐに歩いて、ずっと行ったところで、目の前が開けた。
「あ、出れた」
ポツリと村上さんが言って、一同辺りを見回した。
そこは、エレベーターホールと呼ぶには余りにも広過ぎた。
まったく人の気配はなく、本当に誰もいない。
左側全面が窓のようだが外がわかるわけではなく、右側には無駄とも思える数のエレベーターが並んでいる。
さっき頭に浮かべたエレベーターホールの光景と似てるといえば似てなくもないと、俺は思った。
「始めるけど、十二階よりは多いはずだ。そのつもりで、山口くん」
「はい」
やっぱりオレ、なのか!
そう思ったが、すぐにまた坂下が真上に何かを放った。
一瞬、真っ白になって、でも、次の瞬間、頭のすぐ後ろで、
「ボチボチ、ボチボチ……」
と、声がした。
あっという間に周囲、いたるところから声がし始めて、あの目玉のない真っ黒な頭部だけの影が口を開いて迫って来るのが見えた。
それは、明らかに十二階よりも多くて、地下駐車場のような活発動きに感じる。
気づくと体が勝手に動いて、ボチボチを駆除し始めていた。
正面で向かい合う坂下も、後ろにいる本田班長も村上さんにも殆ど余裕は感じられない。
もちろん俺もとにかく薬科材を操るので精一杯だった。
「このホールは一通だから! 山口くん。東階段の方へ進むんだ!」
えっ? 一通っ?……
本田班長の言葉が引っかかったが、聞き返す余裕がない。
「一時間経ったときに、一番向こうの端のエレベーターの前にいればいい!」
でも、言うほど簡単には進むことなんてできない。
そんなの無理だっ!? 一番向こうのエレベーターだなんて……
そもそも、立て続けに出現して来るボチボチに、前に進むタイミングがわからない。
それでも、自分では進んでいるつもりだった。
けれど、左手はエレベーター、右手は窓と、風景が変わらないので実感が持てずに、俺は焦った。
そのとき。
「後少し! 一緒に合わせて、ついて来て!」
正面の坂下が、上下左右に視線を走らせたまま、薬科材を振りながら、俺に言う。
「わかったっ!! 頼むっ!?」
俺は、坂下の動きに合わせて前に進んだ。
「ボチボチボチボチッー!」
時折、四方八方から一斉に襲われて、捌ききれた自信がなかったが、それでも何とか、坂下に引っ張られるようにして前に進んでいる実感があった。
何度か、四方八方からの襲来を受けたものの、お陰で何とか進むことができていた。
けれど、何度目か襲来のときだった。
「ボチボチボチボチッー!」
再び激しく四方八方から襲われて、右足と左腕に違和感を感じて俺は慌てた。
まさかっ?! 噛まれたのかっ!?
と、手足をばたつかせた。
そのときだ。
「残り、三十秒!」
と、後ろの村上さんが急に声を上げた。
えっ?! もうそんな時間っ!?
俺は焦った。
薬科材振り回しながら、手足をばたつかせるが、取れてはいないと感覚がする。
激しく手足をばたつかせると、
「大丈夫。取った」
と、坂下が言って、
「こっちも駆除した!」
後ろから本田班長の声が聞こえた。
「すっ、すいませんっ!」
そう後ろに怒鳴って、ふと、横を見ると、丁度、一番端のエレベーターの前に来ていた。
もしかして、この状態を維持すれば、無事に一時間を迎えることができるのではないか。
俺は、ボチボチの駆除に集中した。
「ボチボチボチボチッー! ボチボチボチボチッー!」
と、立て続けに大群に襲われても、落ち着いて薬科材を扱えれば問題はない。
すぐに駆除ができて、皆の足手まといになることはないとよくわかった。
「ボチボチ、ボチボチ……」
すぐにまた、通常のボチボチが、そこら辺に出現する。
けれど、気づくと村上さんがカウントを始めていて、すでに五を過ぎていた。
「三、ニ、一、0っ!」
と、聞いて、俺は途端に気が抜けた。
カートリッジはすでに使い切っていて、薬科材の先端が青く点滅を始めている。
流石に疲れた。
今度は躊躇なくその場に座り込もうとした。
そのときだった。
「よしっ! 退避っー!」
本田班長は、「終了」とは言わなかった。
「退避って、どういうことっすかっ?」
俺は、本田班長を振り向こうとした。
その瞬間、
「なー、山口」
と、背後から郷田の声が聞こえたような気がして、俺ははっとした。
けれど、振り向く間もなくすぐに腕を掴まれると、そのまま左へ引っ張られて行く。
「ダメッ! こっち!」
「はいはい乗るよ、山口くん!」
坂下と、それに村上さんの声がしたかと思ったら、俺は、エレベーターの中に連れ込まれていた。
それは大型タイプのエレベーターで、庫内はとても広くて、目の前が急に開けたような気がいsた。
「あれ? 郷田は」
と、慌てて俺が後ろを振り向いたときには、エレベーターのドアは閉まっていた。
一拍置いて下に向かって動き出すと、自然と庫内の緊張が解れるのがわかった。
「ふっー! 間に合ったっ!」
「流石に緊張感が半端ないね!」
村上さんと本田班長が安堵の声を上げ、パネルの前の坂下もほっとしているのが見て取れた。
俺は、庫内の手すりに掴まり、閉じたままのドアを見ていた。
「俺、郷田の声を聞いたんだ」
俺は、そう坂下に言おうとした。
だって、坂下も郷田の声を聞いたかもしれないし、俺たち三人は同期だからだ。
でも、やめた。
以前、このエレベーターに乗ったことがある。
俺は、唐突に思い出した。
まだ、リカバリー課に配属される前のことだ。
あの八階のエレベーターホールから、ストレッチャーと一緒に、この大型のエレベーターには乗ったことがあるのだ。
今思うと、あの看護師は島崎先生で、ストレッチャーの上にいたのは、リカバリー課の職員だったに違いない。
だとしたら、俺の所為だっ?!
俺は、頬が強張るのを感じて、そっぽを向いた。
あのとき、俺の背後にいたものは、あの黄色い大きな卵型の着ぐるみだった。
駆除に失敗したというのなら、あのときで間違いないのではないのだろうか。
そして、あれは俺の所為だと、島崎先生は言っていたではずだ。
だいたいあの日、俺の前所属へ来た女性、小山さんは、今はもうリカバリー課にはいない。
俺は、ぞっと寒気がして、鳥肌が立った。
まさかとは思いつつも、恐ろしくなった。
ヤバイ?! 俺の所為だっ!? 八階はヤバイんじゃないのかっ?!
けれど、本田班長の明るい声が庫内に響いた。
「それじゃー、山口くんもいることだし、当面の目標は、八階のエレベーターホールってことにするかな!」
「いつかはやらないと、ですからね」
「くぅー! ヘビーになりそうだ!」
本田班長の突然の提案に、坂下も村上さんも特に反対ではないようで、俺は焦った。
「ちょっと待ってください!」
本田班長に向き直って、思いっきり訴えた。
「今回はたまたま上手くいっただけかもしれないじゃないですか? そんな簡単に決めてしまうなんて危険ですよ!」
三人がぽかんとした表情で俺を見ていた。
俺は、少し恥ずかしくなって、でも、続けた。
「っていうか、俺がいるからって、どういうことですっか? 何か可笑しいっすよ。俺、まだ経験値低いのにそういうの!」
でも俺は、あの日の出来事は話さなかった。
隠すつもりはなかったが、話す術がわからない。
エレベーターの駆動音だけが大きく聞こえた。
けれど、不意に、本田班長が口を開いた。
「あのエレベーターホールって、本当は存在しないんだよ」
「えっ? そんなこと」
それは訳が分からずに、俺は曖昧な返答になった。
突っ込むところなのか、納得すべきものなのか、よくわからない。
でも、本田班長はそのまま続けた。
「実際にある八階のエレベーターホールを勝手にアレンジしちゃってるっていうとわかるかな?」
「アレンジ、ですか?」
「そう。いつの間にか作られちゃってさー!」
そう言って苦笑する。
「ホイホイ的な意味合いがあるみたいなんだけど、入るのも至難の業でね」
「はあー」
「入口は廊下、出口は島崎さんの作ったこのエレベーターってことで、すんなり入れるのは出口の製作者と山口くんぐらいなわけっ!」
「じゃー、東階段は? 東階段はどうなってます?」
俺は、思わず本田班長に身を乗り出していた。
だって、このエレベーターが島崎先生の作った出口なら、何故あのとき、俺は東階段を降りるように言われたのか。
何か意味があったのではないか。
そう思ったのだが、本田班長の返答は拍子抜けするものでしかなかった。
「東階段? さあー、わからないな。聞いてないけど!」
「そうですか」
俺は、俯いて口を結んだ。
もし、エレベーターに乗らなかったら、有害物質をどうにかできたのだろうか。
島崎先生の言う事を聞いて東階段を降りていたら、今頃何か変えることができたのだろうか。
今更、島崎先生に聞けるわけもなく、ただ、言う通りにしておけばと若干の後悔が俺の中でぐるぐると回った。
俺の所為だ。
そう思ったとき、エレベーターが止まって、上下に小さく揺れると同時にドアが開いた。
「八階のエレベーターホールの駆除にあたってくれるんだって?」
納品された薬科材一式を持って、格納室に来ていた青木主査が満足そうに笑顔を向けた。
「助かるよ! ね。島崎さん」
「ええ、そうね」
テキパキとカートリッジをパッキンに詰めながら、島崎先生は言った。
「明日もお願いね。山口くん」
「あっ、はい!」
手を休めることなく、メガネだけがこちらを向いて、俺は思わず返事をしていた。
新しいカートリッジを薬科材に詰め込みながら、俺は複雑な気持ちになった。
やっぱり島崎先生はあの日のことは言わなかった。
俺だって聞く勇気なんてない。
ふと、ストレッチャーに乗せられた、女性の姿を思い出す。
俺の所為だから、駆除しないと。
俺はそう思って、でも、ふと、鈴木係長のことを思い出した。
黄色いおおきな卵型の着ぐるみに上半身を咥え込まれた光景が浮かぶ。
あれも俺の所為なのか。
一瞬、そう思って、慌てて首を振った。
あれは違う! 普通に業務上、致し方のないものだ。
そう思った。
薬科材のカートリッジを詰め替えた本田班の四人は、青木主査を格納室に残して事務室に戻った。
「先に上がりなよ。勤務時間はもう過ぎている」
という、青木主査は格納室に残して来たのだが、事務室にはまだ、外回りの伊藤班と石川班が戻って来てはいなかった。
外回りって、大変なんだろうな……
俺は漠然とそう思った。
それに今日は鈴木係長の件もあった。
あの有害物質は健康センター内に据え置きの薬科材で囲んだままなのだ。
外回りの班も、格納室にいる青木主査も、健康センターにいるあの有害物質を駆除するまでは帰れないのだろう。
俺はそう思って、
俺も、残っていよう!
と、決めた。
そのときだ。
「帰らないの?」
不意に坂下が聞いてきた。
今さっきも、本田班長が、
「今日はお疲れ様。明日もあるからよく休んでね」
と、班員に散開を指示していた。
でも、村上さんも坂下も返事はしたが、本田班長も含め三人とも席を立っていない。
居残っているのだ。
「あー、俺も、もう少しいるよ!」
俺は苦笑して頭をかいた。
そのときだ。
伊藤班と石川班が、ガヤガヤワイワイと戻って来た。
やったんだっ!? あの健康センターの有害物質を駆除したんだっ!!
俺も思わず笑顔になって、身を乗り出していた。
「お疲れっ! 羨ましいなー、外回りっ!」
すかさず村上さんが席を立って、伊藤班と石川班のところへ駆け寄って行く。
「中さん。今日は何処に行ってたん?」
「あー、俺らはスポセン!」
「わたしたちは富坂町小跡よー!」
「くぅー! やっぱり羨ましいなー! スポセンに入ってるレストラン。有名なイタ飯のチェーン店だよねー。それに、富坂町小跡の近くには確かスイーツ専門店があったはず!」
「流石、村上氏!」
「食べて来たよ!」
「くちょー! マジ羨ましい!」
俺は、唖然とした。
村上さんの食べ歩きの趣味は別にどうでもいい。
けれど、石川班の中村も伊藤班の寺田さんも、楽しそうに盛り上がって笑っている。
俺は戸惑った。
「で、収穫は?」
「俺ら、カートリッジ一個ってところだな!」
「わたしたちもそうね。一個使ったか使わないかってところ! どっちにしてもこれじゃ取り出せないから、また明日よ!」
「まあ、村上はあれと一緒なんだ。同情するぜ!」
「なんの中さん。うちはうちでやり甲斐あって楽しいよ! ただ、外回りが羨ましいってだけだから!」
「無理すんなよ! つまんないよなー。マジで命かけるなんて! 割が合わない!」
「やめときなさいよ。中村くん! 村上くん、本音言えるわけがないでしょー!」
「あ、そっか! すまんすまん!」
「いやいや本当だって! ただ僕も、ここ旧庁舎の食堂じゃなくてイタ飯やスイーツを食べたいなってさっ!」
そんな問答を何度か繰り返して村上さんが自席に戻って来た。
「イタ飯とか言ってたら腹減ったわー!」
おおきな独り言を呟きながら、徐ろに身支度を始めると、
「山口くんも帰ろう。居ても仕方がないだろ」
と、こちらに声をかけてきた。
チラっと隣を見ると坂下も身支度をしていて、俺も慌てて始めた。
「そう、ですね」
結局、伊藤班と石川班は健康センターへは行っていなかった。
かといって、それぞれの持ち場で、カートリッジを使い切るほどボチボチの駆除もしていない。
鈴木係長のことも、もう頭にはないようで、イタ飯やスイーツを勤務時間中に堂々と食べていただけなのだ。
俺は何だかバカバカしくなって、とても居た堪れなくなっていた。
もういいやー! 早く帰ろう!
俺はそう思った。
翌日から、午前二回。午後二回の一日計四回。
本田班は、八階のエレベーターホールでボチボチの駆除を始めた。
「一日四回とは言ったけど、辛かったら遠慮なく申告してよね。山口くん。何かあってからじゃ遅いから!」
始める前に、本田班長からそう言われて、
何で俺だけっ?!
と、ムキになった。
俺しかすんなり入れないのだ。
班長として確認するのは当然なのだが、ついつい俺は即答していた。
「別に大丈夫っす!」
ところが、実際に始めてみると、とても大丈夫なんかではないとすぐに悟った。
「ボチボチボチッ! ボチボチボチッ!」
始めたそばから一斉に、周囲から攻め立てられて、息つく暇もない。
誰もが必死に薬科材を振っても、まったく余裕なんてなかった。
思わずほんの少しだけ、しゃがんでしまいたい衝動に駆られるのを、何とか堪えて、とにかく一番端のエレベーターを目指して歩いた。
ここは有害物質の作った空間だから、据え置きの薬科材は使えない。
携帯用の薬科材で地道にボチボチを倒していくしかないのだ。
何回やれば終わるのか。何日で元に戻るのか。まったくわからない。
ただ、ここにいる間は、ボチボチを倒せなくなった時点で、あの黄色い卵型の大きな着ぐるみが姿を表してしまう。
それまでに、一番東端のエレベーターまで行かなくてはいけないのだ。
だから、それなりの覚悟と緊張感を持って駆除にあたった。
でも、郷田の声は聞こえなかった。
当然だ。
今頃、職場で仕事中のはずで、こんなところで声など聞こえるわけがない。
そう思った。
順調に午前の二回を終えて、昼食を摂った。
ところが、午後の一回目。今日の三回目のときだ。
始めてみると、体が重かった。
動作の一つ一つが鈍くて、何だかとても眠かった。
疲れてる。
そうは思ったが、今更どうにもできない。
「ボチボチボチッ! ボチボチボチッ!」
容赦なく襲いかかってくるボチボチに、明らかに反応が遅れていいるのが自分でもよくわかった。
集中できない。
薬科材を振る手が重い。視線を動かすのが面倒だ。腹筋が痛くてたまらない。
このまましゃがみ込んでしまった方が絶対に楽だと思い込んでいる自分がいる。
だってそうだろ。ボチボチに噛まれたって、痛くはないしさ。
そう思ったときだった。
「しっかりして!」
正面の坂下の怪訝そうな声がした。
「噛まれ過ぎると元に戻れなくなる」
視線と薬科材を忙しく動かしながら、無表情の坂下が俺を睨むのがわかった。
「流石に昼食後は辛いよね!」
「とりあえず、出口まで踏ん張り切ろうよ!」
背後で薬科材を振っている、本田班長と村上さんも、引っ張るような声をかける。
「とにかく、動いてっ! 薬科振ってっ!」
坂下にそう言われて、俺ははっとした。
誰もが疲れてる。
なのに俺だけ逃げ出そうとしていた。
「だからお前は信用できねえんだよっ!」
また、鈴木係長の言葉が脳裏を過ぎった。
その通りだ。
これでは誰にも信用なんかされるわけがない。
俺は唇を噛み締めた。
「ボチボチボチッ! ボチボチボチッ!」
四方から一斉にボチボチが襲いかかって来て、すぐに薬科材を構えた。
噛まれ過ぎると元に戻れないってどういうことだろう。
黄色い大きな卵型の着ぐるみが出なくても、ボチボチだけで充分危険なのではないだろうか。
そう思うと、ムキになった。
自分が全部駆除して見せようと薬科材を振った。
でも、すぐに薬科材同士がぶつかって、バランスを崩して、体が大きく泳いでしまった。
「タイミングを合わせて!」
「落ち着いて! 山口くん」
「すっ、すいません!」
坂下と村上さんの声がして謝罪した。
もっとちゃんとしなくてはだめだ。
三人の動く気配を意識して、合わせていかないと上手くはできない。
「ボチボチボチッ! ボチボチボチッ!」
再三に渡るボチボチの襲来に、必死に薬科材を振りながら、それでも徐々に乱してしまった三人とのタイミングは合ってきている。
そんな気がした。
「残り、三十秒!」
やっと村上さんがそう言って、本田班長がエレベーターーのボタンを押すのが見えた。
「ボチボチボチッ! ボチボチボチッ!」
ところがすぐに、今度は頭の天辺から一斉に襲われた。
それは完全に予想外の数で、思わず薬科材で頭を抱えて目を閉じていた。
「ボチボチッ!」
と、頭の中を駆け巡って、ふと、
「山口!」
と、郷田の声がした。
「郷田っ!」
俺は思わず声を上げた。
でも、すぐに腕を引っ張られて、
「どうしたの? 早く!」
と、坂下の声がした。
「郷田の、郷田の声がしたんだっ!」
俺がそう言ったときには、エレベーターの中にいて、丁度、ドアが閉じていた。
俺が庫内の手すりに掴まったときにはエレベーターは動き出していた。
もちろん、もう、郷田の声はしない。
するわけがないと、俺は思った。
「お疲れっ!」
「大量、大量っー!」
本田班長と村上さんが、笑顔で声をかけてくれて、操作パネルの前には無表情の坂下がただじっと立っていた。
「すいませんでした」
俺は、姿勢を正して頭を下げた。
「さっきは、急に眠くなってしまって」
「やっぱり、一日四回はキツイかい? 半分の二回にしようか?」
本田班長に、神妙な表情を向けられて、俺は慌てて首を振った。
「いえ大丈夫ですっ! 全然平気ですっ!」
確かにここはキツイから、回数が減るのは助かる。
そうは思う。
でも俺は、もう一度、郷田を確認したかった。
だって郷田は、同期でもなんでもない。
ここの職員でもないことを、俺は思い出したのだ。
「わかった。じゃー予定通り、あと一回。やってみようか!」
けれど、今日、四回目の駆除では、郷田の声は聞こえなかった。
とりあえず、無事に終えることができて、本田班は格納室にいた。
「四回とも濃厚な回収。流石だわ。山口くん」
パッキンにカートリッジを詰めながら、島崎先生は満足そうな表情を向ける。
俺は、戸惑った。
「俺、よくわかんないっす! そういうの」
頭をかいて苦笑した。
すると、島崎先生は、
「いいのよ」
と、笑みを浮かべて続けて言った。
「体調はどうかしら? 今は大丈夫?」
そして、顔色を伺うように俺を覗き込んできて、少し焦った。
「あっ、もう平気です!」
「そう。なら安心ね」
俺はやっぱり頭をかいて苦笑した。
テキパキとしたパッキン詰めのては休めずに、島崎先生は話し続けた。
「ね。坂下さんはどうかしら。体調は大丈夫?」
少しはなれたところにいた坂下は、一瞬、こちらを見ると、すっとそっぽを向いて言った。
「別に、変わりありません」
「それは残念だわ!」
何故か島崎先生はそう言って、わざわざ俺に同意を求めた。
「ね。山口くん!」
俺は、訳が分からずに、頭をかいて苦笑した。
事務室に戻ると、すでにほかの班は帰って来ていた。
全員自席の周辺で、賑やかに雑談をしている。
まだカートリッジは使い切っていないのか、格納室には誰も来ていなかった。
とはいっても、本田班だけでもカートリッジはかなり使っている。
俺は、席に着くと徐ろに端末を開いた。
「発注した方がいいよね。随分使ったから」
と、隣の席で長い髪をいじっている坂下に一応尋ねた。
今頼めば、明日には納品されるはずだ。
そう思った。
けれど、坂下が答えるよりも先に、斜め向かいから本田班長が声を出した。
「当面、発注は青木さんがすることになったから、山口くんは駆除に専念だよ!」
「はい。わかりました!」
俺は返事をた。
そういえば、さっき格納室で青木主査が端末に向かっていたのを思い出した。
青木主査は、鈴木係長の補佐をしていた。
元々発注は青木主査の仕事だったものを、異動してきた俺に無理矢理仕事を与えるために振り当てられたものだと、やっているうちにわかった。
だから、発注の仕事が青木主査に戻るのは別におかしな事ではないのだが、俺は少し引っかかった。
そもそも鈴木係長がいなくなったのだから、その分の負担はあるだろうと思うのだが、青木主査は変わらないように見えた。
事務室も相変わらずで、昨日、鈴木係長が亡くなったとは思えないほど、誰もがあっけらかんとしていた。
そういえば、葬儀については何の連絡もないのだが、いいのだろうか。
俺はふと、気になった。
もしあるのなら、参列したいと思うし、俺だけ省かれるのは嫌だと思った。
「あ、あのさー」
だから、とりあえず坂下には聞いてみようと思った。
「何?」
坂下は長い紙をいじりながら、不機嫌そうにこちらを向いた。
「えっと」
その何とも言い難い気迫に飲まれて、俺は言葉が続かない。
すると、坂下の方から口を開いた。
「大丈夫。あそこはもうすぐ終わるから」
そう言って、束ねた長い髪を後ろに流した。
「だからまた、明日から頑張ろう」
そう続けた。
俺は、訳が分からずに、それでも、しっかりと頷いてみせた。
「ああー、また明日!」
坂下の言った通りだった。
八階のエレベーターホールでの駆除を始めて三日目。
午後の作業を始めて間もなくのことだ。
「ボチボチボチッー! ボチボチボチッー!」
いつものように、大量のボチボチに頭の天辺から襲来を受けた。
俺は、慌てることなく薬科材を頭の上に翳すと、途端に全方位、前後左右床からも薬科材めがけてボチボチが現れた。
「ボチボチボチッー! ボチボチボチッー!」
目の前が真っ黒になって、ボチボチの声が頭の中をぐるぐると回った。
俺は怖くなって目を瞑って歯を食いしばった。
でも、それだけだった。
不意に肩を叩かれて、坂下の声がした。
「終わった。お疲れ様」
目を開くと、そこは見慣れないエレベーターホールが広がっていた。
けれどそこは今までの八階のエレベーターホールではない。
今までいたはずの八階のエレベーターホールよりもずっと狭い。
エレベーターの台数も少なかった。
人通りも多く、エレベーターを待つ人の姿もちらほらといる。
「まさかここってっ!」
「そう。ここが本当のエレベーターホール」
「任務完了!」
と、そう言って、坂下も村上さんも笑顔を向けた。
俺もほっとして、頬が緩んだ。
両手を膝について、意味もなく笑った。
すぐそこに東階段があって、その隣のエレベーターの前で本田班長が、指を差していた。
「これ、毎回乗ってた出口だったヤツね」
そのエレベーターは間違いなく大型で、ドアのところに「関係者以外使用禁止」とプレートが貼られている。
そんなプレートが貼られていたことには、今までちっとも気付かなかった。
それだけ余裕がなかったのかと、俺は苦笑した。
八階のエレベーターホールは、ほかの部署の職員や来庁者で以外にも賑やかで、長閑に感じた。
俺は改めてほっとした。
この状態に戻すことが、リカバリー課の仕事なんだなと、俺は始めて認識できた。
ただ一つだけ、郷田の声が聞こえなかったことが、少しだけ残念で心残りに思った。
「お疲れ! 山口くん。よくやってくれたよ!」
格納室に入ると青木主査が飛んできて、何故か俺が褒められた。
「いや、俺の力じゃないですよ! 皆がいてくれたから!」
俺は、慌てて首を振って、本田班長や坂下、村上さんを探した。
でも、三人とも、俺を遠巻きにして作業をしていて、誰も助けてはくれない。
「山口くんは、うちの課の要だがら!」
カートリッジをパッキンに詰めている、島崎先生にまで言われて、どうしていいのかわからない。
「これからも皆を引っ張って行ってね!」
何で俺なんだ?
そう思いつつ、頭をかいて苦笑した。
でもやっぱり堪えきれずに思わず、村上さんと坂下のところへ駆け寄った。
でも、特に話すことはない。
気の利いた言葉を探そうと、頭を巡らせるが、見つからない。
だって元々世間話なんて、したことないしな。
俺は黙って二人のそばに立っていた。
すると、何やら本田班長と話していた青木主査が徐に言った。
「坂下さん。山口くんを確保した大浴場施設には行くことが可能かい?」
坂下と村上さんが素早く動いて新しい薬科材を手にした。
俺も慌てて新しい薬科材を掴んでスーツの内側に収めた。
「同じ場所に行くことならできます!」
「それで充分だよ!」
青木主査は満足そうな笑みを向ける。
俺は慌てた。
あそこなら、郷田がいるかもしれないと、俺は思った。
でも、あのとき行った大浴場施設は口の字なのだが、反時計回りではない。
時計回りなのだ。
何となく気乗りがしない。
そもそもあのとき、郷田だって無理をしていたはずなのだ。
今もいるとは思えない。
それに、俺は郷田とは知り合いでも何でもない。
多分、相手が誰かと勘違いをしているのだ。
それに気づくた今となっては、郷田と顔を合わせても、何を話せばいいのかわからない。
ただ面倒なだけで、やっぱり、気乗りがしない。
俺は、そう思いながら、坂下と村上さんの後ろについた。
「今度はわたしも行くからね」
そう言って青木主査と本田班長が並んで格納室を出た。
続いて村上さんと坂下が、そして、最後に俺が小走りについた。
「行ってらっしゃい。直樹くん」
不意に後ろで島崎先生の声がして、俺は慌てて頭を下げた。
でも、扉は閉まっていて、すぐに向きなpった。
すると、皆はエレベーターに乗り込んでいて、焦って俺も駆け込んだ。
「そう言えば、ここって何階なんだろう?」
そう思ったが声には出さなかった。
けれど、階数表示パネルを見る間もなく、エレベーターは上昇して、すぐに止まった。
ドアが開くと地下駐車場で、リカバリー課の駐車スペースには、本田班のワンボックスしか止まっていなかった。
村上さんが運転。本田班長が助手席に着いた。
「一応、薬科材は積み込んでおいたからね」
そう言いながら青木主査が後部の奥へ乗り込んで、俺がまた真ん中。最後に坂下が乗った。
目的地の大浴場は、旧庁舎からそんなに遠くはなかった。
「らくらく温泉ゆるゆるの湯」という名称の、役所と民間が共同で運営する健康ランドパークだ。
確かに管轄内に大浴場施設はここしかなく、そんなことは俺だって知っている。
でも、ここではない。
あの日、郷田と行ったのは、こんな都心の真ん中ではない。
もっとずっと山の麓の住宅街だったはずだ。
俺はそう思った。
でも、それを言うつもりはない。
駐車場に車を止めと、全員で降りた。
「入り込めなかったのかな?」
徐ろに青木主査が言うのが聞こえた。
「いえ、多分、もう、いないんだと」
すぐに周囲を見ながら先を歩く坂下が答えた。
「そうなのか。それは残念だね。ちなみに」
青木主査はそう言って、なおも付け加えた。
「坂下さんは、発生は施設だと思うかい? それとも敷地?」
「施設です」
「わかった。ありがとう!」
きっぱりと答える坂下に青木主査は満足そうに頷くと、本田班長と村上さんとで、施設を見ながら何やら相談を始めた。
俺は、その三人の後ろを坂下と並んでいた。
でも、坂下は何処か遠くを見ているようで、俺はじっと黙っていた。
「とりあえず、施設を一周して帰ろうか」
間もなくして、青木主査がそう言って、駐車場を出た。
施設といってもとても巨大で、一周するのは大変ではないかと、俺は思った。
それに、ここは施設が併設、隣接されていて、そもそもロの字ではない。
反時計回りでないのも頂けない要素だ。
そう思うと、ますます気乗りがしなくなって、とにかく無性に帰りたくなってくる。
「じゃー行こうか!」
それでも、青木主査が管理事務所に一言挨拶を済ませて、五人でのんびりと歩きだした。
そのすぐのことだった。
「えっ?! 何でっ!?」
俺は思わず大声を上げそうになって慌てて言葉を飲み込んだ。
それは時計回りなんかじゃない。
反時計回りだった。
しかもちゃんと歩行用の道ができていて、歩くことが出来た。
それは利用客用だったり従業員、関係者用だったりしたが、間違いなく口の字だった。
俺の胸は高鳴ってどうにも今にも走りだしそうになった。
でも、堪えた。
いい年をして、そんなことをしてしまったら、不審者ではないか。
皆にだって白い目で見られるに決まっている。
そう思ってとにかく堪えた。
一番後ろをとぼとぼと歩いて、走り出したい欲求を何とか一周我慢すると、俺はほっと息を吐き出していた。
「本当だね。もういないのは間違いないみたいだね」
青木主査は深く頷きながら周囲を見回してから言った。
「戻ろうか」
旧庁舎の事務室に戻ると、伊藤班も石川班も帰って来ていた。
すぐに、青木主査と三人の班長は、会議とのことで席を外していた。
俺はというと、走り出したいのを我慢した所為か、どうにもこうにも落ち着かない。
この事務室をロの字に走るぐらい、構わないのではないだろうか。
ふと、そんなことが脳裏を過ぎって、でも、一応、お伺いを立てようと、隣の席の坂下を見た。
「何?」
長い髪をいじりながら、間髪を入れずに坂下に尋ねられて、俺は慌てた。
「あ、いや別に……」
思わず口篭ったものの、坂下は薄い笑みを浮かべて言った。
「いくらここがロの字だからといって、走りだしてはダメだから!」
そうきっぱりと言い切って、坂下はきっと唇を結んで見せる。
俺は戸惑った。
「わっ、わかってるよっ! そんなことっ!」
だってそうなのだ。
言われるまでもなく、そんなことはわかっている。
何でそんなことを言い出すのか。さっぱり訳が分からない。
俺は思わずそっぽを向いた。
そのとき思わず、前の席の村上さんのメガネを見てしまった。
「まあ、らくゆる温泉は気にしない方がいいよ、山口くん!」
そう言ってメガネが笑う。
「別に気になんかしてませんよ!」
と、口を尖らせた。
ふと見ると、ほかの班の何人かがすでに帰り始めている。
とっくに勤務時間が終わっているのだ。
何だか俺も帰りたくなって、席を立った。
「あの、帰ります……」
本来なら、本田班長が会議から戻るのを待つべきなのだろうが、やっぱりなんだか落ち着かない。。
「うん、お疲れ!」
「お疲れ様」
村上さんも坂下も予想外にあっさりと見送ってくれて、俺はそのまま帰宅した。
翌朝。八時三十分の勤務開始と同時に、伊藤、石川の両班は事務室を出て行った。
八階のエレベーターホールのボチボチを駆除し終わった本田班は、今日はどうするのだろう。
いつも通りに出勤した俺だったのだが、昨日、本田班長から聞き損なったことを、今更ながらに後悔した。
昨日まではこの時間にはすでに駆除を始めていただけに、何だかとても落ち着かない。
しかし、本田班長は席を外している。
隣の坂下も長い髪をいじりながら目を伏せて、正面の村上さんは何やら端末を操作していた。
聞づらい。
しかたがないので俺も、意味もなく端末に向かった。
けれど、間もなくして本田班長が青木主査と一緒に姿を現した。
「それじゃー、出かけよう!」
旧庁舎から班のワンボックスで数分。
五人は健康センターに来た。
残存ボチボチの駆除と数日前に置いた薬科材の回収が目的だと説明された。
坂下と一緒に俺も降りて、駐車場のゲートのロックを解除する。
すると既に、伊藤班と石川班の車が止まっていた。
課を上げて対応するのだろうか。
そんなはずはない。
あの八階のエレベーターホールの件がある。
健康センターだけ、三板合同でなどということはとても考えにくい。
職員通用口から中に入ると、静まり返っていた。
「それじゃー頼む!」
本田班長と俺たち四人は、すぐ手前の階段から薬科材を構えて二階へ向かった。
青木主査だけが、真っ直ぐに廊下を歩いて、あのボイラー室の方へと向かって行った。
俺は少し青木主査が気になった。
でも、階段の途中で坂下が、早くも真上に向かって何かを放った。
いつも投げている、あれだ。
でも、それがいったい何なのか、毎回聞くのを忘れてしまう。
今日こそは聞いてみようと俺は思った。
坂下を先頭に、本田班長と村上さんに挟まれて、四人で普通に階段を上った。
階段を上りきって、右へ曲がると、一気に視界が広がった。
幅広の廊下にぶち抜きの事務室と、二階は蛍光灯を灯けなくても充分に明るくて、とても長閑だ。
中庭に加え、一階よりも側壁の窓の数が多くて、開放的に思えた。
「あー、これ、いないな」
村上さんが小さく呟くと、坂下の後ろ頭がこくりと頷くのがわかった。
「はい。ここにはまったくいないと思います!」
すぐに俺もボチボチのことだと気づいた。
確かに、全然見当たらない。
いつもなら、坂下が何かを真上に放った途端、襲いかかって来るものが、放る前と何も変わらない。
むしろ、この長閑な温もりで眠くなってしまいそうだ。
「とりあえず、一回りしてみようか!」
本田班長の指示で、俺たち四人は投下を歩いた。
誰もいない静まり返った廊下には、四人の足音とわずかな衣擦れだけしか聞こえない。
正面の坂下は、ボチボチがいないから、普通に前を向いている。
俺はふと、その後ろ姿に、ふと、この健康センターの廊下がロの字であることを思い出した。
何故そんなことを思い出したのかは、よくわからない。
けれど今、俺たち四人は嬉しいことに、右回りで反時計回りに歩いているのだ。
俺の胸は高鳴って、居ても立っていられない。
今すぐにでも走り出したくてうずうずする。
昨日、「らくらく温泉ゆるゆるの湯」では我慢できたが、今日もできる自信なんて全然なかった。
じっと黙って坂下の後ろ頭を睨んでいた。
そうすればきっとロの字や右回りで反時計回りだなんて忘れちまう。そう思った。
ところがだ。
角を二つ。丁度、北側の廊下に入ったところで、気づくと俺は坂下を追い越して走り出していた。
「口の字だっ! 口の字だっ! 反時計回りっー!」
一気に北側廊下を走り抜けて西側廊下へと入った。
どんどん気持ちが高ぶって、もう、大きな声を出さずにはいられない。
「口の字っ! 口の字っ! 右回りっー! 口の字っ! 口の字っ! 反時計回りっー!」
そのままどんどん加速して、勢いよく南側廊下を駆け抜けると、更に気持ちが高ぶって、思わず奇声を上げたくなった。
でもそのときだ。
思いっきり手を掴まれて、一気に後ろへ引っ張られた。
「ダメッ! ここはセルではないのよ!」
坂下の声が聞こえて、次の瞬間、柔らかな感触がしてそのまま床に倒れ込んだ。
「わかってるよ。そんなこと!」
無意識にそう言うと、
「そう。ならよかった」
と、坂下の声がすぐそばで聞こえた。
見ると、坂下に腕を掴まれた俺は、彼女を巻き込んで、床に転がっていた。
「ごめん」
俺は慌てて体を起こすと、
「別に!」
と、坂下も立ち上がってそっぽを向いた。
「それじゃー、一階の薬科材の回収に行こうか!」
本田班長が声を上げ、四人で一階のボイラー室へと向かった。
薬科材はボイラー室を完全に収めた、東側廊下の途中から、北側廊下の東側までをブロックする形で置かれている。
なので、とりあえず状況を確認しようと青木主査が先に行った、ボイラー室へと本田班も向かった。
「チッ! こいつまで来たのかよ!」
俺の顔を見るなり、石川班の中村が舌打ち混じりに言った。
釣られるように、ボイラー室の中にいる誰もが一斉にこちらを見た。
それは、とても怪訝そうで、攻撃的で、俺は焦った。
どうしていいのかわからずに、ただ黙って俯いた。
「ふん、とにかくですからっ!」
でもすぐに、職歴最古参の伊藤班長は、相当苛立った様子で、そのデカイ体を仕切りに揺すっては、独特の節回しで激しく訴えた。
「僕らは課には迷惑かけてないわけですよ! あくまでも個人的な取り引きなわけなんですからね! 青木さんにはこれは関係ないことですしー! まだ一々言われますと筋合い違いで不愉快ますですから!」
けれど、青木主査は動じない。
「いやいやまずっ! 職員が郷土資料館と個人的な取り引きってアウトでしょー!」
すると今度は、斜に構えて不機嫌そうに石川班長が声を上げる。
「青木くんさー! 個人的っていうけどねー。実際二班全員で山分けてる訳なんだよねー! 全然問題ないっていうか、鈴木さんがいなくなって急に主査面されてもねー! 不愉快なんだよねー、まったくっ!」
「あのさー、それらの所有権は役所にあるんだよ。それを勝手に個人のものとして売りさばいているって、わかってるの? 二人とも!」
でも今度こそ、呆れた様子で息をついた青木主査の肩が小さく落ちるのがわかった。
「健康センターの物なんだ。少なくても我々は管轄外だろ。それなのに、郷土資料館は直接購入費を受け取ってたとか。有り得ない話だろ?」
「これ、ゴミですから、二つの班で見つけたですよ! 所有権あること間違いないわけですから、問題なくですよー!」
興奮しているのか。次第に身振り手振りが激しくなって、迫る勢いの伊藤班長は、一向に退く気配がない。
「お金受け取るの当たり前ですからっ! それは権利ですのでっ!」
「だから、ゴミじゃないってば! 所有権は健康センターだろ!しかも勤務時間中! わかってんの? 持ち場はどうした? 全員休暇すら出てないぞ!」
青木主査がきっぱりと言い切ると、一瞬だけ沈黙ができた。
同時に室内の視線が一斉に俺を見たような気がして、焦った。
どうしていいのかわからずに、そのまま身を縮めた。
「あのさー青木くんねー!」
でもすぐに、石川班長がやっぱり不機嫌そうに声を上げた。
「鈴木さんならさー! そこら辺は融通を効かせるところだよねー!」
「あれ、行かせればよろしいですから!」
続けて伊藤班長がこちらを指差すと、ほかの何人もが小さく頷いた。
「二箇所ぐらいすぐですよー! 我々必要ないですから!」
青木主査は、深い溜息を一つついた。それでも、すぐに姿勢を正して、きっぱりと言った。
「いいかい! これは犯罪の可能性が高い行為だ! 全員素直に従ってもらう!」
「取り引き継続ですから! 支払い受け取る権利ですから!」
伊藤班長は食い下がらない。
でも、青木主査はもう相手にはしなかった。
「ほらほらみんなー! 動いた動いたっ!」
青木主査は、ぽんぽんと手を叩いて、大きな声を出す。
「一旦、リカバリー課で保管して、郷土資料館へ持っていくよ。さあ、運び出すんだ!」
青木主査に促されて、室内の職員がどっと動きだした。
一気に騒がしくなる中、突然、段ボールを蹴り上げるような大きな音がした。
とても不機嫌で、怒っていて、収まりが付かないようで、それは何度か繰り返されて、室内に響き渡った。
その音に釣られるように飛び跳ねて、俺も何かをしなくてはと慌てて周囲を見回した。
「薬科材、運ぶから」
でも、不意に後ろから声がして、坂下に上着を摘まれた。
「わかってるよ。そんなこと!」
俺は口を尖らせた。
でも、ふと見ると、いつの間にか用意された台車に本田班長と村上さんがすでに薬科材を積み込んでいた。
慌てて俺も一緒になって薬科材を積み上げた。
どれもがここ数日を最後に稼働していないことが表示を見ればすぐにわかった。
使い切られているものが殆どだが、中には一日以上稼働していないものもある。
二階の様子から、この健康センターには、もう有害物質がいないことが俺にもわかった。
俺たちが北側廊下よりの薬科材を回収し終わっても、伊藤、石川の両班は、まだボイラー室から資料を運び出し終わってはいなかった。
先に薬科材を格納室へ運ぶように指示があり、青木主査は健康センターに残った。
俺は、青木主査が気になったが、駐車場には別の車も止まっていて、事態が動いていることが想像できた。
「お疲れ様!」
格納室に薬科材を運び込むや否や、待ってましたとばかりの島崎先生に出迎えられた。
「据え置きは時間がかかるんだけどね。完璧に回収できるのよ!」
そして、俺たちがカウンターデスクに積み上げていく薬科材を一つ一つ丁寧に覗き込みながら、パッキンの中に収めていく。
「凄い! とてもいい状態だわ!」
少し声を弾ませる島崎先生は、とても満足そうに見えた。
「午後には、スポセンと富坂町小跡に行ってみるつもりだけどね」
「携帯用は使わなかったのね?」
「ああ、もういなかったからね」
「ふーん。そう」
カウンターデスク越しに本田班長と話しながら、島崎先生は薬科材の中身を改めてまじまじと確認している。
それは、どても意味がありそうで、俺は何だか気になった。
でも、気になるだけで、その理由まではわからない。
俺は、午後が外回りで駆除ができると思うと、ロの字の反時計回りが楽しみになった。
「まあ、行かなくても済むかもね」
と、やっぱり何気なく島崎先生が言った。
「そうなんですか?」
村上さんも加わって、島崎先生は、何故か俺を見た。
「山口くんが頑張ってくれるからね!」
「あ、頑張ります!」
俺はすっと緊張して、無意識に姿勢を正した。
スポセンと富坂小跡か。行ったことないな。
俺はそう思った。
気づくと、正午を過ぎていた。
午後に備えて四人で食堂へと向かった。
昼食時の所為か、食堂は混み合っていた。
でも運良くすぐに、西側の出入り口の近くのテーブルにつくことができた。
けれど、しばらくすると、
「あれ見てみろよ。飯なんか食ってやがる!」
突然、聞き覚えのある声がした。
顔を上げると、丁度、本田班の後ろ、数テーブル先の食堂の中程に何組かの客が席を立って、代わりに座る伊藤班と石川班の姿があった。
「村上っー! 勝手に餌を与えないでくださいっ!」
確か、中村とかいう石川班の男性が、大きな声で笑っている。
「村上くん。こんなところに連れて来て平気なのー?」
隣の女性までもがこちらに向かって言い始めた。
「おいおい」
正面の村上さんは、呆れ顔で苦笑するだけで、特に返事は返さなかった。
俺には意味がわからなかったが、何となく自分のことを言われていることは理解できた。
「えっと、その、どうしたら……」
俺は一人でおろおろとした。
「すまない。山口くん」
「気にしなくていいから」
村上さんは、俺に小さく頭を下げ、箸を運びながら隣の坂下が小声で言った。
「あ、わかりました!」
俺は、訳が分からなかった。
でも、とにかく村上さんと坂下に笑顔で答えた。
二人は真剣なんだと、俺には思えた。
だから、そのまま黙々と食事を続けた。
ところが、いったいい何が気に入らないのか、
「本田くんねー!」
と、今度は本田班長に絡んでくる。
「自治体異動だからってわかってないかもだけどねー! 一々青木に従い過ぎじゃないかなー! もう少し空気っていうものを読んでもらわないとさー! こっちにも立場ってのがあるんだよねー!」
「鈴木さん、いないからですよ! 青木くん、煩くなりますから! 鈴木さんの責任、それですよ、それっ! 本田さんの監督不行届ですから!」
石川班長と伊藤班長が、本田班長の背中に大きな声で怒鳴りつけた。
二人の声が頭の上から降って来るように聞こえて、俺はくらくらとした。
しかも、伊藤班長は、間違いなく俺を指差して、怒鳴っているのがよくわかる。
どうして自分なのか。
俺は訳が分からずに、ただ戸惑っていた。
でも、本田班長に動じる様子はない。
「こんな所で八つ当たりね。みっともない!」
三人の班長の中では一番若い本田班長だったが、箸を置き背後の二人に余裕の態度で振り返った。
「鈴木さんは自業自得でしょ! 公私混同し過ぎの言い掛かりなんて、洒落にならないよね!」
「失礼だねー! お前っ!」
突然立ち上がった石川班長が、こちらを指差して激高する。
「それだよそれっ! それがいなければ、何の問題もなかったんだろ! 本田がちゃんと管理してれば上手くいったんだ!」
俺は何度も指を差されて、肩を竦めて小さくなった。
そのときだ。
視野の隅に黄色い卵型の物体を捉えて愕然とした。
慌てて向き直るが間違いはない。
黄色い大きな卵型の着ぐるみのような有害物質が食堂の向こうの出入り口から入って来る。
「何でこんなところにっ!?」
と、村上さんの声がして、本田班長も坂下も身構えた。
俺も慌てて立ち上がった。
「班長っ! あの、あれ……」
ほかの班も気づいたようで、向こうのテーブルがどっと沸いた。
ところが、食堂内にいる多くの客は、その有害物質に気づいてはいなかった。
黄色く大きな卵型で、小刻みに上下に震えて、左右に揺れる、まるで着ぐるみのようなその仕草を、まったく認識できていないようで、素知らぬ顔で食事をして、普通にすぐ横を通り過ぎたりしている。
しかもどういう訳なのか、有害物質もそれら一般の客には何もせず、ゆっくりとリカバリー課が集まっているこちらの一角を目指して近づいて来ていた。
「何だよ! どうなってんだよ!」
「こんなところに出てくるなんて、聞いてないわよっ!」
慌てて誰もが薬科材を翳したものの、一斉に壁に向かって一歩だけ後退った。
本田班だけが、有害物質の進路から外れていたが、俺は急いで薬科材を出そうと、スーツの中に手を突っ込んだ。
でも、すぐに坂下の手が伸びてきて止められる。
「ダメ! セルタマには効かないから」
「えっ? でもそれじゃー!」
すぐに本田班長が一歩前に出て声を上げた。
「ダメだっ! 薬科材は使えないっ! あれにはまったく意味がないっ! すぐにしまうんだ!」
すると、誰もが一斉に引き攣った表情でこちらを見た。
「あのねー! 本田くんさー! 適当なこと言われても困るんだよねー!」
でも、すぐに石川班長が薬科材を振り回して見せた。
「これが効かないって? そんなことあるわけないでしょーねー!」
「そっちこそ、聞いてなかったの! 携帯用薬科材は粒子用! セルタマには場合によっては逆効果になるってちゃんと説明されたでしょっ!」
本田班長の発言に戸惑った様子で、誰もが一斉に自分たちの班長を見た。
けれど、伊藤、石川の両班長は指示を出さない。
「誰が? 誰が言ったの? 鈴木さん? あ、言っとくけどねー、青木くんはダメねー! あれは次の指揮権狙ってるだけの男だから! 信用できないわけだからねー!」
「どうでもいいから、早くしまって一旦撤退する!」
本田班長が更に一歩踏み出して怒鳴った。
黄色い大きな体を左右上下に小刻みに揺らしながら、湯外物質は真っ直ぐこちらに向かってきている。
俺も気持ちが焦ってしまい、うっかり薬科材に手を伸ばしたくなった。
けれど、逆効果なら意味はないと、ぐっと押し堪えていた。
けれど、伊藤班長も薬科材を振り回して、有害物質を指し示して見せる。
「バカ言いますよー! あれ相手に丸腰じゃー鈴木さんの二の前ですから!」
そしてその薬科材で、今度は俺が突き付けられた。
「これ、すべて本田さんところのそれの所為からっ! 鈴木さん無事だったはずよー!」
その薬科材で、何度も俺の顔を突き刺すように、繰り返しこちらを目掛けて突き付けてくる。
「人外っ! 人外っ! 人外ですからっ!」
な、何で俺が……
そう思ったときだった。
突然、目の前に黄色い大きな卵型をした有害物質がもう一体現れた。
それは丁度、伊藤班と石川班の陣取る真ん前で、すでに誰か一人、頭から食いつかれて、下半身を必死にばたつかせているのが見えた。
けれど、黄色い大きな体を上下左右に小刻みに震わせるのを目の当たりにすると、誰もが動けずに声も出せない。
薬科材を持ったまま、ただじっと見入っている。
そして、有害物質に食いつかれながら下半身をばたつかせているのが伊藤班長だとわかっても、誰も何もできなかった。
黄色い大きな体を更に震わせそれを飲み込もうとする様に、誰もが怯えた様子で小さく湧いて、我さきにと一斉に後退った。
けれど、壁に阻まれ、もう後ろには下がれない。
先頭にいた石川班長だけが必然的に弾き出されて、左右に上下に小刻みに体を揺らしながら迫って来ていた、先に出現した一体にぶつかって、そのまま力なくもたれかかった。
見ると、左手が食われている。
その光景に、途端に悲鳴が上がり、壁際の群れがどっと動いた。
「逃げんなやっー!」
でもすぐに、石川班長の怒鳴り声で誰もが動くのをやめた。
「置いていくんかっー普通っ? 助けるよねっー! 助けてよっ! ねー、中村ちゃん!」
縋るような石川班長の言葉に釣られて、中村を始め数人が駆け寄って来て薬科材を振り回す。
なら自分もと思ったが、すぐに俺は村上さんに体で阻まれた。
「ダメだっ! 薬科材を捨てて! すぐにはなれるんだっ!」
続けて、本田班長が叫ぶと、誰もが一斉にこちらを向いて固まった。
「携帯用ではセルタマは無理だ! 早くはなれろっ!」
「見捨てるねー! おい本田っ!」
本田班長の言葉を掻き消すように、石川班長は喚いた。
「お前も人外か? そいつと一緒か? 本田たちはこの黄色いのと同じ人外だぞっー! 相手にせんで俺をたすけてっー! お願いしますっ! 是非助けてくださいっ!」
必死に薬科材を振り回して喚く石川班長は、すでに左腕を肩まで咥え込まれていた。
駆け寄っていた三人が慌てて薬科材を振り回すが、まったく効果が出ない。
「駆除だろっ! 駆除っ! 仕事だよねっー! 助けろっ! お前らっー!」
喚きながらもどんどんそのまま吸い込まれていく石川班長を目の当たりに、壁際に残っていた三人がすっと腰を抜かすのが見えた。
しかも、伊藤班長を咥えたもう一体の有害物質も、石川班長の近くに歩み寄って来て、もう完全に逃げ場がない。
「坂下さん。山口くんと一緒に、島崎さんのところから、セルタマ用の薬科材を取って来てくれる!」
不意に、本田班長が背中越しに言った。
「はい!」
「あ、でも!」
坂下は頷いたが、俺は不安になった。
これだけ騒いでいるのに、ほかの食堂利用者には、姿どころか俺たちの声も聞こえていないようだった。
もしかするとリカバリー課の職員だけが、別の空間にでも入ってしまったのだはないだろうか。
ここで、俺と坂下だけがはなれたら、八階のエレベーターホールの件もある。
二度と入り込むことができないのではないだろうか。
入り込めたとしても、格納室は地下なのだ。
持ってくるまで残った皆は無事なのか。
俺は戸惑った。
「行こう!」
でも、素早く坂下に手を引っ張られ、食堂を飛び出していた。
そのまま一気に廊下を走って、中央のエレベーターホールを目指す。
「わあああっー嫌だっ! 助けてっ! 助けてくれっー!」
背後で石川班長の叫び声が響き渡るが、すぐにほかの客の笑い声にかき消されていた。
俺と坂下は、とにかく必死に廊下を走って、一番東側の大型のエレベーターへ向かった。
確かにあのエレベーターなら島崎先生の格納室まで一気に行ける。
それでも、時間がかかり過ぎるように思えた。
間に合わないっ!?
ふと、脳裏を過ぎった。
通り過ぎる人たちが、怪訝そうな表情を俺たちに向ける。
本気で走る俺と坂下を、ここでは誰もが見えているのだと、改めて認識すると、やっぱり間に合う気がしなかった。
「関係者以外立入り禁止」とプレートの貼られたエレベーターの前に着くとボタンを押す前にドアが開いた。
「すまない。遅くなった!」
「今は何処にいるかしら?」
青木主査と島崎先生がストレッチャーを一台ずつ押して降りて来る。
確か前に俺が見たのと同じもだと思い出した。
「こっちです!」
坂下が先導で廊下を走った。
俺は島崎先生に付いて一緒に押した。
何だ、これ、ストレッチャーじゃないのか……
「すいません! 大型機材、通ります!」
「申し訳ございません! 大型機材、通ります!」
坂下と青木主査が大きな声を出すと、通り過ぎる人たちが迷惑げな表情を見せる。
やっぱり見えている……
俺はそう思った。
そのままの勢いで、西側の出入り口から食堂に入ると、すぐにふと、口の字が頭の中に浮かだ。
俺は焦って、でも、大型機材に引っ張られるように前に進んだ。
もっと前に、先に行かないと……
そんな気がして、大型機材を押した。
でも、すぐに押し返されて、その場で止まった。
「落ち着いて!」
坂下の声がして、はっと目の前が開けた。
「本当ね。二体いるわ!」
隣の島崎先生の満足そうな視線が遠くにあった。
見ると、黄色い大きな有害物質の後ろ姿が二つ、縦にきちんと一列に並んで、それぞれ上下左右に体を揺すってゆっくりと歩いて行くところだった。
食堂のメイン動線を真っ直ぐに進んで、道なりに左に曲がる。
さっきまで伊藤班と石川班が陣取っていた壁際には、女性班員が三人しゃがみ込んでいて、近くに本田班長と村上さんが付き添っているのが見えた。
でも、ほかにリカバリー課の職員はいなかった。
青木主査が駆け寄ってニ言三言話しをすると、本田班長と村上さんがこちらへ来た。
「坂下さんと山口くんは、島崎さんと後ろから追い込んで!」
「はい!」
坂下が返事をするので、俺も慌てて返事をした。
でも、どうするのかわからない。
「こっちは村上くんと正面、向こうの入口のところで頭を押さえるから!」
「わかりました!」
坂下が返事をして俺の隣に付いた。
本田班長と村上さんがゆっくりと大型機材を押して東の出入り口の方へ向かって行く。
「わたしたちは一気に後ろに付けるわよ」
「はい」
島崎先生に指示されて、坂下と一緒に大型機材を押した。
ストレッチャーのような形の機材を横にして、通路を塞ぐように操って押した。
キャスターで滑るように走らせて、有害物質が左に曲がりきったところを、きちんと前後に並ぶ二体目の有害物質の後ろ約一メートルのところにつけた。
「そう。動きを合わせて行けばいいわ」
島崎先生も一緒について来て、指示をくれる。
でも、上下左右に小刻みに震える、黄色い大きな卵型の有害物質は、時折前後にも揺れた。
「はなれ過ぎないで、そう、ぶつけては駄目だから」
と、指示されても、その距離感は微妙に難しかった。
けれど、坂下との息はぴったりと合っていて、大型機材を操るタイミングは声に出さずとも計ることができた。
ふと、周囲を見ると、ほかの客の誰もは、この状況を見えていないようだった。
テーブルに着いて食事をする者やトレイを持って構わずすぐ横を通り過ぎる者もいる。
でも、有害物質も、それらほかの客に襲いかかることはしなかった。
それがどういう意味を持っているのか。
俺にはまったくわからなかった。
有害物質の動きは思った以上に早くて、気づくとすぐにまた左へ曲がった。
正面の動線の先で、本田班長と村上さんが同じように機材を横にして行く手を塞ぐように待ち受けている。
「前の二人は気にしては駄目っ! あくまでも目の前だけに集中して」
島崎先生の指示が聞こえて、でも、ふと、俺の頭には別のことが過ぎった。
あれ? 食堂って口の字だったんだ……
そう思った。
しかも、基本、東側の出入り口から入るのが正当で、メインの動線は反時計回りだ。
それに今、自分自身がそのメインの動線を反時計回りに回っているではないか。
湯外物質と一緒にロの字で、反時計回り。
こんな凄いことがあるだろうか。
俺だって回りたいっ! もっともっと回りたいんだっ!
不意に気持ちが高ぶって、そのまま走り出してしまいたい。
そう思ったときだった。
「そのままぐっと押し込んでっ!」
いきなり背後から島崎先生の声がして、反射的に俺は体ごと掴んだ機材を押していた。
それは自然と坂下とも一緒になって、機材は真っ直ぐに押し込まれていく。
すると、目の前の黄色い大きな有害物質があっと言う間に機材に吸い込まれて、正面で構える本田班長と村上さんの機材に連結した。
途端に、全身に振動が伝わって、何故だか少しよろけていた。
慌てて大型機材にしがみつくと、黙って坂下が支えてくれた。
「お疲れ! 撤収よ、山口くん!」
島崎先生の声がして、本田班長と村上さんが連結した機材をそのままゆっくりと運び出して行く。
「大型機材、出ますので、すいません! お食事中!」
青木主査と三人の女性班員が機材の行く手の人混みを整理しながら誘導して、島崎先生が後に続いた。
「大丈夫?」
「ああ、ごめん!」
俺は坂下と一緒に、何事かと騒めいている食堂の人混みを掻き分けて先を追った。
俺は、ストレッチャー型の大型機材の上に、有害物質に吸い込まれた人たちが出てきてしまうのではないかと、落ち着かなかった。
でも、そんなことはなかった。
全員で「関係者以外使用禁止」のエレベーターに乗り込んでも何も起きなかった。
ただ少し、息苦しいと俺は思った。
大型機材を格納室に運び入れると、薬科材の提出も求められた。
島崎先生が取りまとめる中、青木主査が静かに言った。
「皆さん。お疲れ様でした。今回の吸収業務は完了しました。後に本田班に格納をお願いいたしますが、とりあえず、本当にお疲れ様でした」
そう言って、頭を下げた。
誰もが何も言わなかった。
ただそっと俯いて小さく頭を下げた。
俺はどうしていいのか分からずに、とりあえず周りに習って小さく頭を下げた。
その後、島崎先生と青木主査、本田班長は格納室に居残って、俺たち六人は先に事務室へ戻ることになった。
六人でエレベーターに乗り込んだものの、やっぱり誰も口を開くことはしなかった。
庫内は広く余裕があったが、ただじっと黙ったままで、誰ひとりぴくりとも動かない光景は異様に感じた。
事務室に着いても誰も話すことはなく、それなりに広く作られた空間は殺風景にさえ思えた。
自席に座る、伊藤、石川、両班の三人の女性班員も、何処か落ち着かない様子で、すぐに離席してしまい、まだ戻らない青木主査の席のところで固まっている。
三人は、居た堪れない様子で、泣いているように見えた。
当然だと俺は思った。
俺は、確認するように村上さんを見た。
いつものように端末に目を落としたままのメガネがじっとしている。
「何?」
「あ、ごめん。別に用はないんだ」
隣の席では坂下がいつものように長い髪をいじっていた。
もし、誰かが欠けていたら、自分もやっぱり彼女たちみたく悲しくて泣き出してしまうのだろうか。
俺はそう思った。
「格納は、夕方にはできそうだよ」
しばらくして戻って来た本田班長が自席に着くなり真剣な表情で言った。
「大丈夫かな? 坂下さん」
坂下の表情のない薄い顔が、一瞬だけこちらを向いたような気がした。
でも、それは気の所為で、本田班長に坂下はきっぱりと答えていた。
「はい。問題ありません!」
「なら、いいんだけどね」
俺は何だか気になって、尋ねようと本田班長に身を乗り出した。
けれどそのときだった。
戻って来た青木主査に待ち構えていた三人の女性班員が詰め寄るのが目に入った。
彼女たちが必死に異動を願い出ていることは、やり取りの端々からすぐにわかった。
異動したいのか……そうだよね。こんなにいなくなっちゃったし、こんなのもう嫌だよね……
そう思った。
「山口くん。夕方には格納だよ。頼むね!」
不意に、本田班長に声をかけられて、慌てて向き直ると元氣よく返事をした。
「はい!」
「これよ。山口くん!」
夕方、格納室に行くと、島崎先生はカウンターデスク内を指差した。
それはなんの変哲もない一台の台車で、真新しい見たことのない収納パッキンがすでに積まれている。
そしてその台車は、カウンター内の奥にある扉に向かって置かれていた。
「これをメインロックの中に格納して欲しいんだけど、大丈夫よね。山口くん!」
普段、カウンター内に入ることのない俺は、一瞬、躊躇した。
でも、そのまま促されて、台車のハンドルに向かって立っていた。
メインロックと呼ばれる扉はとても強固で重圧感のある外観をしている。
以前から、この部屋で見ているはずなのに、その扉の向こうに今初めて不安のような緊張感が過ぎるのを感じた。
「あの、一人で行くんですか?」
俺は思わず尋ねていた。
流石に少し緊張してきて、思わずたずねた。
「あの、一人で持って行くんですか?」
「まさか。これは班の仕事だよ!」
「ですよね!」
本田班長がすぐに答えてくれて、俺はほっとした。
「俺が一人で持って行ってもどうしていいのかわからないし!」
俺は頭をかいて躍けて見せた。
けれど、青木主査が予想外なこと言った。
「いや、そうでもないかもしれないぞ! 入ってみたらわかるなんてことは、よくあることなんじゃないかな?」
「はあ……」
それは、青木主査には珍しく、冗談ともつかない、何処か怪しげにも感じる物言いだった。
俺は、どうしていいのかわからずに、動けなくなった。
すると、
「大丈夫、わたしも行くから」
と、坂下が背中にそっと触れた。
「僕もだ!」
村上さんにも肩を叩かれて、
「じゃあ、済ませてしまおうか!」
と、本田班長の声がした。
「はいっすっー!」
招くように島崎先生が重厚な扉を開くと、薄暗い庫内からひんやりとした空気が流れてきた。
白いタイル、白い壁、奥行きニ、三メートルの決して広いとはいえない庫内へ向かって、俺は台車を押した。
台車は程よく重みがあって、それでいて滑らかで、とても扱い易い。
これなら一人で充分だとは思うのだが、初めてなのだから仕方がない。
すっと台車を押し出して庫内に入ると、そこが部屋ではなく、廊下だったことに気づいた。
左から右へ真っ直ぐ何処までも廊下が伸びていて、向こうの突き当たりでで、どちらもそれぞれ左と右に曲がっている。
俺は、迷わず台車を廊下に合わせて右に向けた。
そのまま押して歩きだすと、班のみんなもついてきた。
扉からはなれると本当に廊下は何処までも薄暗くて静かで、そして、冷たく感じた。
けれど、やはり台車の重みは程よくて、タイルの床とも絶妙に相まって、滑るように進んで行く。
突き当たりの壁を左に曲がると、なおもずっと薄暗い廊下が真っ直ぐに続いていて先が見えない。
ふと、不安になって、後ろを振り返った。
「一緒だから!」
「大丈夫だよ、山口くん!」
「こけないでよ! 山口くん!」
坂下が薄い笑みを向けていて、村上さんも本田班長も小走りについて来ていた。
「はい! はい! 平気ですよ! 大丈夫です!」
俺は、安堵すると、急に胸が熱くなるのを感じた。
嬉しい。だって、皆と一緒なんだよ。こんなのまるで夢のようだ!
不意に抑えきれない衝動が込み上げてきて、俺は加速した。
すぐに、目の前の突き当たりに壁が見えてきたが、減速なんかすることなく、再び左へと曲がってみせた。
やはり、台車の重みは程よくて、タイルの床とも絶妙に相まって、操作性は抜群なのだ。
どんどんどんどん加速して、それでももっと早くなる。
「あれ? これってもしかして、口の字じゃないのかな?」
そのとき俺は気がついた。
「そうだよ! 口の字、反時計回りだよー!」
それは、本当で間違いなくて、嬉しくなって唄いだした。
「ロの字っ! ロの字っ! 右回りっー! ロの字っ! ロの字っ! 反時計回りっー!」