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#01

#01

僕は、広くて真っ直ぐな廊下を小走りに歩いていた。

制服の衣擦れと上履きの足音だけが辺りに忙しく響いている。

午前中の休み時間。

クラスメイトも誰も彼も、皆は何処かに行ってしまって、僕は一人だ。

早くクラスに合流しないと、ただでさえ悪い成績がもっと下がってしまいそうで、僕は焦った。

けれど、何処までも真っ白で透き通った廊下には、誰ひとり姿がなく、とても静まり返っている。

確か前にもこの光景を見たような気がして、僕はふと記憶を遡った。

そのまま突き当たりを左へ曲がって真っ直ぐ歩き続けた。

そのときだった。

「ボチボチ、ボチボチ……」

突然、すぐ後ろ、襟首のところで男子の声がした。

ふざけているのかと思ったが、背筋がぞっとして、でも、無意識に振り向こうとして、僕は息を飲んだ。

真っ白な床に、真っ黒な影が映っている。

口を開いて目玉をくり抜かれた頭部だけの真っ黒な横顔が一つ、僕の頭のすぐ後ろにいるのが見えた。

途端に僕は走りだして、急いでその場を逃げ出した。

ところが、全然振り切れない。

「ボチボチ、ボチボチ……」

すぐ後ろ、後頭部の辺りで、また奇妙な声がして、ぴったりとついて来てはなれない。

僕は焦った。

ちぐはぐになりそうな手と足を夢中で動かして、突き当たりをもう一度左へ曲がる。

減速しそうになりながらも、必死に手足を動かして前へ前へと体を屈めた。

けれど、振り切れない。

「ボチボチ、ボチボチ……」

と、やっぱり真後ろで声がして、引き離すことができないのだ。

しかも、周囲には誰の姿も見て取れない。

こんなに眩しくて真っ白なのに人の気配が全然しないのだ。

「うわあああっー! 助けてっー!」

自然と恐怖が込み上げてきて、大きな声で叫んでしまう。

みんな何処に行ったんだよっー! 全体集会なんて聞いてないしっ!

僕はただ、必死に廊下を走り続けた。

それでもやっぱり誰もいなくて、

「ボチボチ、ボチボチ……」

と、ぴったりと後ろに迫ってくる。

そのときだ。

正面のずっと向こう。突き当たりにあるエレベーターのドアが開いているのが目に入った。

別の階へ行けば誰か人がいるはずじゃあっー!? いやいや絶対いるでしょっ、休校じゃないしっ!!

僕は最後の力を振り絞って、正面のエレベーターを目指して無我夢中で廊下を走った。

「ボチボチ、ボチボチ……」

けれど、奇妙な男子の声は、すぐ後ろにくっついたままで、目の前に迫るエレベーターのドアがゆっくりと閉まり始めるのが見えた。

「ヤバイッ!?」

と、僕は、死に物狂いで走り続けた。

そして、体をくねらせて、殆ど閉まりかけたドアの間を通り過ぎると、エレベーターの中へ滑り込んだ。

しまったっ?! 引っかかったっ!?

一瞬、そう思って、慌てて後ろを振り向いたが、ドアはきちんと閉じている。

真っ黒な頭部だけの影も、もう庫内にはなかった。

僕は急いでボタンを押そうとして、でも、その前にエレベーターは下りだした。

一人だけの庫内。

エレベーターの機械音はするものの、やっぱりあの頭部だけの真っ黒な影と奇妙な男子の声は確認することができない。

やったー! 逃げることができたんだっー!

と、ほっと安堵した。

しかし、エレベーターはすぐに止まって、ドアが開くと一斉に大勢の生徒たちが乗り込んで来た。

慌てて僕は壁側に避けた。

でも、みるみる庫内は満員になって、僕は身動き一つ取れなくなった。

降りるつもりはなかったものの、こんなに乗り込んで来られるのは、正直何だか迷惑だ。

壁を向いたままの不自然な格好ではあったが、庫内の隅で息を殺して、僕は何とかやり過ごそうと考えた。

ところが、よく見ると乗り込んで来たのは同学年の二年生。しかもクラスメイトだ。

きっと何処かに集合するに違いない。

合流出来て本当に良かった。

僕はほっと胸を撫で下ろしたが、挙動不審だなんて思われたくはない。

僕はそのまま壁を向いて、澄ました顔で乗っていた。

けれど、クラスメイトたちは、僕を気にする素振りは一切なかった。

むしろ、誰もが俯き加減に神妙な面持ちで、じっとしたまま一言も話しをしない。

僕も必死に壁を向いてじっとしたまま息を潜めた。

僕は、澄まして姿勢を整えて、そのまま一緒に乗っていた。

クラスメイトたちは、僕を気にする様子もなく、でも何処か、神妙な表情をしているように見えた。

エレベーターが一階に着いてドアが開くと、皆が一斉に降り始めて、僕もそのまま押し出されて行った。

ふと、見ると、この階には生徒が沢山いる。

エレベーターを待っていたのは三年生の集団だったし、廊下でふざけているのは一年生たちだ。

僕ら二年生は、それらの間を固まって歩いて、一階の奥にある「1-A会議室」という部屋に入っていた。

すると途端に固まりがばらけて、気づくと数人のグループがいくつも壁際に出来上がっている。

僕だけが、どのグループにも入り損ねて一人になった。

どうしていいのか分からずに、何気なく辺りを見回してみると、意外にもまだまだ生徒が沢山いる。

二年生のほかのクラスの生徒たちも、一部の三年生や一年生の集団もあちらこちらで固まっているのがわたった。

これ、いったい何の集まりだろう? 今日、何かやるって言われてたっけかっ?

そんなことを考えながら、でもやっぱり居心地が悪い。

落ち着かないので僕は、室内の中央にいくつか出されたままになっている長机に寄りかかるようにして、一人で立っていた。

先生が来て説明してくれるはず!

そう思った。

ところがいつまでたっても先生は姿を現さない。

それどころかよく見ると、集まっている誰もが神妙な表情をしていて、泣いている生徒も少なくはない。

僕は驚いた。

いったい何があったんだろう?

でも、聞けるような友達はいない。

それに、何も知らずにここにいることをクラスメイトに気づかれるのはとても恥ずかしいと思った。

だから僕も、急いで神妙そうに俯いて、周りの様子を伺った。

するとすぐに、誰かが囁いた小さな言葉に僕の頬も強張った。

「委員長が死んだ……」

それは俄かには信用できず、でも、その場の雰囲気から疑う方が難しいということはすぐに理解できた。

僕は戸惑った。

もう一度、周囲に耳をそばだてた。

そのときだ。

数人の学校関係者が、いくつもの段ボールを持って入って来た。

一斉に室内が静まり返って、誰もがその様子に見入っている。

でもすぐに、小さくざわめいて、段ボールに委員長の遺品が詰められていると知った。

それが、目の前の長机に次々と置かれていって、僕も自然としめやかな緊張に包まれていった。

けれどすぐに、皆が押し寄せて来て、僕も一緒に取り囲まれた。

委員長といっても、僕と彼女は特に親しかったわけではない。

たまたまクラスの委員長というだけで、正直、名前も覚えていないのだ。

だって皆も名前ではよんでいないし、委員長なんてそういう役回りのはずではないのか。

だから僕の中での委員長は、清楚で理髪、明朗快活な性格で誰からも好かれる存在という漠然とした曖昧な印象しかない。

でもそれは、誰もが同じなのではないだろうか。

だからと言って、自分がこんな最前列に出張ってしまっていいはずがない。

本当に浸しい人とかいるはずで、僕なんかがいたら迷惑でしかないわけだから、とにもかくにも恥ずかしい。

僕は不安で堪らずおろおろとした。

何とかこの集団の外へ出られないものかと、段ボールに背を向けて、人混みを掻き分けようと試みた。

でもすぐに弾かれて、びくともしない。

僕はすっかり居場所がなくなって、段ボールの前で小さくなった。

けれど、それは無駄なことだとすぐにわかった。

誰一人、僕のことなど気にしてはいない。

誰もが皆、涙ぐみ目頭を押さえて、遺品に触れている。

心から委員長との別れを惜しんでいるのだ。

それがわかるとほっとして、でも少し、居た堪れないような照れ臭さに襲われて、何となく落ち着かない。

それでも僕は、澄まして段ボールを向き直ると、神妙さを装って皆と一緒に、委員長の遺品に目を落とした。

生前、委員長が使っていたノートや教科書。カバンに制服までが並べられ、主に女子がそれらに手を伸ばしていた。

でも何故か、直接個人を偲ばれるようなこれといった私物が一切見当たらないことに違和感を感じた。

それに、本人の遺体が何処に安置されているのかは、ここではまったく知るすべがないというのも変な話だ。

僕はそう思った。

けれど、それでも誰もが涙して委員長との別れを惜しんでいるのだ。

そう思うと、いつの間にか、僕もその雰囲気に釣られて涙ぐみ唇を噛み締めていた。

そんなときだった。

段ボールを挟んで正面に、クラスメイトのショートヘアの女子がいた。

委員長とは仲が良くていつも一緒にいたのを覚えている。

僕は、彼女とも特に親しい訳ではないから、話しもしたことがないし、もちろん名前だって覚えてはいない。

でも確か、委員長には、「レイコ」と、呼ばれていたことを覚えている。

でも、元々彼女も、僕と同じで影の薄い女子だったように思う。

いつの頃からか、人気者の委員長といつも一緒にいるようになって、だから記憶に残っているのだ。

でも、そのレイコさんは、泣いてはいなかった。

委員長の描いた絵画や書写をただじっと見ている。

表情もなく、外見からでは悲しそうには見えないし、何を考えているのか、まったくわからない。

けれど、一つ一つを見つめるその眼差しは真剣そのもので、いつのまにか促されるように、僕も遺品に目を落としていた。

絵画も書写もお手本のようにとても上手で、カバンや教科書も綺麗に使われていた。

そんな中に、表紙にイラストが落書きされたノートを見つけることができた。

卵型のゆるキャラのようなイラストで、表紙の隅に適当にいくつも描かれている。

僕はそれを見て、初めて委員長の生きていた証を感じることができた。

どのくらいの時間が経った頃か。

僕は、クラスメイトの群れに流されるように、文具室へ向かっていた。

これからの授業のための準備のはずだと、僕は朧げに思った。

大きめに作られた文具室いっぱいに広がった文房具の匂いの中で、僕は、ファイルやノート、ペンをムキになって見て回った。

でも、どれも気に入らず、それでも何か欲しくて、収まりのつかない感情がむらむらと込み上げてくる。

僕はもう一度順番に見て回ることにした。

ところが、気づくとクラスメイトの姿がない。

僕は一人、置いて行かれてしまったようで、文具室にいるのは一年生か三年生。二年生を見かけてもほかのクラスで、しかも男子は自分だけだった。

僕は、慌てて文具室を飛び出した。

急いで教室へ戻ろうと、小走りに廊下を歩いた。

廊下には一年生の男子が数人、ふざけてドタバタしていたが、すっかり人気が少なくなって、エレベーターの近くまで来ると、もう誰もいない。

ふと、背筋がぞっとして、慌てて壁のパネルの「上る」ボタンを二度、三度、連打した。


すぐにエレベーターが下りて来て、乗場戸が風圧て膨らむような気がして、ドアが開きだした。

そのときだ。

「ボチボチ、ボチボチ……」

突然あの、気味の悪い声が、すぐ後ろの襟首のところで聞こえて、僕は、縮み上がった。

思わずしゃがみ込みそうになって、それでも堪えた。

そして、目の前で開くドアから一目散にエレベーターに飛び乗った。

急いでパネルにしがみつき、「閉じる」ボタンを連打する。

でも、遅かった。

「ボチボチ、ボチボチ……」

と、真後ろ、襟首のところで声がして、すでに一緒に乗り込んでいた。

僕は今度こそ頭を抱えてしゃがみ込んだ。

でもそのとき、頭を抑えた手の甲が何かに触れた。

犬の鼻先のような微妙な湿り気と、毛むくじゃらな感触が伝わってきて、僕の背筋は伸び上がった。

「ボチボチ、ボチボチ……」

突然、左の手首を何かに挟まれ、僕は焦った。

噛み付かれたっ!?

途端に全身に鳥肌が立つのがわかって、無意識に声を上げていた。

「うわぁっー! わわぁっー!」

急いで払い落とそうと、手を振り回す。

絶対こんなの触りたくない。

エレベーターに一緒だ乗るなんて冗談じゃない。

僕は、目を瞑って歯を食いしばり、辺り構わず無我夢中で転がり暴れまわっていた。

そのとき不意に、左手首に噛み付いたボチボチが少し滑って外れそうな感じがした。

僕は、振りかぶっていた左手を思いっきり振り下ろした。

「ボチボチ、ボチボチ……」

真っ黒な頭部が、僕の左手首からはなれて、そのまま閉まりかけたドアから庫外へと飛んで行く。

開いたままの口で、くり抜かれた目玉が、何か言いたげに僕の方を見ていたが、すぐにドアが閉まった。

僕は慌ててパネルを掴んで、ムキになって「閉じる」を押した。

けれど、すでにドアの閉じているエレベーターは、ゆっくりと上昇を始めている。

僕は慌てて振り返り、庫内の隅々まで確認したが、もう、真っ黒な頭部はいなかった。

助かったっー!

僕の全身からどっと力が抜けて、前屈みに息を吐いた。

ふと、噛まれた左の手首を見た。

特に跡にはなっていないが、今でも噛まれた感覚が残っている。

「うううっー! 怖かったっー!」

背筋がぞっとして伸び上がるようにして全身が震えた。

何でこんなことになっているのか。

僕は頭を抱えた。

するとそのとき、エレベーターがすっと止まった。

すぐに僕は身構えて、開き始めたエレベーターのドアを睨み付けた。

また、あの真っ黒な影がいるかもしれない。

息を殺してドアが開くのを待った。

ところが、誰もいない。

眩しく白い廊下が広がっているだけで、あの真っ黒な影も、生徒の姿も何もなかった。

あれ? ここ何階だろ?

そう思ったときには、何故かもうエレベーターを飛び出していた。

体が勝手に走り出して、廊下を右へと進んでいる。

でもすぐに、僕は降りる階を間違えていることに気づいた。

教室に戻りたいのに、誰もいない。

真っ直ぐに続く白い廊下は、何処まで行っても何もなかった。

エレベーターに戻るべきだ。

階を確認して、出直そう。

そう思った。

けれど、そのまま真っ直ぐ走り続けた。

振り返るのが怖かった。

今更、エレベーターまで戻る勇気なんてあるわけがない。

思い返しただけで気味が悪くて、飛び跳ねるようにぞっとして鳥肌が立つ。

逃げるように駆け出して、突き当たりを左へ曲がると、慌てた足が縺れてしまう。

そのとき突然。

「ボチボチ、ボチボチ……」

と、気味の悪い声が、すぐ真後ろ、襟首のところでして、同時に湿り気と毛むくじゃらな感触が伝わってきた。

「うわあああっー! 出たっー!」

全速力で走りだして、僕は叫んだ。

「助けてっ! 怖いよっー!」

誰かに助けてもらいたくて、とにかく大きな声を上げた。

「先生っ! 先生、怖いよっー!」

けれど、誰もいない。

廊下は眩しくて、何処までも真っ白で、何もなかった。

「ボチボチ、ボチボチ……」

それどころか、気味の悪い男子の声だけが、明らかに数を増やして四方から襲いかかってくるようだ。

もうダメだっ!?

そう思ったとき、視野の左の隅に、顔の高さで並走する、あの頭部だけの真っ黒な影を捉えて、僕は慌てた。

無意識に叩き落とそうとして、でも、尻臀と右の脹脛に違和感を感じた。

噛まれたっ!?

と、思った。

その瞬間、僕はバランスを崩して、白い廊下の床材を滑るように転がっていた。

「ボチボチ、ボチボチ……」

「わわわあああっー! わあっー! わぁっー!」

さらに、真っ黒な頭部が口を開けて襲いかかって来るのが見えて、僕は逃げるように後退った。

振り向き様に振り向き様に立ち上がり、そのまま一気に走りだした。

ところが、正面に黄色い大きな卵型の物体がいるのがわかった。

それは、まるでゆるキャラのようにも見える。

けれど、その、上下左右に小刻みに揺れながら二歩、三歩と進んで来る様は、とても不気味で間違いなく今度こそいけない化物に見える。

僕は焦った。

怖いっ!! ぶつかりたくないっ!!

でも、走り出した勢いはどうすることもできない。

容赦なく突っ込んでいく頭の前に、僕は思わず両手を突き出した。

「うわあああっー!」

そのまま突き飛ばす勢いで、思いっきり腕を伸ばして、押し切った。

途端に体が宙を舞ってまた床に転がっていた。

「わあっー! わあっー!」

慌ててすぐに手足をばたつかせて振り回す。

黄色い大きな卵に真っ黒な頭部だけの影なんて、もう冗談じゃない。

僕ばっかりが化物に襲われるなんて、不公平じゃないか。

でも、必死に振り回す手足に全然手応えを感じない。

よく見ると、視界には黄色い大きな卵も真っ黒な頭部だけの影も見当たらない。

その代わりに、訝しげに僕を見下ろす男子の姿があった。

「直樹、お前っー!」

その男子はそう言って僕の名前を呼ぶと、目をくりくりと丸くした。

それは確か、同じクラスの、そう、間違いなく、

「郷田、くん?」

郷田翔斗だった。

クラスでは中心的な存在だが、僕は苦手だ。

背格好はだいたい僕と同じで小柄な方なのだが、乱暴で強引で何だか少し怖かった。

その郷田くんが、どうしてここにいるのだろう。

僕は戸惑った。

変なところを見られてしまった。絶対にからかわれるに違いない。

僕は慌てて立ち上がり、この場を取り繕うと頭を巡らせた。

「えっと、あれ? 郷田くん。何でここにいるの?」

苦笑して何とか言葉を探し出した。

でも、郷田くんは、僕の話しなんて聞いてはいない。

「なー! 直樹ってさー!」

下から顎を突き出して来て睨まれたと思ったら、一瞬で間合いを詰められてもう逃げられない。

僕は怖くて目を瞑った。殴られるのを覚悟して歯を食いしばる。

「お前、強いのなっ!」

突然、力強く左肩を突かれて僕は驚いた。

でも、痛くはない。

見ると、郷田くんは鋭い目を輝かせて、嬉しそうに微笑んでいた。

「え? 僕が……」

僕はすっかり拍子が抜けて、郷田くんを見返した。

「ああ、だってそうだろ!」

郷田くんは当然のように頷いて、興奮気味に話しを続けた。

「ボチボチもセルタマまで一人でなんて凄すぎるだろ! しかも素手だぞ! そんなのできる奴、ほかにいない!」

「ボチボチ?!」

僕ははっとした。

今度は思わず身を乗り出した。

「あの気味が悪いのっ! 郷田くんも見えるの?」

「翔斗でいいよ」

郷田くんは、急に落ち着いた様子で白い歯を見せる。

「え? あ、翔斗、くん」

僕は少し照れ臭くて、ちゃんと名前を言えなかった。

それでも、郷田くんは頷いて、ふと、何処か遠くを見た。

「見えるよ。当たり前だろ。ここは特別支援施設なんだからな。皆、見えてる」

「へぇー」

僕は、言葉に出せなかった。

郷田くんだけでも驚きなのに、皆が見えているなんて、思ってもいなかった。

それに、特別支援施設って何なのだ。

僕は、ずっとここが私立の中学校だと思っていた。

ふと、気づくと周囲がはっきりとしていた。

休み時間なのか。

廊下には何人もの生徒がいて、ふざけたり、窓際で固まっていたりと、皆は楽しそうに見える。

僕と郷田くんは教室の前にいて、開け放たれた扉の中から、面白おかしく盛り上がるクラスメイトたちの明るい声が響いてきた。

「まあ、無理もないさー! 初めはこんなもんだっ!」

いきなり郷田くんが僕の肩をぽんぽんと叩いて、そのまま腕で首を絞めるプロレス技を掛けてきた。

「これからよろしくな! 直樹」

「よっ、よろじくぅー!」

僕は、意味がわからなかったが、郷田くんには返事をした。


「こいつがですか?」

怪訝そうに近づいて来たクラス担任の鈴木先生は、見下したような表情で僕を見ていた。

が、突然、左右の頬を抓るように摘まれて、そのまま真上に釣り上げられた。

僕は頬から引っ張られ、踵が浮いて左と右に一回づつ振られた。

「これがっ?!」

そして、呆れたような冷めた目で僕を睨むと、面倒臭そうに口を開いた。

「使えるようになったんですかー!」

そしてまた、左右に数回、摘まれたままの頬を振り回された。

痛いっ!!

そう思ったが我慢した。

クラス担任の鈴木先生が、こんなに怖い人だったなんて思いもしなかった。

とにかくじっと黙ってやり過ごそうとした。

ところが、頬が千切れそうに痛くて、勝手に呻き声が漏れた。

僕は恥ずかしくて、でも、呻き声は止まらなくて、涙が出てくる。

「まさか! 自分にはただの出来損ないにしか見えませんがねぇー!」

摘まれたままの頬を捻るように抓られて、軽く後ろへ突き飛ばされると、クラス担任の鈴木先生はやっと手をはなしてくれた。

痛い痛い、痛かったよー!

僕は思わず、前屈みに左右の頬を手で押さえていた。

呻き声を上げながら、とにかく頬を撫でた。

「ふん!」

ふと、クラス担任の鈴木先生が鼻で笑うのが聞こえて、僕は焦った。

恥ずかしくて苦笑すると、いきなり額を小突かれた。

「こらっー! へらへらしてんじゃねーぞっ! てぃっ!」

そう言って、額を斜めから突き出してきて睨み付ける。

僕は慌てて姿勢を正すと、何度も繰り返し頭を下げた。

「すっ、すいませんっ! ごめんなさいっ!」

でもすでに、クラス担任の鈴木先生は背を向けていた。

両手をズボンのポケットに突っ込んで、不満そうに肩を左右に与太らせて行く。

「だいたいこいつ、一度は廃棄性分って決まったじゃないですか! わざわざメイン扱いする程のことはないと思いますがねぇー!」


郷田くんと一緒にいたはずの僕は、気づくと施設の職員の人、数人に囲まれていた。

「オレ、凄いんだぜっ! って、先生たちに報告するだけさー!」

郷田くんはそう言って、笑って見送ってくれたが、僕はやっぱり不安だった。

そもそも、職員室に行くものと思っていたが、違っていた。

エレベーターで最下層まで下ったのは初めてだ。

薄暗い廊下を歩いて、知らない部屋へ連れてこられた。

教室よりも広い部屋で、机や何かがいくつも並んでいたが、職員室でも学校の事務室とも違って見えた。

そこには何人もの大人が真剣な顔をして端末や書類と向き合っていたが、クラス担任の鈴木先生だけが怪訝そうにこちらを睨み付けていたのだ。


「大丈夫かい? ここは調整室だ。怖がる必要はないからね」

校長先生なのだろうか。

紺色のスーツを着た高齢の男性が、笑顔を向けてくれる。

「あ、はい」

僕は、少しほっとして、自然と胸を張って声が出せた。

「そうはいいますがねぇー!」

でも、クラス担任の鈴木先生は、両手をポケットに突っ込んだまま、今後は校長先生に額を突き出していた。

「こんな弱虫! 何の役にもたちませんぜぇー!」

僕はやっぱり怖くなって、俯いた。

これからどうなるんだろう。

ふと、不安が頭を過ぎったときだった。

「それでは確認だけ済ませるから!」

頭の上で声がして、気づいたときには背中を押されて歩かされている。

見ると、白衣の上着にズボンを身に付けた看護師の女性が目に入った。

すらりと伸びた長い脚に、メガネをかけて、でも、表情がない。

僕は、やっぱり怖くなって戸惑った。

足を止めて、看護師の女性を見上げた。

「あ、あのー!」

「理解できるでしょ。あそこのメインロックから入るから!」

でもすぐに、背中を押されてずっと奥へと連れて行かれる。

僕はやっぱり不安になった。

何が何だかわからない。

「あ、あの、何を!」

もう一度聞いてみたが、今度はもう何も答えてはくれなかった。

僕はただ、背中を力強く押されて連れられていく。

「あっ、あのっー!」

不意に怖くなって、自然と大きな声が出た。

でも、それだけだ。

僕は、どうすることもできずに、看護師の女性に連れられて、重厚な扉の前に立たされていた。

そこは、広い部屋の一番奥で、大きなこの扉が多分、

「これが、メインロック、なんですか?」

と、尋ねたが、看護師の女性は答えなかった。

扉の横のパネルと手にした端末を操作して、扉がゆっくりと開いていく。

「さあ、入って! 済ませてしまいましょう」

そう促されて、でも僕はすぐに躊躇した。

薄暗い室内に荷物の積まれた台車一台、左を向いて置かれている。

金属製だろうか。

重そうな大きな荷物だ。

これ、何が入っているんだろう?

そう思ったときだった。

突然、背中を強く押されて、僕は前につんのめった。

「わかってる? 中に入るのよ」

と、後ろで声がして、慌てて振り向いたときには、扉はもう閉じていた。

「あのー! すいません!」

僕は焦って駆け寄って、扉を引っ張った。

でも、びくともしない。

「そこにあるでしょ。台車を押して走るのよ」

「えっ?」

天井だか何処かに据え付けられた放送機器から看護師の女性の声がした。

「これを押して走るんですかっ?」

振り返って台車を見たが意味が分からない。

部屋の中で台車を押して走れとは、いったいどういうことなのか。

首を傾げて、ふと、気づいた。

部屋だと思っていたここは、部屋ではなかった。

真っ白な床と壁で作られた数メートル四方の、ここは廊下だ。

台車の前後には、薄暗く静まり返った廊下が何処までも続いていて、どちらも、ずっと向こうで突き当たって、それぞれ左右に曲がっているように見える。

ふと、さっきまでいた、教室のあるフロアの廊下を思い出した。

あれ、似てるかも。材質とか、距離感とか……

僕は、台車の前後からもう一度廊下を確認して、床や壁に触れてみた。

でもすぐに、急かすような看護師の女性の声が、薄暗い廊下に響いて聞こえた。

「台車を押して走りなさい。理解できているかしら?」

「あ、はい!」

僕は、慌てて天井に向かって返事をした。

押して走るのはわかる。

でも、どうしてそんなことする必要があるのか。

まったく意味がわからなかったが、僕は何気なく台車のハンドルに手をかけていた。

「すぐに始めてくれる。押して走るの。わかるわね」

「あ、はい!」

僕は、無意識に台車を押した。

それは、思ったよりもずっと軽くて、滑るように動き出した。

キャスターがとてもスムーズに床を走ってくれるから、何だか僕は気分がいい。

何が入っているのか。ふと、荷物が気になったものの、あっと言う間に加速して、僕は廊下を駆けていた。

そのまま真っ直ぐ進んだところで突き当たりを左へ曲がる。

僕にも軽々扱えるほど、台車はとても軽快な反応で、殆ど減速することはなく、次の直線へと入って行く。

それがとても楽しくて、ますます僕は加速した。

次の突き当たりをまた左へ曲がった頃には、どうにもならない興奮が胸の奥から込み上げて来て、頬が勝手に緩んでしまう。

「何だこれっ?! 楽しい楽しいっ!? 楽しいじゃないかっ!!」

そう大声を出すと同時に目の前が真っ白になった。


「今からこの子とペアを組むのよ。ずっと一緒、理解できる?」

「あっ、はいっ!」

気づくとあの看護師の女性の声が頭の上から降ってきて、慌てて僕は返事をした。

でも、確か僕は台車を押していたはずで、けれどここはメインロックの外で、調整室って言っていた部屋だ。

しかも、目の前には同じクラスの、委員長と仲の良かった、あの、ショートヘアの彼女がいて、僕は息を飲んだ。

「えっと、あの、レイコ、さんと、ですか?」

けれど、俯き加減に目を伏せるレイコさんに表情はなく、それでも、ちらっとこりらに向ける瞳が透き通っていて寂しそうに見える。

だって当たり前だよ。委員長が亡くなったんだ。悲しいに決まってる。

そう思うと僕も、何だかとても悲しくなってきて俯いた。

「そうよ。彼女のことわかっているのね」

「あ、はい! 同じクラスですから!」

背後にいる看護師の女性を、当然のように見上げて、僕はしまったと思った。

僕は、レイコさんの苗字を知らないのだ。

同じクラスだと言っておきながら、最低ではないだろうか。

僕は居心地が悪くなってもじもじっとした。

「おいこらっ! お前、言っとくけどなー、昼間は郷田と黒木とずっと一緒だかんなっ!」

突然、向こうの方から、クラス担任の鈴木先生の大きな声が聞こえた。

でも、僕からは先生が見えない。

だいたい名前を呼ばれてないのだ。ほかに生徒がいるかもしれないが、覗き見るのも失礼な気がした。

だから、返事をしていいものかわからなかったが、痛いのは怖いと思った。

「あっ、はいっ!」

結局僕は、訳が分からないままワンテンポ遅れて返事をした。

けれど、もう返事は返って来なかった。

僕は、拍子が抜けたような、ほっとしたような、自分が返事をしてよかったのか、いろいろと不安になった。

すると、背中を軽く押されて、

「今日はもう戻りなさい」

と、看護師の女性の冷ややかな声が降ってきた。

僕は思わず看護師を見上げて、でもやっぱり、女性のメガネは無表情だ。

「あ、はい!」

僕は、慌てて返事をすると、看護師の女性へ向き直り姿勢を正して頭を下げた。

「失礼します!」

でも、頭を上げたたきには、もう誰もいなかった。

「わかってんのかよっー? えええっー? てぃっ! とぅっ!」

ただ、誰に言っているのか。広い部屋の奥の方から、クラス担任の鈴木先生の声だけが聞こえてくる。

それは全然さっきよりも機嫌が良さそうに感じたが、巻き込まれるのは嫌だと思った。

僕は、慌てて調整室をでると、そのまま真っ直ぐ暗い廊下をエレベーターへ向かって歩いた。

すでに開いているドアから庫内に乗り込んで、パネルを押そうとして、ふと、その前に立つレイコさんに気づいた。

あれ? どうして一緒にいるんだっけっ?

僕は戸惑った。

庫内で二人きりになるとは思わなかった。

レイコさんが操作したのか、すぐにドアが閉じて、エレベーターが上り始めた。

何か話しをしなければと思考を巡らせる。

でも、話しかける気の利いた話題が見つからない。

パネルの前で俯き加減のレイコさんの後ろ姿に、僕は一人でもじもじっとした。

けれど、それはとても不自然で失礼なことだと思い治って、慌ててドアの上の階数表示パネルに視線を移した。

口の中で三十から逆に無心で数え始めた。

レイコさんは操作パネルの前でじっとして動かない。

僕もレイコさんも黙ったままでじっとして動かないから、やっぱり無心に数を数えた。

丁度、十でエレベーターが止まって六になる前にドアが開いた。

「お先ー!」

レイコさんは、絶対先には動かないと、確信して先に出た。

二人きりは息が詰まりそうで、とても恥ずかしい。

教室の人混みの中の方が絶対に居心地がいいと僕は思った。

とにかくエレベーターを飛び出して、そのままの勢いで廊下を歩いた。

ところが、すぐに僕は唖然とした。

何とすっかり日が暮れていて、廊下は夕日に染まっている。

辺りにまったく人気がなくて、僕は思わず立ち止まった。

廊下に詰まる上履きの音だけが、大きな音を辺りに響き渡らせた。

確かまだ、午前中だったはずなのだ。

会議室へ行って、文房具室で少し長居をしたけれど、それでも郷田くんやクラスの皆はいたはずなのだ。

調整室。あれ? メインロックに入れられてから、よく覚えてなかったんだ……

そう思ったとき、後ろから軽やかな衣擦れのレイコさんが、僕を追い抜いて行った。

「早くカバン取って、寮に戻ろ」

「あ、うん」

僕も慌てて後に続いた。


寮の自室に戻っても、僕は何だか釈然としなかった。

時間の経過が曖昧で、記憶もまるであやふやだった。

今日はいろいろあったような気がするが、思い出すのは難しい。

諦めて、ベッドの上に寝転んで大の字になったものの、広すぎる個室は天井も高くて、やっぱりどうも落ち着かなかった。

「これからよろしくな! 直樹」

ふと、日中の郷田くんの言葉が蘇った。

まさか僕の名前を覚えてくれているとは思わなかった。

しかも、あんなに親しく接してくるなんて嬉しいと思う。

けれど、いったい何を「よろしくな!」なのか、僕は今でもまったくわからない。

このままでは、郷田くんの期待には添えないのではないかと、不安になった。

一生懸命考えて、でも、思い出せない。

僕は気づくと、薄暗い天井をぼんやりと見ていた。

そのときだ。

不意に扉がノックされた。

それは、気のせいかと思うほど小さく、でも、はっきりとしていた。

「重いんだけど」

扉を開けるとそこにはレイコさんがいた。

大きな段ボールを抱えて、重そうにカバンを背負っている。

「えっと、あのー」

僕は焦った。

どうしていいのかわからずに、すぐに言葉が出てこない。

僕がもじもじっとしていると、レイコさんは強引に足で扉をこじ開けた。

「灯り、つけて」

そして、躊躇なく入り込むと、ぐるりと部屋を見回した。

「ロフト、使うから」

そう言って、段ボールを抱えたまま梯子を登り始めて、僕は急いで駆け寄った。

「えっ!? ちょっと待ってっ?!」

「上は見ないでっ!!」

「あ、ごめんっ!」

でも、ぴしゃりと言われて、慌ててそっぽを向いた。

「上がってきたらダメだから!」

「うん!」

「灯りつけて!」

「あ、うん!」

僕は、急いでスイッチを入れに壁に走った。

慌てて灯りとつけて、でも、ふと、思った。

これって、何か可笑しくないか?

「あのさー、何で僕の部屋に来たの?」

僕はロフトに上がったレイコさんの後ろ頭に向かって言った。

「見ないでっ!!」

「あ、ごめんっ!」

でもすぐに、屹度した表情で怒鳴りつけられ、僕は焦ってそっぽを向いた。

「島崎先生に言われたでしょ。ずっと一緒にいるようにって!」

「島崎先生……」

そう言われて僕は始めて、あのメガネの女性が看護師ではないことを知った。

確かに、島崎先生が言っていたのは覚えている。

だからって、こんなのは何処か可笑しいと僕は思った。

「でもあれって、こういうことじゃないんじゃないの?」

うっかり僕は言い返してレイコさんを見上げると、すぐにその後ろ頭がこっちを向いた。

「見ないでって言ったでしょっ!!」

「あっ、ごめんっ!!」

「絶対見たらダメなんだからっ! 上がって来たら許さないからっ!」

「あっ、うんっ!」

「バスルームは直樹くんが先に使って! トイレは続けて入らないでっ!」

「わっ、わかったよっ!」

激しく上から言いまくられて、肩を竦めて何度も頷くと、大げさにそっぽを向いた。

それでも、やっぱり落ち着かなくて、もじもじっとした。

だってこんなの可笑しいって!

僕はそう思った。

すると、レイコさんがすっかり落ち着いた口調で言った。

「そんなに緊張しなくてもいいでしょ。ここって元々二人部屋なんだし」

「え? そうなの」

思わず振り向きそうになって、でもぎりぎり踏み留まった。

「でも、男女って可笑しくない? 同じ部屋、だよ」

そう言って、僕はまた、もじもじっとした。

「別に、可笑しくない。直樹くんとは相性がいいらしいから」

「へぇー!」

僕は思わず声を上ずらせた。

途端に頬が熱くなって、無意識に鼻息が荒くなった。

「じゃー、僕とレイコさんはお似合いってことだ!」

勢いに任せて大きな声で言葉に出して、僕はまたもじもじっとした。

レイコさんとお似合いだなんて、何と言うか光栄だし、嬉しいと思う。

それをクラス担任の鈴木先生と島崎先生が認めて、一緒にいるように許可をくれたのだから公認ということになる。

僕の中学生活も捨てたものではない。

そう思った。

けれど、それはすぐに否定された。

「違う。そういうのじゃない」

冷めた口調のレイコさんの声が静かに聞こえた。

「たまたま相手がいなかっただけ。真子がもういないから、たまたまなだけだから……」

僕ははっとしてレイコさんを見上げた。

真子というのは間違いなく委員長のことで、レイコさんは深く悲しんでいるのだとそのときやっと僕は気づいた。

それなのに、勝手に浮かれて興奮するなんて、僕はとても恥ずかしくなった。

けれど、ロフトの上のレイコさんは少し違っていた。

何処か遠くに視線を置くレイコさんの横顔は無機的で、さっき会議室で見た時と同じで、無表情に見える。

悲しんでいるわけではなく、ふと、委員長を思い出した。

そんな感じに見えるのだ。

何故そう見えるのか、僕には分からない。

レイコさんの横顔を見ながら考えていると、ふと、厳しい視線がこちらを向いた。

同時に、勢いよく枕が飛んで来て僕の頭を直撃した。

「見ないでって言ったでしょ!」


翌朝、人の動く気配で目を覚ました。

そのまま起きようとして、ふと、視界に違和感を感じた。

閉じたままの左目の真ん中に、青く輝く蛍光色の光の点が一つ。

瞳の動きについて来て僕は焦った。

慌てて目を見開いて、手を翳した。

けれど、もう、青い光はなくなっていて、問題なく普通に見える。

何だったんだろ? 今の。

僕は何となく気になった。

そのときだ。

「おはよう」

と、先に起きていたレイコさんが、僕に気づいて声をかけて来た。

見るといつもの無表情ながら、洗面を済ませたばかりの清々しい朝の顔が少しだけこちらを向いている。

「おはよう!」

僕は胸が高鳴って、思わず飛び起きると、そのままの勢いで洗面に向かった。

やっぱりレイコさんと一緒にいるということを実感すると、居ても立ってもいられなくなる。

嬉しいやら恥ずかしいやらで、僕は一人でもじもじっとした。

寮を出る頃には、左目のことなどもうどうでもよくなっていた。

僕とレイコさんは教室へは行かなかった。

校舎施設に併設された建物。セル棟にある専用室というところにいた。

「安定はしてる。問題ないようね」

そこには島崎先生がいて、僕と端末を見比べながら満足そうに頷いていた。

それは多分、レイコさんと男女同室になったからで、僕が変な気を起こしてないか確認されているのだとすぐに理解した。

「あ、はい!」

僕は、思いっきり頷いた。

けれど、何故だか落ち着かない。

決して疚しい事などないのだが、何だかとても恥ずかしくて、僕は一人りでもじもじっとした。

すると、島崎先生は端末を見ながら、ぽつりと言った。

「それでは始めてくれる」

僕は驚いた。

えっ?! 何をですかっ!?

焦って慌てて、言葉にならない。

いったいここで何をして見せろというのだ。

僕は、訳が分からない。

けれど、島崎先生は端末を見たままで、それ以上何も言わなかった。

そのときだ。

僕の左手が掴まれて、レイコさんの声がした。

「手、貸して。一緒に握って」

「えっ?」

暖かな温もりと、すべすべとした感覚が余りにも予想外で、僕は恥ずかしくなって、もじもじっとした。

「目を閉じて。左目に青い光が見えるから、それを右目に流すようにするの。やってみて」

けれど、レイコさんは、冷ややかな口調で淡々と説明を始めていた。

それはまるで、こちらの気持ちがバレてしまっているようで、僕は焦った。

急いでレイコさんの言う通りに、目を閉じて青い光を左目の中に見つけた。

それは蛍光色の青い光で、すぐに一筋の線となり、鼻の頭の上を左から身へと流れて、右目に入って、赤、青、黄、緑の四色に変わった。

「それを、右目の中で丸くするの」

そしてそれは、レイコさんの言葉に合わせて、右目の真ん中、やや左下のところで、四色の丸い輪を描いて綺麗に輝いた。

「えっ?! あれっ? これってどうするの?」

そう言ったつもりだった。

でも、それよりも前にいきなり周囲の背景が変わって、何処か知らない屋外にいた。

「あれ?」

そこは、何処かの閑静な住宅街。

どこかで見たような児童公園にいた。

「何処だろ? ここ」

向こうの通りを車が横切って、スズメの囀りと保育園か幼稚園に向かう子どもの声が聞こえて来る。

「真子ともね。ふざけて来たことがあるんだよ」

不意に隣でレイコさんがぽつりと言った。

「へぇー、そうなんだ……」

僕はそのとき、二人で一緒にここに来て、左手はまだ繋いだままだとやっと気がついた。

途端に一人でもじもじっとして、すべすべとした温もりが何となく汗ばんでしまって、僕は焦った。

「どうかした?」

小首を傾げるレイコさんに、僕はやっぱりもじもじっとした。

「レイコさんと委員長って、仲が良かったんだなって!」

そう、思わず出任せを言ってしまってから、僕はすぐに後悔をした。

レイコさんには、こんな出任せは通用しない。何より、よく知らない委員長のことを軽々しく口にするのはよくないことだ。

そう思うと、途端に僕は恥ずかしくなった。

それでも気づかれないようにと平静を装おうとする自分を嫌らしく感じた。

するとまた、レイコさんはぽつりと言った。

「そうかも……」

それを僕が言わせてしまったような気がして、胸が詰まった。

でもすぐに、レイコさんは話しを続けた。

「ここね。昔、住んでたの」

「え?」

ふと、「常磐」という地名が浮かんだ。

僕は知らない。来たことも聞いたこともない。

思わずレイコさんを見た。

朝の光に透き通る白い肌が、とても眩しく、僕には感じた。

「もう、随分、前になるけど」

「常磐、ここに住んでたんだ……」

僕が尋ねると、レイコさんは黙って頷いた。

スズメの囀りと園児の声が一瞬大きくなったような気がした。

まさか、以心伝心ってことなのかな?

僕はふと、そんなことを考えてしまって、また一人でもじもじっとした。

もしそうなら凄いことで、これってもう両想いとかじゃないの?

いっきに胸が高鳴って、妄想が膨らんだとき、唐突にレイコさんが冷めた口調でぼそりと言った。

「今度は直樹くんが一人でやってみて!」

「えっ?! あ、うん!」

やっぱりそれは、僕の中を見透かしているようで、恥ずかしくて戸惑った。

「島崎先生のいる専用室。頭に浮かべて」

「あ、うん!」

レイコさんに促されるように僕は思い起こした。

すぐに、白衣姿の島崎先生が端末を見ている専用室の光景が頭の中に浮かんだ。

と、思ったときには、左目の真ん中に青い光が見えていた。

それをそのまま左から右へ蛍光色の青い光で線を引く。

鼻の頭の上を通って、一直線に真っ直ぐ進む。

すると赤と青、黄と緑の四色で輝いて、右目の正面よりやや左下で、花火のように丸くなって円を描いた。

これっ、どうするんだっけっ?

と、思いつつも、そのまま丸い輪を引っ張り出しては、頭の上に放り投げるように広げて見せた。

「あれっ?」

でもその途端、目の前が真っ白になって耳が塞がれた。

スズメの囀りも園児の声も何も聞こえない。

それは屋外ではなく、室内で、僕はレイコさんと二人で専用室にいた。

「やっぱり、三橋真子と同じ素材だった。あなたに任せて正解だったわ!」

目の前には、端末を片手に満足そうな島崎先生のメガネがこちらを向いていた。

僕は訳が分からずに、頭をかいた。

けれど、レイコさんは冷めていた。

「別になにも。直樹くんの覚えがいいだけ」

「確かに、安定性と数値は三橋真子の比じゃないわ。けれど、それもあなたと組んだからこそ引き出されたのものなのよ!」

そう言ってまた、島崎先生のメガネが僕を見ると満面の笑みを浮かべた。

「ねえ、そう思うでしょ!」

「あ、はい!」

これは、褒められている!

と、僕は確信して笑顔で返事をした。

だってそうだ。

僕は覚えが良くて、委員長の三橋真子の比ではないと言われたのだから、喜んでもいいはずだ。

僕は、褒められることがこんなに嬉しいことだと始めて知った気がした。

そう思ったときだった。

「だったら尚の事」

レイコさんに、掴んだままの手を引き寄せられた。

僕らの体は密着して、殆ど身長の変わらないレイコさんの頬がすぐ近くになった。

「二人の取り扱いを完全同等にして!」

レイコさんは、島崎先生を睨み付けているようだったが、僕はそれどころではない。

近い、近いのだ。

僕は、焦ってしまってもじもじっとした。

「そうね。確かに、配慮がたらなかったわ」

一度、端末を操作した島崎先生は、口元を綻ばせて改めて僕を見た。

それは、メガネではなく、島崎先生が始めて、僕を見たように思った。

「直樹くんには、近いうちに出てもらいます。指示があるまでは自由にしていて」

「あ、はい!」

すぐに、レイコさんに手を引かれ専用室を出た。

「指示があるまでは自由」とはいっても、そもそも昼間は、郷田くんと黒木恵子さんの二人と行動を共にするように鈴木先生に言われている。

だから、まず二人と合流するしかない。

でも今は授業中。てっきり教室へ向かうのかと思っていたが違っていた。

心当たりがあるというレイコさんの案内で、僕らは校舎施設を出た。

外は日差しがとても強くて、すっかり夏だった。

山の中腹にあるこの施設は、前後左右、何処を見ても山ばかりだ。

周囲を起伏の激しい地形に囲まれているだめ、近くに人家などは一切ない。

施設から抜け出そうとしても無理だという話しは聞いたことがある。

それ以前に僕なんか、施設の敷地が広大過ぎて、すぐに遭難してしまいそうだと思ったのだが、レイコさんはあっさりと二人を見つけ出していた。

「やっぱり、坂下と一緒になったか」

納得した表情の郷田くんの第一声に、僕は気不味くなって小さく苦笑した。

レイコさん、坂下っていうんだ……坂下玲子……似合ってる……

と、すんなり頭に入ってきて、今更ながらにそう思った。

でも、知らん振りをした。

広大な施設の敷地内に、いくつか点在する東屋。

その一つに郷田くんと黒木さんはいた。

まさか、玲子さんのフルネームをこんなところで知ることになるなんて思いもしなかった。

「坂下さん」の方が呼び方としては絶対に自然で良かったはずだと後悔した。

でも、今更呼び方を変えるなんて不自然過ぎてできるわけがない。

僕は何だか堪らずに唇を噛み締めた。

「どうぞ、座りなさいな」

黒木さんが隣を指し示して、玲子さんがそこへするするっと座るので、僕も釣られてその隣、郷田くんの横に静かに腰を下ろしていた。

四人で車座になって、でも、僕は何となく照れ臭かった。

郷田くんも黒木さんもクラスが同じで中二のはずなのに、何故かとても大人に見えた。

僕だけ何だか場違いな気がして、少しだけ居心地が悪い。

「俺たちと一緒ってことはさー! 直樹は期待されているってことなんだぜ!」

不意に郷田くんはそう言って、得意気に口を尖らせて見せる。

「あ、うん」

僕は曖昧に返事をした。

だって、今一つぴんとこない。

島崎先生にも褒められたが、自分ではよくわからないのだ。

けれど、ぼやぼやしているうちに、郷田くんは次々に僕の予想の範疇外の戸を言ってくる。

「直樹ももっと威張っていいんだぞ! 鈴木とか怒鳴りつけてやれよ! あいつ、無駄に偉そうだろ! 一度、ガツンとやっといた方がいいんだよ。ああいうのは!」

「え? 無理だよ、無理!」

今度は慌てて首を振って、意味もなく笑顔を作った。

やっぱり接し方がわからない。

醸し出す雰囲気自体が違っているのだ。

だいたい郷田くんも黒木さんも、自分に凄く自信があって、堂々として見える。

特に郷田くんは、悪ガキっぽいというか、勝気さが全身がら漲っているのがわかるのだ。

僕はそれを羨ましいと思う反面、何となく嫌だった。

これでは玲子さんもやりにくいのではないかと思ったのだが、違っていた。

相手が黒木さん、女子ということもあるのだろうか。

普段は口数の少ない玲子さんが、黒木さんと話しをしながらくすくすと笑っている。

時折、声を弾ませてとても楽しそうではないか。

きっと委員長の三橋さんが健在だった頃は、もっと盛り上がっていたのだろうと想像もできる。

そういえば、僕の記憶している限りの三橋真子は、郷田くんや黒木さんに引けを取らない雰囲気の持ち主だった。

何より明るくて、指揮力も高い。

ここにいても何ら間違いなく、郷田くんと互角に渡り合っているはずだ。

僕はそう思って、ふと、不安になった。

仲の良かった三橋さんの代わりにここにいる僕を玲子さんはどう思っているのだろう。

逆立ちしたって三橋さんの真似なんかできない。

郷田くんと黒木さんは、僕のことを好ましく思ってはいないのではないか。

僕は、そう思うと怖くなった。

頬が強張るのがわかって、小さく俯く。

でも、そのときだ。

「なー! 直樹さー!」

突然、郷田くんに肘で小突かれたかと思うと、体ごと顔を近づけられて僕は驚いた。

怒鳴られるっ! 殴られるっ! 怖いよっー!

僕は思わず両手で顔を覆いそうになって、でも、次の瞬間、拍子が抜けた。

「お前、もう坂下とエッチしたか?」

「なっ!? 何言ってんの郷田くんっ!!」

「いや、だから坂下とエッチしたかって聞いたんだけど!」

「エッチだなんてっ! 郷田くん、何を言っちゃってるのっ!?」

僕は焦った。

すぐに頬が赤くなるのがわかって、恥ずかしくてもじもじっとした。

「もしかして、直樹、まだしてないのか? やっちゃえよ、今夜!」

「もう黙ってっ!!」

僕は慌てて郷田くんの口を塞ごうと、思いっきり身を乗り出した。

「相性が良いから一緒にいるんだろ! 同室なんだからエッチしたって叱られないって! 臆病な奴だなっ! たくよっー!」

「もうしゃべっちゃダメってばっ!」

確かに相性がいいことは玲子さんも言っていた。

でも、それはたまたまなはずで、僕にもそんな気持ちはこれっぽちもないはずなのだ。

僕は、ムキになって郷田くんを押さえ込んだ。

けれど、その郷田くんの表情が、がっかりしたような、呆れたように見て僕は慌てた。

玲子さんとエッチしないと郷田くんに嫌われちゃう!

咄嗟にそう思った。

今夜、しちゃおうか……

そう思って、一人でもじもじっとした。

でも一瞬、俯いている玲子さんを視野の隅に捉えてはっとした。

「するわけないでしょ、そんなことっ!!」

僕はきっぱりと言い切った。

つもりだった。

「あら? そうなんだー!」

けれど今度は、黒木さんが爽やかな笑顔をこちらに向ける。

「せっかく男子と組むことができたのよ。坂下さんだって期待してるに決まってる!」

「そっ?! そうなのっ?」

「当然よ!」

女子の黒木さんにきっぱりと言われ、僕は今度こそ「今夜、やるしかない」と、もじもじっとした。

そんな僕を楽しそうに面白がるよな笑みを浮かべて、

「ねー! そうでしょ?」

と、黒木さんは玲子さんにも同意を求めた。

でも、そのときだ。

「別にわたし、そんなんじゃないからっ!」

強い口調が飛んで来て、僕がはっとしたときには、玲子さんはもうそっぽを向いていた。

僕も慌てて首を振って、玲子さんの真似をして後に続いた。

「そうだよ、そんなことするもんかっ! 恋人さんじゃないんだからっ!」

すると、黒木さんが吹き出してころころと笑った。

「恋人さんって、直樹くん。可愛いー!」

可愛いってっ?!

僕は戸惑った。

そのなことを言われたのは初めてだ。

僕は、恥ずかしくて落ち着かない。

不意に郷田くんが体を寄せて迫ってきた。

「恋人じゃなくても、エッチしたって構っわないんだぜ!」

そして、耳打つように更に続ける。

「なあー、今夜、やっちゃえよ!」

僕は怯んだ。

「ダッ、ダメだよ。そんなこと……」

言い返したつもりが、一人でもじもじっとしてしまう。

でもすぐに、黒木さんが口を尖らせて郷田くんを睨み付けた。

「まぁー、「やっちゃえよ!」なんて、翔斗ったら下品な言い方!」

「だってそうだろ? 本当のことだ!」

「だからって、二人は初めてなのだから、無理強いはダメなのよ。もっと自然にゆっくりでいいの。二人のペースでね」

すると、諦めたのか。郷田くんは背伸びをした。

「まあいいやー! やったら教えろなー!」

それには僕は返事ができなかった。

郷田くんも黒木さんもとても同じ年とは思えない。

僕と玲子さんは、お互いにそっぽを向いて俯いたまま、じっとしていた。

そんな僕らに黒木さんは、またころころと笑った。

「本当に、二人はお似合いね」


その夜、僕は初陣となった。

午後九時過ぎ。クラス担任の鈴木先生の指揮の下、専用室に集められていた。

メンバーは、僕と玲子さん。郷田くんと黒木さんのほか、知らない三年生の男子が二人いた。

「何だよ! お前らも男女ペアかよっ!」

と言う、佐藤先輩と大人しそうな内田先輩の合計六人。

僕と玲子さんの役割は、鈴木先生が指し示す、ボードの中の黄色の四角で囲まれた「TP」と記載された所へ四人をテレポさせること。

そして、四人が役割を終えたらまたここへテレポして戻って来る。

詰まり、行って帰って来るだけの僕らの仕事だ。

それはとても簡単そうで、特に問題はないと僕は思った。

なのに、鈴木先生は斜めに顎を突き出して、ムキになって睨んでくる。

「距離はあるが国内だかんなっ! こんくらい熟してもらわにゃ俺は認めないからなっ!」

「今回は、テレポの実戦検証がメインだから」

と、島崎先生も端末を片手に真剣な表情を向けてきた。

僕は訳が分からずに、でもとりあえず、神妙な表情をしてみせて、こくりと小さく頷いた。

「そろそろ行くから、準備して」

不意に、玲子さんに左手を掴まれ、前に郷田くんと黒木さん。後ろに佐藤先輩と内田先輩が並んで立たれて僕は慌てた。

「あ、そっか」

すぐに、目の中を左から右へと青い蛍光色が伸びるように流れるのが見えた。

それが間もなく、赤、青、黄、緑の四色の丸い輪になって、僕が掴んで引っ張り出すと、そのまま六人を頭からすっぽりと覆い被せた。


「ここ、何処だろ?」

僕は辺りを見回した。

見知らぬ通りに架かる極ありふれた横断歩道橋の上。

僕は、玲子さんと二人、通路の隅の目隠しのところに立っていた。

下を走る大きめの通りには、車の流れが引切り無しで、でも、歩く人はまったくいない。

いくつものビルが建ち並んでいたが、どれも人の気配は曖昧で、何処までも連なる街灯が妙に明るく虚しく感じる。

「多分、下の方、九州とか、沖縄とか。そっち」

「ああー!」

玲子さんがぽつりと言って、僕は頷いた。

空気が何処か澄んでいて、少し潮の香りがするのはその所為なのか。

沖縄とか来たことはないけれど、言われてみればそうかもしれない。

僕は何となく納得して、もう一度頷いた。

制服のまま来てしまったが、沖縄だが九州だかなら遠過ぎて問題はなさそうだと改めて思った。

僕は、玲子さんの手を放して、海が見えないかと目隠しの端から顔を出した。

テレポが役割の僕と玲子さんは今回はここで留守番。

すぐに済ませて戻って来る算段で、五分経っても帰らなければ僕と玲子さんだけで、専用戸口室へテレポするように言われていた。

「まあ、三分もあれば余裕で戻れるけどな!」

郷田くんがそう言うのだから、特に僕が心配する必要もないと思った。

それよりも、風に乗って僅かだが間違いなく潮の香りが流れて来るのだ。

「海、見えないかなー」

僕は、背伸びをしながら呟いた。

何となく海が見えそうな気がして、ビルの合間をふらふらと覗き込んだ。

と、いきなり、玲子さんに左手を掴まれてそのまま引っ張られた。

「四分過ぎた。準備して!」

「えっ? あ、うん!」

僕は焦った。

三分で余裕って言っていたのに、四分を過ぎたってことはどうなるんだろう。

四人が走って行った通路の先、向こう側の階段を見たが誰も戻って来る気配がない。

僕はますます慌てた。

そもそも準備とはどうすればいいのか僕にはさっぱりわからない。

でも、そんな気持ちを見透かすように玲子さんが教えてくれた。

「いつでも輪を取り出せるようにしておくの!」

「あ、うん!」

僕は、目の中を左から右へ青い蛍光色が流れるのを確認した。

すぐに、赤、黄、緑、青の四色が丸く輪を描いた。

僕は、それを右目の中心よりやや左下、鼻の横辺りに留めようとした。

でも、そんな簡単にはできない。

すぐに集中力がなくなって、見失ってしまいそうで、気持ちが焦る。

何とか上手く留め置こうと必死になっているそのとき。

「帰って来た!」

玲子さんの声がした。

同時に、複数人の忙しい足音がぱたぱたと響いて、横断歩道橋が小さく揺れる。

「警備が来てる」

「急いでテレポを!」

と、立て続けに言われて、四人が滑り込むように僕らの前後に並ぶのがわかった。

すぐに、目の中に留めていた丸い輪を掴もうとして、でも、慌てて掴み損なった。

「あれっ?」

と、思わず声にして、

「どうした?」

「出せないのか!」

と、誰かの声が聞こえてなおも焦った。

「すっ、すいません!」

もう一度、最初っから作り直そうと急いだ。

左から右へ青い蛍光色の光を走らせ、四色の丸い輪を作ろうとした。

でもその瞬間、「それはクリア」と誰かに言われて気が逸れて、上手く作ることができない。

急く気持ちを堪えながらもう一度やり直そうとしたときだ。

明らかに大股でのしのしと重くて素早い幾つもの足音が、みるみる迫って来ていることに気づいた。

「こらっ! 待ちなさい!」

「君たちここで何をしてるんだっ!」

大人っ!? 追ってきた警備員っ?!

僕は焦った。怖いと思った。

もう一度、始めから作り直そうと、左目に青い光を見出した。

けれど、集中できない。

迫って来る大人は何人なのか。僕らは捕まるとどうなってしまうのか。

頭の中を駆け巡ってぐるぐる回った。

そのときだ。

「落ち着いて! 直樹くん」

と、玲子さんの声がした。

「右目の真ん中、少し左の下のところ。もう輪ができているから大丈夫。引き出してっ!」

そう言われたときには、もう僕は丸い輪を掴んで目の中から引っ張り出していた。

放るように頭の上に広げると、そのまますっぽり六人を包んだ。


「苦労っー! よくやったっ! 全員、寮に帰って寝ろー!」

「対象が遠過ぎるんだよっー!! 警備に追われたじゃねーかっ!!」

気づくと郷田くんがクラス担任の鈴木先生に食ってかかっていた。

すぐにその後ろを黒木さんもついて行く。

「そりゃーお前、喧伝だろ! マジでキレてんじゃねーよ!」

「喧伝?! わざとってことですか?」

「俺ら、そんなんで有名になるとか冗談じゃないぞー!」

「一々喚くなよ! その辺はお前らのあれ込みだろ!」

「にしたって、大人に追いかけられるのはリスキー過ぎるだろ!」

「そうよ! 撃ってくるかもしれないし!」

言い合う三人の姿に、僕は専用室に無事に戻れたことを安堵した。

そしてふと、僕は思った。

でも、玲子さんと繋いだままの手に無駄に力が入って汗ばんでしまっている。

「あ、ごめん」

「いえ、別に」

慌てて手をはなしたが、僕は顔を背けられてしまった。

僕は、玲子さんに訪ねたいことがあったのだが、躊躇した。

もしかしたら、聞いてはいけないことなのかもと、無意識に思った。

一瞬で周囲を一掃出来る攻撃力を持っているのがクリアだと、さっき知った。

あのとき聞こえた声は、玲子さんに間違いはない。

僕が見失ったテレポの輪を探してくれたのも玲子さんで、結局、最後の青い光は右目に流すことはなかったのだが。

間違いなく僕の左目には、三つの青い光があることに気づいた。

本来なら、早々に島崎先生に報告する必要があるものと僕は思った。

でも、もしかすると、報告するまでもなく島崎先生は知っているのかもしれない。

分かりきっていることをわざわざ報告するのはとても恥ずかしいことだと思った。

だから、玲子さんに確かめておきたかったのだが、余り機嫌がよくないようで、声をかけにくい。

でもそれは、きっとテレポでもたついたからで、僕の所為なのだ。

だからこそ、島崎先生に伝えた方がいいのではないかとは思う。

もっと効率よく自分の役割を果たせるようになるのではないか。

そんな気がするからだ。

そんなことを考えていたときだった。

「お疲れ!」

と、不意に、佐藤先輩と内田先輩に顔をだされて、僕は驚いた。

「あ、お疲れ様です!」

僕は慌てて頭を下げて、すぐに身構えた。

間違いなく、テレポの起動に手間取ったことを叱られるはずだと、警戒した。

「やっぱテレポって凄いよな!」

「まだ数を熟していないのに安定してるね」

でも、何だか違っていた。

二人はとても、気さくに話してくれて、僕はすぐに口元が綻ぶのを感じた。

「あ、まだ二日目なんで、僕もびっくりしちゃって!」

と、頭をかいた。

「そうか。これからもよろしくな!」

「今回みたいに大人が来ても、僕らに任せておいてよ!」

「あ、はい!」

二人が微笑んでくれるから、僕もとても嬉しくなった。

このまま先輩二人と話していたい。

そう思ったとき、

「左の目に見えた青い光は一つだけ?」

と、端末を持った島崎先生が割り込んできた。

「二つ、もしかすると三つあったんじゃないかしら?」

それは唐突で、余りにもタイミングが良過ぎて、僕は息を飲んだ。

「大事なことよ。覚えてるでしょ。直樹くん!」

「えっ? あー!」

僕は戸惑った。

でも、すぐに首を振っていた。

「慌ててしまって、テレポするのがやっとだったもので、わからないです!」

と、何故か嘘をついていた。

さっき手をはなしたときの玲子さんの不機嫌さが気になったからだ。

僕はそう思った。

けれど、島崎先生のメガネの奥の目が、訝しげに僕を見た。

「本当に?」

「あ、えっとー!」

僕は、思わず言葉に詰まった。

もうバレている。

端末を持っている島崎先生を誤魔化すことなんてできるわけがない。

そう思ったとき、

「だいたい直樹は初めてなんだぞっ! それを喧伝で済まされるかっ!」

「そうよ! すっかり大人に怯えてしまって、一度でテレポできなかったんだからー!」

クラス担任の鈴木先生に食いついていた、郷田くんと黒木さんの大きな声が響いた。

島崎先生も、その声に少しだけ反応したように見えて、

「実は帰りにアクシデントがあって!」

と、玲子さんが顔を出した。

「警備の大人が追いかけて来てて、テレポが上手くできなかったんです」

「あの、僕、本当にテンパってしまって!」

僕は迷わず玲子さんに続いた。

「上手くテレポができなくて、随分もたついてしまって、だから細かいことが全然わからなくて!」

いつの間にか身を乗り出して、僕は必死なって訴えていた。

「僕も、ああいうのはよくないと思います! 島崎先生」

「初めての奴なら普通にびびるだろ! あれは」

すぐに、内田先輩と佐藤先輩が加わってきて、島崎先生は慌てて端末に視線を落とす。

「じゃーこの乱れは、上手くテレポができなかったってこと?」

「そうです!」

端末がどうなっているのかこちらからではわからなかったが、とにかく僕は頷いて見せた。

「だから、皆に迷惑かけちゃってっ!」

「わかりました。もういいわ」

島崎先生はもうそれ以上何も言わなかった。

「つべこべ煩い! お前らっー、とっとと寮に帰れっー!」

クラス担任の鈴木先生の大声に、僕らは追い出されるように専用特技室を出た。

「あいつら、扱き使うだけで、いつも偉そうなんだ!」

「そうよ。そもそもテレポが使えなかったら、先生たちだって仕事にならないんだから。もう少しちゃんと扱ってもらいたいものだわ」

「そうだね。無駄な喧伝? とかはやめてもらいたいね」

「結局、テレポしてるところを見せたいんだろ。何かあって狙われるのってテレポの二人ってことじゃん!」

寮への帰り道。

誰もが不満を口にした。

けれど、玲子さんは何も言わなかった。

当然、僕も、何を言えばいいのかわからずに、ずっと黙っていた。

「まあ、いざとなったらオレが刺し違えてでもバババーンっとやってやるからよー!」

結局、最後は佐藤先輩が締めくくって別れた。

「あの、さっきの歩道橋では、ありがとう」

部屋に帰って僕は玲子さんに改めて感謝の言葉を伝えた。

「あのとき僕、本当に焦っちゃって、丸い輪とか見失っちゃっててさー、もう一つのクリアってやつを?」

そこまで言ったときだった。

突然、玲子さんに腕を掴まれたかと思ったら、

「ちょっと来て!」

低く小さな早口で言われ、そのまま一気にトイレに連れ込まれてしまった。

「ドア閉めて!」

僕は焦った。

言われた通りにドアは閉めたが、意味がわからない。

玲子さんは、自動点灯するライトと換気扇をいつの間にか持っていたリモコンで即座に消した。

暗くて、静かで、とにかく狭い。

今まで聞こえなかった呼吸音と衣擦れが妙に大きく聞こえてきて、とても良い香りがする。

体と体が何となく触れちゃいそうで、でも、もじもじっとしてしまうから、僕はもう余計なことを考えるのをやめた。

「あの、何でトイレに?」

「ここなら盗聴されてないから」

「盗聴っ?!」

僕は驚いた。

まさかそんなこと、されていたとは思ってもいなかった。

「ずっと聞かれてるのかな? カメラとかもあるの? 僕、どうしよう!」

僕は、急に不安になった。

どうすればいいのかわからず、玲子さんに迫っていた。

でも、玲子さんは素っ気なかった。

「そんなことはいいの! 普通にしてれば何も言われないから!」

早口でそう言って、ふと、俯き加減に屹度、強く一度だけ唇を噛み締めるのがわかった。

「でもね。直樹くん。テレポ以外のことは、誰にも言ってはダメ! それだけは絶対に忘れないで!」

左目の中に見えた三つの青い光のことだとすぐにわかった。

「クリアのこともダメなの?」

「そう。絶対にダメ!」

玲子さんは、屹度唇を結んで、僕を睨むように見た。

「左の目には青い光が一つだけ。三つあることは誰にも知られてはいけないの!」

その様子は、何処だかとても切羽詰っていて、珍しく感情的にも思える。

「本当は、クリアだって教えたくなかったんだから! なんか直樹くん、すぐ顔に出ちゃいそうで、不安っていうか、嫌だったのにー!」

でも、すぐにまた俯き加減にそっぽを向いて、また小声の早口になった。

「まさか、あんなところで使おうとするんだもん、びっくりしちゃった!」

「ご、ごめん!」

「しかも見事に、島崎先生にバレてるし!」

吐き捨てるように言い放ってそっぽを向く玲子さんに、僕は思わず身を乗り出した。

「やっぱり!? あの端末には出てるんだね!」

「数値だけ。だから、今回は誤魔化せたけど、二度は無理!」

僕は、思わず息を飲んだ。

「もし、知られると、どうなるの?」

「ごちゃごちゃになって、いなくなっちゃうかも……」

それは、説明ではなくて、まるで意味がわからない。

でもそれこそが、玲子さんの三橋真子への思いなのだと僕は感じた。

だから僕は、玲子さんに従うと決めた。

「わかった。バレないようにする」

すると、玲子さんの表情がすっと解れるのが目に見えてわかった。

三橋真子のことを尋ねてみたいけど、今はやめた。

その代わり、

「テレポとクリア、後の一つは何なの?」

と、聞いてみた。

けれど、

「今はダメ!」

と、即答されてしまった。

「言ったでしょ。直樹くん。顔に出るから、知らない方がいい」

僕は何も言えずに苦笑した。

「でもね。大丈夫だから!」

玲子さんは、一瞬また、唇を強く結んで視線を落としたが、すぐにまた、こちらを向き直りはっきりと言った。

「必要なときがきたら、ちゃんと使えるようにしてあげる!」


翌日も僕たちは、朝から授業に出ることはなく、専用室に集められた。

メンバーは昨夜と同じ六人。

「しばらく、このメンツで行動してもらう!」

と、クラス担任の鈴木先生が、ボードの前で高らかに宣言をして、そのままブリーフィングが始まった。

「いいかっーお前らっ! 今回も喧伝の意味合いが強いってことをわすれるなっー!」

でも、僕と玲子さんの仕事は昨夜と同じで、黄色い四角で囲まれた「TP」から動かないわけだから、その先の建物内の見取り図なんか頭には入らない。

左から右に抜けて、ぼんやりと意味もなく適当に頷いていた。

そんな僕に、クラス担任の鈴木先生も何も言わなかった。

けれど、島崎先生は違っていた。

僕の近くて、じっと端末を見ている。

僕は緊張して、ますます頭を空っぽにして、鈴木先生の切目に適当な相槌をうっていた。

すると不意に、島崎先生が話しかけてきた。

「昨夜、眠っているときに幾つも見えたりしなかった? 今はどうかしら? 幾つも見えているんじゃない?」

「いえ、全然、見えないです!」

少し焦ったが、その質問には、僕ははっきりと答えることができた。

それは、嘘ではないからだ。

寝ているときも、今、こうしているときも、青い光は見えていない。

だから、びくびくせずに堂々と返事ができた。

「そう。わかったわ。何か変わったことがあったら教えて」

「あ、はい!」

島崎先生も諦めてくれて、変な追求もされることはなかった。

とっとと向こうに行ってしまい、ほかの白衣の人達と別の端末を囲んでいる。

「これでいいんだよね!」

と、僕は黙って玲子さんに視線を送った。

でも、玲子さんはそっぽを向いたままだった。

僕は、少しだけ口を尖らせたが、すぐに、鈴木先生の指示が出た。

「よーしっ! 行ってこいっ!」

郷田くんと黒木さん。佐藤先輩に内田先輩が僕らの前後に立ち並んだ。

「行こう。直樹くん」

「あ、うん」

玲子さんに手を取られると、自然と意識が集中した。

すぐに、左目の中に青い光の点が見えて、でも、幾つあるのか確認するよりも先に、線になって右目に流れる。

それはそのまま、赤、青、黄、緑の四色の丸い光の輪になって、僕はそれを引っ張り出すと頭の上に放り投げた。


確かまだ、午前九時前だったはずなのだが、テレポ先は夜だった。

僕は、リープしてしまったかと慌てたが、迷うことなく駆けて行く郷田くんたちを見てほっとした。

僕たちは、何処かの街の高い建物の上にいた。

周りの建物よりも一際高く、ヘリコプターでも降りれそうなくらい広い屋上だ。

皆は、正面に見える立派な塔屋に向かって走って行って、今はもう姿は見えない。

周囲には夜景が広がっていて、遠くのサイレンが耳に飛び込んでくる。「ここ、何処だろ?」

ふと、夜景に釣れれて、玲子さんの手をはなして、思わず二、三歩、足を踏み出した。

生暖かい空気が少しだけ揺れて、多分ここは海外なんだなと僕は確信できた。

「はなれてはダメ。時期に戻って来るから」

「あ、うん」

リミットは昨夜と同じ五分だっけ?

僕は返事をしつつも、そう思った。

ブリーフィングの記憶を思い起こして、でも、よくわからない。

けれど、五分なら、まだ時間はあるはずだからと、やっぱり夜景に気が取られた。

気の所為か。遠くでヘリコプターのエンジン音が聞こえる。

そう思ったときだ。

すぐに玲子さんの手が伸びてきて、僕の左手は掴まれると、そのまま引き寄せられていた。

「どうしたの?」

「準備して!」

見ると、正面の塔屋から四人の人影がこっちに向かって走って来ている。

僕は焦った。

急いで左目の中に青い光を探した。

それを右目に線で流して、そのまま四色で丸い輪を作ろうとした。

ところが、小さかったヘリコプターのエンジン音が、突然、一気に浮上してきて、あっと言う間に僕らの頭上で爆音になった。

僕は驚いた。

慌ててしまって、四色の輪を作る前に光を見失っていた。

「落ち着いて、戻ってる! 平気だから」

「あ、うん!」

歴子さんの声がして、左手が強く握られた。

僕は急いで、もう一度左から右へと青い蛍光色を流して、右目の中央やや左下の鼻の横に赤、青、黄、緑の四色の丸い輪を作り出せた。

そのとき、塔屋の方からパラパラとしたニュアンスの言語の怒鳴り声が聞こえてきて、旋回するヘリコプターのエンジン音も一段とけたたましく響き渡った。

僕は慌てて丸い輪を掴んで引っ張り出すと、そのまま真上に放り投げた。

そして、六人を包むようにして勢いよく引き下ろした。

すると、一瞬で真っ白になり、一泊置いて、

「ご苦労っ!」

と、クラス担任の鈴木先生のダミ声が室内に響いて聞こえた。

もう、ヘリコプターのエンジン音もパラパラとした言語も聞こえない。

雑踏や喧騒もない。静まり返った専用室に戻って来ていた。

僕は思わず身震いがして、どうにも収まりがつかなくなった。

「郷田くん!」

気づくと、郷田くんの背中に身を乗り出していた。

「ヘリコの音、凄かったねっー! あんなの僕、初めてだよ!」

そして、込み上げる興奮を抑えることができずに、僕は一気に捲し立てた。

「それにあれって何語っ? 僕、全然わかんなかったっー! 潮っぽい匂いしたから、海の近くだよね、あの国っ! 何処だろう?」

一頻り言いまくると、僕は少しすっきりした。

「ああ、そうだな。すぐに慣れるよ」

郷田くんもこちららに笑顔を向けてくれて、けれど何だか素っ気ない。

すぐに背中を向けられて、僕はまだまだ物足りなかった。

その後ろ頭にさらに身を乗り出していた。

「あのビル、高かったねっ! あれって何時頃だろうねぇ!」

勝手に頬が綻んでしまい、心底楽しいと僕は思った。

ところが不意に、掴んだままの玲子さんの手に強く引っ張られた。

「始まる。聞いてないとダメ!」

「えええー? どれがっ!」

僕は、意味がわからずに、玲子さんに笑みを向けた。

そのときだ。

「それじゃー次、これなー!」

クラス担任の鈴木先生のダミ声がして、僕は慌てた。

すでに、ボードには新しい見取り図が表示されていて、皆はそれに注目している。

「まだ終わりじゃない。午前中はずっとだから」

「あ、うん」

玲子さんが小声で言って、僕も小さく頷いた。

「そんなの聞いてないしー!」

恥ずかしい。

黄色い四角い部分を確認しながら、ついでに小声で呟いて口を尖らせた。

確かに、今日は昨夜とは違って、一度では終わらなかった。

僕たち六人は、行き先も知らされないまま、専用室と、その都度ボードに示される見取り図の黄色い四角で囲まれた「TP」との間を何度も繰り返し行き来させられた。

「お前らっー! ちゃんと頭に入れんだぞ!」

ダミ声の鈴木先生は、毎回のように皆にそう言って、

「おい! 場所を間違えたりすんなよ!」

と、僕だけが一々念を押された。

もちろん、僕は間違えたりはしなかった。

テレポ先は、夜だったり朝だったり、寒暖の差や湿度の違いも明らかで、何処も国外だとすぐにわかった。

すべてのテレポ先がビルの屋上だったが、幸い天候には恵まれていた。

現地の人と出くわすことなどなかったが、散発的に聞こえる銃声や、静かに降りる喧騒の中に、わずかばかりの他国の空気を感じ取っていた。

そんなことをもう何度も繰り返したときのことだった。

「よし、お前ら! 次で最後だかんなっー!

クラス担任の鈴木先生が唐突に言った。

何度も行ったり来たりを繰り返したときだった。

ボードを見ると、黄色い四角で囲まれた「TP」が建物の見取り図の中にあった。

しかも、そのすぐ上に赤い四角で囲まれて「×」と表記されている。

「これって……」

僕には意味がわからなかった。

でもすぐに、端末を持った島崎先生が顔を出した。

「タッチ・アンド・ゴー! できるわよね」

「タッチ? えーと、同じ所ですか?」

僕は、焦った。

あたふたと頭をかいて、どうしていいのかわからない。

「前任者は、問題ありませんでした!」

唐突にそう言われても、誰のことだかわかるわけがない。

僕はますます戸惑って、、ただただ笑顔で頭をかいた。

「テレポ特化型と条件も同じで、数値だけは大きく上回っているのだから、難なく熟してくれないとね。直樹くん?」

「えーと、特化ですから!」

僕は、必死に会話をしようと努力した。

しかし、青い光の件もある島崎先生とは話すのは抵抗がある。

そこへ不意に、

「別に、問題ありません!」

と、迷うことなく玲子さんは言った。

その無表情な横顔に、僕は、前任者が三橋真子だと気がついた。

「よろしくね」

島崎先生は満足そうに頷いて、白衣の人たちの方へ行ってしまった。

でもやっぱり、僕だけが意味がわからない。

「あの、僕、タッチ何とかってよくわかんないんだけど!」

「平気。輪を掴んだら放さなければいいだけ。直樹くんにもすぐできる」

と、言われても、玲子さんの説明はあっさりし過ぎてわからない。

僕は、もっと詳しく知りたかったのだが、クラス担任の鈴木先生は待ってはくれなかった。

「よし! 行ってこい!」

僕は、何も言い出すことができないまま、玲子さんと手を繋いだ。

左目から青い光を線で流して、右目で赤、青、黄、緑の四色に変えた。

真ん中、やや少し左下、鼻の横で丸く輪を作って、それを引っ張り出すと、頭の上に放り投げて、そのまま一気に引き下ろした。

すっと目の前の光景が変わって、見たことのない室内が展開した。

窓もなく、ただ広く天井も高い。

正面に居並ぶ何人かの大人が、一瞬の間を置いて驚いたように一斉に腰を浮かせる。

その様子が可笑しくて、思わず右手で緩んだ口元を隠そうとしたときだった。

「ダメ! 手は放さないで!」

不意に玲子さんの声がして、頭上に突き上げた右手で丸い輪を掴み直した。

そのときだった。

正面の高齢の、でも体格のしっかりとしたメガネをかけた男性の身体が思いっきり浮き上がって、すぐに落ちるように俯いた。

周囲にいる男性たちも崩れるように、椅子や床へと倒れ込む。

声を発する間がなかったのか、誰も何も言わない。

もしかして、死んだのかな?

と、思いつつも、やっぱり何だかわからない。

釈然としないまま、僕はただその光景を見ていた。

「引き下ろして! 戻るから」

「あ、うん!」

玲子さんの声に、掴んだままの丸い輪を、慌てて一気に頭から引き下ろした。

「ご苦労!」

クラス担任の鈴木先生の声がして、専用室に戻って来ていることに気づいた。

でも、僕は釈然としない。

何処か何かに引っかかって、気持ちがもやもやっとする。

「シャワーにでも浴びてもう休め! お前らっ、酷い顔だぞ!」

鈴木先生がいつになく気の利いたことを言っても、それは僕にではなくて、僕以外の皆のような気がして、何か嫌だった。

けれど、皆はもう歩き出していて、慌てて僕も玲子さんの手を引いて後を負ったが、すぐに島崎先生に捕まっていた。

「お疲れ様。どうだった?」

僕に話しかけて、すぐに、玲子さんに視線が移る。

「別に、問題はありません」

「そう。ならよかった」

小さく何度か頷くと、改めて僕に向き直った。

「テレポはここの要だからね」

そう言って、また玲子さんを見る。

「大事にしないといけないんだけどね。一度は試しておくのも大切なことだから」

「わかっています! でも、今回のようなことは無理なので!」

玲子さんはそう言って歩き出して、僕は手を引かれて、島崎先生の脇を通り過ぎた。

まだ話しの途中なのに、勝手なことをして叱られるのではないかと、不安になった。

でも、手を引かれたままの僕は、歩くことはやめなかった。

「そうね。坂下さんがそういうのなら、それでも構わないわ」

島崎先生の何処となく不機嫌な声が背後から聞こえて、慌てて後ろに頭を下げた。

でも、そのときにはもう、専用室を出て廊下を歩いていた。

「どうしたの? 先生まだ話してるのに」

「そう? 別に問題ないはずだけど」

僕は、島崎先生の心証を概してしまったのではないかと不安になった。

青い光のことを考えると、できるだけ穏便に接していた方がいいとは思うのだが、玲子さんはそんなこと、少しも気にする様子はない。

僕の手を掴んだままで、廊下を早足でどんどん歩いて行く。

どうしたんだろ? 玲子さん……

僕は、そう思いながらも、それ以上は何も言わなかった。

少しだけ前を歩く、襟首にかかる短めな髪が、忙しく揺れる様子に、何となく見惚れていた。

けれど、突然、ステンレス製の引き戸が二つ、目の前に現れて、玲子さんが手をはなした。

「では、また、後で」

「えっ? 何ここ?!」

玲子さんは、左側の引き戸を細く開くと、するするっと入り込んだ。

「ちょっと待って、僕もっ!」

慌てて僕も後を追ったが、すぐに引き戸は閉められて、「女子用」と書かれたプレートが目の前に現れた。

右側の引き戸には、「男子用」とあり、二つの引き戸を飾るように、「大浴場」と大きく掲げられていた。

「遅かったな。直樹!」

恐る恐る「男子用」と表示された引き戸を開くと、すぐに郷田くんが声をかけてくれた。

「鈴木にでも、捕まったか?」

「あ、うん、島崎先生に」

「あー、めんどくさそうー!」

すでに郷田くんは、黄色い海パン一枚になっていて、脱衣所と大浴場の使い方を教えてくれた。

脱衣所の壁一面にロッカーがあって、順不同に番号が振られている。

それは、寮の部屋の番号と同じで、確かに一番右端に「707」と記載されたロッカーがあった。

中にはお風呂セット一式に海パン。着替えの下着に制服まで揃っている。

「飲み食いもし放題だぜ!」

反対側の壁一面には、無人の小さなコンビニスペースがあって、生徒証を翳せば利用できるとのことだ。

浴場は岩作りでとても大きくて立派だった。

露天の部分もあるのだろうか。青空も見える。

佐藤先輩と内田先輩が先に入っていたが、それでも全然余裕な広さだ。

考えてみれば山に囲まれた施設なのだから、このような大浴場があってもおかしくはないのだが、僕はただただ驚くばかりで、頷くだけで精一杯だった。

「畏まってないで、遠慮なく使っていいんだぜ!」

どっぷりと湯に浸かると郷田くんは言った。

「なんてったって俺たちは、施設なために特別な支援をしているんだからな!」

座りの良さそうな岩に両手を引っ掛けて寄りかかる郷田くんは、堂々として見える。

いったい何を特別に支援しているのか、僕にはわからない。

僕は、曖昧に笑顔を作って、控えめに湯に浸かった。

「まあ、やることだけやっていれば、好きができる。気楽にやろうぜ!」

そう言って郷田くんが笑うので、一緒になって僕も笑った。

テレポは要と言われたけれど、好きにやっていいものなのか、今一つわからなかった。

けれど、よく思い起こしてみると、今の役割を貰ってから、誰からも叱られていない。

なにより、あのクラス担任の鈴木先生に一度も怒られていないではないか。

それは、皆と同じく、特別に施設を支援していると認められているからだと、僕は思った。

こうして大浴場も使えるのだから間違いないと自信すらわいてくる。

「後で、釣りに行こうぜ! 近くに綺麗な川があるんだ」

「うん! いいねー」

僕は、露天に肩まで入ると、湯の中で手足を思いっきり伸ばしきって、そのまま天を仰いだ。

昼間の夏の青い空が、何処までも広がっていて、何だかとても贅沢で気分がいい。

「ああ、いい湯だなー」

無意識に口ずさんで、頬が綻んだ。


僕たち六人は、それからも何度もテレポをさせられた。

毎日だったり、何日か空いたりと、まちまちではあったが、鈴木先生が「喧伝」と称したときよりも、明らかに回数は少なくなった。

それでも、テレポさえしっかりと熟せば後は自由で、何をしても咎められることはなかった。

もちろん、敷地の外へは出られないし、玲子さんとは常に一緒で、日中は郷田くんと黒木さんとも行動を共にしなくてはならないなどの決まり事はあるが、そもそもそれを決まりだとは思っていなかった。

それより、皆で大浴場に入ったり、釣りをしたり、時たま学校施設に顔を出すのはとても楽しくて堪らない。

特に、学校施設では、郷田くんや黒木さん、玲子さんだけではなく、僕までもが人気者になっているのは嬉しかった。

誰もが、施設を特別に支援するために入学していて、日々その訓練に明け暮れていた。

だから、第一線で活躍している僕たち六人は、全校生徒のあこがれの的だった。

校舎施設に踏み込んだだけで、いつも大騒ぎになってしまうのだ。

僕はそれがとても嬉しくて、気分がよかった。

特に、施設の要でもあるテレポは、ほかに代替がなく貴重とされていたから、いつも必ず取り囲まれて質問攻めにあっていた。

「どうすればできるんですか?」

「テレポを目指してるんだけど、何かコツを教えてよ!」

そんな生徒たちを見ていると、ふと、委員長の三橋真子と静かに寄り添う玲子さんの姿を思い出す。

そう、あのとき僕はまだ、この施設のことを何にもわかっていなかった。

けれど、颯爽と歩く委員長と玲子さんに自然と憧れていたんだなと、今になって実感できる。

あのときの委員長のように、僕は笑顔で微笑むことができているか。

皆には、ちゃんと玲子さんが僕に寄り添って見えているのだろうか。

もし、僕が居なくなったら、この中の誰かが代わりになるのだろうか。

多くの笑顔に囲まれて、僕はふと、頭を傾げた。

そういえば、委員長の三橋真子はどうしていなくなったんだろう?

ちゃんと教えてもらったことがない。

後で誰かに聞いてみよう。

そう思った。

でも、誰に?

玲子さんにはとても聞けない。

かといって、郷田くんや黒木さんには、「他人のことは放っておけよ!」と一蹴されてしまわれそうだし、逆に、佐藤先輩と内田先輩には、「坂下さんに聞くに限るよ」と返されそうで、どちらも嫌だった。

島崎先生が、もういない生徒のことに興味があるようには思えないし、鈴木先生には怒鳴られるのが落ちだと想像がついた。

詰まるところ、委員長の三橋真子の件を誰かに聞くなんて論外なことで、尋ねるのなら玲子さんしかいないのだと僕は思った。

まあいいやー。

僕は、委員長のことを尋ねるのを諦めた。

もう、玲子さんと一緒にいるようになって何ヶ月も経った。

それでもやっぱり、委員長の三橋真子のことは口には出せない。

元々僕が、委員長のことをよく知らないっていうのもあるだろう。

でも、玲子さん自身も話したがらない。そんな気がするのだ。

なにより、余計なことを尋ねて、気不味くなるのは、僕は嫌だった。

今が楽しくて堪らないのだ。

僕は、郷田くんの真似をして、肩を落として顎を引いた。

胸を張って頬を綻ばせ、あえて笑顔を作って見せる。

すると勝手に微笑んでしまって、本当に笑いだしていた。

郷田くんと肩を並べている今が楽しくてしょうがない。

困る事が何もない、考える必要のない毎日がただただ過ぎて行くこの時間が、いつまでも続けばいいと僕は願った。


ある夜、僕らはテレポで出た。

テレポ先の詳細はわからないが、まだ昼間なので海外だろうと検討がつけた。

はっきりとしない晴れた空の茶色い印象の街。

狭苦しいビルの屋上で、監視カメラを避けながら、玲子さんと二人で物陰にいた。

郷田くんたち四人が塔屋に走って行って、もう随分と時間が経つ。

けれど、一向に戻って来る気配がない。

「もうリミット、過ぎてる……」

玲子さんが呟いて、僕は物陰から顔を出した。

そのとき、塔屋の扉が静かに開いて、佐藤先輩の姿が現れた。

「あ、戻って来た!」

僕は声を弾ませたが、何だかいつもと様子が違う。

僕らをすぐに見て止めたものの、佐藤先輩は駆けてくる様子はなく、小さくこちらに手招きをするように見えた。

呼んでいる?

僕がそう思ったときには、玲子さんはすでに物陰から飛び出していた。

「何かあったみたい! ついて来て」

「あ、待って!」

僕も慌てて後に続いて、急いで塔屋に飛び込んだ。

けれど、そこには誰もいなくて、佐藤先輩はすでに階段を下階に向かっている。

「すまない。この下、ついて来てくれ!」

「はい!」

それに玲子さんが小走りに続いていて、僕も急いで後についた。

建物の中は薄暗く、人の気配がない。

空調か何かの音が大きく響いて、剥き出しのフレームと凹凸の激しい隔壁がとても殺風景だ。

そんな中、僕たちは長い階段を小走りに降りて行った。

けれど、佐藤先輩に案内された下階は、また別の意味で殺伐としていた。

左右上下のフレームと隔壁が数メートルに渡って綺麗に抉り取られたように、不自然になくなっている。

その、数十センチ凹んだ床の真ん中に、倒れている内田先輩と、しゃがんで黒木さんを抱く郷田くんの姿があった。

「郷田くん!」

思わず僕が駆け寄ると、郷田くんに抱えられた黒木さんが首を傾げて僕を見た。

「ここで、テレポを」

そう言う黒木さんの頬にはべっとりと血がついていた。

多分制服にもかなりの出血があるように見える。

「郷田くん! 黒木さん、大丈夫なの?」

僕は慌てた。

郷田くんの頬にも血が跳ねているのが見えた。

でも、郷田くんは黒木さんを見つめたままで動かない。

「直樹くぅー、早く、テレポを、六人で戻って、うっ!」

黒木さんはそう言って苦痛に顔を歪める。

郷田くんはただじっと、そんな黒木さんを見つめたままで、何も言ってはくれない。

「た、頼むぜ!」

頭の上でも声がして、見上げると正面の佐藤先輩も、さっきは気付かなかったが、明らかに出血していて制服が汚れているのがわかる。

そして、その、佐藤先輩の足元に内田先輩の倒れていて、その向こうにも、いくつかの人らしき物体が転がっているのが目に入った。

僕は慌てた。

けれど、どうしていいのかわからず、頭も体も動かない。

「ここはダメ! 急いで戻らないと!」

不意に玲子さんの声がして、手を捕まれ引っ張られた。

「早く、テレポするから!」

「あ、うん!」

促されて立ち上がって、でも、僕を掴んだ玲子さんのその手は凍えそうに冷え切っていた。

僕は急いで、左目の中に青い光を探した。

一筋の線が右目に流れて、赤、青、黄、緑の四色の丸い輪を作ったとき、舌っ足らずの言語が耳につく複数の人の声が正面から聞こえた。

それは怒鳴るように走りだしてどんどんと近づいて来る。

僕は慌てて、右目の中の四色の丸い輪を摘むとそのまま一気に引っ張り出して、それを頭上に放り投げた。

途端に、乾いた機械音が数回して、でもそれは、舌っ足らずの大人の叫び声と重なって聞こえた。

僕は、頭上に掲げた四色の丸い輪を勢いよく引き下ろした。


「早く搬送してっ!」

突然、周囲がどっと騒がしくなった。

白衣姿の人影が目の前を忙しく動き回っていて、専用室はてんてこ舞いになっている。

「マスターキーを優先することを忘れないでっ!」

さっきまで僕たちの目の前に立っていたはずの佐藤先輩は、気づくと足元に倒れていた。

やっぱり間違いなく胸から出血していて、制服が血で汚れている。

僕は慌てた。

内田先輩と黒木さんが運ばれて、郷田くんがストレッチャーに乗せられたが、佐藤先輩はまだだった。

僕はどうしていいのかわからずに、ただおろおろとしていた。

やっと白衣姿の人影がやって来て、佐藤先輩はストレッチャーに乗せられて運ばれて行った。

気づくとそこには生徒が誰もいなくて、玲子さんと二人、騒がしいまあmの専用室に取り残されていた。

「ついて行った方がよかったのかな?」

堪らず隣の玲子さんに尋ねたときだった。

「この野郎っー!」

と、言うが早いか、クラス担任の鈴木先生に、左の頬を叩かれて、そのまま胸ぐらを掴まれた。

「甘やかせ過ぎだあなー! こらっ!」

続けて膝で繰り返し繰り上げられて、斜めに突き出した顎に怒鳴り付けられた。

「やり直し! 分解処分が当然だろっ! あっー? 聞いてんのか! こらっ!」

怒鳴る鈴木先生に、何度かまた左の頬を叩かれた。

でも、僕は怖くて動けない。

何を言われているのかわからなかった。

何故だか涙が溢れて、視界がぼやける。

「先生! 暴力はやめてください!」

「この、弱虫の出来損ないがっー! 今すぐ終りにしてやんぞっ!」

玲子さんが止めようとするが、鈴木先生は相手にしない。

それどころか、わけもわからず、今度こそ殴られる。絶対に痛い。

そう確信したときだった。

「もう、よさないか!」

不意に男性の声がして、僕は鈴木先生から引き離された。

「所長っー!」

僕は反動で弾かれて、床の上に転がった。

「大丈夫かい?」

「こんな奴、処分しましょう!」

その、所長と呼ばれていた人は、いつか、地下の部屋にいた校長先生だと思っていた人だった。

「もう、怖くないからね」

「はい」

「頑張ってね」

「あ、はい」

その人はしばらくの間、立ったまま僕を見下ろしていたが、時期に鈴木先生を連れて行ってしまった。

「処分だっー! 責任を取らせましょうっ!」

「ほら、戻るぞ。計画の立て直しだ」

「そうは言いますけどねー! 所長!」

僕は、床に尻餅を付いて、二人の後ろ姿を見送った。

やっぱり訳がわからない。

何か言いたそうに玲子さんが、顔を覗かせてきて、何となく僕は恥ずかしくて顔を背けた。

でもすぐに、島崎先生がやって来て、僕と玲子さんを交互に見た。

「怪我はないわね」

「あ、はい」

僕は、慌てて立ち上がり、玲子さんと並んだ。

「テレポは施設の要だから」

そう言いながら、島崎先生は、端末と僕らを見比べながら、でも、表情が冴えない。

以前のデータと見比べていいるようだった島崎先生は、唐突にぽつりと言った。

「もう十一月なのね。早いものだわ」

「あ、はい」

僕は、思わず返事をしたが、しなくてもよかったのかなとも思った。

島崎先生は特に何かを言い足す事もなく、しばらくの間、端末を操作し続けていたが、不意にちらっとこちらを見た。

「いいわ。二人共。戻りなさい」

「あの、郷田くんたちは?」

思わず僕は尋ねていた。

けれど、島崎先生は端末から視線を外すことはしなかった。

「大丈夫よ。あなたが、気にすることではないわ」

「でも僕、心配で!」

「テレポは施設の要だから。今日はもう休みなさい!」

島崎先生はそう言って、僕を見ると、また端末を操作した。

「そうね。今後の編成は、明日以降知らせるわ」

「あ、はい」

さっきの今では、どのみち郷田くんたちの様子はわからないのだ。

はっきりとしたことなど言えるわけがないと、僕も納得をした。

「坂下さん。もういいわ。お願い」

「わかった」

玲子さんに手を引かれ、僕らは専用室を出た。

廊下はとても静まり返って、僕と玲子さんの足音とわずかな衣擦れだけが聞こえて、人の気配はまるでなかった。

いつもなら絶対に行く、大浴場への廊下を曲がらずに通過すると、不意に物悲しさが込み上げてくる。

皆が治ったら、また行けるさ!

そう思ったときだった。

左目がぼやけていることに気づいた。

もちろんそれは涙だと思った。

皆のことが悲しくて泣いている。

でも、それにしてはおかしい。

僕には泣いている感覚がない。

右手の指で擦ってみると、やっぱり涙は出ていない。

けれど、ぼやけてしまって、はっきりと物を確認することができない。

瞬きをして指で擦り、また瞬きを繰り返す。

でも、左目はぼやけたままで、一向に治らない。


でも、何となくぼやけているようで、はっきりしない。

「あ、あれ?」

僕は慌てた。

でも、玲子さんは何も言わなかった。

聞こえているのに、わざと無視しているように僕には感じた。

だけど、その理由はわからない。

僕は、それ以上騒がずに、そのまま黙って手を引かれていた。

けれど、セル棟を出た時のことだった。

突然、思いもしなかった冷気と真っ暗闇が僕らを包んだ。

僕は思わず身を縮め、思わず「寒い!」と声に出していた。

けれど、曲りなりではなく、ここはれっきとした山なのだ。

十一月にもなれば夜は寒いに決まっている。

でも、確かまだ昼間だったはずだと、僕は焦って辺りを見回した。

それでも、敷地内はすっかり暗くなって、空一面には星が輝いている。

僕らは黙って足を止め、空を見上げた。

「あれ? 治ってる!」

ぼやけていたはずの左目がいつの間にか治っていて、両目でしっかり夜空を見ることができる。

「今は一過性のはずだから」

「あ、うん」

知っていたのか、玲子さんがぽつりと言って、でも僕は、それが三橋真子と関係があるような気がして、聞くことをやめた。

だいたい、こんなに夜空が綺麗だなんて、今まで全然気付かなかった。

だから今は、ただ玲子さんと星空を見ていたいと、僕は思った。

さっきは冷たかった繋いだままの玲子さんの手は、今はとても暖かい。

それが嬉しくて、ほっとして、改めて一緒にいられる日常が幸せに思えて、僕は堪えきれずに、息を一つ吐き出していた。

「大丈夫?」

「あ、うん」

小首を傾げる玲子さんに、僕は頷いて、また空を見上げた。

そういえば、テレポで出る前から、もうすっかり日は暮れていて夜だったことを僕は今、思い出した。


次の日。僕と玲子さんは呼び出された。

僕はてっきり皆が無事だったものだと、専用室へと急いだ。

けれど、違っていた。

今日から心機一転。十人新体制で始めると聞かされて、僕は愕然とした。

目の前に並ぶ顔ぶれに、知った者は一人もいない。

一番軽傷に見えたと思った、郷田くんでさえ来てなくて、僕は戸惑った。

やっぱり皆、まだダメなのか……もしかすると、もう、無理なのかな……

自己紹介が始まっても、そんなことが頭の中にへばりついてくるくると回った。

「あ、オレ三年の村上。こっちは永井な」

「どうも」

ふと、皆を思い出させる雰囲気の先輩が二人。顔を覗かせた。

背の高いメガネの村上先輩と女子の永井先輩。

でも、それは気の所為だった。

一見すると誇らしげで余裕のある雰囲気を醸し出していると思ったのだが勘違いだった。

実際には、二人とも何の取り柄もなさそうだとすぐにわかった。

何処か間の抜けた印象の村上先輩と、何故か神妙な顔をして頬を強張らせる永井先輩は、とても場違いに見える。

「あ、どうも」

僕は小さく頭を下げたが、すぐに顔を背けていた。

でも、それ以上にほかの三組、六人の男女はよくわからなかった。

二、三年生から何立っていることはわかったものの、名前も顔も頭に入っては来なかった。

「あ、どうも」

同じように頭を下げて挨拶をして、僕は唇を噛み締めた。

「実行は村上! お前が中心だと自覚しろ!」

「はい」

クラス担任の鈴木先生がボードの前でいつものように説明を始める。

やはり今回も黄色い四角で囲まれた「TP」は、建物の屋上にあった。

赤い四角で囲まれた「×」は建物の中にあって、よく見ると外国人と思われる中年の男性の画像が数枚一緒に表示されている。

今までも画像があったのか、僕は覚えてはいない。

いや、見ていなかったんだ……

そう思った。

「くれぐれも喧伝であることを忘れるなー!」

「はい」

しばらく使っていなかった「喧伝」という言葉を、クラス担任の鈴木先生は口にして、村上先輩に念を押す。

今までも、ずっと喧伝だったのか。

僕はそう思ったが、わからない。

島崎先生は、ほかの白衣の職員さんと一緒に、六人の新人のチェックに追われ、今回は僕らを構っている暇はないようだった。

そのとき、ふと気づいた。

経験のあるのは、僕と玲子さんしかいないではないか。

しかも、僕らはテレポだけで実際には何もしていない。

もしまた、昨日みたいなことになってしまったら……

昨日のテレポ先での光景が頭を過ぎって、僕は怯んだ。

鈴木先生にも島崎先生からも、特に何も指示されず、どうしていいかわからない。

「落ち着いて」

と、玲子さんの声がした。

「気にしてはダメ。わたしたちは自分の仕事をすればいい」

「あ、うん」

それは、落ち着いた、でも、何処か冷めて聞こえた。

気づくと、僕らの周りに集まって、体制が作られていた。

目の前に村上先輩と永井先輩。

その更に前に二組。そして、背後にも一組がついた。

まるで僕ら四人を囲むように残りの三組六人が配置されている。

それはとても異様で重々しく感じて、でも、先生たちは当然のように、そして、満足そうにこちらを見ていた。

「よし! 行ってこい!」

そして、クラス担任の鈴木先生の一声で、僕は左目に青い光を探した。


テレポ先は夜だった。

高いビルの屋上だが、派手な夜景は何処にもなく、最近では珍しい静かだ。

「へぇー。本当に場所が変わってる。瞬間移動だ!」

小馬鹿にするような村上先輩のメガネが、ちらりと僕と見たのがわかった。

でもすぐに、二組、四人を連れて塔屋へと走って行く。

すると、背後にいた男女二人が前に出て来て、僕らの正面でじっと塔屋に向かって仁王立ちになった。

「あ、あのう」

僕は、咄嗟に声をかけた。

「えーと、そのう!」

でも、反応がない。

曖昧な呼びかけでは聞こえないのかと思ったが、自己紹介されたはずの二人の名前と顔を、何故か僕はまったく覚えていない。

今さっき、専用室にいたはずなのにと、思い起こすが全然駄目だ。

目の前に立つ二人の後ろ姿は、これといった特徴はなく、ひどく印象が薄く見えた。

「気にしてはダメ」

「あ、うん」

玲子さんはそう言うが、僕はもやもやとした気持ちで二人の後ろ頭を見ていた。

とりあえず僕は、、左目から青い光を右目に流して、赤、青、黄、緑の四色の丸い輪を作って準備をした。

新規メンバーでの初日だから、絶対に失敗はしたくない。

犠牲者は出したくないと、僕は思った。

しばらくして、塔屋から人影が飛び出して来た。

三人見えたと思ったが、駆け寄って来るのは二人だけだ。

「やったぜ! 終わらせた」

村上先輩は嬉しそうにメガネを輝かせるが、永井先輩は深刻そうに大きな目玉をぎょろぎょろとさせて落ち着きがない。

どちらにしても、出た時とは明らかに人数が合わない現状に、僕は戸惑った。

「あの、先輩!」

それでも自分は、玲子さんと共にこの中では一番の経験者だと、胸を張った。

「ほかの人たちは、どうしたんですか?」

ところが村上先輩はあっさりと答えた。

「やられたよ。倒された。決まってるだろ!」

「決まってるって!?」

僕は、村上先輩の物言いに唖然とした。

続ける言葉が思いつかず、どうしていいのかわからない。

実行場所まで行こうかと、塔屋を見た。

そんな僕を小馬鹿にするように、村上先輩のメガネが笑うのがわかった。

「何を今更、驚くことでもないだろう?」

「いや、その」

その、余りにも堂々とした態度に、僕は口ごもってしまった。

それでも、村上先輩は続けた。

「だってあいつらには、初めからマスターキーが居ないから、元々長くは保ってられないはずだぞ! っていうか、そのつもりで配属されてるだ!」

「え?」

僕は、知らなかった。

全然意味がわからずに、この中では一番経験があるはずなのにと、悔しいと思った。

それでも「マスターキー」という言葉は聞いたことがあると、記憶を遡った。

けれどやっぱり思い出せない。

すると、村上先輩は今度は訝しげに首をひねり、玲子さんを見た。

「おいおいどーいうことだよ! 本当に知らせてないのか?」

でも、玲子さんは答えない。

呆れた様子で向き直った村上先輩は、塔屋に向かって立ち尽くす、男女二人を指差して言った。

「あいつらはな、島崎先生が作った人の形をしたボチボチの寄せ集めなんだ!」

「えっ!?」

「奴らの顔、はっきりわからないだろ? 自我がないし、そもそも生きてないからな!」

「生きてない?」

「そう。ロボットっていうか、人形だな。あいつらが居てくれるからは、初めての俺でも仕事が熟せるってわけ!」

僕は愕然とした。

もう一度、目の前で塔屋に向かって仁王立ちをする男女の後ろ姿を見た。

「それじゃーまるで、この人たちが盾みたいだっ!」

思わずそう言って、僕が見た村上先輩は、返答しなかった。

その代わり、玲子さんの声がした。

「元々、生きてはいないの。気にしてはダメ」

「あ、うん。わかってるよ」

僕は、そう言って、頷いた。

わかっている。

テレポは要だし、郷田くんたちも負傷してしまった。

盾が必要なことはわkる。

でも、僕は何となく、胸が詰まった。

でもそのとき、塔屋の方から舌っ足らずの言語を話す大人たちが大声て叫びこちらを指差すのが見えた。

「やばいっ!?」

「直樹くん!」

「あ、うん!」

僕は慌てて、右目の中から用意していた赤、青、黄、緑の四色の丸い輪を引っ張り出して、六人の頭上に放り投げると、そのまま一気に引き下ろした。


「ご苦労!」

クラス担任の鈴木先生の声が聞こえて、専用室に戻って来た。

でも、そのときには、目の前で仁王立ちになっていた二人の姿は消えていた。

あれっ?! 置いて来ちゃったっ!?

一瞬、自分がミスをしたかと、僕は慌てた。

でも、鈴木先生も、島崎先生も、誰も騒がない。

「よくやった。今日はこれで解散とする!」

まるで始めから四人だったかのように鈴木先生がそう言って、一斉に誰もがそれぞれに散会する。

僕だけが一人、気持ちの切り替えができないで、その場に立ち尽くしているようだった。

「だから、気にしてはダメ」

「あ、うん」

不意に玲子さんの声がして、僕は小さく頷いた。

と、そのとき。

また左目がぼやけた。

僕は思わず左目を手で覆い、俯いて、そのまましゃがみ込んだ。

昨日よりも明らかに激しくぼやけて、それは右目の視野にも重なっているように感じた。

「今、足りない部分を割り出しているから。もう少し我慢なさい」

「あ、はい」

頭の上で、島崎先生の声がして、僕は思わず返事をしてから、慌てて先生を見上げた。

「先生! 僕の目のこと知ってたんですか?」

「想定内よ。問題ないわ」

「あ、はあ」

でも、先生の言っている意味はまるっきりわからない。

僕のデータは数値として端末で確認できると以前玲子さんが言っていた。

だから、島崎先生が知っていても不思議ではないのだが。

「体を休めて、余計なことはしないのよ。いいわね」

「あ、はい」

「坂下さん。お願い」

不意に、肩にそっと手が触れて、玲子さんの静かな声がした。

「立てる? 寮へ帰ろ」

「あ、うん」

僕は立ち上がると、玲子さんと手を繋いで歩きだした。

「もう期限切れそうなのか。そういえば、夏からだもんな。仕方ないか」

何処かで村上先輩の声がしたが、僕には見て取る事ができなかった。

専用室を出て、静かな廊下を玲子さんに手を引かれて歩いた。

特に話題も思い付かずに、僕らは黙って歩いていた。

けれど、セル棟を出たときだ。

開放的な外の空気に、目が覚めるような気がした。

十一月のよく晴れた日。

山間の長閑なのんびりとした空気が心地よくて、思わず深呼吸をした。

すると、左目のぼやけまですっきりとなくなって、気分が晴れる思いがした。

「ありがとう。もう大丈夫だよ」

そう言って手をはなそうとしたが、玲子さんははなそうとしなかった。

僕らはそのまま手を繋いで歩いた。

歩きながらふと、僕は言った。

「何で目がぼやけるのかな?」

すると、玲子さんは間を置いて、ぽつりと言った。

「そろそろ限界なの。直樹くん……」


どのくらい眠っていたのだろう。

メンバーが代わってから、多分、五回はテレポしたと記憶している。

テレポしては目がぼやけて、眠っては治ってを繰り返していた。

でも、何日経っているのか、よくわからない。

僕と玲子さんはまた、専用室に呼び出された。

数人の白衣を着た女性と端末を見入っていた島崎先生は、僕を一瞥するとすぐにまた画面に身を乗り出した。

「郷田翔斗が呼んでる。煩いからあってあげて!」

「えっ!? 郷田くん、無事なんですかっ?!」

僕は驚いた。

嬉しくて、思わず身を乗り出した。

でも、島崎先生はもう、端末を見入ったままで返事をしてくれない。

「案内はわたしが……」

不意に後ろから声がして、立っていた白衣を着た女性が歩き出した。

僕は、玲子さんと一緒に女性の後に続いた。

もうあえないかと思っていた。

もうとっくに死んでしまったのかと思っていた。

だって先生たちは何も教えてはくれないし、僕も聞けるような余裕がなかった。

自分の中で、焦る気持ちと安堵とが一緒くたになって、とにかくほっと胸を撫で下ろした。

良かった。郷田くんは無事だった……

僕らは、セル棟内の廊下を小走りに歩いた。

そして、来たことのない場所の知らないエレベーターで最下層へと一気に下った。

エレベーターを出ると、そのまま真っ直ぐ非常灯だけの廊下を歩いた。

僕は、病室のようなところを想像していたが、違うことはすぐにわかった。

まるで僕が最初に連れて来られた最下層に空気が似ている。

少し行くと目の前に重厚で大きな鉄の扉が目の前にあった。

「この中よ」

白衣の女性は、持っていた端末見ながら、鉄の扉の脇にあるパネルを手早く操作する。

「わたしは中には入れないから。会話は全部、録音録画されるのでね。そのつもりで」

「はい」

玲子さんは念を押されて短く返事をした。

何故か、白衣の女性は玲子さんとだけ会話をする。

僕のことは見ようともしないのが、嫌な感じだと思った。

けれど、すぐに鉄の扉が重々しく開いて、僕たちは中へと入った。

ところが途端に、僕は無意識に右へと向かって歩きだしそうになって、すぐに、玲子さんに手を掴まれた。

「ダメ。ここでは右回りはいけないわ」

「あ、うん」

室内は真っ暗で広くて、やっぱり病室と呼べるようなところではなかった。

確かに、床材と壁は白く反射して見えるが、正面からは冷たい空気が流れてくる。

そこは、メインロックの中と同じ、四角い廊下だと僕は思った。

すぐに背後で扉は閉じて、やっぱり白衣の女性はいなかった。

扉の上に据え付けられた監視カメラが、赤い小さな光を輝かせている。

僕と玲子さんは手を繋いで、左へ向かって歩きだした。

けれどすぐに、正面に鉄格子が現れた。

格子と格子の間はそれなりに空いているのだが、その鉄格子自体に扉のようなものは付いていない。

しかも、鉄格子の中はどこまでも続いていて、まるで廊下の一区画を鉄格子で区切っているような、そんな気がした。

その、真っ暗な鉄格子の中で、大きく動く真っ黒な影が一つ近づいて来ることに気づいた。

それは、とても大きな卵型をしていて、時折、小刻みに縦に揺れて、左右へ震えて見せる。

間違いなく、セルタマだと僕は思った。

けれどすぐに、

「久しぶり」

と、声がして、郷田くんが姿を現した。

でも、その郷田くんは、すっかり顔つきが変わってしまっていて、もうあの悪ガキっぽさがなくなっていた。

大人しくて、何処か病的にも感じるほど、落ち着いて見える。

「郷田くん?」

僕は不安になって、鉄格子に身を乗り出した。

すると、郷田くんの背後に大きな黒い影がぴったりと寄り添っていることに気づいた。

それはさっきのセルタマの真っ黒な影に違いなかった。

やっぱり時折、小刻みに上下に揺れて、左右へ震える。

何でセルタマが郷田くんと一緒にいるのか。

そもそも玲子さんに、あのセルタマは見えているのか。

僕は、どうしていいのかわからずに、ただその動きをじっと見ていた。

すると、そんな僕に郷田くんはぽつりと言った。

「何だ。やっぱり直樹くんも限界なんじゃない」

郷田くんは、こちらを向いているものの、その視線は僕ではない、別のところを見たままで、もう以前のようなギラギラとした輝きはまったくなくなっていた。

けれど、こうして無事だったのだからと、僕は目一杯の笑顔を作って声をかけた。

「郷田くん!」

だけど、言葉が続かない。

郷田くんの後ろのセルタマが上下左右に小刻みに揺れて震えるのが気になって落ち着かない。

僕はどうしていいのかわからないまま、何故か気持ちだけが急くのを感じた。

でもそのときだ。

隣で一緒に郷田くんと相対していた玲子さんが、突然意味不明のことを口走った。

「あなた、黒木さん?」

「えっ?」

僕は驚いた。

いきなり何を言い出すのかと、一人で慌てた。

でも、郷田くんは落ち着いていた。

じっと玲子さんを見て、玲子さんも郷田くんを見ていた。

二人はそのまま黙ったままで、お互いに何も言わなかった。

僕は、訳が分からずに、ただ二人を見ていた。

でもすぐに、矛先が僕に向いた。

「直樹くん」

不意に郷田くんは僕を向き直り、名前を呼んだ。

「オレはこの施設を壊すことに決めたんだ!」

それは確かに、とても不自然な物言いで、郷田くんとは程遠く、下手な物真似をしちる黒木さんのような気がした。

「丁度ここでクリアを使えばセル本体を確実に壊せるから、ボチボチは一掃出来るだろ! マスターキーの皆には突然でごめんだとは思うけど!」

違和感のある下手な物真似に感じた。

「皆、殺してしまうつもり?」

「だって仕方ないんだよ、坂下さん! この特別支援施設はいけないことをしてるから! 坂下さんだってわかっているでしょ!」

「だからって、皆を殺して壊してしまえば、それで解決できるののかしら?」

「できるに決まってる! 施設がなければ誰も苦しまない! こんなのもう嫌だもの!」

今にも泣き出しそうに、玲子さんと言い合いをする郷田くんは、やっぱり黒木さんだと確信したときには、僕は思わず身を乗り出して、二人の間に割って入った。

「やめなよ! 会話は全部録音録画って言っていたよ。島崎先生たちが来たら困るしっ!」

すると、屹度真剣な表情をした郷田くんが僕を睨んだ。

「オレたちはカメラに写らないよ!」

それは、間違いなく郷田くんに見えて、僕は焦った。

「それにな、直樹。島崎先生も鈴木もな、オレとお前のことはもう、使い物にならないって思ってる。必要ないって思われてるんだ! なあ? ぶっ壊すには今がチャンスだろ?」

そう言って目を輝かせて、意地悪く笑った。

その郷田くんの後ろで、セルタマの大きな真っ黒な影が、不気味に小刻みに震えて揺れているのが見えた。

僕はふと、自分の後ろにもセルタマの大きな黒い影があるではないかと、何となく思った。

「だ、ダメだよっ! 郷田くん、そんなことっー!」

僕は、怒鳴った。

でも、郷田くんは聞いてはいない。

「直樹は、一緒に消えてくれるよな!」

僕は返事ができなかった。

「もう全部なくなっちゃえっー!!」

すぐに郷田くんの全身が光ったように見えて、その輝きが三六〇度一気に拡散する。

「クリアだっ?!」

そう思ったとき、気づくと校舎施設の教室の前の廊下にいた。

「あれ? 何で!」

「直撃、巻き込まれるから、勝手にテレポしたの」

見ると、隣で玲子さんが膝に手を当てて肩で息をしていた。

玲子さんができるのはわかっていた。

そもそもテレポは玲子さんのだ。

僕はその増幅装置のようなものだと、随分前に気づいた。

「直樹くんには、もうさせたくないんだけど!」

玲子さんがそう言ったとき、轟音とともに地響きが起こり、校舎施設がぐらぐらと揺れた。

すぐに、浮き上がるような風圧が上ってきて、窓ガラスが飛び散り、辺りの壁や天井に亀裂が走って行く。

一気に立ち込めてくる煙だか靄で、視界が徐々に悪くなった。

「これが、郷田くんのクリア!」

僕は、初めて目の当たりにした郷田くんのクリアを怖いと思った。

あと何回使えるのか。

もっと遠くに逃げなければ、玲子さん諸共本当に死んでしまう。

僕は、急いで玲子さんの手を取った。

そのときだ。

ひしゃげた教室の扉から、慌てた様子の生徒たちが一斉に飛び出して来た。

「助けて! 助けてよー!」

「地震、地震だよ! 先生は何処?」

その、右往左往する姿を見て僕は愕然とした。

こんなに大勢をテレポさせたことがない。

ざっと五十人はいるだろう。

「まだいるよね。学校全体だから、あと、どのくらい残って……」

けれど次の瞬間だった。

殆どの生徒が、その行動の途中で次々に動きが止めた。

そして一気に崩れ出して、人の形を保てなくなったいくつもの真っ黒なボチボチが姿を現して、そしてすぐに消えていった。

「セルが、壊れたの」

「あ、うん」

何十人もが一斉に姿を消して、残った生徒たちは戸惑っているのが見て取れた。

逃げる方向もわからずに、しゃがみ込む者もいる。

「皆をテレポで連れ出して!」

「あ、うん。わかってる!」

僕らは、急いで周囲に呼びかけて自分たちの周りに皆を集めていった。

「校舎から出るよー! 早く集まって!」

すぐに二十人以上が集まって、その中に村上先輩と永井先輩もいた。

「いったい何が起こったんだっ?!」

「郷田くんのクリアです。施設を壊すって!」

「郷田っ?! 郷田ってまだ消えてないのか? 存在できていたのかよ?」

「います! 地下に!」

僕は細かい説明を省いた。

「バカなっ! 本当なのか?」

「間違いはないです」

村上先輩は。困惑した表情で玲子さんに確認すると、頭を抱えた。

「何でそんなことになってるんだっ?! ありえないだろ! 黒木恵子って死んだって聞いたぞっ!」

相変わらず神妙な顔をした永井先輩のぎょろぎょろとした目が、何故か僕を見ているのが気になったが、すぐにまた、爆音と地響きがした。

再びクリアを使ったのか。

今度こそ、建物が揺れながら崩れだした。

「郷田に殺されるなんて冗談じゃないっ!」

「直樹くん!」

「あ、うん!」

僕は、急いで右目から丸い輪を引っ張り出した。

とにかく、視界に入った全員を包み込もうと、頭上で輪を大きく広げた。

すると不意に左目がぼやけて、右目の視界の一部も白く濁らせたことに気づいて、僕ははっとした。

これが僕の限界ってことなのかな?

そう思いながら、真上から一気に輪を引き下ろした。

その瞬間、間違いなく声がした。

「ちょっと待てよ、直樹!」

それは郷田くんだった。

「一緒に消えてくれって言っただろ!」

こんなやり方、ダメだよ、郷田くん!

僕は一気に、テレポした。

一番最初に、玲子さんとテレポした、あの常磐の児童公園を目指していた。

つもりだった。

けれど、気づくとそこは山の中だった。

爆音が遠くに聞こえてはいるが、施設からあまり離れてはいないと想像がついた。

途端に胸が苦しくなって、前屈みに必死で息をした。

目の前が白くぼやけてはっきりしない。

左目だけでなく、右目までもが、僅かに外側を残して、完全に視界が白く濁ってわからなくなった。

「何だよ、おいっ! 全然テレポできてないじゃないかっ!」

「す、すいません!」

村上先輩の怒鳴り声が頭の上で聞こえて、慌てて謝罪したつもりだったが、苦しくて声にならない。

爆音と地響きがまた更に聞こえて、郷田くんはいったい何回のクリアを使ったのか、僕は恐ろしかった。

でも、そう思ったのは僕だけじゃない。

誰もが悲鳴混じりにどよめいて、口々に不安げな声を上げている。

急いでテレポをやり直そうとした。

でも、どうにも息が苦しくて体を起こすことができない。

「早く! もっと遠くだよ! 遠くにテレポしてくれよ!」

今にも掴みかかる勢いで、村上先輩が頭の上から怒鳴りまくってくる。

「待ってください! 直樹くん、そんな状態じゃないですから!」

「なら、坂下さんでもいいんだよ! 早く遠くへテレポしてよ!」

「そ、そんな。無茶言わないでください!」

「無茶なのはどっちだよ!」

村上先輩は、容赦なく玲子さんにも突っ掛っていく。

「俺はねー! 施設が嫌いじゃないんだよ! 翔子とずっと一緒にいられればそれでよかったんだ! 郷田とお前らの勝手な行動に巻き込まれるなんて御免なんだよ!」

ふと、玲子さんが攻められている。そう思った。

「すっ、すいません!」

と、僕は慌てて体を起こした。

「今、僕がしますから!」

「ダメ! もう無理だから!」

白く濁った視界の中で、心配そうな玲子さんの声が聞こえて、僕は胸を張ってみせた。

「大丈夫だよ!」

でも、そのときだ。

前の方で、何人かの生徒が一斉に悲鳴を上げた。

「バカバカ早く! テレポだ急げ!」

様子が全然わからないまま、村上先輩に急き立てられて、僕は焦った。

「だから、ちょっと待てって! 直樹!」

突然、郷田くんの声がすぐ近くで聞こえた。

その瞬間、玲子さんがテレポをしようとしているのが、繋いだままの左手を通して感じ取れた。

僕はそれに合わせて、完全にブーストさせようと思った。

右目から靄の中で辛うじて光る輪を引っ張り出して、さっきよりも確実に皆を包み込んで、はっきりと常盤の児童公園をイメージして飛び込むように一気に引き下ろした。

次の瞬間。

僕は苦しくて、前屈みにしゃがみ込んだ。

目の前は今度こそ完全に真っ白に曇って、三つの青白い光と、僅かに人の動く影がわかる程度で、人や物の判別はつかない。

「おいっ! 全然テレポしてないじゃないかっ! 何やってんだよ、お前っ!」

村上先輩が狂乱の声を上げた。

施設の誘爆と崖が崩れるような物凄い音が遠くの方から聞こえて来る。

それは、地響きとともに近づいて来るようで、村上先輩だけでなく、誰もが不安げな声を上げた。

郷田くんのクリアが施設の地下まで完全に破壊しているようで、その威力は想像を絶するものだった。

しかも、結局僕は、まともにテレポをすることができなかった。

決してできていないわけではないが、海外まで一飛びしていたことを考えると、してないと言われても仕方が無かった。

ましてや、常盤の児童公園でもないわけだから。

それでも僕は、体を起こした。

「直樹くん。もういい。これ以上はもうやめよう」

背後から玲子さんの声が聞こえて、そっと肩に手が触れた。

「ダメだよ。まだ、常盤の児童公園に着いてないから」

そう言ったときだった。

突然、胸ぐらを掴まれて、騒ぎ出した村上先輩に怒鳴り付けられた。

「翔子がいないっ! おい、翔子がいなくなったじゃないかっ!」

「はなしてっ! 永井先輩も限界だったのでしょっ!」

玲子さんが割って入ろうとしているようだが、びくともしない。

「安定してたんだよ、そんな訳あるか! こいつや郷田が飄々としていて、どうして翔子が消えなくちゃならないんだっ!」

激しく体を前後に振られて、僕は一瞬頭が空っぽになった。

そのときだ。不意に郷田くんの声がした。

「ざけるなよ、直樹っ! 何で逃げんだよっ!」

「郷田くんっ?!」

僕は慌てた。

でも、どうすればいいのか。頭が回らない。

だいたいすっかり見えなくなって、息苦しくて、後どのくらい保てるのかすらわからないのだ。

「おいっ! 翔子を元に戻せよー!」

しかも、村上先輩には、郷田くんの声が聞こえないようで、僕に噛み付いたままでいる。

「できるはずだろ! お前だって郷田みたいなの使えるんじゃないのか!?」

「もうやめて! 直樹くんからはなれて!」

「煩いよ! 坂下さん!」

必死に割って入る玲子さんが僕から弾かれて遠ざかるのがわかった。

郷田くんみたいのって、何のことだ?

僕には、村上先輩の言っていることがわからない。

すると、すぐ頭の上で、郷田くんの声が聞こえた。

「オレと一緒に消えてくれって、頼んだじゃんかー! もう逃げんなよー!」

「郷田くん! ダメだよ! そんなこと!」

「オレ、もう嫌なんだよー! こんなのもう、耐えられないんだ!」

切羽詰まった郷田くんが、また弱音を吐いた。

これは、郷田くんなのか。

それとも、黒木さんなのか。

今となってはどうでもいいように、僕には思えた。

「皆、一緒に、なー。そうすりゃ、怖くないだろ? なー、直樹……」

問題なのは、切羽詰まって弱音を吐く郷田くんは、破滅的ということだと僕は思った。

今ここで郷田くんを倒さないと、皆が危ないと思った。

それには、郷田くんと同じクリアしか方法がない。

僕は、白い靄のかかったぼやけた目を思いっきり見開いた。

でも、青白い光は三つ漂っていて、どれがクリアなのか、もはやテレポがどれなのかもわからない。

慌てて考えてはみるものの、徐々に意識は遠くなり、うっかりすると思考自体が不自由になって、自分がばらばらに崩れてしまいそうだ。

僕は、全力で集中して、三つの青白い光を一つにまとめた。

赤、青、黄、緑の四色で、大きな丸い輪を、白く濁った視界の中に作り出した。

ふと、目の前に、メガネを突き出した必死の形相の村上先輩が見えた。

口を歪ませて一生懸命僕を怒鳴り付けているようだが、構っている余裕なんてない。

作った大きな丸い輪を、自分の中で膨らませて、勇気を出して全力で放出した。

「クリアッー!」


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