三竦み
地の底から、別の唸りが応えた。
その唸りから爆発音が生まれ出し、少し離れた地面が大きく盛り上がった。
するとその地面から、青灰色の肌をした鬼が這い出てくる。酒呑童子よりは小さい。それでも人間と比べれば、あまりに巨大だった。
右腕だけが継ぎ接ぎのように色が違い、幾重もの鎖が巻き付いている。
青灰色の身体に対して、そこだけ黒く赤い筋が走っていた。
ぎしり、ぎしりと筋肉が軋むような音を立てている。
「兄者ぁ」
頭には立派な二本の角があり、額から頬にかけて古い傷跡が走っている。
口元からは、長い牙が覗いていた。
茨木童子。
その名が、脳裏に浮かんだ。
それと同時に、凄まじい怒気が流れ込んできた。これも技能の能力の一部なのだろう。
この鬼は、ひたすらに怒っている。
私が傷つけられたと知った、その時から。
「どこじゃぁ…」
「茨木よ。主の前だ」
茨木童子から抑えきれない殺気が溢れ出る。
「聞こえなかったのか、兄者ぁ」
一歩、茨木童子が踏み出す。それだけで分厚い石畳が、鈍い音を立てて沈んだ。
「我が主を殺した者は…どこじゃぁ」
またしても色違いの右腕が、ぎしり、と鳴った。強く握られた拳がゆっくりと開く。
「嬲り殺してくれよう」
「茨木、お前こそ我の声が聞こえなかったのか」
茨木童子と酒呑童子が睨み合い、怒気が周囲へ広がっていく。付喪神達による楽しい音頭は完全に止まってしまった。
私は思わず肩を震わせる。
味方なのは理解しているし、私を助けに来てくれた鬼のはず。
その怒りも私に向けられたものではないと分かっていても、身体が竦んだ。
酒呑童子が、茨木童子の前へ立つ。
「我らが主を怯えさせるな」
「……ぬうぅ」
どしん、と地面を揺らし、茨木童子はその場に胡座をかいて座り込んだ。
右腕を高々と持ち上げると、少し逡巡した後に腕をゆっくりと下ろした。
歯を食いしばったまま、私を見る。
「……首を、刈らせろ」
その声は先ほどより低く、怒りはまるで隠せていない。どうにか座り込むことでギリギリ動き出すことを耐えているようだった。
「一度話を聞け、茨木」
――その時、突如として風が吹き抜け、酒呑の酒の匂いが散った。
代わりに漂うのは、花のように甘いのに、その奥に薄っすらと獣のような香りがした。
金色の光が宙から降りてくる。
そして、炎のように揺らめく尾が生まれると、一つ、二つ、三つと、数え切る前に九つ広がった。
白い狩衣、緋の袴。艶やかな黒髪が夜風にほどける。
整いすぎた美貌は、絶世という言葉では足りず、最早それは人の持つ美しさではなかった。
見た者の心を奪い、目を逸らすことさえ忘れさせる、人ならざる美。
玉藻の前。
乱れた裾も構わず、まっすぐに私へと歩み寄ってきた。一歩、また一歩と近づく度に甘い香りが強くなる。
九つの尾が、その背後でざわざわと逆立っていた。
玉藻の前は私の前で膝をついた。
そして、指先がそっと私の胸に触れる。
「……我が主」
胸の傷の跡を、指でなぞる。
「痛かったでしょう。怖かったでしょう」
何と答えていいのか分からなかった。
考えているうちに、様々な感情が震えるように揺れて声が出せなくなった。
ただ気管支が強く痛んだ。
今度は冷たい指先が、私の手首を撫でる。
傷つけないように優しく触れるその指先の爪が、わずかに震えていた。
玉藻の前は、ふっと目を伏せた。長い睫毛が重なり合う。
俯いたまま、口元がゆっくりと裂け犬歯が覗いた。
「……………酒呑よ、冗談ではないわ」
玉藻の前は、金色に光る鋭い瞳で酒呑童子を見据えた。
「寝惚けておるのかえ?それともまさか――」
――人間に、怯えておるのかえ?
玉藻の前は、私の頬へ手を伸ばす。九尾は膨らみ激しく震えていた。
頬に、淡い金色の毛が浮かぶ。
人の顔から、狐の顔へ。
美しい女の面差しが、少しずつ異形へ変わっていく。
九本の尾が、床を強かに打つ。それだけで細い亀裂が地面に広がっていく。
「…茨木の方がまだマシよ」
玉藻の前の顔が、さらに狐へ近づいていく。
――主を殺した男も
――主を見捨てた者も
――主を笑った者も
――主を虐げ、貶め、あまつさえ物のように扱おうとした者も
金色の瞳の奥で、怨嗟と激情が燃えていた。
「皆殺しじゃ」
玉藻の前は、私の頬を撫でる。
「もう、誰にも触れさせぬ。誰にも傷つけさせぬと誓えぬなら――」
ゆっくりと酒呑童子へ顔を向けた。
――其方から殺してやろうぞ。
酒呑童子が恐れる様子もなく口を挟む。
「ならば、なぜ我より遅れた」
玉藻の前の九尾が一瞬止まると、夜に完全な沈黙が落ちる。
ふと、酒呑童子が小さく笑った。
「煽るな九尾よ。…我らは皆、同じ想い」
九本の尾が夜の闇でゆっくりと揺れた。
チリン。
チリン。
チリン。
鈴の音が、幾重にも重なっていく。
背後で、妖怪たちの気配が膨れ上がった。一つ目小僧。唐傘おばけ。垢嘗め。網切り。そして、まだ姿を見せぬ無数の者たち。
「我らが主を殺めた者どもへ、今宵、我らの百鬼夜行を拝ませてやろう」
その声に応えるように、王都を目前にして、闇の奥から無数の足音が地響きをあげた。
妖怪たちが、歩き出す。
今、異世界に、百鬼夜行が始まった。




