兎と猫
もぞもぞ。
岩の陰からまた何かが動いた。一つ目小僧がメアリの前にすっと出る。垢嘗めが低く身構え、唐傘お化けが傘を構えるように広げた。網切りのハサミが、カチン、と一度硬い音を立てる。
「……」
誰も声を出さなかった。草を踏む音。小さな、控えめな足音。やがて苔むした岩の陰から、ひょこりと顔が覗いた。
それは兎の見た目をした生き物だった。
いや、正確には兎に似た何か。長い耳は普通の兎よりも二回りは大きく、先端が薄く透けて、まるで木の葉のような形をしている。瞳は真っ黒で丸く、こちらの様子を窺うように、じっと固まっていた。
「……ウサギ?」
思わずメアリは呟いた。その声に反応してか、葉耳兎は、びくっと体を跳ねさせる。耳がぱたぱたと揺れた。逃げようか逃げまいか迷っているようだった。
「大丈夫だよ、怖くないよ」
メアリはしゃがみ込んで、ゆっくりと手を伸ばす。
一つ目小僧が袖を引いた。
「大丈夫……多分だけど」
根拠はなかったけれど、目の前の生き物からは、殺気のようなものは感じられなかった。興味はあるが、怯えているだけのように見える。
一歩、また一歩と葉耳兎はこちらへ近づいてくる。長い耳をぴこぴこと揺らしながら、匂いを確かめるように鼻先をひくつかせた。
やがてメアリの指先にそっと鼻を寄せる。
ひやっと冷たい感触がした。
「……くすぐったい」
思わず笑うと、葉耳兎はびくりと跳ねたが逃げはしなかった。
垢嘗めが興味津々といった様子で、じりじりと距離を詰める。
「なめなめ?」
「あっ、舐めちゃ駄目だよ〜」
止める間もなく、長い舌がべろりと伸びる。
葉耳兎は、悲鳴のような鳴き声を上げて飛び退いた。長い耳をぶんぶんと振り回し、慌てて岩陰へと逃げ込んでいく。
「あーあ」
「なめめ……」
しょんぼりと肩を落とす垢嘗めを、メアリは苦笑しながら撫でた。
「撫でたい気持ちは分かるけど、いきなりはびっくりするよ」
岩陰から葉耳兎が、恐る恐るこちらを覗いている。逃げたはずなのに、完全にはいなくなっていない。
(……興味はあるんだね)
しばらく様子を見ていると、葉耳兎は、また少しずつ、岩の外へと出てきた。今度は垢嘗めから距離を取り、代わりに唐傘お化けの方へと、ぴょこぴょこ近寄っていく。
〘ともだち?〙ファサッ
唐傘お化けが傘を小さく揺らす。
葉耳兎はしばらく傘の柄をつんつんとつついていたが、やがて、その根元にちょこんと座り込んだ。
「わぁ……」
メアリの頬が、自然と緩んだ。
敵意も殺気もない。ただこの山に元から住んでいた、小さな生き物。
(この子たちみたいなのが、他にもいるのかもしれない)
もし、この山にいるモンスターたちが、みんなこんな風だったら。そう考えると不安よりも少しだけ心が浮き立った。
「仲良くなれるといいね」
網切りがハサミをチョキチョキと小さく鳴らして同意を示す。その時だった。
チリン。
鈴の音が風に乗って響いた。
一つ目小僧がぴくりと反応する。
「……あ」
聞き覚えのある音。メアリの視界の端、木々の隙間の暗がりに、何かがゆっくりと滲み出てくる気配があった。
葉耳兎が、びくっと身を竦ませ、唐傘お化けの陰に隠れる。
暗がりの奥から、しなやかな輪郭が現れた。
二又に分かれた長い尾。金色の瞳が朝日を受けて、はっきりと光って見える。灰色がかった毛並みは、艶やかに整っていた。
猫又は、ゆっくりと地面に降り立つと、後ろ足だけで、すっと立ち上がった。
「お初にお目にかかります、主様。ワタクシ、猫又と申します」
驚くほど、滑らかな声だった。
一つ目小僧の「黙っていーよー」や、垢嘗めの「なめなめ」とはまるで違う、人の言葉として完成された響き。
猫又は、尾を優雅に揺らしながら、深々と一礼した。
「みんなと、同じ…妖怪だよね?」
「ええ、その通りでございます。ワタクシも、この身を主様に捧げましょう」
一つ目小僧が興味深そうに猫又の周りをぐるぐると回る。垢嘗めは長い舌を伸ばそうか迷って、思いとどまった様子だった。唐傘お化けだけが、じっと、値踏みするように猫又を見つめている。
「そんなに流暢に喋れる子は、初めてだよ」
メアリの言葉に、猫又は金色の瞳を細めた。
「誤解なきよう。言葉の巧拙と、忠義の深さは、まるで別のものでございますよ」
一つ目小僧がこくこくと頷いた。
「黙っていーよー」
「……ほら、この通り」
猫又がくすりと笑う。メアリも、つられて笑ってしまった。
「これから、よろしくね。猫又くん……で、いいのかな?」
「お好きにお呼びくださいませ。ワタクシは、主様の御心のままに」
一礼する猫又の後ろで、葉耳兎が恐る恐る顔を覗かせている。
猫又の金色の瞳が、その小さな兎へと向いた。
「ほう。土地神の眷属が、もう懐いておるとは」
「土地神の眷属……?」
「この子はただの野兎ではないでしょう。この山そのものに仕える、小さきモノにございます。ワタクシの目には、はっきりと見えますよ」
メアリは思わず葉耳兎を見つめ直した。
(この子が、この山の……)
新しい情報に、頭の中が忙しなく回り始める。この山には、まだ知らないことがたくさんありそうだった。
「猫又くん詳しいんだね」
「妖の世を、それなりに長く渡り歩いておりますので」
猫又は得意げに尾を揺らした。




