一夜明け
すでに神輿の中は、静かだった。
祭囃子はいつしか遠のき、太鼓の音も笛の音も聞こえなくなっている。代わりに耳へ届くのは、神輿の隙間を抜けていく風の音と、周囲の木々が葉を揺らす音だけだった。
一つ目小僧が、ふと顔を上げた。
木の香りが残る神輿の柱に触れると、その表面が、じわりと薄くなっていることに気づく。木目の向こうに、夜明け前の景色が透けて見え始めていた。
朝が近い。
「……ん」
一つ目小僧は小さく声を漏らし、柱を指差した。
垢嘗めが、心配そうにメアリの顔を覗き込む。唐傘お化けは静かに傘を畳み、網切りは周囲を警戒するように、手の中のハサミを小さく鳴らした。
シャキン。
神輿の輪郭が、朝焼け前の薄闇へ溶け始める。
飾り金具の輝きも、鳳凰の灯りも、少しずつ弱くなっていった。夜のあいだ確かにそこにあった祭の気配が、朝の訪れとともに薄れていく。
やがて、付喪神の声が最後にひとつだけ響いた。
「……お疲れ様でございましたぁ、主しゃま」
その声を最後に、神輿は消えた。
一つ目小僧が、眠ったままのメアリを抱き上げる。
その傍らには、垢嘗め、唐傘お化け、網切りの姿があった。
四体はメアリを囲むようにして、朝を迎えた山の中へ降り立つ。
周囲には、もう他の妖怪たちの姿はない。
あれほど大勢いた妖怪たちも、祭りの熱も、夜とともに還っていったのだ。
朝日が、遠くの稜線を薄く染め始めていた。
──
「……ん」
小さな声が漏れた。
瞼の裏に、淡い光を感じ、メアリはゆっくりと目を開けた。
最初に見えたのは、見知らぬ景色だった。
木々の隙間から差し込む朝日。
朝露に濡れた草、土と緑の匂い。
そして、すぐ傍から自分を覗き込んでいる四つの顔。
「ん」
「なめめ」
〘おはよう〙ファサッ
と唐傘お化けが傘を揺らし、網切りのハサミがシャキン、と小さく鳴った。
「……みんな」
メアリの目が潤んだ。
「よかった……みんないる。夢じゃなかった」
自分でも気づかないうちに、身体が動いていた。
メアリは四体をまとめて抱きしめる。
誰一人、欠けていない。
柔らかな和装の感触。
ぬめった舌が頬に触れる感触。
傘の骨が腕に当たる感触。
そして、小さな身体で懸命に抱き返してくる網切り。
その全部が、今はただ愛おしかった。
「温かい」
メアリは涙を流したまま笑った。それを垢嘗めがまた舐め取る。
「もう……」
泣いているのか、笑っているのか、自分でも分からない。
それでも、四体がここにいるというその事実だけで、胸の奥にあった張りつめたものが、ほんの少しだけほどけていった。
──
一つ目小僧の隣に座り込み、メアリはしばらく膝を抱えていた。
朝の光が、木々の間から少しずつ差し込んでくる。
(昨日、私、死んだんだよね)
改めて思い返すと、胸の奥が重くなる。
胸を貫かれた痛みを思い出す。肺に血が溜まり息ができなくなっていくあの苦しさを。
血液が抜け、寒くなって身体から力が抜けていく感覚。
あの瞬間の恐怖は、目を覚ましたからといって消えてくれるものではなかった。
(一つ目小僧も、垢嘗めも、唐傘お化けも、網切りも。みんな、私のせいで……)
四体の最期が、瞼の裏に浮かぶ。
(怖い)
素直に、そう思った。
もう二度と、あんな思いはしたくない。
自分にも、妖怪たちにも…けれど。
(このままじゃ、駄目だ)
膝を抱く手に、少しだけ力がこもった。
昨夜、大勢の妖怪たちが自分のために怒ってくれた。
名前も知らない、初めて会ったはずの妖怪たちまで、命を懸けて夜を駆けてくれた。
自分が怖くて震えている間にも、妖怪たちは自分を守ろうとしてくれていた。
(怖がって、震えてるだけじゃ……あの子たちに、申し訳ない)
隣では、一つ目小僧がじっとこちらを見上げている。
心配しているのだろう。
けれど、ただ隣にいるだけ。
それが、今はありがたかった。
「……ありがとう」
メアリは小さく笑い、一つ目小僧の頭を撫でた。
「もう、大丈夫だよ」
その言葉に、少しだけ嘘が混じっていた。本当はまだ、指先が微かに震えている。
人間が怖い。それでも、メアリは立ち上がった。
「さ、みんなが安心して過ごせる場所、探さなきゃね」
四体が、それぞれに頷いた。
そして、メアリと並んで歩き始める。
──
改めて見渡すと、目の前には想像していたよりずっと大きな山が広がっていた。
麓は緩やかな斜面になっており、背の低い木々と名も知らぬ野草が一面に茂っている。
その奥、山の中腹あたりからは灰色がかった岩肌がむき出しになり、切り立った崖のように天へ向かって伸びていた。
頂上付近はまだ朝靄に包まれていて、輪郭すらはっきりしない。
「わぁ……」
思わず声が漏れる。
王都の石造りの牢屋とは、まるで違う景色だった。
風が吹くたびに木々の葉がさざめき、遠くからは水の流れる音が聞こえてくる。川があるのか、それとも山のどこかから湧き水が流れているのか。
麓には大小さまざまな岩が転がっていた。
人が数人入れそうな洞穴も見えた。
(あそこ、雨風しのげそう)
苔むした岩肌、崩れかけた岩の隙間。
根を張った古木の洞。
メアリは、それらを一つずつ眺めながら歩いた。
(このあたり、水も近いし……悪くないかも)
まだ、ここに住むと決めたわけではない。
そもそも、ここがどこなのかさえ分からない。
それでも、昨夜までとは違った。
逃げることしか考えられなかった夜とは違い、今は自分たちがどこで過ごすのかを、自分たちで考えられる。
一つ目小僧が先頭を歩き、垢嘗めは低い茂みをかき分けて進んでいく。唐傘お化けは時折ふわりと浮かび上がって周囲を見渡し、網切りは器用に岩肌をよじ登って、その先に何があるのかを確かめていた。
四体とも、それぞれのやり方で新しい場所を調べている。
その姿を眺めながら歩いているうちに、メアリの胸の中へ、少しずつ別の感情が入り込んできた。
(もしかして、他にも誰か住んでいたらどうしよう。城ではモンスターがいると話をしていたし)
異世界の知らない山。
ここに何がいるのか、メアリには何も分からない。だからこそ、ほんの少しだけ好奇心が湧いてきた。
ちょうどその時、メアリの視界にふと何か動くものが目に入った。
「一つ目小僧くん」
メアリが呼ぶと一つ目小僧は首を、コテンと傾けた。
「……ん」
メアリが、少し離れた場所にある岩を指差した。
「あの岩のとこ、なんか動かなかった?」
苔むした岩の陰で、何かがもぞりと動いた気がしたのだ。
一つ目小僧が足を止めると、その動きにつられるように、他の三体も視線を向けた。
もぞもぞ。
メアリも息を止めた。
見間違いではない。岩の陰に何かがいる。




