大江山大酒呑童子
Side 神川 リオン
王都の外壁、その正面。
その只中にリオンは立っていた。
夜そのものが凝り固まったような巨躯がある。
そしてその巨躯が歩いてくる。ただそれだけの動作だった。
だがその一歩ごとに外門の篝火が僅かに揺れ、風もないのに炎の先端が怯えるように傾いだ。
赤銅色の肌。
緋色の髪が肩から夜風に流れる。
額に生えた金色の二本の角。
(こいつがオーガか?聞いた話とちがうぞ。色も大きさも。随分デカいな、特殊個体のネームドとかいうやつか?)
傷だらけの肌。ただの飾りではない、これまで何百と修羅場を潜ってきたであろう気配だけは、リオンにも分かった。
(怖さは…ない。俺は、オズモの勇者だ。神川リオンは、選ばれた人間なんだ)
酒呑童子はただ歩を進める。
急ぐでもなく、緩めるでもない。
リオンはそれを待つ。
歩幅ひとつひとつが、逃げ場のない距離を正確に刻んでいく。
十歩。
八歩。
五歩。
その距離になって、初めてリオンは理解した。
(違う。これはモンスターじゃない)
体格が大きいだけの怪物なら、まだ耐えられた。
だが目の前のそれは、纏う気配そのものが格だった。
この世界でいうならば『魔王』。
そんな生まれ持った器の違いを、否応なく叩きつけてくる何かだった。
――三歩。
酒呑童子が初めて足を止めた。
夜が完全に静止したように感じた。
「……其方が」
低く、静かな声だった。
「我が主を刺し殺した者か」
その一言だけでリオンは全てを理解した。
そっちの者か、と。
「……主とは赤木メアリのことだな?彼女はオズモ王国の最重要罪人であった。逆賊として勾留中に逃げ出した以上、罪を認めたということ。よって、不本意ながら裁かねばならなかった。正義の名の下に」
「……………………」
酒呑童子は微動だにせず、しばしリオンを見つめた。
「男三人で、娘ひとりを追い詰めておいて、それを正義と呼ぶのか」
「な、なにが言いたい…正義執行の為だ。大事なのは過程ではない」
「権ある者が悪と告げれば。それが正義となるのか」
一歩。
「力ある者が罪と決めれば。それだけで弱者は悪となるのか」
さらに一歩。
「其方は、己の目でしかと、見定めたのか」
「……!」
リオンの顔が強張った。
「誰ぞに悪と告げられれば己で確かめもせず、それを正義と呼ぶのか」
「違う……」
「何が違う」
「俺は……!」
言葉が続かない。酒呑童子は答えを急かさなかった。ただ、静かに待っていた。その沈黙がリオンには何より苦しかった。
「……ッ、うるさい!!」
耐えきれずリオンは叫んだ。
「お前に何がわかる!!俺は、オズモの…この世界の正義を体現する者だ!!悪しき化け物を裁くのは、当然の正義だ!!その為の指標は必要だ!それに従ったまでだ!」
『閃耀の矛盾』
叫びと共に、光り輝く剣と盾が生まれる。
鈍く輝く刃が月明かりを弾いた。
(そうだ。こいつは悪だ。人を殺した化け物だ。だから俺は正義。こいつは、悪)
必死に己へ言い聞かせる。信じれば信じるほどこの力は増す。それだけが、今、縋れる唯一の理屈だった。
全力の、渾身の一撃の為、踏み込む。
理屈を無視した、必ず斬れる剣。
――キィン。
乾いた音だけが夜に響く。酒呑童子はほとんど動いていなかった。
ただ鞘に収めたままの大太刀を、片手で軽く持ち上げていただけ。
刃と鞘が触れ合った、その一点だけで渾身の一撃が止められていた。
「バカ……な」
「軽い」
嘲りではなく、ただ事実を告げる平坦な声だった。
「お前の剣には、お前が信じたいものしか乗っておらぬ」
「うるさい……!」
「其方は負けたことがあるか」
「……は?」
「謀られたことは」
「……」
「裏切られたことは」
リオンは答えられなかった。
酒呑童子の目が静かに細められた。
「器が出来ていない」
「違う……!」
「悪を知らぬ者に正義が語れるものか」
「違うッ!!」
「そうか」
リオンはもう耐えられなかった。
「『断罪者の鎖』ッ!!」
叫びと共に無数の鎖が伸びる。酒呑童子へと絡みつこうと迫り、届く寸前でぱらぱらと力を失った。
鎖が地へ落ちる。
「……ッ!!」
「その鎖もまた、同じ」
酒呑童子は落ちた鎖へ視線を向けた。
「其方は、我が主を単なる悪だと、心の底から信じ切れておらぬ」
図星だった。心のどこかでリオンは既に理解していた。目の前のこれはただの悪ではない。
愛する者を殺された正当な怒りだ。
裁かれるべきは、むしろ自分の方だと。
(違う。違う違う違う)
脳裏をあの時の光景が過った。
逃げようとするメアリを捕らえる断罪者の鎖。
突き立てた剣の感触と表情。
――あの時、俺は何を見ていた。
(悪だと思ったから斬った。カンナバリカさんが、そう言ったから……カンナバリカ?)
違う。
(俺は……ただ)
同級生だった少女が涙を流しながら叫んでいた。
「離してっ」
全てを持っていかれた。
(気に食わなかった)
胸の奥が冷たくなる。
(俺より、目立っていたから)
あの笑顔。
あの力。
妖怪たちに囲まれて、それでも誰かを守ろうとしていた姿。
(俺より注目されていたから。俺より清らかだったから)
そして。
(だから、俺は……)
「違う……!」
リオンの声が震えた。
「俺は、勇者だ……!」
剣を構え直す。
足はもう震えていた。
それでも、倒れまいと必死に踏みとどまる。
酒呑童子はそれを見つめ、やがて静かに息を吐く。
「哀れよ。その技も其方の心の矛盾を表しているようだな」
柄に指がかかる。
ただそれだけの静かな所作だった。
「もうよい」
リオンが顔を上げる。
「其方が何者であるか、十分に見た」
──
その頃。
王城では、異変を察した兵士たちが次々と集められていた。
遠くから響く祭囃子。
地面を伝う、奇妙な振動。
夜空を横切る数多の影。
「援軍を出せ!」
王城門が開き、兵士たちが城下町へ駆け出していく。
大きな商館、貴族たちの屋敷、無数の灯りに照らされた大通り。
普段なら王都の繁栄を象徴する景色を、兵士たちは駆け抜けていった。
「都市門まで急げ!」
だが、いつまで経っても門が見えてこなかった。
「まだか!こんなに遠かったか?」
「おかしい!もう着いているはずだ!随分と走ったぞ!」
王城門から都市門までは、大通りをほぼほぼ真っ直ぐ走るだけ。何故かそれを曲がる。走る。また曲がる。
城壁は見えているのに、どこへ行けど門が見えない。
やがて、一人の兵士が足を止めた。
「……とまれ」
屋根の上に黒い影が立っているように見えた。
それは長い鼻に、大きな翼、手には大きな葉のようなもの。
なんだなんだと兵士が目を凝らした瞬間。
ひゅうっ。
風が吹き抜けると影は消えていた。
「なんだあれは…神の使いなのか?」
「それどころではない、行くぞ!」
結局、その後も兵士たちは、王都の外へ出ることができなかった。
まるで何かに化かされているかのように。
──
「剣も知らず、心も知らず、踊らされるだけの傀儡は人に非ず」
酒呑童子は、そこで一度言葉を切った。
「されどそれだけならば、まだ赦しようもあった」
大太刀の柄に指がかかる。ただ、それだけの静かな所作だった。
「己を慕い、縋ろうとした者へ刃を向けたこと。それだけは天地が引っくり返ろうとも赦されぬ」
酒呑童子が鞘から大太刀を滑らせ、月光を一筋だけ弾いた。
「負けを知ることは悪いことではない。何も知らぬが外道という事もある」
その声はとても静かだった。鬼が喋っているとは誰も思わないほどに。
「ただ、其方はこの世に唯一つある、決して侵すべからざる禁忌を犯したのだ」
その言葉が地に落ちるより早く、酒呑童子は大太刀を鞘に納めた。
リオンには何が起きたのか分からなかった。
刃を振るわれた瞬間も、挙動も、何も見えなかった。見えたのは残心のみ。
そして、確かな熱を首の後ろに感じた。
「――」
もう、声すら出なかった。
視界がゆっくりと傾いていく。
世界が回転していくような、奇妙な浮遊感だけがあった。
(あ、れ……)
(剣が……盾が……)
生み出した剣も盾も、主を失った瞬間、幻のように消え失せていた。
崩れ落ちる体を、リオン自身が他人事のように見ていた。
(赤木、メアリ。あいつがあの日、俺の告白を断らなかったら……こんな事には)
神川リオン――死亡。
酒呑童子は血の一滴すら纏っていない。
そして夜空を、一度だけ見上げた。
──
王都から離れた街道を進む神輿の中で、メアリは、目を閉じたまま動けずにいた。
一つ目小僧の肩に頭を預け、両耳をきつく塞ぐように手で押さえている。
物音のひとつひとつが、恐ろしくてたまらなかった。
〘終わったよ〙ファサッファサッ
唐傘お化けから念話が静かに届いた。
「……終わった?」
小さく震える声で聞き返す。
一つ目小僧は頷いた。
それでも、メアリはすぐには目を開けられなかった。守ってもらったはずなのに。胸の奥に、晴れることのない重たさだけが、静かに沈んでいく。
(……そっか)
そう自分に言い聞かせながら、メアリはまだきつく目を閉じていた。




