白面金毛九尾ノ狐
Side 原西 賢人
夜が動いていた。
王都の城壁から少し離れた付近で、原西賢人は、震える足で後退っていた。
(呼んじまった……俺が、この化け物どもを呼び寄せちまったのか!?)
ついさっきまで、目の前には神川に刺し殺され、胸や口から血を垂れ流す、赤木メアリが倒れていた。
亡骸を手に入れるということは、俺の技能『悠久の想碑』がまさに目前に迫っているということ。
(女を好きにできる。地球にいた頃からの夢にまで見た夢、それこそほんとに悠久の想いだ。
それがしかも、三笠高校裏番No.1の赤木メアリ。
こんなに幸せになっていいのだろうか!)
そう思っていた。
さっきまでは、そう勝ち誇っていたはずだった。死んだと思っていた女が、目の前で息を吹き返すまでは。
「……なんで目を開けてるんだよっ!?死んでねーぞ!おい、元春ぅーッ!!!」
目が合った焦りと羞恥と恐怖のあまり、俺は反射的に叫んで、夢のメアリから飛び退いていた。
振り返った元春は、恐怖など欠片も見せていなかった。むしろ愉悦に顔を歪め、「上等だ」とでも言いたげに笑っていた。リオンもまた、直ぐ様に剣と盾を生み出し、動じる様子はなかった。
(あいつら、頭おかしいんじゃねぇのか…怖くねぇのかよ…死体が蘇ったとたん、辺りは化け物だらけだぞ!)
どでかい赤いと青のが現れ、そして古風で上品な和装の金髪美女が現れた瞬間、原西の中で何かが決壊した。
三体の妖怪たちが睨み合い、怒気が周囲に満ちていく。誰も、原西のことなど見ていない。
(俺の女を見る勘が言っている。あの金髪女…絶対やばい!!逃げるなら…今しかない)
好機だと、判断した。
喜多院とリオンを餌として置き去りにしたまま、原西は音を立てぬよう、じりじりと後退った。
気付かれなそうなところで、背を向けて一気に走った。
出てきたときに使った裏口から外壁の内側へと入る。振り返っても、戦いは始まっていなかった。
崩れかけた家屋の隙間を縫い、城下町の路地裏へと逃げ込む。息が上がり、胸が焼けるように痛んでも、足を止めなかった。
――
瓦礫の影に、原西賢人は身を潜めていた。
肩で息をしながら、震える手で口元を押さえる。さっきまでの得意げな笑みは、跡形もなく消えていた。
(あんなの、無理だ。人間じゃない。あの鬼も、あの女も、俺には関係ない。馬鹿にまかせて……俺は逃げてりゃいい)
逃げてきた方から地響きが鳴っている。喜多院の技能なのか、それとも茨木童子のものか。判別もつかずに原西は震えていた。
(ここまで来れば、大丈夫だよな。誰も、見つけられない。クラスメイトといれば、安全だ。どうにかそこまでこそこそと…いや、待てよ)
城に戻れば、仲間がいる。でも、化け物共は間違いなく城を攻めてくる。
技能があれど、勝てる気がしなかった。
悩んで決めた答えは、全てに関わらないこと。
(朝まで路地裏に身を潜めていれば、結果がわかる。オズモが勝っても負けても、俺だけ生きてればそれでいい。うまくいけば、傀儡も大量に手に入る!)
そこまで考えたところで、原西は、違和感に気づいた。
(あ、れ…静かすぎないか?)
先ほどまで遠くに聞こえていた喧騒が、いつの間にか消えていた。
地響きも、怒号も、何も届かない。まるでこの路地だけが、世界から切り離されたかのように。
(……なんだよ、これぇ!こえぇよぉ!!)
風もないのに、どこかで葉が擦れるような音がした。
かさり。
原西の背筋が粟立つ。
(気のせいだ。気のせいだ……頭がおかしくなる!)
かさり。かさり。
音は、少しずつ、確実に近づいてくる。
甘い匂いが、鼻先を掠めた。花のような、それでいてどこか獣じみた匂い。嗅いだことのないはずのその香りに、なぜか本能が警鐘を鳴らす。
(女…?いや、それだけじゃ、ない)
路地の奥、月明かりも届かない暗がりに何かが立っていた。
輪郭だけがぼんやりと浮かんでいる。長い金髪にゆるやかに揺れる幾つもの尾らしきもの。
原西は動けなかった。
逃げ出そうにも足が根を張ったように動かない。
一歩、また一歩。歩みに合わせて金色の光が、闇を裂くように滲んでいく。
九つの尾が彼女の背後でゆるやかに、けれど確かな意志を持って揺れていた。
「……随分と走ったようじゃな」
声だけで原西の足が竦み膝が笑った。
玉藻の前が目と鼻の先にいる。
整いすぎた美貌。人ならざる気配。それでいて、射抜く視線は氷のように冷たく静かだった。
「わ、わわわぁ……」
言葉にならない声が漏れる。
(や、やばい。やばいやばいよ。これ本気のやつだ)
だが頭の片隅では、いつもの癖が勝手に動き出していた。女。女。女。それも見たこともない美貌とプロポーション。
気付けば恐怖よりも欲望が前に出て、妄想の中で好き勝手にし出していた。
(いぇーす。いや、落ち着け。女だ。女なら、まだ手はある。女は俺のもの。というかこの女、最高すぎるだろ。なんつー白くてすべすべの肌してんだ)
原西は震える両手を胸の前で組み、崩れ落ちるように膝をついた。
「た、頼む……! 俺、何もしてない、何も……! 誤解だ、誤解なんだよ!」
芝居がかった涙声。いつもの手管。怯えを見せ下手に出て、相手の警戒を解く。
今まで何十人と、こうやってやり過ごしてきた。そうして、それが技能に役立つ。
「お、俺は本当はさ、あんたらの味方に……」
言葉を紡ぎながら原西の視線は、微かに彼女の瞳を捉え続けていた。
焦点を外さず逸らさず不自然にならぬように、ただ静かに糸を垂らすように。
(かかったな、馬鹿め!いくら凄みたいからって見つめすぎだ)
【傀儡の視線】
「……ふ」
玉藻の前が小さく笑う。
嘲笑うような、それでいて深く哀れむような響きだった。
「見え透いておるわ」
「な……」
「口では詫びながら、その目だけはずっと妾を値踏みしておった。不躾に上から下までじろじろと……今もまだ、そうしておるであろう。妾は慣れておるが」
「ち、ちちち、違うっ……!」
「違わぬ」
玉藻の前の声が静かに、だが有無を言わさぬ強さで、路地に響く。
「そなたの安っぽい呪いの糸が、幾重も幾筋も、妾へと伸びておるのが見える。人の心を操る術など、妾にとっては児戯に等しい。千年を越えて、人の心を惑わしてきたのだからのう」
「そ、そんな……」
「効くわけがなかろうに。妾は、惑わす者。誑し、狂わせ、心を喰らう者ぞ」
金色の瞳が細められる。
「人間の子供如きが、付け入る隙など初めから有ろうわけがない」
原西の顔から完全に血の気が引いていた。
「そ、それでも……! 頼む、見逃してくれ、な?なんでもする!なんでも話す!!だから!!」
「妾に、見逃せ…と?」
玉藻の前が、初めて感情らしきものを覗かせた。
それは明確な怒りだった。
「妾が、何故わざわざ此処へ来たと思うておる」
一歩、詰める。
「忘れたとは…言わせぬ」
「……っ」
「主が、そなたらに囲まれたあの時よ」
九つの尾が大きく膨れ上がり、それぞれが意思を持ったように波打ち始めた。
「愛しの主は、単に屈する様な、そこいらの娘ではない。千年と人の心を見てきた妾には分かる。悔しくとも怖くとも、決して膝を折らぬ強い目をしておった」
原西の喉がひくりと鳴った。
「そなたなら言わずともわかるな」
あまりの恐怖に呼吸が浅くなり、今にも気を失いそうになっていた。
「あの時だけ急に頭を垂れた。まるで人形が糸で引かれたかのように」
「……ッ」
「そなたの薄汚い目が、主に触れた瞬間……わかるかえ?」
「………ッ!!」
言い逃れの言葉を探して、原西の口が、何度も開いては閉じた。
「主は屈しておらぬ。卑怯にも操られたのじゃ、そなたの薄汚い術に」
「ち、違う、あれは……」
「もう、嘘を重ねるでない」
玉藻の前の声が初めて震えた。
臨界点ギリギリの怒りの震えだった。このままでは王都ごと滅ぼしかねない、その憤怒を無理矢理押さえつけていた。
その頬に淡い金色の毛が浮かぶ。目が吊り上がり、絶世美女の顔が少しずつ狐のものへと変わっていく。
「気高き主から意志を奪い、膝を折らぬ強さを奪い、誇りを奪った」
「た、頼む……! 何でもする、ほんとに何でもするから、見逃してくれ……赤木メアリにも正式に謝罪するーー!!」
崩れ落ちるように原西は本物の土下座をした。額を地に擦りつけ、震える声で懇願する。
その様を、玉藻の前は静かに見下ろした。
「今更、なんの、真似、じゃ」
唇がゆっくりと裂けていく。犬歯が闇に覗いた。
「妾の愛して止まない主へと強制した、その『膝を折る仕草』を……今、この妾の前でして見せるとは」
「やってない!ヤッてない!!」
「よく言うわ。時に……そなた我が主の胸飾りを解いて、どうするつもりじゃった」
「ひ……ッ」
美しかった顔が完全に狐のそれへと変わる。金色の瞳の奥で怨嗟の炎が揺れていた。
「死すら、生温い」
――ぽっ。
「あっ」
原西の悲鳴は刹那の燃ゆる瞬きにより、路地の暗がりに短く響いて、そして呆気なく消えた。
「悠久の時を地獄の業火に焼かれ続けるが良い。……だが、それさえもまだ生温い」
原西賢人――死亡。
――
王都の路地裏に喧騒が戻る。
玉藻の前は人の顔へと戻り、乱れた裾を静かに整えた。
夜空をしばらく見上げる。
「……主」
誰に届くでもなく、そう呟いた。
「あなたは最後まで屈しておらぬ。妾はずっと、見届けておったよ。故に……よう分かる」
金色の炎がふっと燃え上がった。
九つの尾がその炎に包まれ、ゆるやかに揺れながら、夜の闇へと溶けていく




