29
私は巨大な鏡の前で固まっていた。王宮の通称王妃の間と呼ばれる、壁いちめんの鏡とあらゆる衣類が詰まったクローゼットが壁じゅうにそびえる部屋である。
普段着慣れない豪華なドレス――白いレースとフリルがたっぷり、床いちめんに広がるほど贅沢に施された、ウエディングドレスである。窓の外から聞こえる王国じゅうの貴族、王都じゅうの平民が集まる王宮前広場のざわめき。
今日は私とシドの結婚式だ。
――正直言って、逃げたい。
「帰りたい……」
と思わず呟いてしまう。侍女たちは苦笑した。
「残念だけどもう無理ですよお」
と微笑んで頬紅を調整してくれるのは、黒鷲砦から引き揚げたバルトロメオの妻、マリアンだった。ふくふくした顔を喜色満面にして、本当に嬉しそうに私の世話を焼いてくれる。
新王妃として侍女を指名しなければならない、という話になったとき、実家で世話してくれた侍女たちを除いて思い出したのは彼女の名前だった。マリアンはなんと子爵家の生まれで、元々シドの母レティシア前王妃様に仕える侍女だったという。王宮内部の構造なんかに関しては、私より詳しかった。
「お腹痛いいいい……」
「三回目です。もうきっちり着ちゃいましたから無理です」
他の侍女たちが笑いさんざめく中、私はがくりとうなだれた。
そう、他の侍女たち。彼女たちの中にはかつて学園で私にルパートとアリサについて直訴してくれた学友も混じっている。私が追放されてから、ミストリオス公爵家の派閥にいた彼女たちもまた、退学せざるを得なかったり婚約破棄されたりとさんざんな目に遭っていたのだ。当時の私がそこまで考えが回らなかったことが、いまだに悔やまれる。
せめてもの罪滅ぼしに王妃の侍女に指名したのだが、ほとんどの学友が笑って受け入れてくれたので本当にありがたかった。ちなみに来られなかったのは、すでに結婚してしまった者たちだけだった。
軽快な足音が聞こえて、ノックのあとオーリンお兄様が顔を出した。
「よう! 準備できたかい、妹? おおっ、これはこれは。白百合が咲き誇るがごとしじゃないかあ。綺麗だぜ」
「ううう。もう怒る気にもなれない」
「あははは。――さ、そろそろ時間だよ」
と差し出された腕を、私はのそのそ掴んだ。お兄様はお兄様だけどやはり男性なので、これだけの重量あるスカートを下げた私のこともなんとか支えてくれる。
「シドがいい……」
「花婿殿、おっと国王陛下は式まで花嫁を見られない。知ってるだろ?」
お兄様の手が優しく私のヴェールを下した。小さな真珠やダイヤモンドを縫い込んだそれに覆われると、ようやくほっとする。なんだか守られている気持ちになった。
「トマス、扉を開けてくれ」
そうお兄様に言われ、あまり見慣れない顔の侍従が先導を務めてくれる。私は彼にちょっと目礼をした。
そうして私たちは、王宮前広場へとゆっくりゆっくり移動する。
前世でいうと学校のグラウンドくらいある広場は、南北に王宮と大聖堂に挟まれている。
屋根つきの馬車にすっぽりくるまれた状態の私が広場へつくと、すでにそこは王都の人々でごった返していた。王立騎士団の騎士たちもまた盛装で、人を捌き事故を起こさないようにするのに忙しそうだ。
馬車はあらかじめ作られていた道を通り、裏から大聖堂の中に吸い込まれていった。
そして控室を通り、気づけば私は花嫁の道の手前にいる。オーリンお兄様がふふふっと愉快そうに笑い、待っていたお父様が私に腕を差し出した。
「頼みますよ、父上。
「任せろ。――さあヴィオレッタ、行こうか」
私は瞬きをする。
「――はい」
ちょっぴり泣きそうだった。あの断罪の日には永遠に会えなくなったのだと思い、投獄されたと聞いた日には失ったと思った家族。
――今は全員、いる。ここに、いてくれる。
天井まで届く扉を、聖職者たちがおごそかに開いた。
ワアッと歓声があがる。二階席から花びらが巻かれ、音楽が始まった。
私が歩く赤い絨毯の左右に、参列者一同がいる。黒鷲砦の面々まで正装している。いつの間にかマリアンがおしゃれしてバルトロメオの横にいた。ど、どうやったんだろう。確かにさっきまで王宮でお仕着せを着て、私の世話をしてくれていたのに。
マリアン以外の黒鷲砦の女性たち。選び抜かれた高位貴族たち、と思ったらどうやら二階席には中小貴族たちも揃っているようだ。ベルナール家の人たち、あの老爺もいる。
花を巻いてくれているのは聖職者見習いだけではなく、黒鷲砦の子供たちと、かつて私が慰問した孤児院の子供たちもいる。
――そして、檀上にシドが待っていた。
黒の盛装を着こなした彼は本当に格好良かった。長い足が映えるぴたりとしたズボンに見惚れそうだし、目元に少しばかり赤色を入れているのも綺麗。
お父様の手を離れて短い階段を上る。シュルシュルと絹のリボンが音を立て、さやさやとレースとフリルが囁く。応援されてるみたいだわ、と思ったらすっと落ち着いた。祭壇の前でシドと向き合う。
ここだけは静か。
周りの音も聞こえない。
シドは緊張しているみたいだった。顎の線が食いしばった形に強張っている。
その顔を見て私は逆に落ち着いた。ちょっと吹き出しちゃいそうになったくらい。
年老いた恰幅の良い神官が朗々と述べた。
「それでは誓いの言葉を。――人は一人では生きられぬと神々は言いたもう。親の手によって育まれ、友の手によって支えられ、そして伴侶の手によって歩み続ける。ではまず、花嫁ヴィオレッタ・ミストリオス」
「はい」
「あなたはこの花婿と運命を分かちあうことを誓いますか?」
「誓います」
私の目にはもうシドしか見えなかった。
「ルクサリス・フォン・クレシア」
「はい」
「あなたはこの花嫁の人生の傍らに在り続けることを誓いますか」
「誓います」
シドは高らかに宣言する。
二人、同じ気持ちでいるのがわかった。ただ、わかったのだ。
神官が私たちを交互に見つめているのが見えていても、お互いしか見つめられない。
「では、天の星々と大地を証人として、ここに二人の契りは結ばれた。――祝福あれ」
「祝福あれ」
「祝福あれ」
「祝福あれ」
……慣例に従い、参列客たちが同じ言葉を唱える。
天の星々と大地もまた、私たちを見守ってくれているのだろうか? そうだったらいいな、と私は思った。
そして王家に伝わる王と王妃のための紋章が入った指輪が交換される。
シドは私の指を真剣に見つめながら、私だけに聞こえる声で囁いた。
「必ず幸せにする」
「それ、私の台詞」
くすり。私たちは間近に見つめ合って笑った。
それから誓いのキスをした。
これにて式は終わり。静かにしていなければならない時間は過ぎた。
万雷の拍手が起きる。外の広間にいる人々にもこれで伝わるだろう。
そしてやんややんやの歓声が響いた。大聖堂を壊しかねない音量だった。あとはもうお行儀よくしても仕方ない。
階段を降り始めた私たちに、立ち上がった彼が立ちふさがる。
「ヴィーちゃあああああああん! おおおおおおおお、俺は嬉しいよおおおお!!」
バルトロメオである。
「やっぱり来たああああああ!」
私は叫んでシドに飛びついた。彼もまた大笑いをして、私を抱き上げると走り出す。
「うおおおおおおおおお、ヴィーちゃんが花婿に攫われてくぞおおおおお!」
という声を皮切りに、黒鷲砦の面々が一斉に連呼し始めた。
「ヴィーちゃん!」
「ヴィーちゃん!」
「ヴィーちゃん!」
「やめてぇぇぇぇぇぇえええええ!!」
私は絶叫してシドの頭に縋りつく。彼の笑いの振動がお腹に響いた。それにしてもシド、こんな重たいドレスを着た人間をよく抱えきれるものね……。
大聖堂の外に出た。招待客たちも年齢を忘れて後ろに続いている。
扉が開いた途端、わああああああっと人々の声が雪崩のように襲い掛かってきた。祝福の声だ。みんな喜んでくれている。アリサが操って出させていた声と全然違う……ううん、今日くらい過去のことを考えるのはよそう。
みんなで楽しもう。結婚式なんだから、ね。
王宮前広場にはすでに宴会の準備がされていた。今日ばかりは王宮の中庭までもが解放され、身分を問わずお酒と料理が振る舞われるのだ。準備段階から、料理人長が戦場に赴く騎士のような顔で仕込みをし、腕によりをかけた自慢の料理だ。
私たちが用意された席についた途端、音楽が始まった。あらゆる階層の人たちが一目見ようと押しかけて、王立騎士団には本当に頭が下がる。
人の熱気と喜びの感情に圧倒された。目の前の料理を見る暇もないくらいである。
「ヴィオレッタ様、お幸せに!」
「ミストリオス公爵家に栄光あれ!」
「新たな時代に祝福を!」
「万歳! 万歳!」
「花嫁様きれいー!」
「ドレスがお似合いです!」
わあわあわあ。私はこっそりシドに囁こうとして――おう囁き声なんか彼の耳にも私の耳にも届かないことに気づいた。陽気な音楽、歓声、早くも酔っぱらった人の笑い声、ダンスの振動。
「あのね、シド!」
「何だ!?」
「もう誰が貴族で平民かもわからないわね!」
「そうだな、全員愛しい臣民だ!」
「言えてる!」
それから私たちは衝動のままにワインのグラスを持って立ち上がった。
よりいっそう声が大きくなり、グラスを掲げた私たちにならってあちこちで乾杯が起きる。
皆笑っていた。幸せそうに。楽しそうに。
「幸せになれよー!」
はともかく、
「次世代の王子様はまだかー!?」
「いやいや王女様だろ!」
はやめてほしいけど。
料理と音楽とダンスと。
貴族席ではお父様とお母様が泣きながらワインを飲んでは乾杯していた。……しまった。我がミストリオス公爵家は酒が強くない。誰かお目付け役を付けておくんだった。
それでまたオーリンお兄様は、と探すと、すでに広場の中心でグラス片手に踊っていた。どこで覚えたのか、平民たちが大好きな腰に手を当てて足を交互に上げ下げするダンスだ。また上手なので街娘たちに囃し立てられ、たぶんあのままだと転ぶ。
まあいっか。お祝いなんだもの。
会場を見回す。
追放された日、全部失ったと思ってた。
何もしてないのに悪者にされたって思って。でも。
そんなことはなかった。私はたくさんのものをもらって、今ここにいる。これから私が返す番だ。
「ねえシド」
私は怒鳴る。彼はとろんとした紫色の目で私を見る。
「あっ、お酒飲んだわね?」
「うーん。ヴィオレッタ、君は綺麗だ」
「もう。――あのね、シド!」
「なんだなんだ、なんでも言え。何が欲しい? 全部買ってやる」
あーもう。
私は隣の席からシドの膝に乗り上げるようにして、両肩を掴み、思いっきり叫んだ。
「シド、私あなたを愛してる!! これから二人で頑張っていこうね!!」
一瞬、周囲の喧噪が消えた。
あれ? と思ったが、まあ主役なんだからみんな私たちの会話に耳を澄ませていたわけである。は、恥ずかしい。
ピュー! とバルトロメオが口笛を吹き、何故だかお父様が泣き出し、お母様が歌い出した。
オーリンは何が起きているかわからないなりに親指を突き出した拍子に転んで見えなくなり、騎士たち、貴族たち、平民たちが大笑いする。
「陛下、おめでとうございます!」
「末永くお幸せに!」
それから徐々に、皆の口上が揃っていった。
「祝福あれ」
「祝福あれ」
「祝福あれ」
そうだ。――祝福は、ある。
私たちは神様に愛されているのだ。そうではなかったらこんなハッピーエンド、迎えられるはずがない!
私は硬直したままのシドに抱き着いた。彼はぎくしゃくと私を抱きしめ返し、それからほうっと熱い息を吐いた。




