18
王宮の私室でルパート・フォン・クレシアは窓辺に立っていた。
外は曇り空だった。おどろおどろしいほどに灰色の空の元、庭の噴水がいつもより寒々しく見える。
「殿下」
背後からの声に振り返る。ジェネット伯爵である。几帳面に整えられた白髪、髭は生やしておらず抜け目ない目つきをしている。痩せた体に重厚な礫色の上着を纏った老人。
――母方の祖父であり、現在は事実上の宰相である男。
(いつも何かを計算しているように見える)
と、ルパートは思う。頭が重かった。あの日からずっとそうだ。幼い頃からの婚約者、ヴィオレッタ・ミストリオスを追放したあの日から……。
「祝典の準備は、順調に進んでおります」
「ああ」
ルパートは、短く答えた。
「日取りは月末。満月の夜と決まりました」
「あい分かった」
「殿下? お返事がお元気でないですな。何かご不満が?」
ジェネット伯爵の声が、わずかに鋭くなった。彼にとってルパートは権力の源、愛する娘が産んだ愛すべき手駒である。決して実権を渡さず飼い殺しにしなくてはならないもの。
「いや、何も」
「何事かお困りなのでしたら、このじいにすぐおっしゃってくださいませ。身を賭して殿下のご不快を取り除いて差し上げましょう」
「うん」
と、彼は言う。何か付け足さないとこの祖父はいつまでも帰らない、と気づいてルパートは呟いた。
「それでアリサが喜ぶなら、いいんだ」
ジェネット伯爵は満足げに頷き、部屋を出ていく。
やっと一人になれた。ルパートは肩の力を抜いてようやく息を吐いた。
物心ついたくらいに幼い頃のことを、ルパートはよく覚えている。王妃である母は、いつも忙しかった。政務、社交、外遊。王である父とのカードゲーム。
母に抱きしめられたことは数えるほどしかなく、手を握ってもらえたことは国民に国の後継者を見せつけるためのパレードでしかない。
「母上え、母上え」
小さな頃、何度も呼んだ。
振り返ってもらえることは、少なかった。
乳母が代わりに彼を抱き、教師が代わりに彼を教えた。だが彼らも結局は仕事でやっているだけだった。
誰もが彼に『王子』を求めた。誰も、ただのルパートを見てくれなかった。
(母上は赤子の私を、抱きもしなかった)
歩き始めても振り向いてもくれなかった。その記憶は、いつまでも消えなかった。寝付けない夜や夢の中にまで、その記憶はいつだって追いかけてきた。
……ミストリオス公爵家に招かれたとき、こんなにも仲のいい、幸せそうな貴族家があるなんて信じられなかった。
ヴィオレッタ・ミストリオスが何かを言うと、父親も母親も兄も彼女のつたない喋り方に耳を傾け、笑顔で頷いた。彼女は実の両親に愛され、抱きしめられ、キスされて育てられていた。
彼がもう少し我儘で愚かであったなら、ヴィオレッタをいじめていただろう。だが彼は王子だったから、決してそんな真似はできなかった。だってあんまりにも、惨めすぎる。ヴィオレッタをいじめることは、彼女が羨ましいと言っているようなものだから。
だからルパートはヴィオレッタに礼儀正しく接し、公爵令嬢もまたそれに同じくらいの温度で応えた。二人の幼い婚約者の仲は良好だった。彼が【宝石姫】に出会うまでは。
――学園でアリサに出会った時のことを、ルパートは鮮明に覚えている。
彼女は田舎娘らしく天真爛漫で、誰にも笑顔を振りまき、優しく接し、そして決して媚びなかった。ヴィオレッタの瞳には時折、ここでこんなことを言ったら嫌われてしまうかも……という一種の計算が見え隠れする。だがアリサにはそんなものがまったくない。
身分の高い者にも低い者にも、彼女は同じように笑いかけた。そしていつしか、ルパートにだけ特別な目を向けてくれた。
「ルパート様って、本当はすごく寂しがりなんですね」
そう言われた時、心の中のもろい部分が決壊した。
「あたし、ルパート様のことちゃんと見ててあげますねっ」
その言葉が……ずっと欲しかった言葉が、どれほど甘く心に染みたか。
誰も見てくれなかった自分を、彼女だけが見てくれる。それだけで何もかもが許せる気がした。彼女となら人生をやり直せる。そんな気持ちだった。
ヴィオレッタを断罪したことも。
ミストリオス公爵夫妻を、オーリンを投獄したことも。
すべて、アリサが望んだことだった。
すべて、アリサのためだった。
アリサさえいてくれたら。彼女が自分の隣で笑っていてくれるなら。ルパートには十分すぎるほどに十分だったのだ。
「ルパートさまあ!」
甘い声が部屋の扉から響いた。ノックもせずにアリサが軽い足取りで入ってくる。くるくるの栗色の髪に大輪の薔薇を飾り、ふわふわのドレスの裾が揺れる。
「どーしたんですか、難しい顔して」
「いや。何でもない」
「祝典のこと、考えてました?」
「……ああ」
「楽しみですねえ! あたし、ずっと考えてたんです。どんな衣装がいいかなって」
アリサは幸せそうに両手を打ち鳴らして、くるりと回って見せた。ドレスの裾に流行りのキラキラした粉がたっぷりついている。
「それでえ、ミストリオス公爵夫妻のこと、ちゃんと考えてくれましたあ?」
ルパートの肩が、わずかに跳ね上がった。――優しい両親。愛されている兄と妹。
「最初の方は処刑の時間、皆が一番盛り上がる頃にしましょう。みんなにあたしの力を、ちゃんと見せつけたいの」
「アリサ」
「だって、あの人たち、あたしを散々見下してきたんですよ。ヴィオレッタも、その両親も。あたしが何しても、そんなんカンケーないじゃんみたいな顔して無視してきて。ほんとむかつく。偉いからってふんぞり返ってるから足元掬われるのよ。プッ、ざまあ」
アリサはくしゃりと表情を歪め、それはおそらく醜いとされる歪みなのにルパートはそうは思えない。ああ、癇癪を起しそうだから慰めてやらなけりゃ……と思うばかり。
キラキラした粉の香りときらめきに、すべての感覚が引っ張られてしまう。
「やっと、王妃になれるのに。やっと、誰も逆らえない立場になれるのに。邪魔者は、全部消さなきゃっ」
ルパートはそっと彼女を抱きしめた。間近に見つめる、アリサの華やかな笑顔。すべての哀しみが溶けていく。
彼女が望むなら、それでいい。
ルパートはそう思うことで、確かに救われていた。
「ねーェ、ルパートさま」
アリサは彼の腕に自分の小さな両手を絡みつける。
「あたしのこと、好き?」
「……好きだ」
「証明してくれます? 処刑のとき、しっかり見てて。あたしの力を」
「ああ」
ルパートは頷く。
「きゃはははっ、うれしー! ぜえんぶ、全部とっちめてあげるからねえ。あなたを軽んじた家庭教師も官僚もメイドも、全部取っ払ってあげたでしょ?」
彼女はルパートの耳に口を寄せ、囁く。
「いつかあのおじいちゃん宰相も消えてもらうから。あたしがルパートを幸福にしてあげる」
「うん」
彼はアリサの栗色の髪に鼻先を埋めた。花と香水の香り、彼女自身の甘い体臭、それからその向こうに何か頭の芯をとろんとさせる香りが、ある……。
ルパートはそれに溺れた。
窓の外で雷が鳴った。曇天はいつまでも晴れなかった。




