10
彼の腰に思い切り抱きつき、そのまま二人で地面に転がった。
痛い。
でも彼の体温に安心する自分がいる。――本当に、出ていこうとしていたの? 私はあなたがいるだけでこんなに安心できるのに。
確かめたかった。私はじろりと目を開ける。
「いてっ……お嬢様、無事ですか!」
シドが私を抱きかかえるようにして、地面との間にクッションになってくれていた。彼の方がよっぽど痛いはずだ。
それでも私を気遣う声が真っ先に出るのが、なんだか余計に腹が立った。
「無事よ。怪我もしてない」
「ならよかった……って、よくないですよ! 危ないでしょう、こんな飛びつき方!」
「あなたが先に危ないことをしようとしたんでしょう!」
私は彼の上に馬乗りになり、分厚い胸板を両手でぽかぽかと叩いた。我ながらか弱い力だ。本当に怒っているなら、もっと強く叩くものだ。いくらお姫様育ちといえど、そのくらい知っている。でもできないでいる。
「どこへ行くつもりだったのよ。一人で。私を置いて」
私は彼の外套の襟を掴んだ。震える声しか出なかった。
「言いなさい、シド」
月明かりの下で、彼の紫色の目はゆらゆら揺れる。私は彼が私を誤魔化そうとする時の、あの軽薄な笑みを探したが、それはなかった。もう喉が詰まって詰まって、怒りさえ湧かない。つまり本気だったのだ。誤魔化せないくらい真摯にそうするつもりだったのだ!
「……王都に、行くつもりでした」
「何をしに?」
「お父上とお母上を、お助けに」
「私を置いて?」
「……はい」
短い返事がすとんと私の胸に落ちる。
私は彼のシャツの襟を掴んだまま、地面に座り込んだ。土埃と馬の臭いがした。舗装されていない土の地面の感触が、彼に触れていない部分からドレスではない男物のズボン越しに伝わってくる。
「なんで」
「お嬢様」
「なんでよ。一人で行ってどうするの。地下牢の警備がどれだけ厳重か、昨日の会議で散々話してたじゃない。あなた一人で何ができるの」
「俺一人なら、無理を通せます」
シドは静かに言う。目の揺らぎは収まっていた。
「お嬢様を連れていけば、守るものが二つになる。俺は両方は守れません」
私は息を止めた。
「だから置いていく気だったの?」
「はい」
「私がお荷物だから?」
「違います」
シドが急に強い声を出した。腹筋の力だけで起き上がり、私の両手首を彼の片手が包む。大きくてごつごつした手だった。剣ダコが痛い。剣を握り続けてきた手、いつも私を心配してくれた手だ。
「お嬢様がお荷物だなんて、一度も思ったことはありません」
「じゃあなんで?」
「あなたを失いたくない」
その言葉は真実なのだろう。私だってシドを失うのはいやだ。私は何も言えない。言えないことに腹が立つ。
シドはとつとつと続けた。
「俺は自分の命よりあなたの命の方が大事なんです。護衛騎士だからじゃなく、俺が俺だから。ヴィオレッタ様に生きててほしいんですよ」
「知ってるわよ、そんなこと。でも私だって同じだわ。あなたに死んでほしくないの」
「ですが」
シドは私の手首を握る力を、少しだけ強くした。
「役目としてお側にいるだけじゃなくなった時期が、ありました」
心臓が、どくんと強く高鳴った。
「いつから、とは言えません。でも、ある時から、俺はお嬢様を守ることが役目だからじゃなく、ただ、お嬢様自身を守りたいと思うようになりました」
月明かりの下で、彼の目がまっすぐに私を見ていた。ぜんぜん揺らがない紫色の目は、紫水晶に似ている。こんなに硬い、強い、まなざしを私は知らない。ああ、私ほんとうに……何も見てこなかったんだ。
「公爵令嬢としてのお嬢様じゃなくて、ヴィオレッタという一人の女性のことを、俺は守りたいと思っています」
「……シド」
「だから、王都へ行くなら、お嬢様を一番安全な場所に置いていきたかったんです。たとえ恨まれても。たとえ、二度と顔を見せられなくなっても」
「二度と、って。――死ぬ気だったの?」
シドはぎゅっと唇を引き結び、答えない。
紫色の目だけが雄弁に答えを語っていた。
「ふざけてるの?」
私は彼の胸を、今度は本気で叩いた。たぶん、今度こそ痛かったと思う。
彼は何も言わず、ただ私の拳を心配する素振りをみせた。いつだってそうだ。私が木から落ちたときも、犬に追いかけられたときも、いつだって彼がまっさきに心配してくれた。
「あなたが死んだら私はどうなるの。お父様もお母様もお兄様も、まだ助けられるかどうかも分からないのに、あなたまで失くしたら、私は」
自分で自分が何を言おうとしているのか分からなくなった。ただごうごうと胸の中で悲しみが燃えていた。頼ってもらえない悲しみ。役に立てない悲しみ。それから、――私がシドを失ったって生きていけるだろうと思っているらしい彼への、悲しみ。
「私はあなたを、家のための駒だなんて思ったことない」
私は言った。
「家族だと思ってる。お父様やお母様やお兄様と同じくらい、大事な家族だと思ってる」
シドの目がかすかに動揺する。左の目だけが見開かれ、彼は自由な片手で口元を覆った。
「ですが……それは――」
「だから一緒にいさせて。守られるだけの役じゃなくていい。足手まといだって言われてもいい。でも置いていかれるのはいや。絶対に、絶対に嫌」
私の頬を涙が滑り落ちる。こんなところを見せたいわけじゃないのに、もっと理路整然と話したいのに。くそお。
「シドが死ぬ気で何かをするなら、私もそこにいる。一人だけ安全な場所に置かれて、後であなたが帰ってこなかったなんて聞かされるのは、絶対に嫌よ」
シドは黙ったまま私が泣くのを見ていた。彼の身体は温かく、こんなときでさえ彼が私を心配して、気づかってくれているのがわかる。月明かりがこうこうと私たちを照らしていた。やがて無骨な両手が、私の頬をぐにっと挟んで涙をぬぐった。
「……敵いませんね」
彼はそう言って、小さく笑った。誤魔化したりただ動揺したりといった笑顔じゃない。はにかむような困ったような、シドってこんな顔できたんだ、と思わせるような笑みだった。
「……分かりました。一緒に行きましょう」
「本当に?」
「ええ。お嬢様には敵いません。昔からそうでした」
私はほっと肩の力を抜いた。涙はあっという間に引っ込み、今は笑い出しそうである。
「でも、約束してください」
シドは私の両手を改めて掴むと、真剣に言う。
「危ないと言ったら、すぐに従ってください。俺の指示には、必ずその場で、即座に、従ってください。あとで文句を言うのは構いませんが、絶対にその場では従ってください」
「……分かったわ」
「本当に分かりましたか?」
「分かったって言ってるでしょう」
「お嬢様の『分かった』は、『よくわかんなかった』の言い換えなんですよ」
「なにそれ、失礼ね!」
そんな言い合いをしながら、私たちは立ち上がった。ため息をついたシドは私のために馬を見繕ってくれる。出発の準備ができた頃には、月がやや傾いていた。
馬に乗る前、私は気になっていたことを口にした。
「あの。ひとつだけ、聞いていい?」
「なんでしょう」
「あなたとバルトロメオ殿、何か隠してるでしょう。さっきの会議でも、目を合わせてたし。昨日も、何か約束してたみたいだったし」
シドの肩が、わずかに揺れた。
「……それは」
「言いたくないなら、いいわ。でも、いつかは教えて」
「お嬢様」
「なに」
「これだけは、言っておきます」
シドは、馬の鞍に手をかけながら、少し考えるように間を置いた。
「アリサ・デュルマについて、頭領は何か知っています。確証はまだないようですが……俺たちが想像しているよりも、根が深い話のようです。貴族たちが誰も反対しない理由も含めて」
私は息を呑んだ。
「それって」
「すみません。今はそれ以上、お話しできません。頭領自身、確証がないことは口にしないと決めているので」
納得はできなかったけれど、それ以上は何も聞かず頷いた。
「お嬢様」
シドが手を差し出した。
「乗りましょう。夜のうちに進める分だけ進みます」
私はその手を取った。
ごつごつした、剣を握り続けてきた手だ。さっき、私の頬の涙を拭ってくれた手。
「ん。分かった」
馬に乗り、彼の背中に身を預ける。
夜風が冷たかった。でももう寒くはない。
「ねえシド」
「はい?」
「我がままを聞いてくれてありがとう」
「ええ。……俺の仕事は、お嬢様の我がままを聞くことですからね」
彼は肩をすくめる。月明かりの下、黒鷲砦の裏門を抜けて私たちは王都への道を進み始めた。




