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曖昧な記憶の、その隣で  作者: はる乃


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第七十二話 距離を取るのは

「でも。」


未来は、少しだけ言葉を止めた。


真二が顔を上げる。


「どうした?」


「今日の先輩。」


未来は、戸惑ったように眉を下げた。


「なんだか……少し、おかしいです。」


「……。」


真二の表情が固まる。


未来は慌てて首を横に振った。


「ごめんなさい。」


「変な意味じゃなくて……。」


「私が、何も覚えていないからかもしれないんですけど。」


スマートフォンを握りしめたまま。


未来は、ゆっくりと言葉を続けた。


「さっきから。」


「先輩……少し怒っているみたいで。」


「……。」


「それに。」


未来は、真二を見つめる。


「前の私は、そんなんじゃなかったって言われても。」


「私には、記憶がないから。」


真二は何も答えない。


未来の言葉を。


ただ黙って聞いていた。


「だから。」


未来は、一度だけ視線を落とした。


「先輩の知っている私と。」


「今の私を。」


「同じように考えないでほしいんです。」


「……未来。」


「思い出す努力はします。」


未来は静かに続ける。


「でも。」


「先生も、一生思い出せない可能性があるって言ってました。」


その言葉に。


真二の指先が、わずかに動いた。


「……。」


「先輩とのことも。」


「美香ちゃんとのことも。」


「彬とのことも。」


未来は、自分の胸元にそっと手を当てる。


「この二年間のことは。」


「私は何も覚えていません。」


「だから。」


少しだけ不安そうに。


けれど。


未来は真二をまっすぐ見つめた。


「これからの私を。」


「ちゃんと尊重してほしいです。」


「……駄目ですか?」


真二の目が揺れる。


「未来。」


低い声で。


真二が呟いた。


「俺は。」


少し間を置いて。


「過去の未来の気持ちも。」


「もっと尊重するべきだと思う。」


未来は、ゆっくりと目を瞬かせた。


「……過去の私。」


「ああ。」


真二は、小さく笑った。


「二年間の未来は。」


「俺から見たら。」


「誰に対しても優しくて。」


「すごく責任感のある女だった。」


未来は黙って聞いている。


「この半年。」


「難しい案件を、一人で背負って。」


「最後まで諦めずに。」


「自分で勝ち取ってきた。」


「あの契約だって。」


「未来がいなかったら、取れなかった。」


「……。」


「俺が熱を出した時も。」


「仕事がうまくいかなくて落ち込んでいた時も。」


真二は、少しだけ懐かしそうに笑う。


「いつも話を聞いてくれた。」


「夜遅くまで。」


「未来の得意な海老マヨを食べながら。」


「ビールを飲んで。」


「くだらない話をして。」


「……。」


未来の目が、わずかに揺れる。


「そんな時間も。」


「未来は覚えてないんだよな。」


真二の声が。


少しだけ掠れた。


「だからって。」


「全部なかったことになんて。」


「俺には、できない。」


未来は、しばらく黙っていた。


そして。


ゆっくりと口を開く。


「……彬との思い出の品。」


真二が顔を上げる。


「私の部屋に。」


「一つもありませんでした。」


「……。」


「彬に聞いても。」


「カップルらしい思い出は。」


「ほとんど、ないって。」


未来は小さく笑った。


けれど。


その笑顔は、どこか寂しそうだった。


「だから。」


「きっと。」


「この二年間の私は。」


「彬のことを放っておいて。」


「先輩と仕事ばかりしていたんですよね。」


「……未来。」


「美香ちゃんも。」


未来は続ける。


「どんな気持ちで。」


「私と先輩の関係を見ていたんだろうって。」


真二の表情が固まる。


「先輩と私。」


「仕事帰りに二人で食事をして。」


「休日にも会って。」


「こんな場所にも来て。」


未来は、ゆっくりと店内を見渡した。


「もし。」


「美香ちゃんに。」


「先輩以外に、そんな相手がいたら。」


未来は、真二を見る。


「先輩だって。」


「嫌じゃないですか?」


「……。」


真二は答えられない。


「だから。」


未来は、少しだけ笑った。


「私たち。」


「お互いに、ちゃんと距離を考えた方がいいと思うんです。」


「……。」


「私が覚えていない二年間。」


「彬のことを放っておいて。」


「先輩と仕事のことばかりで。」


「そんな自分のことを。」


未来は少し俯いた。


「……正直。」


「今の私は。」


「思い出したいって思えないんです。」


真二の目が、わずかに見開かれる。


「でも。」


未来は顔を上げる。


「先輩には。」


「きっと、たくさん助けてもらっていたんですよね。」


「だから。」


「感謝していたと思います。」


未来は。


優しく笑った。


「でも、これからは。」


「お互いの大切な人を。」


「ちゃんと大切にしませんか?」


静かな沈黙が落ちる。


真二は。


未来を見つめたまま。


何も言わなかった。


――今の私。


その言葉が。


真二の胸に深く刺さる。


今の未来は。


自分の知っている未来ではない。


いや。


違う。


未来は未来だ。


ただ。


自分が知っていた未来の記憶を。


すべて失っている。


そして。


その空白の中に。


彬がいる。


自分ではなく。


今の未来が。


一番安心している場所に。


彬がいる。


真二は。


ゆっくりと息を吐いた。


「……全部。」


未来が顔を上げる。


「え?」


真二は、苦しそうに笑った。


「全部、違うんだよ。」


「先輩……?」


「未来は。」


真二は、ゆっくりと目を伏せる。


「何も。」


「何一つ、分かってないんだよな。」


未来は不思議そうに首を傾げた。


「……分かってない?」


「ああ。」


真二は。


窓の外に広がる夜景を見る。


「お前が。」


「どうして、ここに俺と来ていたのかも。」


「どうして。」


「俺が、美香のことを関係ないって言ったのかも。」


未来の表情が、少しだけ強張る。


「……先輩。」


真二は。


唇を噛みしめた。


言えばいい。


たった一言。


――俺たちは恋人だった。


そう言えばいいだけだ。


けれど。


その瞬間。


頭の中に。


別の光景が浮かんだ。


美香。


そして。


あの日の未来。


自分が。


未来を傷つけた。


その事実だけは。


消えることなんてない。


「……いや。」


真二は、小さく首を横に振った。


「何でもない。」


未来は。


納得できないような表情で真二を見つめる。


「でも。」


真二は、ゆっくりと笑った。


「未来の言うことも。」


「間違ってないのかもしれないな。」


「……え?」


「今の未来を。」


「ちゃんと見ないといけない。」


その言葉は。


まるで自分自身に言い聞かせているようだった。


「彬が待ってるんだろ?」


未来の表情が、少し明るくなる。


「はい。」


その笑顔を見て。


真二は。


胸の奥が痛むのを感じた。


「連絡してやれ。」


「……はい。」


未来はスマートフォンを手に取る。


その姿を。


真二は静かに見つめていた。


――今さら。


何を言えばいい。


恋人だったと告げれば。


未来は。


自分を選んでくれるのか。


それとも。


すべてを思い出した時。


自分を憎むのか。


「……。」


真二は。


グラスに残ったワインへ視線を落とした。


そして。


誰にも聞こえないほど小さな声で呟いた。


「本当に。」


「何も分かってないのは。」


「……俺の方かもしれないな。」

ここまで、お読み下さりありがとうございます!


真二の戸惑いと、未来の中でのケジメをつけようとしていますが。

この先、どうするのでしょうか?


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