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曖昧な記憶の、その隣で  作者: はる乃


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第六十九話 揺れる感情

昼休み。


未来のデスクの周りには、いつの間にか何人もの社員が集まっていた。


「未来先輩。」


一人の後輩が、明るい声で笑う。


「記憶はなくしてても……仕事は全然問題ないじゃないですか!」


「そうですよ!」


別の社員も頷く。


「午前中も、資料の内容とかすぐ理解してましたし。」


「分からないところは聞いてくれるから、逆に前より話しかけやすいくらいです!」


未来は困ったように笑った。


「でも、皆が教えてくれるからだよ。」


「一人だったら、きっと何もできなかったと思う。」


「そんなことないですよ。」


「未来先輩、元々仕事できるじゃないですか。」


「そうそう。」


「取引先には、未来先輩が記憶をなくしていることも伝えながら、これから対応していけばいいと思います。」


「皆でフォローしますから!」


「……ありがとう。」


未来は、嬉しそうに笑った。


以前の自分が。


どれだけ周囲の人たちと関わっていたのか。


少しずつ分かってきた気がする。


その様子を。


少し離れた席から、美香は黙って見ていた。


楽しそうに笑う未来。


未来の周りに集まる社員たち。


そして。


当たり前のように未来を心配し、支えようとする後輩たち。


(……また。)


美香は小さく眉を寄せる。


(どうして、こんな状況になってまで。)


(みんな、未来の周りに集まるのよ。)


記憶をなくした。


仕事も以前のようにはできない。


普通なら、不安になって。


周囲に迷惑をかけることを申し訳なく思うはずなのに。


それでも。


未来の周りには、人がいる。


(……本当に、嫌。)


美香は、手元の資料を強く握りしめた。


そして。


「未来。」


突然、美香の声が響いた。


未来が振り返る。


「ん?」


「午後から、Jスペースさんとの打ち合わせよね?」


美香は、少しだけ眉を寄せる。


「資料、ちゃんとできてるの?」


未来は一瞬、目を丸くした。


「あ!」


「ごめんね、美香ちゃん。」


「渡しそびれてたけど、ちゃんとできてるよ!」


未来は慌ててデスクの上に置いていた資料を取り出す。


「確認してみてくれる?」


美香は資料を受け取る。


「……。」


ぱらぱらとページをめくる。


そこにいた後輩の一人が、美香の顔を見る。


「美香先輩。」


「何?」


「未来先輩、今日復帰したばかりじゃないですか。」


「そんなに厳しく言わなくても……。」


その言葉に。


美香の表情が、少しだけ変わった。


「塚田さん。」


「はい。」


「仕事は、遊び場じゃないのよ。」


周囲の空気が、一瞬静かになる。


「復帰したばかりだからって。」


「取引先が、こちらの事情を全部考慮してくれるわけじゃないでしょう?」


「それは……。」


塚田は言葉に詰まる。


美香は未来の手元にある資料を見る。


「未来が記憶をなくしていることは、私だって分かってる。」


「だからって、仕事まで特別扱いするつもりはないわ。」


「……。」


「午後の打ち合わせは、会社としての仕事よ。」


「もし資料に不備があったら、困るのは未来だけじゃない。」


「取引先にも、会社にも迷惑がかかる。」


美香の言葉は。


一見、間違ってはいなかった。


けれど。


その声には、どこか冷たいものがあった。


未来は、美香を見つめる。


「……うん。」


そして、小さく笑った。


「美香ちゃんの言う通りだね。」


「え……。」


塚田が未来を見る。


未来は美香から資料を受け取る。


「私、まだ皆のことも。」


「前の自分が、どんな仕事をしていたのかも、全部は分かってないから。」


「だから。」


未来は、少しだけ申し訳なさそうに笑う。


「もし間違ってるところがあったら、ちゃんと教えてほしい。」


美香は、一瞬だけ言葉を失った。


「……。」


「美香ちゃんは。」


未来が続ける。


「私のこと、よく知ってるんだよね?」


その言葉に。


美香の指が、わずかに動いた。


「……そうね。」


「高校の頃から。」


「ずっと一緒だったから。」


未来は、嬉しそうに笑う。


「そっか。」


「じゃあ、これからいろいろ教えてね。」


「……。」


美香は、何も答えられなかった。


未来は。


自分がどんなことをされているのかも知らない。


美香が。


どれほど自分を嫌っているのかも。


知らない。


ただ。


昔からの友達だと信じて。


当たり前のように、笑いかけてくる。


(……本当に。)


美香は視線を逸らした。


(そういうところが、嫌いなのよ。)


「……資料、確認しておく。」


「うん!お願い!」


未来が笑う。


その笑顔に。


美香は、ますます苛立ちを募らせていった。


そして。


その一部始終を。


少し離れた場所から、真二が見ていた。


未来が、美香に対しても以前と変わらないように笑ったこと。


(……未来は。)


真二は、静かに未来を見つめる。


(本当に、記憶がないんだ。)


未来にとって。


真二は、ただの会社の先輩。


美香は、高校時代からの友達。


そして。


この二年間。


自分たちが恋人として過ごしてきた時間は。


未来の中から、すっかり消えてしまっている。


(俺と未来が付き合っていたことも。)


(婚約していたことも。)


(何も覚えていない。)


当たり前のように存在していたはずの関係が。


未来の中では、最初からなかったことになっている。


それが。


急に怖くなった。


(……このまま。)


(もし、未来が記憶を取り戻さなかったら?)


二年間。


未来と一緒にいた。


未来は自分を好きでいてくれた。


自分も。


未来と結婚するつもりだった。


なのに。


今の未来は。


自分を見ても。


恋人を見るような顔はしない。


ただ。


「先輩」と呼んで。


少しだけ距離を置いている。


その距離が。


真二には、ひどく遠く感じられた。


(このまま……。)


(俺たちの関係が、本当になかったことにされたら。)


胸の奥が、ざわつく。


未来にとって。


この二年間は、存在しない。


けれど。


真二にとっては違う。


未来と過ごした五年間。


そして。


恋人として過ごした二年間。


それらがすべて。


未来の中から消えてしまうかもしれない。


(……嫌だ。)


その感情が。


初めて、はっきりと胸の奥に浮かんだ。


(俺は……。)


(未来を失いたくない。)


けれど。


その言葉を。


未来に伝える資格が、自分にあるのか。


真二にはもう、分からなかった。


美香と関係を持ちながら。


未来には何も知らない顔をして。


それでも。


記憶が戻れば、きっと自分を許してくれると。


どこかで勝手に思っていた。


けれど。


もし。


未来が記憶を取り戻さなかったら。


もし。


今の未来が。


彬の隣で笑うことを選んだら。


(……俺は。)


真二は、無意識に拳を握りしめる。


(俺は、何もなかったことにできるのか?)


答えは。


考えるまでもなかった。


出来るはずがない。


未来を失ってから。


ようやく。


真二は気づき始めていた。


自分にとって未来が。


どれほど大きな存在だったのかを。

いよいよ。

真二が自分の気持ちに気付きましたね。

美香との関係を考えても、とても複雑化していますが、

どうするのでしょうか?

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