第六十六話 もしも戻れるのなら
深夜。
隣では、未来が静かな寝息を立てている。
彬はしばらく、その寝顔を眺めていた。
そして、そっと手を伸ばす。
未来の髪を、優しく撫でる。
「……。」
小さく息を吐く。
「こんなの……生殺しだろー。」
もちろん、未来に聞こえるはずはない。
それでも、言わずにはいられなかった。
本当の彼氏だったら。
どれだけ良かっただろう。
今みたいに、抱きしめることを躊躇うこともない。
好きだと伝えることも。
触れることも。
未来の隣にいることも。
全部、当たり前だったはずなのに。
「……未来。」
眠っている未来の髪を、もう一度そっと撫でる。
(もし……。)
(このまま、未来が何も思い出さなかったら。)
(このまま俺と一緒にいたら。)
(俺のことを……好きになってくれるのかな。)
そんな考えが浮かんでしまう。
けれど。
その次には、必ず別の疑問が浮かぶ。
(もし、思い出したら?)
(未来は……真二を受け入れるのかな。)
二年間の記憶を取り戻して。
真二との恋人としての日々を思い出して。
そして。
美香とのことを知っても。
真二を許すのだろうか。
彬は眉を寄せる。
(俺だったら……。)
(絶対に、未来を悲しませたりしないのに。)
眠る未来を見つめながら。
彬は、ふっと遠い記憶へと思いを馳せた。
自分が未来を好きになったのは――。
未来が大学に入学して、まだ数日の頃だった。
きっかけは、本当に些細なものだった。
同じ高校だった後輩たちが、
「可愛い子が入ってきた。」
「先輩、知ってます?」
そんな話をしていた。
最初は、ただそれだけだった。
どんな子なのか。
少し気になった。
そして、ある日。
彬が所属していたサークルに、その女の子が入ってきた。
それが未来だった。
第一印象は――。
可愛い。
子猫みたいな。
思わず手を差し伸べたくなるような、どこか放っておけない雰囲気。
けれど、その見た目とは少し違っていた。
未来は、とても親しみやすく。
サバサバしていて。
化粧っ気はほとんどなく。
服装も、カジュアルなスタイルだった。
いわゆる、男受けを狙ったようなタイプではなかった。
後輩たちに半ば強引に連れてこられたらしく。
最初は少し戸惑ったように、周囲を見回していた。
けれど。
サークルの活動が始まると。
未来は、すぐに周囲に馴染んでいった。
そこは、ボランティアを主に活動するサークルだった。
施設の子どもたち。
地域のお年寄り。
未来は、相手によって態度を変えなかった。
小さな子どもにも。
お年寄りにも。
誰に対しても。
同じように笑って。
同じように優しく接していた。
それが、彬には不思議だった。
(……この子、誰にでも優しいんだな。)
そして。
ある日のこと。
施設の子どもたちを喜ばせようと、彬はバルーンアートを披露することになった。
ところが。
「……あ。」
当日。
肝心のバルーンを忘れた。
「やば……。」
頭が真っ白になる。
子どもたちは、すでに楽しみにして待っている。
どうしよう。
そう思った、その時だった。
「じゃあ、私が時間を稼ぎます。」
未来が、何でもないように言った。
「え?」
「手遊び歌ならできます。」
「彬先輩、取りに戻れますか?」
「あ、ああ。」
未来はすぐに子どもたちの前に立った。
「みんな、一緒にやろう!」
明るい声。
子どもたちの目が、一斉に未来へ向く。
歌って。
笑って。
手を叩いて。
未来は、彬が戻ってくるまでの間、ずっと場を繋いでくれた。
そして。
彬が戻ってくると。
「待たせた!」
未来が振り返る。
「バルーンは見つかった?」
「……ああ。」
「良かった。」
未来は、ほっとしたように笑った。
その笑顔を見た瞬間。
彬の胸が、妙に大きく鳴った。
たぶん。
あの時だった。
自分でも気づかないうちに。
未来を特別な目で見るようになったのは。
それなのに――。
初めての恋だった。
どうしていいのか分からなかった。
好きになればなるほど。
近づきたくなる。
でも。
恥ずかしい。
自分の気持ちを知られるのが怖い。
だから。
「お前、鈍すぎ。」
「ほんと要領悪いよな。」
「そんなことも分からないのかよ。」
いつも。
口から出るのは、優しい言葉ではなかった。
意地悪なことばかり。
未来が困った顔をすると。
もっと構いたくなった。
未来が自分以外の男と話していると。
なぜか腹が立った。
小さな頃から女の子にモテてきたものの。
自分から好きになったのは、初めてだった。
だからこそ。
自分でも、どうしていいのか分からなかった。
ある日。
未来に、ぽつりと言われた。
「彬先輩に嫌われるようなこと、私なにかしましたか?」
その言葉を聞いた瞬間。
何も言えなくなった。
本当は。
好きだった。
誰よりも。
ずっと。
でも。
あの頃の俺は。
「好き」の伝え方なんて知らなかった。
だから。
好きになればなるほど。
未来を困らせるようなことばかりしていた。
彬は、眠っている未来を見つめる。
そして、小さく笑った。
「……馬鹿だったな、俺。」
あの頃の自分に。
もし一つだけ言えるなら。
もっと素直になれ。
もっと大切にしろ。
もっと早く――。
「好きだって、言えばよかった。」
眠っている未来には届かない。
それでも。
彬は、そっとその髪を撫でる。
「……今度こそ。」
「もう、間違えたくない。」
しばらく、未来の寝顔を見つめる。
そして。
彬はふと、目を伏せた。
(でも……。)
(今の俺は、何なんだろうな。)
恋人のふりをして。
同じ家で暮らして。
こうして未来を抱きしめている。
それなのに。
本当の恋人ではない。
未来の記憶が戻れば。
この時間は、終わってしまう。
彬は、眠る未来の手をそっと握った。
(それでも……。)
(親友の彼女だった女を。)
(俺は、今でもこんなに好きで。)
(……望んでいい願いなのか。)
胸の奥に浮かんだ問いに。
答えを出せるはずもなかった。
ただ。
今夜だけは。
未来の隣にいられることを。
静かに噛みしめていた。
ここまで読んで下さり
ありがとうございます!
最後の夜は、2人素直に過ごせて良かったですね!




