第六十五話 許されるのなら
「未来、おやすみ。」
「明日の朝、7時15分に迎えに行くから。」
「うん。」
未来は玄関の前で小さく頷いた。
「彬。」
「ん?」
「いろいろありがとう。」
「引っ越しも手伝ってくれたし。」
「今日まで、ずっと一緒だったから……。」
未来は少しだけ寂しそうに笑う。
「バイバイって……なんか、寂しいね。」
「……。」
彬は一瞬、言葉を失った。
そして、困ったように笑う。
「もー!」
「お前なぁ……。」
「こっちは、ずっと我慢してるのに。」
「え?」
未来が目を瞬かせる。
彬は少し照れくさそうに頭を掻いた。
「そんなこと言うなら……。」
「今日まで俺ん家に泊まっていけよ。」
「……え?」
未来の頬が、みるみる赤くなる。
「でも……。」
「明日から会社なんだろ?」
「そうだけど……。」
「だったら、今夜くらい一緒に寝てもいいだろ。」
彬はそう言ってから、ふっと笑った。
「別に、何もしないから。」
「……本当に?」
「本当。」
「未来が嫌がることはしない。」
未来はしばらく彬を見つめる。
そして――。
小さく笑った。
「……じゃあ。」
「お言葉に甘えようかな。」
「……。」
彬の表情が固まる。
「おい。」
「何?」
「それ、俺が一番困るやつだぞ。」
「え?」
「……何でもない。」
彬は顔を逸らした。
未来はそんな彬を見て、くすっと笑う。
「じゃあ、彬の家に戻ろう。」
「……ああ。」
彬は未来の着替えと荷物を持ち直す。
二人は並んで歩き出した。
未来はふと、彬の隣を見る。
明日からは、この人の家ではなく、自分の部屋で眠る。
それが当たり前のことなのに。
なぜか、少しだけ寂しい。
そして――。
今夜だけでも、もう少し一緒にいられることが。
嬉しかった。
彬もまた、何も言わずに歩きながら思う。
(……明日からは、本当に別々なんだな。)
(たった数日、一緒にいただけなのに。)
(こんなに寂しくなるなんて。)
けれど。
隣を歩く未来の手が、そっと自分の手に触れる。
彬は一瞬だけ驚いた。
そして、その手を静かに握り返した。
今夜だけは。
もう少しだけ。
この時間を、二人のものにしてもいい気がした。
そして、彬の家に着くと。
引っ越しなんて、なかったかのように。
二人のいつもの時間が流れていった。
それぞれお風呂に入り。
くだらない話をして。
明日からの仕事のことを話して。
いつものように笑う。
けれど――。
夜が深くなり、寝室へ向かう時。
二人の足が、同時に止まった。
未来が、そっと彬を見る。
「……本当に、今日は一緒に寝てくれるの?何もしないの?」
彬は苦笑する。
「しない。」
「約束しただろ。」
「……そっか。」
未来は少しだけ寂しそうに笑う。
そして、布団に入る。
彬も少し離れて横になる。
同じベッド。
それだけなのに。
二人とも、なかなか眠れなかった。
しばらくして。
未来が小さな声で呟く。
「……彬。」
「ん?」
「おやすみ。」
「……ああ。」
「おやすみ、未来。」
暗闇の中。
二人は少しだけ離れたまま、目を閉じる。
未来は、自分の隣にある温もりを感じながら思った。
(明日からは、一人で眠るんだ……。)
そう思うと。
やっぱり、少し寂しかった。
そして彬もまた。
(これが最後かもしれない。)
そんなことを考えてしまう。
記憶が戻れば。
未来は、真二のもとへ戻るのかもしれない。
それでも――。
今夜だけは。
未来が自分の隣にいる。
そのことだけで、十分だった。
彬はしばらく迷ったあと。
未来の背中を、そっと包み込むように抱きしめた。
「……。」
未来の身体が、ほんの少しだけ強張る。
けれど。
嫌ではなかった。
むしろ――。
胸の奥に、ほっとするような温かさが広がっていく。
やがて、未来のうなじに。
彬の唇が、そっと触れた。
それ以上は何もしない。
ただ、確かめるような優しいキスだった。
未来はしばらく黙っていた。
そして、勇気を出すように身体を反転させる。
彬と向き合う。
近すぎる距離に、二人の視線が重なった。
未来は少しだけ頬を赤くしながら。
今度は自分から、彬を強く抱きしめ返した。
「……未来。」
彬の声が、少し震える。
「何もしないから。」
「……うん。」
「抱きしめながら、眠りについてもいいかな?」
未来は彬の胸に顔を埋める。
そして、小さく頷いた。
「うん。」
「そうして欲しい。」
彬は目を閉じた。
強く抱きしめるのではなく。
壊れ物を扱うように、優しく未来を抱きしめる。
未来もまた、その腕の中で目を閉じた。
記憶にはない。
それでも。
この温もりだけは、どこか懐かしい気がした。
二人は何も言わず。
ただ互いの体温を感じながら、静かに夜を過ごした。
彬にとっては――。
ずっと夢にまで見た時間。
未来にとっては――。
記憶にはないはずなのに、なぜか心が安らぐ時間だった。
両思い確定なのですが、
未来が真実を知った時に。
気持ちは、どちらに向くのでしょうか?
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