第六十話 今の私と過去の私
「俺は、お前と結婚するまで手を出さないって約束したんだよ。」
「え……?」
未来は驚いたように目を見開く。
彬は少し照れくさそうに視線を逸らした。
「俺にとって、お前は特別で大切だから。」
「だから、結婚するまでは……って。」
「……。」
未来はしばらく黙っていた。
そして、少しだけ困ったように笑う。
「過去の私は……。」
「それを聞いて、喜んだの?」
「……。」
彬は答えなかった。
その沈黙が、何よりの答えのように思えた。
未来は自分の胸に手を当てる。
「過去の私のことは、まだ分からない。」
「どんな気持ちで彬と付き合っていたのかも。」
「本当に、同じように大切に思っていたのかも。」
彬は黙って未来を見つめる。
未来は少しだけ頬を赤くしながら、
それでも真っ直ぐに彬を見る。
「でも……。」
「今の私は。」
一度、言葉を飲み込む。
それから、ゆっくり続けた。
「彬と手を繋いだり。」
「抱きしめてもらったり。」
「キスしたり……。」
未来は恥ずかしそうに俯く。
「その先のことも。」
「……してみたいって思ってる。」
彬の表情が固まった。
「未来……。」
「変かな?」
「記憶がないのに。」
未来は小さく首を振る。
「分からない。」
「でも、彬と一緒にいると安心する。」
「もっと近くにいたいって思う。」
「それが、記憶が戻ってない今の私の気持ち。」
彬はしばらく何も言えなかった。
胸の奥に、押し込めていた想いが一気に溢れそうになる。
抱きしめたい。
触れたい。
それでも、必死にその衝動を抑える。
「……未来。」
彬は静かに息を吐いた。
「俺は、お前の今の気持ちを利用したくない。」
「利用なんて……。」
「今のお前は、記憶がない。」
「だからこそ、俺は慎重にならなきゃいけない。」
未来は黙って彬を見る。
「それに。」
彬は少しだけ苦笑した。
「未来が弱ってる時につけ込んでるみたいで、
フェアじゃない気がするんだ。」
「記憶が戻っても、同じことを言ってくれるのか……。」
「俺には、それが分からない。」
「……。」
「いつか全部思い出して。」
「それでも同じことを言ってくれたら。」
彬は未来の目を真っ直ぐ見つめた。
「その時は、俺も逃げない。」
未来の胸が、どくんと鳴った。
「……過去を思い出せなかったら、どうするの?」
彬が僅かに眉を寄せる。
「今の私の答えだけじゃ、足りないのかな?」
未来は少し寂しそうに笑った。
「私は今、彬ともっと近くなりたいって思ってる。」
「それじゃ……駄目?」
彬は言葉を失う。
しばらく未来を見つめたあと、
観念したように小さく息を吐いた。
「……未来。」
「じゃあ……。」
未来は少しだけ笑う。
「覚えててね。」
「何を?」
「全部思い出したら。」
未来は照れながら、彬を見上げる。
「もう一度、同じことを言うから。」
彬は一瞬だけ目を伏せる。
「……分かった。」
「その日まで、待ってる。」
「はい。」
未来が小さく頷いた、その瞬間――。
彬は伸ばした手で未来の手をそっと握った。
そして、そのまま引き寄せる。
「え……?」
次の瞬間。
未来の身体が、彬の腕の中にすっぽりと収まった。
「……彬?」
強く抱きしめられて、未来は驚いたように目を見開く。
彬の腕には、今まで感じたことのないほどの力が込められていた。
「ちょっと……。」
「言ってることと違うじゃん……。」
未来が小さく笑う。
彬は未来の肩に顔を埋めるようにして、低く呟いた。
「……分かってる。」
「でも。」
腕の力が、ほんの少しだけ強くなる。
「未来。」
「愛してる。」
「……。」
「今だけは……許して。」
未来の胸が大きく鳴った。
「……うん。」
小さく返事をすると、未来もそっと彬の背中に腕を回す。
記憶にはない。
それでも。
この腕の中にいることが、
どうしようもなく心地よかった。
彬は目を閉じる。
(……無防備すぎるんだよ。)
(俺だって、本当はキスしたい。)
(もっと抱きしめたい。)
(もっと、未来を近くに感じたい。)
けれど――。
今の未来は、何も知らない。
自分たちがどんな関係だったのかも。
過去にどんな時間を過ごしてきたのかも。
だからこそ、これ以上は望んではいけない。
(今は……これだけでいい。)
(これだけで、十分だ。)
腕の中の未来を、もう一度だけ強く抱きしめる。
そして、胸の奥で自分に問いかける。
(親友の恋人を。)
(こんなふうに抱きしめて。)
(もっとそばにいてほしいなんて……。)
(俺が、望んでいい願いなのか?)
答えは、分からなかった。
ただ今は。
未来が自分の腕の中で安心している。
そのことだけで、十分だった。
事情を知らない未来にとったら。
とても歯痒い関係に感じてしまいそうですね。
今の私は彬。過去の私は真二を思っています。
今後、記憶が戻るのか戻った後に、どんな答えを出すのか気になる方はフォローして貰えると嬉しいです。




