072_聖女、廃業>>
蒸気機関の事故から、三週間が経った。
慌ただしい三週間だった。蒸気機関は安全設計の見直しのため停止され、まる助さんの能力強化の件も、学院と商会の中で静かに受け入れられていった。最初こそ噂は走ったけれど、ベルザさんの一言が効いたのか、一週間もすると「前から知っていた」という顔をする人が増えた。
人は、案外たくましい。
学院の医務室に寄ると、火傷を負った三人の学生は、もう包帯も取れていた。腕に薄い痕は残っているが、動きに支障はない。私の治癒と、学院の医療班が調合した薬草膏がうまく効いたのだろう。
「聖女様、ありがとうございました」
一番年下の学生が、頭を下げた。その隣で、年長の学生が笑っている。
「こいつ、退院した翌日に実験棟へ戻ろうとして、トビアスさんに怒られたんです」
「……まだ早いですよ」
私が言うと、年下の学生が少しだけ頬を膨らませた。
「でも、蒸気機関の安全弁、新しい設計が始まってるんです。見たいじゃないですか」
この子たちは、怖くないのだろうか。蒸気に焼かれたばかりなのに。
(……いいえ。怖いはず)
それでも戻りたいと思えるのは、学ぶことが楽しいからだ。
少しだけ、羨ましかった。
ーーー
医務室を出ると、渡り廊下の向こうに二つの背中が見えた。
まる助さんとウォーダさん。実験棟の前で立ち話をしている。
足を止めた。聞くつもりはなかった。でも、声が届いた。
「……急ぎすぎた。でも、仕方がない」
ウォーダさんの声だった。短かった。それだけだった。
「知ってた。お前が止まれないことも」
まる助さんの声も短かった。
二人の間に沈黙が落ちる。長い沈黙ではなかった。二秒か三秒。それだけで十分だったらしい。ウォーダさんが実験棟の扉を開け、まる助さんがその後に続いた。
(……あの二人は、あれで和解したのかしら)
たぶん、そうだ。あの二人はいつもそうだ。言葉は少ない。でも、通じている。
ーーー
翌週、私は辺境の診療所にいた。
オルデストから馬車で二日。セドラという小さな村。電灯はまだ一本しかないが、診療所の中は明るかった。
「聖女様、お越しいただきありがとうございます」
出迎えてくれたのは、若い女性だった。名前はリタ。まだ二十歳前後に見えるが、白い前掛けには薬草の染みがついている。何度も洗い、何度も使った前掛けだった。
神殿がこの村で医療教育を始めて、半年。リタはその最初の受け手の一人だと聞いている。もとは村の雑貨屋の娘で、去年までは傷病人が出ても水を運ぶくらいしかできなかったらしい。今は診療所を任されている。
「診療所の様子を見せていただけますか」
「はい。こちらです」
リタに案内されて中へ入る。
小さな部屋だった。棚には薬草の瓶が並び、煎じ方の手順が壁に貼られている。神殿から配られた手引きは、角が擦り切れるまで使い込まれていた。
「先週、農夫が鎌で脚を切りました。出血がひどくて——」
「治癒の奇跡を?」
「いいえ。止血帯と圧迫で止めました。傷口を煮沸した布で覆って、薬草膏を塗りました。三日で歩けるようになりました」
リタの声は淡々としていた。特別なことをした、という響きはない。当たり前のこととして処置をして、当たり前のこととして治した、という声だった。
「聖女様のおかげです」
「……私の?」
「あなたが神殿を動かしてくださったからです。前は、軽い怪我でも神官を待つしかありませんでした。でも今は、私たちが先に手当できます」
リタが頭を下げた。
私は微笑んだ。微笑みながら、胸の奥で何かが静かにほどけていくのを感じていた。
止血も、消毒も、薬草の調合も、もうこの村では村の人の手で行われている。治癒の奇跡がなくても、人は人を助けられる。
(私だけを待つ村では、なくなりつつある)
それを寂しいと思うかもしれない。でも、私はずっとこれを望んでいた。奇跡に頼らなくても、人が人を救える世界を。あの渓谷の救護テントで、兵士の手を握りながら願ったことを。
「リタさん。一つ聞いてもいいですか」
「はい」
「もし今、治癒の奇跡を使う聖女がこの村に常駐したら、どうなると思いますか」
リタは少し考えて、首を傾げた。
「……助かる人は増えると思います。でも、村の人たちが自分で傷の手当をしなくなるかもしれません。聖女様に診てもらえばいい、と」
私は小さく笑った。
「そうですね」
それでいい場面もある。けれど、それだけの世界には戻したくなかった。
診療所を出て、村の井戸端に腰を下ろす。タブレットを取り出して、画面を見る。
帰恩の色が変わっていた。
イエローから、グリーンに。
涙は出なかった。代わりに、深く息を吐いた。空が高かった。
帰恩は、「この世界に何を返したか」を測る指標だと思っている。私が返したのは、奇跡そのものではない。奇跡がなくても命をつなげる仕組みだった。
——それを、この世界は認めてくれたのだ。
ーーー
オルデストへ戻ると、学院が騒がしかった。
講義棟の前に人だかりができている。学生たちが何かを囲んで覗き込んでいた。
人垣をかき分けて中へ入ると——まる助さんとウォーダさんが、大きな木製の箱の前に座っていた。
棚ほどの大きさ。側面から銅線が何本も伸びている。内部にはガラスの管が何十本も並んでいた。管の中は空で、それぞれが淡く光っている。近づくだけで頬に熱を感じた。
「ウォーダさん、これは?」
「真空管だ。ガラス管の中の空気を抜いて、電気信号を増幅し、切り替える。電動ポンプが実用になったおかげで、ようやく真空引きができるようになった」
ウォーダさんの声が、かすかに震えていた。
「こいつを使って計算機を作った。四桁の掛け算を、一秒で解く」
まる助さんが、真空管の一本を指さした。管の中で光が明滅している。
「人間が筆算でやれば何分もかかる計算が、一瞬で終わる。しかもこの箱は疲れない。同じ条件なら、何千回やっても同じ答えを返す」
周囲の学生たちがざわめいた。一人の学生が、恐る恐る手を挙げる。
「……もっと難しい計算もできるんですか」
ウォーダさんが頷いた。
「真空管の数を増やせば、もっと複雑な計算ができる。今はまだ三十本だが、百本、千本と増やしていけば——」
そこで言葉が切れた。
その先にあるものを、この人は知っているのだと思った。理論が頭の中にある人。だから震えている。最初の一歩が、どれだけ遠くまで続く道の始まりなのか、分かっているから。
まる助さんが静かに言った。
「最初の一歩です。でも、一歩があれば次がある」
二人は箱を見つめていた。淡く光る真空管を。
私はその横顔を見ていた。学生たちの歓声の中で、二人だけが静かだった。始まりの重さを知っている人の顔だった。
ーーー
夕方、学院の中庭で、見慣れない光景があった。
白髪の老人が、学生たちに囲まれている。
ヨルグさんだった。ろうそく職人の。
「——蝋の温度管理は目じゃない。手だ。手で触って、指に残る膜の厚さで判断する。お前たちは温度計に頼りすぎだ」
学生たちがノートに書き込んでいる。ヨルグさんの手が、蝋の塊を薄く削って見せた。五十年の手つきだった。
まる助さんが中庭の柱に背を預け、それを見ていた。
「化学科の学生に、蝋の扱い方を一度見せてほしいと頼みました」
私が隣に立つと、まる助さんが言った。
「ヨルグさんは、何と?」
「最初は断られました。『蝋燭屋が学院で何を教えるんだ』と」
まる助さんが少し間を置く。
「『あなたの手の話を聞きたがっている学生がいる』と言ったら、翌日来ました。何も言わずに」
中庭では、ヨルグさんが学生の手元を覗き込み、眉をひそめていた。
「火の扱いが雑だ。蝋は生き物だぞ。温度を一度間違えれば全部駄目になる」
学生が慌てて手を引っ込める。ヨルグさんの声は厳しいが、手は丁寧に蝋を掬い直していた。
(……消えなかった)
ヨルグさんの五十年は、消えなかった。少なくとも、今日は。
でも、この先どうなるかは私には分からない。たぶん、ヨルグさん自身にも。
私は自分の役割が終わっていくことを喜べた。治癒の奇跡が要らなくなる世界を、自分で望んで作ったから。
でも、ヨルグさんは違う。電灯に仕事を奪われた。望んで手放したのではない。それでもここに立って、学生に蝋を教えている。
次に何をするかは、まる助さんにも、私にも決められない。ヨルグさんだけが決めることだ。
私より、ずっと強い。
ーーー
日が暮れた。
学院の門を出ようとしたとき、ベルザさんとすれ違った。
「ベルザさん。今日は学院に?」
「ヨルグの講座を見に来た」
琥珀色の瞳が、中庭の方へ向く。
「長く生きてきたが、世界がこれほど目に見えて変わるのは初めてだ」
その声には、感慨とも独り言ともつかない響きがあった。
「奇跡だけに頼らぬ医療が広がり、職人が教壇に立ち、機械が計算を始めた。——半年前には想像もできなかった」
「ベルザさんは、怖くないですか」
私が問うと、ベルザさんは少しだけ笑った。
「怖いさ。だが——変わらない方が、本当は怖い」
門の外へ出る。通りの電灯が、ひとつずつ灯り始めていた。
聖女であることの意味は、もう昔とは違う。
治癒の奇跡を失ったわけではない。けれど、奇跡だけにすがらなくても人を救える道が、この世界に根を下ろし始めている。
それは喪失ではなく、私が望んだ変化だ。
私はタブレットのグリーンを思い出していた。
聖女、廃業。
そんな言葉が、ふと頭に浮かぶ。
少しだけ、おかしくて。少しだけ、誇らしかった。




