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異世界は超加速シミュレーション  作者: まる助
第7章「技術革命」
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通信網の制度設計に、三日を費やしていた。


商会の事務室。机の上には図面と書類が積み上がり、窓際では朝の光が紙の端だけを白くしている。隣でエリナが、運用規定の草案に赤を入れていた。


「通信塔の設置間隔ですが、街道沿いに二里ごとだと銅線の総量が足りません」


「学院の試算は?」


「一里半なら信号は届く、と。ただし中継器が必要になります。中継器一台あたりの銅が——」


エリナが数字を読み上げる。俺は頭の中で計算を走らせた。魔王領から届いた銅。月ごとの追加供給見込み。学院の加工能力。配線に回せる職人の人数。


「……当面は、オルデストからカレド港までの幹線一本が限界ですね」

「はい。私もそう思います」


エリナが赤墨の筆を置いた。


「それでも一本あれば変わります。カレドとの連絡は、今も早馬で三日かかっていますから」

「瞬時になる。三日が一瞬に」

「はい」


声は静かだった。だが、その目は数字の先を見ている。三日が一瞬になるだけで、物流も価格決定も、災害時の避難指示も変わる。情報の遅れを前提にした社会そのものが、書き換わる。


「管理主体は、電力公社の通信部門でいいですか?」

「はい。ただし、軍の回線は別建てにしてください。平時の商用通信と有事の軍用通信を同じ線に乗せると、必ずどちらかが優先権を主張します」

「分かりました。通信部門の規程とは別に、軍用網の運用規程を立てます」


エリナが迷いなく書き加える。


俺は窓の外を見た。朝の通りに、電灯の柱が並んでいる。半年前にはなかったものだ。あの柱に沿って銅線を張れば、そのまま通信網になる。インフラの上にインフラを重ねる。加速が次の加速を呼ぶ構造。


ウォーダが聞いたら、きっと笑うだろう。


「だから言っただろう。並行できると」


ーーー


昼前、セシリアが商会を訪ねてきた。


白いローブの裾が泥で汚れている。辺境の巡回から戻ったばかりらしい。


「まる助さん。少しお時間よろしいですか」

「どうぞ。座ってください」


セシリアは椅子に腰を下ろすと、鞄から一通の書状を取り出した。神殿の封蝋が押されている。


「神官長の承認が出ました。辺境三地区への電気と医療教育の同時展開です」

「……通ったんですね」


正直、驚いた。ラグノス神官長は保守派の筆頭だ。半年前、セシリアの医療教育の試行を認めた時でさえ、「一地区、半年、成果が出なければ打ち切り」という条件付きだった。それが三地区への拡大だ。


「条件はあります。電灯の設置費用は商会が負担すること。神殿は教育の人員だけを出すこと」

「それは構いません。ですが、よく認めましたね。どう説得したんですか」


セシリアが少しだけ笑った。


「試行地区の数字をお見せしました。治癒の奇跡に頼る患者が三割減ったこと。代わりに、薬草の煎じ方と傷口の洗い方を覚えた住民が、軽症を自分で治せるようになったこと」


「奇跡の需要が減った」

「はい。でも神官長は、そこを怒りませんでした。『聖女の手が空く分、重傷者に集中できる』と仰ったんです」


俺はセシリアの顔を見た。


半年前とは違う。あの頃のセシリアは、奇跡を制限された困惑の中にいた。俺が言ったのだ。奇跡は使わないでください。繰り返し使える仕組みを作ってください、と。


セシリアは、それをやった。


奇跡に頼るのではなく、奇跡が要らなくなる仕組みを届ける方を選んだ。「届ける人が必要なんです」と言って、自分の足で辺境を歩いて。


偉いな、と素直に思った。


同時に、腹の底が冷えた。


セシリアには、奇跡を使うなと言った。聖女の力という反則を封じろと。


じゃあ、俺はどうなんだ。


寿命9999倍。99.9倍。敏捷9.9倍。


この世界の誰よりも反則を抱えたまま、俺は「公平な制度」を設計している。


セシリアは手放した。

俺は、何も手放していない。


「まる助さん?」


我に返る。


「ああ、すみません。三地区分の電灯と配線の手配、すぐ進めます。エリナに段取りを——」

「もう話してあります」


振り返ると、エリナが書類を一式、すでに揃えていた。


「……仕事が早い」

「セシリア様から事前にご相談をいただいていましたので」


二人が目を合わせて小さく笑った。


俺の知らないところで話が進んでいる。いいことだ。そうであるべきだ。だが、その光景を見た瞬間、俺の脳裏には別の顔が浮かんだ。


俺に黙って蒸気機関を進めた、ウォーダの顔だ。


ーーー


午後、学院に寄った。


通信の研究をしている学生たちに、制度設計の方向を伝えるためだ。オルデストからカレド港までの幹線を最優先にすること。中継器の仕様を先に固めること。軍用網は別建てで設計すること。


学生たちの目は輝いていた。元軍技術兵のマルタが、試作した中継器を見せてくれた。木箱の中に銅線のコイルと鉄芯。粗削りだが、原理は正しい。


「商会長。信号の符号化なんですが、長短の組み合わせで文字を表せないかと」

「……いい発想ですね。続けてください」


モールス符号、と言いかけて飲み込んだ。この世界にモールスはいない。だが、同じ発想に辿り着く人間はいる。


学院を出ようとした時、廊下でトビアスとすれ違った。蒸気機関の実装を手伝っている鍛冶師だ。


「商会長。実験棟の蒸気機関ですが、ウォーダ先生が安全弁の改良をされています。圧力が上がりすぎたら、自動で蒸気を逃がす仕組みです」

「……そうですか」

「危険は承知しています。でも先生、昨日から弁の設計を三回やり直しました。『壊れる前に止まる設計でなければ、動かす資格がない』と」


俺は何も言わずに頷いた。


ウォーダは急いでいる。だが無謀ではない。


それを認めたくないのは、あいつが正しいかもしれないと思っているからだ。


ーーー


学院を出て、目抜き通りを歩いた。


日が傾き始めている。電灯には、もう何本か明かりが入っていた。通りの商店は夕方の客で賑わっている。パン屋、金物屋、仕立て屋。見慣れた風景だ。


だが、一本裏に入ると空気が変わった。


蝋を溶かす匂いがしない。


昨日もしなかった。今日もしない。もう、しないのかもしれない。


ヨルグ蝋燭店の前に、人が集まっていた。


五人、六人——いや、十人近い。全員、職人風の身なりだ。蝋で黄ばんだ前掛け、煤けた袖、染料の染みた手。蝋燭職人だけじゃない。ランプ職人、油売りの顔も見える。


その中心に、ヨルグがいた。


白髪を後ろに撫でつけた痩せた老人。節くれ立った手の爪の間に、五十年分の蝋が染み込んでいる。前にギルドの窓口で見た時は一人だった。今日は違う。仲間を連れている。


目が合った。


「……商会長」


ヨルグの声は静かだった。怒鳴り声ではない。もっと重いものだ。


「ヨルグさん。店は——」

「閉めた。昨日からな」


周囲の職人たちの目が、俺に集まる。


「商会長。あんたに恨みがあるわけじゃない。電灯が便利なのは分かる。明るいのはいいことだ。誰だってそう思う」


ヨルグが一歩前に出た。


「だがな。俺は五十年、蝋燭を作ってきた。親父もそうだった。その親父もだ。百五十年、三代の仕事だ。それが半年で——」


そこで声が止まった。口を引き結び、それでも続ける。


「——半年で、要らなくなった」


返す言葉がなかった。


「組合で話し合った」


隣の男が口を開く。ランプ職人だ。四十代くらい。太い腕に火傷の痕がある。


「電灯に反対するつもりはない。あんたの言う通り、便利なものは広まる。止められない」

「だが」と、別の男が続けた。「俺たちの仕事がなくなるのは、俺たちのせいか? 怠けていたからか? 腕が悪かったからか?」

「違います」


俺は即答した。それだけは嘘をつけない。


「あなたたちの仕事は素晴らしい。腕も確かだ。ヨルグさんの蝋燭は、この街で一番だった」

「一番だった、か」


ヨルグが繰り返す。過去形だけを拾うように。


沈黙が落ちた。


移行支援金。職業訓練。電力公社への再雇用枠。数字はいくらでも出せる。制度も作れる。


だが、この男の五十年を、制度で埋められるのか。


「……ヨルグさん。俺にはまだ答えがない」


口から出たのは、それだった。


「あなたたちの仕事を奪ったのは、俺の灯した電灯です。それは認める。けれど、どう償えばいいのかは、まだ——」

「まだ、か」


ヨルグは俺を見つめた。怒りでも軽蔑でもない。ただ、値踏みするような目だった。


「……待ってやる。だが、いつまでもは待てん。蝋燭の灯は、蝋がなくなれば消えるんだ」


職人たちは去っていった。路地に、蝋の匂いだけがかすかに残った。


俺はしばらく、その場に立っていた。


公平な制度を設計している。移行期の損失を最小化する仕組みを作っている。それはたぶん正しい。


だが、その設計者である俺自身が、この世界でいちばん不公平だ。


ヨルグは五十年、蝋を爪に詰めて、一つの仕事を磨いてきた。

俺はパラメータという反則で、何もかもを飛び越えている。


セシリアには奇跡を封じさせた。ヨルグには、新しい仕事が生まれると言った。


俺自身は。


俺は、何を差し出した。


答えは、もう出ている。何も手放していない。


ーーー


日が落ちた。


商会に戻って残務を片付け、外に出ると、目抜き通りの電灯が灯っていた。暖かな光が石畳を照らし、人々の顔をやわらかくしている。


「お疲れ様です」


エリナが商会の入口に立っていた。鞄を抱えている。


「エリナさんも、今上がりですか」

「はい。辺境三地区の手配書を仕上げました」

「ありがとうございます。遅くまで」

「いえ」


二人で通りに出た。同じ方角だった。


電灯の下を歩く。夜風が心地いい。半年前まで、この時間の通りは松明と蝋燭の灯りしかなかった。暗くて、女性が一人で歩ける道ではなかった。


「……電灯の下だと、夜道も怖くないですね」


エリナが言った。何気ない声で。


「はい」

「前は、暗くなったら走って帰っていました。角を曲がるたびに、誰かいないか確認して」

「もうしなくていいんですね」

「はい」


エリナが小さく笑った。電灯の光が栗色の髪を照らしている。


その光景を見て、思う。この灯は人を救っている。たしかに救っている。


「まる助さん」

「ん?」

「今日、ヨルグさんたちと会いましたか?」


足が止まりかけた。


「……見てたんですか」

「窓から。学院からお戻りのあと、裏路地に入っていかれたので」


エリナは前を向いたまま歩いている。


「答えが出なくても、会いに行ったことは大事だと思います」

「……」

「以前、窓口にヨルグさんがいらした時、私、呼び止めたんです。でも振り返ってもらえませんでした。あの時に思いました。制度では届かないものがあるって」


責める声ではない。ただ、見ていた事実を静かに置く言い方だった。


「エリナさんの方が、先に気づいてたんですね」

「気づいても、私には何もできませんでした。まる助さんには、できることがあります」


分かれ道に差しかかり、エリナが立ち止まる。


「おやすみなさい。明日、通信塔の設置候補地の現地調査がありますので、朝一番で」

「ああ。おやすみ」


エリナの背中が、電灯の光の中を遠ざかっていった。


俺は反対方向へ歩き出した。


明るい通り。その一本裏の、暗い路地。光が広がるほど、影は濃くなる。


通信網の制度は動き出す。セシリアの電気は辺境に届く。学生たちは教科書の余白を埋め続ける。


だが、蝋燭の灯は戻らない。


ふと、自分の手を見た。


蝋も、煤も、染料もついていない。


きれいな手だった。

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