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異世界は超加速シミュレーション  作者: まる助
第7章「技術革命」
69/83

069_教科書の余白>>

銅の話が届いた翌日、学院に顔を出した。


旧倉庫の天窓から朝の光が差し込んでいる。教室として使っている中央の広間には、すでに受講生が集まっていた。開講から一月。最初は五十人だった席が、今は六十を超えている。噂を聞きつけて飛び込んできた者が増えたのだ。


ウォーダの講義を聞くつもりだった。だが教室に入る前に、奥の実験棟から聞き慣れない音がした。


しゅう、しゅう、しゅう。


蒸気だ。

足が止まった。


実験棟の扉を開ける。


そこにあったのは、鉄の筒、銅管、圧力弁。接合部から白い蒸気が細く漏れている。机の上には設計図が広げられていて、その筆跡は見間違えようがなかった。


蒸気機関の試作機。

ウォーダが作ったに違いない。


隣には若い男が立っていた。学院の一期生。鍛冶師上がりの人間族。名前は――トビアスだったか。火傷だらけの腕で、圧力弁を慎重に調整している。


俺は試作機を見つめた。


設計は合理的だ。銅管の取り回しに無駄がない。接合部の処理には、トビアスの鍛冶技術が生きている。


出来がいい。

出来がいいのが、問題だった。


俺は通信を先にしてほしいと言ったはずだ。なのにウォーダは止まらなかった。学生まで巻き込んで、勝手に蒸気機関に手を出した。


ーーー


ウォーダを見つけたのは、学院の裏手だった。


石壁に背を預け、腕を組んでいる。俺が来ることを予測していた顔だ。


「蒸気機関。勝手に進めたな」

「銅の調達に目処がついた。だから動いた」

「通信が先だと言ったはずだ」

「同意はしていない。通信と蒸気機関は別系統だ。並行できる」


声は平坦だった。いつものウォーダだ。感情より先に、論理を組み上げる。


「学院の理解が追いついていない。蒸気機関を動かすには圧力の概念が要る。安全設計も要る。今の学生にはまだ早い」

「トビアスは理解している」

「一人だ」

「一人いれば始められる。あいつの手があれば動く。動いたものを見て、他の奴が学ぶ」


理屈は通っている。

ウォーダの言葉には、いつも理屈がある。


だが。


「お前は急ぎすぎる」

「この話は前にもしたな」

「前とは状況が違う。銅が手に入ると、本当に進められるようになる。だからこそ独断が危険なんだ」


ウォーダの指が太腿を叩いた。苛立ったときの癖だ。


「……まる助。電源が落ちたら全員消える。お前も、この世界の人間も、全部だ。俺たちにどれだけ時間が残っているか、わからない」

「知ってる」

「なら――」

「急いで事故を起こしたら、電源が落ちなくても死ぬ奴が出る」


ウォーダが黙った。


数秒の沈黙。

石壁の向こうから、教室の喧噪が聞こえてくる。学生たちの声。笑い声。学び始めている者たちの、生きた音だ。


「……じゃあ聞く」


ウォーダの声が低くなった。


「慎重に進めて、間に合わず、電源が落ちて、全員消える。それと、急いで進めて事故が起き、何人か死ぬ。だが間に合う。お前はどっちを選ぶ」


俺の口が閉じた。


わかっている。答えは出る。全滅と部分的な犠牲。期待値で比べれば、後者が合理的だ。


だが――俺の中の平沢が、その答えを拒んでいた。


「何人か死ぬ」を許容する答えを、口にしたくない。


何人までなら許せる、と数字で線を引いた瞬間、自分の中の人間性が決定的に変わる気がした。


(もともと人間じゃないが……)


沈黙が長くなった。


ウォーダは答えを待たなかった。壁から背を離し、実験棟の方へ歩き出す。


「止めないんだな、蒸気機関」


止めろ、と言えばいい。俺は商会の長だ。学院の運営にも口を出せる。だが、その一言が出てこない。


ウォーダが振り返った。目が合う。


「やっぱりな。お前も、どこかでは速さが必要だと思ってる」


返す言葉はなかった。

図星だったからだ。


俺だって、電源が落ちる恐怖を知っている。この世界ごと消える恐怖を。


ウォーダの背中が実験棟に消えた。俺はしばらく石壁の前に立っていた。


ーーー


午後、教室に入った。


ウォーダの講義は終わっていて、自習時間になっていた。学生たちが机を囲み、思い思いに議論している。


前列の定位置に座っているドワーフが手を挙げた。名前はゴルド。初日から最前列を陣取り、ウォーダの講義を一言も漏らさず書き写している男だ。


「商会長。少しお時間いただけますか」

「いいよ。なに?」


ゴルドが机の上にノートを広げた。几帳面な文字で、頁がびっしり埋まっている。その余白に、赤い墨で書き込みがあった。


「水車なんですが」

「水車?」

「ウォーダ先生が、力の回転――てこの原理の応用を教えてくれたじゃないですか。あれを水車に当てはめたんです」


ゴルドが数式を指で追う。


「今の水車は、羽根の角度が全部同じです。でも水の流れは、表面と底で速さが違う。だったら羽根の角度も深さごとに変えれば――」

「――水の力を、無駄なく拾える」

「はい。計算では、製粉速度が三倍になります」


俺は黙ってノートを見た。


ウォーダが教えたのは、力学の基礎だ。教科書に載せた範囲のことだ。だがゴルドは、その公式を、自分が鍛冶師として見てきた水車の癖と組み合わせていた。


本文に書かれた知識が、余白で変形している。教える側が用意した正解から、もう逸れ始めている。


「……ゴルド。この計算、ウォーダ先生に見せたか?」

「いえ。まだです」

「見せたほうがいい。今すぐにでも」


ゴルドは目を丸くしたが、ノートを抱えて実験棟へ走っていった。


俺は教室を見回した。


他の学生たちも議論を続けている。隅では、元軍技術兵の若い女が同僚と何かを計算していた。聞こえてきた言葉の断片に、思わず耳が止まる。


「――銅線の太さを変えれば、信号の届く距離が伸びるはずだ――」

「でも先生の図面どおりじゃ動かなかったろ。金属には癖がある。叩いて伸ばした線と、鋳たやつじゃ通り方が違うんだ――」


俺は目を瞬いた。

こっちは通信だ。


銅線で電気信号を送る。俺が「蒸気機関より先にやってほしい」と言っていた技術を、学生たちが勝手に研究し始めている。しかもウォーダの図面をそのままなぞるのではなく、自分たちの手で試し、失敗し、そこから考えている。


笑いそうになった。


種を蒔いたのは俺たちだ。だが、芽の出方までは支配できない。


教科書の本文ではなく、余白から芽が出ている。学生たちが自分の経験や仕事の記憶を書き足した、その場所から。


ーーー


夕方、実験棟から声が聞こえた。


「――この余白の書き込み。俺が教えていない応用だ」


ウォーダの声だった。怒っているのかと思って耳を澄ませた。だが違う。


「角度を深さごとに変える発想は、鍛冶師としての実測が入っている。教科書だけでは出てこない。お前の手の記憶が、数式を変えた」


驚嘆だった。


「……お前は、俺が書いたものを踏み台にしている」


その声は、わずかに震えていた。


俺は立ち止まった。


踏み台にされた。つまり、追い越され始めているということだ。教える側が、教えた相手に超えられ始める。ウォーダはそれを、怒りではなく、喜びとして受け取っている。


扉の隙間からゴルドの顔が見えた。褒められているのか叱られているのかわからず、ドワーフの太い眉が困惑に下がっている。


俺はそのまま扉の前を通り過ぎた。


知識が、人に渡った。渡った先で、俺たちが想定しなかった形に育ち始めている。


これだ、と思った。


これが、俺たちが本当にやろうとしていたことだ。


俺たち自身が発明することじゃない。俺たちがいなくても、誰かが余白を書き足せる世界を作ることだ。


ーーー


学院を出ると、夕暮れだった。


目抜き通りの電灯が灯り始めている。以前より数が増えた。明るい通りを歩く人々の顔が、柔らかく照らされている。


だが俺の足は、裏路地へ向かっていた。


一本入った路地。ヨルグ蝋燭店。


工房の扉が閉まっていた。


いつもなら夕方のこの時間、蝋を溶かす匂いが路地に漂っている。扉の隙間から、蝋燭の灯りが漏れている。五十年、ほとんど毎日そうだった。


なのに今日は、暗い。


(……前は、いつも灯りがついていた)


閉店と決まったわけじゃない。たまたま休みなだけかもしれない。


だが、頭の中では別の計算が走っていた。


目抜き通りの電灯が一つ増えるたびに、この路地で売れなくなる蝋燭がある。


進歩が誰かを救うなら、その進歩は別の誰かの仕事を古くする。


ヨルグさんは、俺が灯した光の、影だ。


俺はしばらく閉ざされた扉の前に立っていた。


ウォーダとの口論が頭を過ぎる。


「何人までなら許容する」


あのとき答えられなかった問いが、形を変えて目の前にある。


技術の前進で出る犠牲は、爆発事故や死者だけじゃない。

静かに不要になっていく仕事もある。時代に置いていかれる人もいる。


そっちは、数字にしにくいぶん、むしろ厄介だった。


答えが出ないまま、俺は通りへ戻った。


目抜き通りは明るい。学院の方角からは学生たちの声が聞こえてくる。知識が芽を出し、人が走り始めている。


その一方で、学院の実験棟には、ウォーダが独断で進めた蒸気機関がある。


俺とウォーダの間に開いた亀裂は、まだ塞がっていなかった。

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