死
アニスはうつろになりながらも自分の命が尽きるか、無事に扉までたどりつけるだろうか、と息も絶え絶えになりながらこらえていた。
――見えたぞ。
エヌビットの声がした時も、意識はほぼなかった。
――アニス王女、寝ている暇はない。
「分かってる…」
アニスは何とか声を出した。
「下ろして」
扉からはぞくぞくと黒いモノが這い出てきている。アニスは吐き気がした。
何とおぞましい生き物だろう。形のない黒いモノは、何かと融合して大きくなり、やがてどこかへ消えて行った。
――王女、もう時間がない。あなたを今すぐ鍵に変える。一刻も早く扉を閉めるのだ。
「ええ、分かっているわ」
排出を食い止めるためにはもう時間がない。
「エヌビット、わたしに呪文を教えて。鍵になるための呪文を」
――あなたが望めばいい。
エヌビットは答えた。
そうなのね。わたしはいつでも鍵になれるのね。
アニスは薄く笑った。
あの時すぐに扉を閉じればよかった。どうせ、命が尽き果てるのなら、あの時全てを終わらせればこんな遠回りをせずに済んだのに。
アニスは悔やんだ。
――それは違う。
エヌビットの声が響いた。
――全てはこうなる運命なのだ。さあ、行け。
アニスは突然、地上へ下された。
エヌビットは飛び上がると、空中で呪文を唱えた。
――扉を閉じる者よりこちら側に、守りの力を発動させる。我に力を貸すもの、光と精霊、共に戦おう。
エヌビットが最後の呪文を唱えると、魔法が発動した。
一本の大きな柱が空高く伸びて、各国に散らばった八人の妖精たちの呪文が交わり、巨大な結界が生まれた。アニスはそれを見届けると、全速力で扉に向かって走りだした。
わたしは本当に一人だ。助けは誰も来ない。自分が契約をした八人の妖精たちによって世界は守られた。しかし、扉の周りだけは無秩序のままだ。
急がないと、敵はどんどん増えていく。
アニスは足がもつれ、血で地面が滑った。構うものか。自分を待ちうけているものは、死だ。今度こそ、本当に生き返ることはできない気がした。
――ジョーンズ。
アニスは一瞬浮かんだ彼を思い出して、首を振った。
扉が見えてきた。周りは黒いモノが取り囲んでいる。お互いを貪り、生き残った者が自由を得ようと結界に体当たりしている。
扉に近づくと、黒いモノが歯をむき出しにして飛びかかって来た。しかし、アニスは自分を炎に変えて、黒いモノを突き破った。扉の鍵穴は目前だ。
――鍵となれ!
自ら命じると銀の鍵へと変化した。アニスは鍵穴に突進した。
どーんと扉が閉じられ、カチャリと鍵がかかった。
扉に挟まれた黒いモノが雄たけびを上げて半分に千切れてその場をのたうちまわった。
鍵となったアニスに意識はなかったが、ポロリと銀の鍵は落ちた。
鍵は冷たくひんやりとしていた。黒いモノはそれを食おうと口を開けた。一呑みにしようとしたところに、ばしーんと火柱が落ちた。
扉が真っ二つに割れて炎が上がる。辺り一帯が火の海となりその中で鍵は動かない。その時、サッと小さい生き物が舞い降りて両手に鍵を乗せて飛び立った。
ババロンだった。
上空で見ていたエヌビットは目を見張り叫んだ。
――ババロン、なぜここに!
――私は命令に従っただけ。
ババロンが答えた。その合間にも黒いモノはババロンに攻撃を仕掛ける。ババロンは羽で対抗しながら、火をつける魔法の粉を撒きながら、あたり一帯をどんどん焼いていった。
――お前のせいで世界はめちゃくちゃだ。この償いはどうしてくれる。
怒り狂ったエヌビットが叫んだ。
――魔法陣にはわたしの代わりがいます。わたしはそこまで愚かじゃない。
エヌビットは一瞬、押し黙ったが、ババロンを睨みつけた。
――お前には罰を与える。
――お好きなように。
とうとう粉が切れた。まだ、敵はうじゃうじゃいる。
エヌビットは何もせずじっと見ているだけだ。ババロンは高く空へと舞い上がり、翼を広げて羽ばたいた。
風にあおられて火の粉がどんどん荒れ地に燃え移った。たちまち辺りは黒こげとなり蠢くモノもなくなった。
――これで終わりではない。扉は閉じたが、複数の冥界のモノが散らばった。戦いはこれからだ。
――分かっています。
ババロンは、エヌビットを睨みつけた。
――なんだ、その反抗的な目は。
エヌビットが目を釣り上げた。
――あなたは何もしなかった。わたしが戦っているのをただ見ていた。
――救う価値はない。
エヌビットが鼻で笑う。
――お前のような小さいモノなど必要ない。その鍵を置いてどこへでも消えろ。二度と顔を見せるな。
ババロンはぎゅっと鍵を握りしめた。
――王女をどうするつもり?
――殺す。
エヌビットが声を張り上げた。
――私はこれからやらねばならんことがたくさんあってな、お前の相手をしている暇はないのだ。
冥界の扉が灰になって風に舞い始めたのを見届けると、エヌビットは言った。
――私の声かけに賛同せよ。結界を解除する。
柱がぱっと消えて、あたりが薄暗くなる。
――何をするの?
エヌビットは、アニスが苦労して張ってまわった結界ですらも解除した。これでは黒いモノから守れない。
――これは、契約違反だわ。
ババロンが叫んだ。
――アニス王女は死んだ。これより、我がパースレイン国、および全世界を支配する。
ババロンは、エヌビットの言葉に耳を疑った。
――アニス王女は、わたしたちを召喚する代わりに、パースレイン国を譲り渡すと約束をした。しかし、わたしたちが世界を守らないのであれば、契約は成立していないわ。よってパースレイン国はあなたのものじゃないわ。
――王女は死んだ。
――いいえ、生きているわ。
――今は、まだ、な。
エヌビットがニヤッと笑うと、自分の翼を一枚ぬいて、ピッとババロンの方へ向けた。羽はババロンの腕に突き刺さった。
――あっ。
ババロンの手から鍵がこぼれおちる。
エヌビットが羽で風を起こすと鍵が舞った。銀の鍵を炎が取り囲む。
ババロンは地上へ下りて鍵を奪おうとしたが、熱くて近づけない。エヌビットの刺さった羽が焼けるように痛む。目がかすんで来て立つのもやっとだ。
エヌビットは、ババロンが地上に手をついたのを見ると、南の方へ顔を向けた。そして、ものすごいスピードで飛び去った。
ババロンは火消の粉も持っていた。
ポケットからサシェを取り出すと、自分の周りに粉をまき、鍵にもかけた。炎が小さくなったところを、すばやく両手ですくって鍵を握りしめた。
――飛ぶのよ。ババロン。
ババロンは翼を広げ、力いっぱい羽を動かした。
羽を動かすたびにぐんぐんと景色が変わっていく。
山を二つ飛び越え三つ谷を抜けて、山奥にある小さな集落へと飛び続けた。
――翼よ。わたしとアニスの命をあなたに預けるわ。あなたのおもむくまま、進みなさい。
翼に願いを込めると、がっくりと首を垂れて目を閉じた。
ババロンの翼は山奥のてっぺんにある大きな屋敷の前で力尽き、翼を閉じると丸くなるように横たわった。
鍵はまだ、ババロンの手の中にある。