『東部諸邦便覧』 風俗篇
学術都市アーク・ライブラリ刊
地誌編纂者による東部五公国の概説
まえがき
東部諸邦の民は、同じ帝国の遺民を祖とし、同じ神胤の権威の下に暮らしながら、その気風と習俗において、まことに多様である。
北の民は堅牢を尊び、南の民は華美を好む。古い家名を誇る者もあれば、昨日得た富をもって今日の栄誉とする者もいる。
もっとも、こうした相違を土地の気候のみに帰するのは、いささか軽率であろう。人は寒ければ厚着をし、暑ければ薄着をするが、何を美しいとし、何を恥とするかは、必ずしも寒暖によって決まるものではない。
以下、諸邦に見られる風俗のうち、旅人の目にも留まりやすいものを記す。
一、ネルドリンゲン公国
ネルドリンゲンの民は、衣服にも家屋にも、まず堅牢であることを求める。
長い冬を過ごすため、厚い羊毛の衣と毛皮の外套は欠かせず、丈夫な革靴は身分の上下を問わず広く用いられる。外套は前を開いて容易に脱げる仕立てが好まれ、屋内に入れば、重い防寒着を脱いで暖炉の傍らに腰を下ろす。
かの地の家屋は外から見ると武骨で、石壁は厚く、窓も小さい。しかし、ひとたび屋内に入れば、良質な木材を惜しみなく用いた調度と、柔らかな羊毛の敷物に迎えられることとなる。
ことに木工の技は諸邦随一とされる。寒冷な土地で長い年月をかけて育った木材は目が詰まり、家具は重厚にして堅牢、精緻な彫刻を施したものは南方の貴族にも珍重される。
ネルドリンゲンの富裕な家では、金銀の装飾品よりも、見事な木工家具を誇ることが少なくない。彼らは華美を嫌うというより、華美であるためだけの品を好まぬのである。
一方、大隧道に通じる宿場や市場は、こうした静かな家庭の様子とは趣を異にする。
諸国の商人、荷運び人、軍人、旅人が集まり、酒場には夜更けまで声が絶えない。寒さを凌ぐ熱い料理と酒が好まれ、穀物の粥や根菜、獣肉を用いた煮込みは、身分を問わず食卓に上る。
当地の者は、旅人に対して必ずしも愛想がよいとは限らぬ。しかし、道の険しさと冬の恐ろしさを知るだけに、旅支度の不備には敏感である。
南方の旅人が薄い外套のまま山道へ向かおうものなら、見知らぬ者からさえ小言を受けることがあるという。
その言葉遣いの荒さをもって不親切と断ずる者は、北の冬を知らぬのであろう。
二、アルテンブルク公国
アルテンブルクほど、古いということに価値を見いだす土地は、東部諸邦にも稀である。
かの地の貴族は、衣装の仕立て、食器の意匠、書斎の調度に至るまで、伝統にかなうことを重んじる。
流行の色彩や奇抜な装飾は、ときに軽薄の証とみなされる。深緑や濃紺の落ち着いた衣装、上質な羊毛織物、控えめな銀の装身具などが好まれ、婦人の装いにも古くからの格式が保たれている。
ただし、これを質素と呼ぶのは適切ではない。
一見して飾り気のない衣装であっても、その生地と仕立てには驚くほどの費用が投じられていることがある。当地の貴族にとって、富とは人目を驚かせるために用いるものではなく、見る目のある者にのみ知らしめるべきものらしい。
また、アルテンブルクでは書物と記録が殊のほか尊ばれる。
書斎を持つことは教養ある家の当然の備えとされ、古い書簡、家系図、契約文書などは、単なる紙片以上の価値を有する。
湿気の少ない土地柄もあって製本と羊皮紙の技術は発達し、銀製の文具や精巧な時計は、貴族の書斎にふさわしい品として珍重される。
食卓には乳製品や狩猟で得た獣肉が多く、良質なチーズ、バター、野兎や鹿の料理などが供される。当地の白葡萄酒は、とりわけ上流階級の食卓において名高い。
狩猟は単に獣肉を得るための営みではなく、貴族の嗜みとして重んじられる。よく訓練された馬と猟犬を備えることは、家の格式を示す一つの方法でもある。
もっとも、当地の者が何より熱心に語るのは、狩りの獲物よりも、その狩場がいつから誰の家に属していたかという話である。
古い家柄の者同士が席を共にすれば、ひとつの話題から数代前の縁戚関係にまで遡ることも珍しくない。
旅人は、当地の晩餐に招かれたなら、料理の名を覚えるより先に、主人の祖先の名をいくつか覚えておく方がよいかもしれぬ。
三、レオポルド大公国
レオポルド大公国の風俗を語るにあたり、その豊穣と宮廷の威容を避けて通ることはできない。
中央の大平原は穀物と葡萄に恵まれ、牛馬の飼育も盛んである。豊かな食糧生産は諸邦の暮らしを支えるのみならず、盟主の宮廷における華やかな宴席を可能としている。
当地の食卓では、良質な小麦から焼かれたパンが広く食される。皮を香ばしく焼き上げたもの、柔らかな内側を持つものなど、その種類は多い。これにバターやチーズ、豚肉の加工品、牛肉料理を合わせる。
また、葡萄酒の産地としても知られ、とりわけ赤葡萄酒は、宮廷の晩餐に欠かせぬ品の一つである。
豊かな食卓は農村にも見られるが、宮廷においては食事そのものが社交の一部となる。
誰を招き、どの席に座らせ、いかなる料理と酒を供するか。その一つ一つが、主人の財力と客人への敬意を示すものとなるのである。
衣装もまた、諸邦のうちで最も華やかであろう。
金糸の刺繍、鮮やかな絹、光沢ある天鵞絨などが好まれ、男女ともに装身具を惜しまない。宮廷に集う貴族たちは、衣装の美しさのみならず、その仕立ての新しさにも敏感である。
アルテンブルクの貴族が祖父の時代の意匠を誇るなら、レオポルドの貴族は、昨季の意匠をすでに古いものとみなすことがある。
その相違は、しばしば両国の社交界における冗談の種となっている。
公都には大きな窓と鏡を備えた宮殿が立ち並び、陽光を取り込むことが建築の美徳とされる。明るく開かれた広間は、多くの客人を迎えるにふさわしい。
しかし、これほど華やかな宮廷にあっても、最も尊ばれるものは黄金でも宝石でもない。
すなわち、血統である。
いかに富み、いかに美しく装ったところで、神胤の家系に連なる者と、そうでない者との隔たりは容易には埋まらぬ。
レオポルドの宮廷は、東部諸邦のうち最も華やかな場所であると同時に、最も厳しく人の生まれを量る場所でもある。
四、モルダウ公国
モルダウの風俗は、外来者にとって理解しがたいところが多い。
水路と湿地が入り組む土地では、街路の代わりに小舟が用いられる場所もあり、衣服は湿気と泥を避けるため、裾の短いものが好まれる。
当地の富裕層は、暗紫、深紅、黒などの濃い色彩を好み、絹や革を巧みに組み合わせた装いをする。帽子や外套には顔を覆うものも多く、衣服に隠しポケットを設ける仕立ても珍しくない。
こうした服装を、当地の裏取引と結びつけて語る者は多い。
しかし、雨と霧の多い土地で顔を覆うことは、必ずしも身分を隠すためとは限らぬ。旅人は、目に映るものすべてに陰謀を見いだすべきではなかろう。
モルダウでは、香水と薬品の調合が盛んである。
湿潤な土地に育つ多種の薬草、香料植物、そして毒草は、調合師たちの手によって様々な品に変えられる。精巧なガラス瓶に収められた香油や薬液は、諸邦の市場でも高く評価されている。
また、水鳥や川魚、沼地に棲む大亀などは、当地の食卓に馴染み深い。米や雑穀を用いた料理も多く、北方の食卓とは趣を異にする。
ただし、当地の市場に流通する薬品のすべてが、公然と売買できる品であるとは限らない。
西方の黒市都市と接する土地柄ゆえ、表の市場と裏の市場との境界は、他国の者が考えるほど明瞭ではないのである。
当地の商人は概して物腰が柔らかく、客人の話によく耳を傾ける。しかし、自らの事情については多くを語らない。
取引の席で沈黙が長く続くこともあるが、それを不快に思って余計な言葉を重ねる者は、しばしば不利な約定を結ぶことになるという。
モルダウの人々は秘密を好む、と評する者がいる。
あるいは、他人の秘密を知ることに長けている、と言うべきかもしれない。
五、シルヴァーナ公国
シルヴァーナは、東部諸邦のうち最も異国の風が入り込む土地である。
南方の大港湾には外洋の商船が集まり、港には様々な言語が飛び交う。遠方から運ばれた品々は市場を満たし、異国の衣装や装身具も、当地ではさほど珍しいものではない。
温暖な気候のため、衣服には麻や綿などの軽い生地が好まれる。白や青、橙など明るい色彩が多く、風通しのよい仕立ては男女を問わず広く用いられる。
貴族の衣装にも海の向こうの流行が取り入れられ、真珠、珊瑚、宝石などを用いた装飾品が珍重される。
当地の者は、古い意匠を捨てることにさほどためらいを見せない。むしろ、新しいものをいち早く取り入れることが、富と見識を示す場合さえある。
食卓には海の幸が豊富である。
魚介類は焼き、煮込み、塩漬け、燻製など様々に調理され、オリーブ油や香草とともに供される。硬質小麦を用いた噛み応えのあるパンは、魚介の汁や濃い煮込み料理によく合う。
また、柑橘類や葡萄も豊富で、南方の果実や香辛料が市場に並ぶことも珍しくない。
港の酒場では、船乗り、商人、職人が入り交じり、航海の話や遠国の噂が絶えない。
当地の商人たちは、家柄の古さよりも、取引の確かさや財力を重んじる傾向があるとされる。
もっとも、それは神胤の血統を軽んじるという意味ではない。港で財を成した者が、その富をもって名門貴族との縁を求めることも、決して稀ではないからである。
シルヴァーナの人々は、外来者に対して比較的開放的である。
しかし、その親しみやすさをもって、商談まで容易であると思い込むべきではない。
海を越えて財を成す者たちは、見知らぬ客人と酒を酌み交わすことにも慣れているが、同時に、その客人が何を持ち、何を求めているかを見極めることにも慣れている。
陽気な笑顔と厳しい算盤勘定とは、かの地において少しも矛盾しないのである。
以上に記した風俗は、諸邦のすべての民に等しく当てはまるものではない。
同じ公国にあっても、貴族と農民、都市の商人と山間の住人とでは、衣食住の有様は大きく異なる。また、街道や河川を通じた人の往来は、土地ごとの習慣を少しずつ変えてゆく。
されど、東部諸邦の者たちは、互いの風俗を笑い合いながらも、自らの土地の習慣こそ最も優れたものと信じて疑わぬ。
北の者は南の者を軽薄と呼び、南の者は北の者を野暮と呼ぶ。伝統を守る者は流行を嘲り、流行を追う者は伝統を時代遅れとみなす。
それでいて、いざ外邦の者から東部諸邦を一括りに論じられれば、彼らは一様に不快の色を示すのである。
まことに、同じ祖を持つ者同士の争いほど、他人には些細で、当人たちには重大なものはない。




