10. 龍の珠
美香は姉に「当分チョコレートの匂いは嗅ぎたくない」と言われるほどチョコレートケーキを焼いた。クリスマスには「クッキーはもう勘弁」と言われたが、今回はクッキーほど沢山は作れないので、そこまで言われる程ではないと、美香は思っている。
「おお、イイ出来じゃん」
姉がニヤリと笑ってチョコレートクリームをペロリと掬って舐めた。
「やめてよ!今一番緊張の一瞬なんだから」
チョコレートをテンパリングして、上にココアを振った。後は綺麗に模様を描くだけだ。
「ここが美術部の腕の見せ所」
美香は格子模様を丁寧につけていく。
「いい感じ」
12個の屍の後、ようやく満足できるガナッシュチョコレートケーキが仕上がった。後は、itoooyaで買ってきた丸いボックスに入れて、綺麗にラッピングしたら完成だ。選びに選んだラッピングだ。少しシックな色合いに、金色のリボンがなかなかいい感じだと思う。
「誰にあげるの?例の後輩君?」
姉はニヤニヤしながら聞いてくる。知ってるくせにそういう事をすぐ言うのだ。
「そうよ。如月君にあげるの」
珍しく妹がごまかさずはっきり言ったので、姉は少し驚いた。奥手で恋愛に臆病な妹がここまで思い切るとは意外だったのだ。
「如月君にちゃんと気持ちを伝えるの。今度こそ失敗しないわ」
美香は、ぎゅっと唇を噛んだ。
姉はその思いつめた顔に少し戸惑った。空気を換えようとわざとふざけた物言いをする。
「サバみその弁護士さんとこにいるんだっけ。その如月くんとやらは」
「神崎先生」
「ああ、その神崎先生。えらい綺麗な顔のお兄さんだよね」
姉の軽口に美香は面白くなさそうに唇を尖らせた。
「如月くんだって、すごく綺麗だもん。負けてないもん」
美香がそう答えると、姉は何やら変なスイッチの入った妹に苦笑いを浮かべた。
「そうだ。もう今日渡しに行こう」
と美香は決意した。今日は学校をさぼってしまったが、もう夕方だ。出かけても大丈夫だろう。
明日学校でなどと言っていたら他の沢山の女の子の告白と被ってしまう。日付が変わると同時に家に行ってしまおう。美香はだいぶ混乱していた。いつもの美香なら「そんな迷惑になるようなこと」は絶対に思いつきもしない。けれども今の美香はテンションが振り切れている状態だった。
「念のために」
と美香は新宿のデパートで市販のチョコレートも手に入れようと思った。ガナッシュチョコレートケーキはすごく良い出来だと思うけれども、秋人はスイーツ大好き男子だ。多ければ多いに越したことはないに違いない。
そう思って新宿のデパートに向かった。
そこで、秋人が桜子にチョコレートを渡すという衝撃の光景を見てしまって、気が付いたらチョコレートケーキの入った紙袋を抱えて、公園のベンチに座っていた。涙が溢れて仕方なかった。
振られてもいいなんて嘘っぱちだ。本当は欠片も覚悟が出来ていなかった。
「如月君、霧崎さんのことが好きだったんだ」
ホロホロと涙が頬を流れ落ちる。
あんなに大好きな薫の婚約者のことが好きだなんて、どれだけ悩んだだろう。
相談してくれなかったのは、美香が秋人のことを好きなのを察していたからかもしれない。自分勝手な気持ちばかりで、彼の想いに気が付いてあげられなかった。
呑気に告白などしなくて良かった。さらなる重荷になってしまうところだった。
そう想っているのに、悲しくて悲しくて涙が溢れて仕方ない。
「ダメだなぁ…私って」
また伝えることができなかった。美香は心の奥にぽっかりと空いた穴に落ちていくような気持ちに囚われていた。
「あれえ?泣いてるの?」
泣いてる美香に対して、場違いに明るい声がかかった。美香は慌てて顔をあげる。声に聞き覚えはないが知り合いだろうか。そう思ったが、声の主に見覚えはなかった。
「はあい、こんにちは。俺の日本語分かる?」
短く刈った髪は金色で肌は小麦色。少し東南アジアチックな容貌の背の高い男性だった。
男はニコニコと笑っている。しかし、美香は心の底から恐怖した。男の笑顔にはまるで温かみがない。その上、何か本能的な恐怖を感じさせる気配が濃厚だった。
「こんな所で何をしてるの?」
男が近づこうとした時、美香の隣に不意に黒装束の人物が現れた。
「あは。ギルドの護衛が付いてるってそういえば報告受けてたな。へえ、結構立派なのついてんじゃん」
男の笑顔に悪意の色が混じった。その両手にはいつのまにか刃物が握られている。
「力量の差は分かってるよね?逃げた方が賢いよ」
男の声に、しかし黒装束の人物は答えない。腰を落として戦闘モードに入った。
「心意気だけじゃ、無駄死にだってのに」
男は嘲笑を浮かべた。
男は僅か数分で黒装束の人物を切り伏せた。赤い血がパッと空中に舞い、護衛が崩れ落ちる。
「魔力のある相手ならこんなに簡単に殺せるのに、ほんと只人相手だと厄介だなぁ」
男は血の付いた刃物をなめながら美香に近づいてくる。美香は恐怖で言葉も出ない。
「いや…」
何とか小さく呟くのが精一杯だ。腰が抜けてしまってベンチから立ち上がれなかった。
「龍の珠と心中は悪くないけど、まだ死ねないんだよねー」
男が合図すると、不思議な黒い衣装の集団が現れた。
「さて、何人使ったら君を攫えると思う?」
男はくったくなく微笑んだ。男の合図とともに集団が動き出す。逃げようと何とかベンチから立ち上がった美香にそのうちの一人の手が触れた。
瞬間、その人物の腕が吹き飛び、返り血が美香の顔にかかる。
「ひっ」
「おっと、一人目」
男が笑った。腕を無くした人物はそれでも、執拗に美香を捕まえようと手を伸ばす。
「いや、来ないで」
美香が後退るも、集団は催眠術にでもかかったように美香を捉えようと手を伸ばしてくる。彼らが美香に触れるたびに、指、手、腕が弾け飛び、血の噴水が公園の地面を濡らしていく。
「助けて…如月君」
恐怖のあまり美香は意識を失った。
「さーて、ではお姫様を素敵な地獄へお連れしましょう」
男は楽しそうに声をあげて笑った。
男「いやあ、しかし日本は寒いねえ。こんなとこまできた上に女の子一人捕まえるのにこんな血の海作っちゃって、うちの労働環境最悪だよね?おーい、返事してよー、おーい、あ、死んでるかー」




