百八話「押し殺された感情」
海という褒美を与えられ、午後からは朝以上に集中して行えた勉強会も夕方には解散した。
いつもなら夕食を彰家でとることもある由菜は、試験が近づいている最近は家でとることが多い。なので彰は夕食を恵梨と二人で食べた。
そして、現在、彰は自室に籠もっている。
「………………」
カリカリ、とシャーペンを動かす音だけが響く室内。そう、彰は今日何時間目になるか分からない勉強の最中だった。
今度の期末試験で一位をとる義務ーーもちろんそんなものは本当にはなく、彼のプライドやら何やらから自身に課したものであるーーのためには、どれだけ勉強しても足りないという強迫観念からである。(実際は課題試験で二位と大差を付けて一位だったので、ちょっとやそっとのことでは彰の一位は揺るがないのだが)
この猛勉強の光景を誰かが見たならば、彰は試験で一位になるべくしてなったのではなく、努力してなったのだと確信するだろう。
時計の短針が10を指し始めた頃になって、彰はいすの背もたれに体重を預けて伸びを行った。
「明日も早いし、今日はもう寝るか」
てきぱきと勉強道具を片づけ、その後明日の学校の準備も終わらせた彰は自室を出た。
洗面台で歯磨きを終わらせた彰は、リビングに電気がついていることに気がつく。
彰が付けっぱなしにした覚えが無い以上、恵梨がいるということなのだろう。
寝る前に水分補給をしようと思っていたし、ちょうどいいと彰はリビングに足を向ける。
勉強会を行っていたリビングは、電気だけではなくテレビも付けっぱなしだった。
無駄に音をばらまくだけの存在となっていたテレビ。そうなっていたのは、視聴者がいなかったというわけではない。
つまり平たく言うと、視聴者である恵梨がソファで睡眠中だったのだ。
ソファに横になって、顔をテレビの方に向けている恵梨の姿から、テレビを寝ていたら寝落ちしてましたというストーリーがすぐに思い浮かぶ。
リモコンでテレビの電源を落としてから、すやすやと眠る恵梨の顔を見て、
「…………どうすっかな、これ」
彰は途方に暮れた。
恵梨と同居を始めて二ヶ月強、初めて訪れたシチュエーションだった。
たぶん連日の試験勉強で疲れていたんだろう。この家に来てから恵梨が試験を受けるのは初めてのことだし。だから息抜きにテレビを見ていたところ、そのまま寝てしまったのだろう。
そんな風に推測しながら、彰はどう行動すべきかを模索していた。
その幸せそうな寝顔を見て、彰は第一の選択肢である恵梨を起こすという手段の実行を断念。
第二の選択肢、そのまま寝かせておくを実行することにした。……といっても、彰が行ったのはただタオルケットをかけただけなのだが。
ちなみに恋人同士だったら、第三のお姫様だっこで部屋まで運ぶという選択肢が生まれる。とはいえ、俺と恵梨は家族であろうと誓った身なので関係ないのだが。
「………………」
その後、そのまま立ち去ればよかったのだが、しかし彰は恵梨の寝顔を眺めていた。
実を言うと恵梨の寝顔を見るのは二回目だった。一回目は初めて会ったその次の日だった。朝、前の日に起きた事が現実か信じられなくて、勝手に恵梨の部屋に入ったのを思い出す。
(そういえばその後怒られたっけ)
寝顔を見たと言ったとき、恵梨に怒られたのを覚えている。
それを言った場所は……ああ、あの忌々しい奴ら、科学技術研究会とかいう酔狂な組織に所属する鹿野田が連れていた戦闘人形と戦っていたときだった。
少年、高野彰は普通の高校生である、とも言えたし、そうでもないとも言えた。
彼は超常の力を持つ、能力者だった。
風の錬金術と呼ばれるその能力を使って、同じく能力者の恵梨を救った。勘違いして襲ってきた火野を撃退した。試合ということで風野彩香と戦った。海を渡ってきた殺人者モーリスを捕まえるために、能力者ギルドのルークと共闘した。
それらの経緯があって、現在彰は平和に学生生活を送っている。
「おまえに会ってから全てが始まったんだよなあ」
恵梨の寝顔を見つめる彰。
これらの出来事、楽しいと思えるものではない。全くもって忙しくて疲れる日々だ。
しかし、それが恵梨の『せい』だとは思えない、思わない。
せい、ではなく、おかげなのだ。
確かに火野には『念動力』で体がボロボロになった。彩香との試合では思いっきり胴打ちを叩き込まれた。モーリスとの戦いのせいで、文化祭を途中で離脱するはめになった。
しかし、そのおかげで火野や彩香、雷沢や光崎と知り合うことができた。ルークと友達になることができた。
忙しくて疲れる日々も、それがなければ会うこともなかっただろう人たちがいるのだ。
「だから俺はおまえを救ってよかったと思っているんだぜ」
あの日、すさびれた裏路地で手をさしのべたことは無駄ではなかったと、過去の自分に胸を張って教えたかった。
「…………つうか、こんな事思うなんて俺も疲れているのか……?」
ガシガシと頭をかく彰。
過去を振り返って柄にもなく恥ずかしいことを思ったり、口走ったりした。……全部勉強で疲れているせいだ、ということにしておこう。だから早めに寝て明日に備えるべきだ。
ということで、その場を離れかけた彰の耳に飛び込んできたのは、
「……うっ、……あっ…………いやっ……」
恵梨の悲痛そうな声だった。
「えっ?」
あわてて振り返ってみると、寝ている恵梨の顔が苦悶でゆがんでいる。さっきまでは幸せそうだったのに……悪夢でも見ているのだろうか?
そして次の寝言が聞こえてきた。
「…………お母さん…………っ」
「……っ!!」
その声は、絞り出すような音量だったというのに、彰の耳を捉えて離さなかった。
そしてその一言に隠されていたものを、彰は瞬時に悟ってしまっていた。
恵梨は親を科学技術研究会に殺されている。
彰はその事実を認識していた。
しかし、理解はしていなかった。
親を殺された恵梨が、会話の端々から親のことを大事に思っている恵梨が、どんな感情を持つのかを考えたことがなかった。
当然、悲しみに暮れるはずである。
が、自分はその姿を見ただろうか? 確かに初めて会った日に少しは見た覚えがある。しかし、その程度で済むものなのだろうか。本当はもっと泣き喚きたかったのではないか?
(その証拠がこれだ)
こうやって恵梨は夢に見てしまうほど、親のことを思っている。
だけど恵梨は感情を表に出すわけには行かなかった。そんなことをすれば助けてくれた人、彰によけいな心配をさせてしまうから。いつも他人の事を考えていて、遠慮しがちな恵梨にとってそれは避けたいことだったからじゃないのか?
「…………いやっ、お母さん…………」
でも、こんなに悲痛な声がでるほど恵梨は悲しんでいる。だというのに、普段はそれを感じさせないように、悲しさを押し殺して楽しく日常を過ごしているように演じていたにち違いない。
俺はそれに気づいてやることができなかった。俺だって親とはあまり仲が良くないけど、それでも、もし親が死んだら心にぽっかりと穴が開くだろうってことは簡単に分かるのに。
恵梨の隠していた思いを知った今、俺はどうするべきなんだろう。
恵梨が感情を押し殺していた理由は俺に心配させないため。ということは俺から何かするのは逆効果になるのか? 最善の手段は知らないフリをすることになるのか?
「知らないフリ……」
当然、こうやって苦しんでいる恵梨を前にそんなことしたくない。何かしてやりたい。
「泣いてもいいんだぞ」
って言うべき何だろうか? そうすれば恵梨がたまっていた思いをはき出して、それで上手く行くのだろうか? ……分からない。
この世に生まれて15年。こんなときにどうすればいいのかなんて誰も教えてくれなかった。試験では次々に正解を思いつく頭も、この状況に置ける正解を出してはくれない。
「…………彰さん…………」
そうやって悩んでいる内に夢が変わったのだろうか。恵梨はさっきまでの幸せそうな寝顔で彰の名をつぶやく。安堵しかないその表情からは、彰に全幅の信頼を持っていることが分かる。
けど、俺は恵梨にそんな顔をさせる資格があるのだろうか?
確かに俺は科学技術研究会から恵梨を助けた。
しかし、俺の存在のせいで恵梨は感情を押し殺している。
これでは俺はいた方が良かったのか、悪かったのか。
「分からない……」
けど、恵梨はこんな俺に全幅の信頼を寄せている。
「本当のところ、俺なんて駄目な人間だってのに」
恵梨を助けられたのなんて、たまたま運が良かっただけだ。本当の俺はケンカ早くて、他人の状況を、気持ちを理解できない自己中心的考えで、取り柄なんてこういう状況では役に立たない頭のよさだけなのに。
だから、
「せめてこれからはこの笑顔を曇らせないようにがんばろう」
これには恵梨が持っている悲しみを察してやるという精神的なものと、科学技術研究会のような組織が襲ってきたときに守るという肉体的なもの両方が含まれている。
そうすることが少女を救った者として、そして信頼されていることに対しての義務だと思った。
その後、時計を見て十時半を過ぎている事に気づいた彰は自室に戻っていった。
彰がリビングを離れてから一分ほど経った後で。
むくり。
寝ていたと思われていた恵梨が体を起こした。
「……彰さん、もう行きましたよね」
ゆっくりと廊下の方を窺う恵梨。彰が自分の部屋に戻っていることを確認した恵梨は一息ついた。
「ほっ…………」
………………………………。
「じゃないです!」
ふと起きたら彰さんの顔が目の前にあって何で彰さん私の顔をずっと眺めていたの何であんな真剣な表情ああそう久しぶりに見た彰さんの真剣な表情かっこよかっじゃなくてそして私の笑顔をくもらせないためにがんばるってそれどういう意味ですか?
「うううううううううう」
頭を抱える恵梨は、実は彰が「この笑顔を」うんたら言う少し前に起きていたのだった。そして目の前にあった彰の顔に驚いて狸寝入りをしたのはいいが、完全に起きるタイミングを失った恵梨は彰が去るまで待っていたのである。
「うああああああああ」
低いうめき声が漏れている。
「あああああああああああああ………………。……、……、……」
しかし、少し経つと落ち着いたようだ。
「…………どうせ鈍感な彰さんのことですし、意味なんてない行為なんでしょう」
彰が見つめていたのは恋愛的な何かではないと、彰を貶しながら決めつけた。……まあ、実際正解なのだが。
「ですけど……そういえば、彰さん何か気負いすぎなように見えましたね……」
さっき自分を見つめている時の彰は……ああそうだ、不良だった過去を話してくれたときに似ている。自分が駄目な存在だと言っていたあのときと。
「ほんと何で彰さんはあんなに自己評価が低いんでしょうか……」
今回も何か誤解していてそうで面倒そうですね。……機会を見て、話してみましょうか。
すぐに話をしようと思わない理由は、しばらくの間は彰と向かいあわせで目を合わせたら、見つめられていたことを思い出して赤面する自信があるからだった。




