3. いちごが大きいのは、そっち
ゆうべ、あの子どもは皇帝が戻る前に、何も言わずに袖を振って去った。
そのルクレツィオが、今朝は小食堂の窓辺にいる。余った袖を枕にしているくせに、片目だけは私へ向けたまま。……見られてる。あの囁きを受けた耳の奥が、今もじわりと熱い。あの子どもは、私が誰かを知っている。私はパンのかごで、そっと顔を隠した。
焼きたてのパンと、温めた牛乳の匂いが鼻をくすぐる。かごの陰に落ち着く間もなく、皇帝は私を膝に乗せ、銀の匙を差し出した。
てっぺんの銀の巻き毛が、皇帝の顎をくすぐる。そのたびに、私を抱く腕の力が少しだけゆるくなった。……降ろしてくれる気は、なさそうだけど。
「ほら、あーん」
「……ひとりで、たべられます」
「そうか……」
匙が、しょんぼりと下がった。え、そこでそんなに落ち込む?
私を処刑した人に、あーんをされる朝。六年前の私が聞いたら、たぶん寝込む。今の私だって、牛乳の湯気に目をそらすのが精いっぱいだった。
「では、パンをちぎってやろう」
「それも、ひとりで、できます」
「……そうか」
二度目のしょんぼりだ。冷酷な皇帝の肩が、目に見えて下がっていた。
「フィオ、おててがつかえます。パパも、あたたかいうちにたべてください」
「食べるあいだに、膝からいなくならないだろうな?」
膝を囲む腕に、ほんの少し力がこもる。私は空いている手で、皇帝の上着をつかんだ。
「ここにいます。おさらも、よくみえます」
「そうだろう! パパの膝は、特等席だぞ? はっはっは!」
……特等席、らしい。背中に当たる胸が、困るくらい温かい。安心なんかしていない。そう思いながら、私はつかんだ上着に指先を埋めた。皇帝は私のふくふくした頬を、指先でそっと押してくる。
「パパ、ほっぺをおしていたら、パンがたべられません」
蜂蜜色の巻き髪を高く結った皇妃は、今朝も皇帝の隣で笑っている。卓布のしわを押さえる指先だけは、布をぴんと張るほど強く動いた。見慣れた食卓。見慣れた甘い声。
「まあ、仲のよろしいこと。今朝のお菓子も、たくさん召し上がってね」
「お前も見たか。娘が、自分で食べると言う!」
「ええ。ご立派ですこと」
乳母頭が、足音を忍ばせて入ってきた。胸の前に抱えたお盆が、朝の光を鈍く返す。
菓子を運ぶのは、いつも配膳の侍女だ。どうして、今朝に限って乳母頭なの。パンをちぎる私の指が、途中で止まった。
「姫様のプディングでございます。こちらは、毒見の器です」
いちごを載せた小さな器が二つ、卓に並ぶ。私の器を置くときだけ、手の甲の黒子が小刻みに震えた。
毒見の器を置く手は、ぴたりと静かだ。
「フィオレッラ、お食べなさい。お母様の言うとおりにしていれば、いいの」
侍女長の手は、毒を運ぶときに震える。六年前も、そうだった。
「うばがしらのほうが、いちごがおおきいです。フィオ、そっちがいいです」
「ひ、姫様、器を取り替えてはいけません」
「どうしてですか? おんなじプディングでしょう?」
乳母頭はお盆を胸に引き寄せる。私は器へ伸ばした指を、ぴたりと宙で止めた。慌てない。欲しいのは、いちご。今の私が言うのは、それだけだ。
「毒見のものです。お手を、お引きくださいませ」
「でも、そちらのいちごが、おおきいです」
皇帝の眉間の皺が、ふいに深くなった。
「……乳母頭。なぜ、顔色が悪い?」
「フィオレッラ、わがままを言わないの」
「わがままでは、ありません! いちごの、おはなしです」
皇妃の扇が、ぱちりと開いて口もとを隠す。乳母頭の目は、扇のほうばかり見ていた。私の指は、まだ大きないちごを指している。
「娘が欲しいのは、そのいちごだな?」
「さ、左様でございますが……」
「同じ鍋のものだろう。替えてやれ」
乳母頭が、のろのろと器を入れ替える。器の底が卓布をこすり、大きないちごが私の前へ来た。
「パパ、いちごが、ちゃんとおおきいです!」
「よかったな。さあ、食べなさい」
私は匙を持つ。乳母頭の匙は、卓の上に置かれたままだ。私の手もとへ注がれる視線だけが、やけに重い。
「うばがしらは、たべないんですか?」
「姫様がお先に。私は、あとで頂戴いたします」
私は匙を下ろし、膝の上で背筋をぴんと伸ばした。
毒見の作法を私に教えたのは、六年前のあなたなんだけどね。覚えてないなら、教わったとおりに返してあげる。
「毒見は、あるじより先にひと匙。それが作法にございます。……でちゅ」
乳母頭の匙が、器の縁でかちりと鳴る。私は何もなかった顔で、両手を膝にそろえた。
「……娘の言うとおりだ。乳母頭、毒見を」
「ですが陛下、菓子は料理場で確かめております。ここで重ねては……」
「娘を待たせるな。お前が先だ」
乳母頭は、器を見つめる。唇を結んでも、匙を持つ手の震えは止まらなかった。
匙がゆっくりと持ち上がる。震える匙が口へ入り、乳母頭の喉がこくりと動いた。
「……お味に、問題はございません」
「パパ、いちごから、たべてもいいですか?」
皇帝がうなずく。ようやく私の匙が、赤い実をすくい上げた。
口に入れたプディングは、甘くて、なめらかで、悔しいくらいおいしい。いちごの酸っぱさがはじけると、詰めていた息までふわりとゆるむ。ところが、ほっとする間もなく、皇帝の匙がまた近づいてきた。
「パパ、あまいです! あの、みているだけでいいですから。あーんは、いりません」
「分かっている。食べるところを見ているだけだ」
見ているだけ、と言った人の匙が、私の器のそばをうろうろしている。私は器を膝に寄せ、両手でしっかり守った。せめて匙を置いてから言ってほしい。
食卓の向こうで、乳母頭の頭が揺れ始める。
壁際の飾り棚に肩を預け、呼ばれて顔を上げるたび、まぶたがとろりと落ちた。
「乳母頭。まだ食事の最中よ。お立ちなさい」
皇妃の声は、最後まで甘い。一度伸びた乳母頭の背は、すぐに丸まった。
こくり、こくり。口まで、半開きになっている。
「う、乳母頭様?」
「くふふ。退屈しないねえ」
ルクレツィオが、余った袖で口もとを隠す。窓辺からのんびり眺める目と合い、私は匙を握り直した。こっちは朝ごはんだけで手いっぱいなんだけど。
次の瞬間、大きないびきが小食堂に響き渡った。
皇妃の扇が、止まる。皇帝は私の器から目を離し、壁際へ顔を向けた。私を支える腕はそのままに、銀の匙だけが音もなく卓へ戻る。
「この者は、なぜ眠っている?」




