4. 裁縫箱の底は、二つ
皇帝の問いに、誰も答えられなかった。
小食堂には、まだ乳母頭のいびきが響いている。その間の抜けた音が、部屋の静けさをいっそう冷たくした。ルクレツィオが窓辺からすとんと下り、余った袖の先で乳母頭の器をつまみ上げる。
小さな鼻を近づけ、眠たげに首を傾けた。
「夜鈴草だねえ。子どもなら、日が暮れるまで起きない量だよ」
「……確かか」
「僕の鼻が嘘をついたことなんて、生まれてこのかた一度もないよ」
皇帝の眉間の皺が、深く刻まれる。誰かが息をのむ音まで、はっきり聞こえた。
「乳母頭の部屋を改めよ」
「はっ。ただちに!」
近衛たちが、一斉に礼をする。床を踏む靴音が、短くそろった。
器を替えなかったら、今ごろいびきをかいていたのは、私だ。眠っているあいだに何をされても、気づけない。背中が、すうっと冷える。
皇妃が皇帝のそばへ寄り、蜂蜜色の巻き髪を揺らした。近づく衣から、甘い香りがする。
「子どもの見るものではありません。お部屋へ戻りなさい。お母様の言うとおりにしていれば、いいの」
白い手が、私の腕へ伸びてくる。その指が触れる前に、私は皇帝の上着をぎゅっとつかんだ。
「……パパと、いっしょがいいです」
「……離れるな」
皇帝の片腕が、私をすっぽり抱え上げる。五歳の体は、この人の腕にちょうど収まってしまった。頬に触れる上着は硬いのに、その下はあたたかい。
「おもく、ないですか?」
「羽より軽い」
「フィオは、ここにいます。おかあさまとは、もどりません」
「パパの腕にいればいい。何か見つかっても、手は出すな。娘に触れさせる前に、パパが確かめる」
皇妃の手が、宙で止まって下がる。私はその手の届かない高さで、きちんと脚を揃えた。しがみつきたいのは我慢する。ここでは、ちゃんと皇女でいなくちゃ。
「陛下、幼い子には……恐ろしいものがあるかもしれませんわ」
「娘を眠らせるものがあった。それを確かめに行く」
「陛下、お待ちになって。……わたくしも参りますわ」
皇帝は返事をせず、そのまま小食堂を出た。
回廊の廷臣たちが、私たちを見るなり、波のように壁際へ割れていく。すれ違いかけた侍従まで、体を横にして道を空けた。窓から差す光の帯だけが、行く先に残る。
眉間の皺は深いまま。腕の上では、銀の巻き毛がぴょこぴょこ跳ねる。……このぴょこぴょこ、威厳の邪魔してない?
「フィオレッラ、揺れていないか? パパは、もっとゆっくりだって歩けるぞ」
「だいじょうぶです。みなさんも、ちゃんとよけてくれています」
「よけるのは当然だ。パパの娘が通るのだからな!」
「パパが、こわいおかおであるいているからだと、おもいます」
「……そうか?」
皇帝が、ほんの一瞬だけ真顔になる。うしろで、ルクレツィオがくふふと笑った。
皇妃もうしろからついてくる。その横で揺れるルクレツィオの余った袖だけが、やけにのんびりしている。
昼前、私たちは乳母頭の部屋に入った。
古い布と、樟脳の匂い。近衛が棚を開け、寝台の下を覗いた。棚板を探る音が続くのに、出てくるのは衣類と、糸ばかり。
「陛下、棚にも寝台にも、それらしいものはございません」
「床板もだ。持ち出す品も、全部ここで改める」
「衣装箱も、空でございます」
棚の上へ、ひょろりと背の高い見習い騎士が手を伸ばした。
くしゃくしゃの黒いくせ毛。埃を揺らして下ろされたのは、見覚えのある裁縫箱。
「姫様、糸くずが落ちます。少し、お下がりください」
「はい。おきをつけて」
少年の口もとが、ほんの少し緩んだ。欠けた前歯が、ちらりとのぞく。箱を支える手が、私からそっと遠ざかる。
六年前、雨の路地で私が拾った泥だらけの子が、見習い騎士の服を着ていた。
ニコロだ。……大きくなったね。たったそれだけが、喉の奥につかえる。あの子の前でまで、初対面の顔をしなければならない。
少年の指が、箱の蓋をゆっくり上げる。
六年前、皇太后陛下の侍女長は、手紙を裁縫箱の底へ隠していた。糸巻きより、さらに下。あの指の動きまで、まだ覚えている。
見過ごしちゃだめだ。私は皇帝の腕の中から、箱の下の端を指さす。
「そのはこ、そこが、ふたつあります」
「……なぜ分かる?」
「女の裁縫箱の底は、たいてい二重にございま……でちゅ」
「僕の箱は、底が一つなんだけどね」
皇帝が、真顔でうなずいた。
今ので納得するの? 助かったけど、宮廷じゅうの箱を調べ始めないでね。
「底を外せ。娘の言う場所だ」
「はい。箱を少し、横へ向けます」
ニコロが小刀を差し入れ、底板をそっと浮かせた。
木のこすれる、かすかな音。隙間から、紙の包みと、青い石がのぞく。
「陛下、包みと、ブローチです」
皇帝が青い石を受け取った。裏返す指のあいだに、宰相家の紋が見える。
「宰相家の青いブローチだ。……押収の目録で、なくなったとされていた品だ」
私の母の形見だった。
「……きれいな、あおいろ」
母が襟もとに留めていた青。窓の光を受けて、小さな湖みたいに揺れている。伸ばしかけた手を、膝の上で握った。触りたいのに、この手は短すぎる。私のものだと、言うことさえできない。
「パパ。そのブローチ……さみしそうです」
「……そうだな。長いこと、持ち主から離れていた品だ」
皇帝の声が、少しだけ低くなった。青い石を持つ指が、縁を確かめるように止まる。
「目録には『青玉のブローチ 一』とある。……それが、なぜ乳母頭の箱に?」
ニコロが包みを開く。かさり、と乾いた音がした。昨日、典医の鞄からのぞいていた薬包と、同じ紙。中には、夜鈴草。
「陛下、こちらにも草がございます」
「くふふ。さっきの器と、おんなじ匂いだねえ」
「箱ごと持っていけ。品も包みも、そのまま残せ」
近衛に両脇を支えられた乳母頭が、戸口へ連れてこられた。
足もとは、まだおぼつかない。だらりと下がった手の甲の黒子が、小さく震えている。
「皇妃様、お助けを――!」
皇妃が、扇を胸に当てた。乳母頭へ向けるのは、甘い声だけ。
「陛下。この者は、わたくしの目まで欺いておりましたのね」
「皇妃様! 私をお選びくださったのは、皇妃様で……」
「だからこそ、ご自分のしたことを、陛下へお話しなさい」
乳母頭の手が伸びる。皇妃は裾をつまみ、靴の先をわずかに引く。その衣の裾には、指一本届かなかった。
「娘の前の菓子を食べて眠り、部屋からはこの包みだ。娘の世話は、もう任せられん」
「わ、私は……長く、お仕えしてまいりましたのに……!」
「乳母頭の職を解く。皇宮から出せ」
近衛が乳母頭の向きを変え、廊下へ連れ出しにかかる。胸の奥へ、ようやく息が入ってきた。下ろしてもらう口実は、ブローチでいい。
「パパ、おろしてください。ブローチを、りょうてで、よくみてください」
皇帝は戸口の内へ私を下ろし、両手でブローチを持って、奥の窓へ向かった。腕のぬくもりが離れ、足もとの空気がひやりとする。
皇妃もそのうしろに続き、ニコロは裁縫箱を抱えて脇へ控える。ルクレツィオも、窓辺へ寄っていく。
戸口の私の前を、乳母頭が連れられていく。狭い戸口を抜けるため、両脇の近衛が一歩うしろへずれた。
「うばがしら。おてて、ふるえていますよ。ふふっ、いい気味だわ」
乳母頭が足を止め、私の耳の高さまで膝を折る。さっきまで泳いでいた目が、ふいに私の顔で止まった。
近衛は一歩うしろ。皇帝たちは、奥の窓辺。私の前で、唇だけが動いた。
「……ジネーヴラ様?」




