2. 苦いお薬には、夜鈴草
あの後も、皇妃の微笑みは崩れなかった。笑い返すたび、喉の奥がきゅっと狭くなる。
昼過ぎ、寝室の扉がまた開く。窓から差す冬の光が、寝台の上まで白く伸びていた。
朝に目を覚ましてから、皇帝の見舞いは今日で三度目だ。
「陛下、謁見の方々がお待ちで……」
「待たせておけ」
侍従は扉に手をかけたまま、石のように止まった。
「フィオレッラ、パパがいないあいだ、困ったことはなかったか?」
「パパ、フィオはおきています。きゃははは」
困ったことといえば、起きているかを三度も確かめに来る人がいることくらい。そろそろ、私より侍従の顔色が心配だ。
「政務のあいだじゅう、娘が寂しがっていないかと、気にかかっていた」
「フィオは、ひとりではありません。みなさんが、ずっといてくれます」
私が侍女たちを指すと、皇帝は椅子を寄せる手を止めた。……あれ。答え方を間違えた?
「……そうか。では、パパのほうがフィオレッラに会いたかったのだ」
「それなら、どうぞおすわりください。フィオも、ちゃんとごあいさつします」
寝台の端に手をついて、下りようとする。小さな手足では、床がやけに遠い。
脚を伸ばしても届かず、皇帝の大きな手が私の腰を支えた。身構えるより早く、体がふわりと持ち上がる。
「ここでいい。パパの娘は、寝台の上でも礼ができる」
「はい。パパ、おかえりなさい」
ぺこりと下げた頭から、銀の巻き毛が肩へ落ちる。会うたびに礼をしていたら、今日は首が忙しい。
皇帝の眉間の皺が、またほどけた。あんな顔をされると、首が疲れるくらい、まあいいかと思ってしまう。
そこへ、皇妃が典医を連れてくる。禿げ頭の下の二重顎が、礼に合わせてたぷんと揺れる。寝台へ近づく影で、白い日差しが欠けた。
「姫様、苦いお薬ですよ」
湯気の立つ杯から、典医の袖の薄荷の匂いに混じって、青くさい甘い匂いがのぼってくる。鼻の奥に触れたとたん、寝具の中のつま先が冷える。
皇妃が蜂蜜色の巻き髪を揺らし、典医の手から杯を受け取る。杯の縁に添えた指は、少しも揺れない。
「フィオレッラ、お飲みなさい。苦いのは、最初のひと口だけよ。お母様の言うとおりにしていれば、いいの」
六年前、この典医は、私の香り袋から夜鈴草が出たと証言した。
審きの間に響いた、やけに大きな声。私には一度も、何があったのかと問わなかった声。口の中の渇きまで、まだ覚えている。
その声の主の薬が今、私の口もとに寄せられている。私は唇を結び、両手を膝に戻した。今度は、言われるまま口を開けたりしない。
「それ、夜鈴草のにおいがします」
「な、なぜその名を……」
「パパのつくえのごほんの、えで、みました。まえの、どくふさんの、さばきの」
典医が、杯へ伸ばしかけた手を引っ込める。私はその指先を見逃さない。
「姫様、見間違いでございます! そのような草など……」
「でも、においがします! ごほんのえも、フィオはちゃんとおぼえています」
皇帝が椅子から立つ。私の頬へ向いていた淡い青の目が、すっと典医へ移った。寝台のそばの空気まで、硬くなる。
「典医。娘の薬に、なぜ夜鈴草が入っている?」
「ご、ごく少しならば、よく眠れるお薬に……」
典医は額の汗を手巾で拭った。拭いたそばから、また光る。
「陛下、典医はわたくしが選んだ者ですわ」
「先ほどは、入っていないような口ぶりだったな。今度は、少しならよいと?」
皇妃は扇を口もとに当てる。隠れる寸前まで、唇は笑みの形のままだ。典医が、くしゃくしゃの手巾を握りしめた。
「お、お体を休めていただくためのものでございます!」
「フィオ、いまはおきていたいです。パパと、おはなししたいです!」
「お休みも大事なのよ。お薬のことは、大人にまかせましょうね」
いや、大人にまかせた結果が、六年前なんだけど。うなずく前に確かめるくらい、今度はさせてもらう。
私はにっこり笑って、背筋を伸ばした。膝の上で重ねた指に、ぐっと力をこめる。
「恐れながら、お薬は処方の書付と照らし合わせてから飲むものにございま……でちゅ」
典医も侍女も、口をつぐんで固まった。湯気だけが、のんきに杯からのぼっている。
しまった。書付なんて言葉、五歳の口から出るわけがない。完全に、宰相家の帳簿を手伝っていたころの私だ。語尾だけ小さくしても、中身が大きすぎる。
「……書付を出せ。娘の薬に、何を入れると書いた?」
「そ、その鞄の中に、ございます」
皇帝は鞄から書付を取り、机に広げた。鞄の口から、薬包の紙の束がのぞいている。
書付には、熱さましの柳の皮と、蜂蜜。皇帝の指が末尾まで進んで、止まった。
夜鈴草の字は、どこにもない。典医の目は紙ではなく、皇妃の扇を見ている。
「書付に無い草を、娘に飲ませたな。典医、主治医の任を解く。下がれ」
「陛下、どうか……長く姫様を診てきた者でございます!」
「書いたものと違う薬を飲ませる者などに、娘は任せられん」
典医は鞄の口を閉じ損ね、手巾を床へ落とした。
皇妃が、ぱちりと扇を閉じる。侍従が薬湯の杯を遠ざけると、ようやく胸いっぱいに息が入る。
「パパ、あのおくすりは……もういいですか?」
「もう口にしなくていい。新しい典医を呼ぶ」
膝の上の手をほどきながら見上げると、皇帝は侍従を振り返った。その顔が、なぜか誇らしげだ。
「聞いたか? うちの娘は、草の名まで知っている。天才だ!」
「へ、陛下、まずは新しい典医のお手配を……!」
「パパ、ごほんにあったんです。フィオだけのことでは、ありません」
「覚えていたのが偉いのだ!」
冷酷な皇帝の評判は、どこへ行ったんだろう。胸の奥がくすぐったくて、私は膝の上で指をもぞもぞ動かした。閉じたままの皇妃の扇は、もう動かない。
◇
夕方、皇帝は私を抱いて、回廊の窓辺まで連れてきた。頬に触れる空気は冷たいのに、腕の中は温かい。
西の空が赤い。窓辺の腰掛けで、子どもがひとり丸くなって寝ている。
余った袖で目をこすり、夜色のおかっぱを揺らして、その子は起き上がった。
「ルクレツィオだ。宮廷魔導師長で、見た目は子どもだが、三百年生きている」
袖の先から細い指がのぞき、ひらひらと振られる。
紅玉色の目が、眠たげに細くなる。どう見ても子どもなのに、皇帝より偉そうだ。
「ふうん。……ずいぶん、行儀のいい姫君だねえ」
私は皇帝の腕から下り、足を揃えて完璧な礼をした。迷ったら、いちばん丁寧なのをやっておこう。
「ごきげんよう、まどうしさま」
「パパは、今の礼も見ていたぞ。自慢の娘だ」
急ぎの書状を手に、侍従が駆けてくる。皇帝は私と書状を、困った顔で見比べた。そんな顔をしても、書状は消えてくれない。
「すぐ戻る。ルクレツィオ、娘から目を離すな」
皇帝と侍従の足音が、曲がり角の向こうへ遠ざかる。肩に残ったぬくもりが、少しずつ薄れていった。
窓辺には、私とルクレツィオだけ。余った袖の中から、細い指が伸びてくる。衣ずれの音が、すぐそばに迫る。
子どもの顔が、私の耳のそばへ寄った。吐息がくすぐる距離で、その唇が動く。
「くふふふ……おかえり、毒婦さん」




