1. 毒杯の水面と、金の星
「毒婦ジネーヴラに、毒杯を」
十八歳の冬、北の塔の一室で、記録官が私の名を読み上げた。
石の壁から染みてくる冷えが、膝の骨まで届く。皇太后陛下の茶に毒を盛ったのは、私ではない。そう訴える声は、白い息になって消えるばかりだった。
「その紙には、私の言葉がないのね。茶を運んだだけだと、くり返し言ったわ。私への問いは、一つも無いの?」
「陛下の御署名がある。これ以上の言葉は、要らぬ」
「では、陛下に会わせて。一度でいいの」
「陛下は、お見えにならぬ」
記録官は紙を巻きかける。蝋燭の明かりに浮かぶ末尾の署名から、私は目を離せなかった。
皇帝ヴィットリオ。言葉を交わしたのは数えるほどの、私の婚約者。その名があれば、私の声はいらないのか。
侍女長が、銀の杯をお盆に載せて運んでくる。かすかな金属の音に目を向けると、お盆を握る手の甲の黒子が、小刻みに揺れていた。
「あなたの手、震えているわ」
侍女長は目を伏せ、杯を私の前へ置く。返事の代わりに、銀の底がお盆を擦った。
背後で、蜂蜜色の巻き髪の侍女が身をかがめる。冷えきった部屋で、甘い香水だけがむせるほど近い。
「ごめんなさいね、ジネーヴラ。陛下のお隣は、わたくしがいただくわ」
「……あなただったのね」
私が言い終えるより先に、侍女の白い指が、杯を私のほうへ押しやった。指に触れた銀は、思っていたより重い。
杯の水面に、まっすぐな黒髪の娘が映っている。
◇
――目を開けると、天井に金の星が描いてあった。
暖炉の薪が、ぱちりと鳴る。小さな手。小さな足。布団を蹴っても、端まで届かない。さっきまで骨に刺さっていた冷えが、ない。
掛け布団を押しのけて起き上がると、寝台の向かいの姿見で、銀の巻き毛が揺れた。
頭のてっぺんで、ちょこんと結んだ髪。まんまるの琥珀色の目。五歳くらいの女の子が、私と同時に口を開けている。閉じると、向こうも閉じる。
……誰。いや、私か。納得できるわけないでしょ、こんなの。
寝台の脇で脈を取っていた禿げ頭が、私の手を離す。寝台の足もとの若い侍女は、椅子を鳴らして立ち上がった。
「姫様がお目覚めに!」
扉が開き、短く刈った銀髪の男が駆け込んでくる。長身の影が、寝台いっぱいに落ちた。
男は床に膝をつき、眉間の皺を深くして、私を抱きしめる。息が詰まるほどの腕の強さに、肩が跳ねる。
「熱が下がったのか……よかった、フィオレッラ。パパだぞ」
頬に落ちてくるのは、涙だ。腕が温かい。逃げるつもりで身じろいだのに、胸元のぬくもりに動けなくなった。こんな温かさ、知らない。
……パパ?
私は、私を殺した人の一人娘に生まれ変わっていた。
五歳までの記憶も、ちゃんとある。熱が下がった今朝、六年前の記憶まで戻ってきたらしい。抱いてくれる腕も、あの署名も、同じ人のものだ。
「三日も眠ったままで……呼んでも、手を握っても、目を開けてくれなかった。もう、ひとりで眠り続けるな」
「へ、陛下、姫様はまだお熱が下がったばかりで……お、お声をもう少しお控えに……」
「分かっている!」
禿げ頭の典医が、首をすくめて黙る。大きな指が、確かめるように私の小さな手を包んだ。
その指で、署名したよね。今さらそんなに泣かれても、困る。泣きたいの、こっちなんだけど。
「ほら、パパと呼んでくれ」
私は腕の中で背筋を伸ばし、きっちり頭を下げた。
「……へいか」
「へ、陛下!? 熱でパパを忘れたのか!?」
眉間の皺が、情けなくほどける。六年前、この人の眉はひとつも動かなかったのに。
「フィオ、ちゃんと、おぼえています。おかおも、おなまえも。だから、まちがえたのでは、ありません」
「なら、いつもの呼び方も覚えているだろう? 朝から、ずっと待っていたんだ。……頼む」
私を殺した人を、そんなふうに呼べるわけがない。なのに小さな手は、上着をぎゅっとつかんでいた。
温かい。離れたいのに、離してほしくない。あの審きの紙には無かったものが、ここにはある。
「パ……パ」
「聞いたか、皆! パパと呼んだぞ!」
侍女たちも典医も、ぴたりと固まる。暖炉だけが、のんきにぱちぱち鳴っている。
私を処刑した人が、今世ではパパでした。
「へ、陛下が、お笑いに……わ、私、初めてです」
「はい、パパ。きこえましたから、みなさんに、そんなに、いわなくても。ほら、みなさん、うごかなくなりました」
「これは皆に聞かせることだ! 皆も心配していたんだからな。ああ、いつもの声だ。……もう一度、聞きたいくらいだ」
皇帝が頬を寄せてくる。右から、左から、すりすり。あの、威厳。どこへ置いてきたの。
「恐れながら陛下、お顔が近うございます。……でちゅ」
「……今、なんと?」
侍女たちがそろって顔を伏せ、肩を震わせた。
まずい。口から、六年前の私が出た。とっさに付けた五歳の語尾、間に合った?
「おかおが、ちかいです。フィオのほっぺが、つぶれます。これでは、おはなしも、できません」
「そうか。……では、少しだけ離す。これくらいなら、パパの顔が見えるか?」
「はい。よく、みえます。……パパのおかお、ぬれています」
皇帝はようやく頬ずりをやめ、それでも腕だけはほどかなかった。
乳母頭が、銀の杯の蜂蜜湯をお盆に載せて入ってくる。甘い湯気の向こう、お盆の縁を握る手の甲の黒子に、私は息を止めた。
私の毒杯を運んだ侍女長は今、私の乳母頭。偽の証言をした典医は、私の主治医。
続いて、皇妃オノーリアが入ってきた。蜂蜜色の巻き髪を高く結い上げ、藤色の垂れ目を細めている。
父の後添えで、私の継母で、後見人。生みの母の皇后は、私が一つのときに病で亡くなっている。
「まあ、やっとお目覚めね。お母様も、お声を聞きたかったのよ。さあ、陛下のお腕から下りて、喉を潤しましょう」
皇妃が、お盆の上の杯を指さした。私が動かなくても、その指は下がらない。
「さあ、お飲みなさい。お母様の言うとおりにしていれば、いいの」
あの囁きと、同じ声。六年前の銀の杯が、目の前の杯に重なる。喉の奥が、きゅっと狭くなった。
今度は、聞いてくれる人の前で言う。私は杯から手を引き、皇帝の上着を握り直した。
「パパ。フィオ、ぎんのコップ、こわいです。ゆめで、うばがしらが、どくのはいったコップを、もってきたの」
お盆が落ちる。跳ねた銀の音が耳を刺し、蜂蜜湯が絨毯へ広がった。
「夢の話だ。……乳母頭、なにを震えている?」
「も、申し訳ございません。手が、すべって。す、すぐに、新しいものを……」
「飲みたくないなら、飲まなくていい」
「陛下、そんなに甘やかしては、癖になりますわ!」
「癖になればいい。娘が嫌なものは、私も嫌だ」
乳母頭は、空になった両手を握りしめる。皇妃の指はまだ、杯のあった場所を指していた。
「パパ。いやなゆめをみたら、いやですって、いってもいいですか?」
「もちろんだ。誰の前でも、遠慮はいらん。嫌なものは嫌だと言え。怖いことは、全部パパに言え」
皇帝が私を抱え直す。胸につかえていた息が、ようやくこぼれる。その肩越しに、皇妃が微笑んだ。
「怖い夢を見たのね。お母様が、ついていてあげる」
その甘い声に、背中が冷える。私は皇妃へ顔を向け、膝の上で、小さく礼を返した。
いいわ。五歳の皇女の小さな口で、一人ずつ、お父様の前で喋ってもらいましょう。
「おかあさま。こんどは、フィオがおちゃを、いれてあげますね」




