第九茶番 「いつも通り」が終わる日
徒らに 過ぐる月日は 長けれど 志の道は 夢の間なり
漫然と生きていると、月日は長く感じられる。
だが、志を持って生きる道は、夢を見ている間のように短い。
統一歴一一六年。
夜明け前。
街はまだ眠りの中にあった。
通りを走る車も疎らで、建物の窓に灯る明かりも少ない。そんな静かな街の一角に、感情保安庁警察部特務隊詰所に併設された公営訓練施設がある。
感情素子の供給を受けた照明が、人気のない室内を淡く照らしていた。
その静寂を――ガシャン、と重い金属音が叩き割る。
ベンチへ横たわった男が、太い腕でバーベルを押し上げていた。
一回、二回、三回。
呼吸は乱れない。十回を越えても速度は落ちず、十五、十八、十九――。
「二十……!」
最後の一回を押し切り、バーベルをラックへ戻す。
ガシャン――。
「ふぅ……」
大きく息を吐いた男は、額から流れる汗を腕で拭い、満足そうに自分の胸を見下ろした。
ヒロ・アシハラ。
感情保安庁警察部特務隊筆頭。
当時、三〇歳。
その顔は非常に清々しかった。
なにしろ今日も、筋肉はきちんと応えてくれたのである。
「……筆頭」
背後から声がして、ヒロが振り返る。
そこには若い隊員が立っていた。
「なんだ」
「何してるんですか?」
ヒロは一度自分を見て、次にバーベルを見てから、改めて隊員へ顔を向けた。
「見れば分かるだろ」
「それは分かります」
「なら聞くな」
「そうじゃなくて!」
朝っぱらから元気な声が、誰もいない訓練施設へ響いた。
隊員は呆れた顔でヒロを見る。
「昨日も遅くまで仕事してましたよね?」
「あぁ」
「ほぼ徹夜ですよね?」
「そうだな」
「寝てください」
「断る」
「なんでですか!?」
ヒロはベンチから立ち上がり、タオルで汗を拭いながら、至極当然のことを告げた。
「筋肉は裏切らない」
「はい?」
「否」
ヒロは僅かに目を細めた。
「愛情を注ぐことにより、裏切らない筋肉を育てるのだ」
「寝てください」
即答だった。
残念ながら、若き日のヒロ・アシハラも――筋肉に関してだけは、既に完成していた。
「そういえば、筆頭」
「なんだ」
「昨日助けた子、覚えてます?」
次の器具へ向かっていたヒロが首を傾げる。
「子供?」
「ほら。帰り道で転んで、怪我してた子ですよ。家まで送ったじゃないですか」
「あぁ」
ようやく思い出したらしい。
「お母さんから連絡が来てましたよ。お礼を言いたいって」
「そうか」
「会います?」
「いや」
「なんでです?」
ヒロは足を止めることなく答えた。
「元気なら、それでいい」
それだけ言って、懸垂台の前へ立つ。
隊員は少しだけ黙った。
当のヒロは気にした様子もなく、腰へ重りを取り付けていく。
二十キロ。
三十キロ。
四十キロ。
五十キロ。
「……」
隊員は見なかったことにしようとした。
無理だった。
「筆頭」
「なんだ」
「それ、五十キロありますよね?」
「あぁ」
「それで懸垂するんですか?」
「あぁ」
「何回?」
ヒロはバーを握った。
「二十」
「……」
「少ないか?」
「多いです」
ヒロの身体が持ち上がる。
一回、二回。
背中の筋肉が収縮し、五十キロの重りをぶら下げた巨体が上下する。十回を越え、十五回を越えても動きは崩れない。
「十九……」
最後にもう一度身体を引き上げ、顎がバーを越える。
「二十」
静かに着地したヒロは、そのまま次の器具へ視線を向けた。
「次」
「まだやるんですか!?」
「当然だ」
次は脚。
バーベルへプレートが追加されていく。
百二十、百四十、百六十――百八十キロ。
「……筆頭」
「なんだ」
「今日はもう、その辺で」
「まだ始まったばかりだ」
「俺、帰っていいですか?」
「駄目だ」
「なんで!?」
ヒロは答えず、バーベルを担いだ。
深く腰を落とし、重量を全身で受け止めてから力強く立ち上がる。速さだけを求めることはなく、膝の向きも背筋も、呼吸さえも崩さない。
一回、二回と繰り返し、疲労が重なってもその動きにはほとんど乱れがなかった。
「……綺麗なんだよなぁ」
隊員が思わず呟く。
「なんだ?」
「なんでもないです」
不本意ながら、美しい。
まるで教本だった。
そして、ようやくスクワットを終えたヒロが向かった先を見て、隊員の顔が引きつった。
サンドバッグ。
「まさか……」
「最後だ」
「本当ですね?」
「あぁ」
ヒロが拳を構え、踏み込む。
ドンッ!!
重い音とともにサンドバッグが大きく揺れた。
次の拳が飛ぶ。間髪入れず肘を叩き込み、身体を捻った勢いのまま反対の拳へ繋ぐ。さらに距離を詰めて膝を突き上げ、着地と同時に軸足を返した。
蹴りが走る。
ドゴッ!!
「ちょっ……!」
隊員が声を上げた、その次の瞬間。
バゴォッ!!
サンドバッグを吊っていた金具が曲がった。
「……」
「……」
二人はゆっくりと天井を見上げる。
傾いた金具が、キィ……と小さな音を立てていた。
隊員が額へ手を当てる。
「今月三個目だぞ……」
「そうか」
「そうかじゃないですよ!」
「丈夫なのを買えばいい」
「そういう問題じゃありません!」
ヒロは不思議そうに首を傾げた。
「さて」
「嫌な予感しかしない」
壁際へ向かったヒロが手にしたのは、訓練用の木刀だった。
隊員の表情が変わる。
そして。
ヒロも変わった。
先ほどまで筋肉について大真面目に語り、サンドバッグを破壊していた男の顔から僅かに緩みが消える。
正眼に構え、足を運び、息を整える。
振る。
ヒュン――。
木刀が空気を裂く。
もう一度。
ヒュン――。
国津流。
一振りごとに、足から生まれた力が腰を通り、背中、肩、腕へと伝わっていく。全身を巡った力は木刀の切っ先へ集まり、一つの鋭い軌道となって空気を裂いた。
百。
二百。
五百。
汗が床へ落ち、呼吸が荒くなっても、ヒロは振ることをやめない。
守るべきものの前で、力が足りなかった。
そんな言い訳だけは――したくない。
だから、鍛える。
ただ、それだけだった。
九百九十八。
九百九十九。
そして――千。
ヒュン――。
最後の一振りが、夜明けの訓練施設を切り裂いた。
ヒロが木刀を下ろす。
窓の外では朝日が街を照らし始め、眠っていた道路に一台、また一台と車が増えていた。駅へ向かう人々の足音が重なり、街そのものがゆっくりと目を覚ましていく。
「筆頭」
「なんだ」
「仕事、行きますよ」
「あぁ」
ヒロは木刀を元の場所へ戻し、タオルを肩へ掛けると、何事もなかったかのように歩き出した。
「……寝る気、ないんですね」
「ない」
「でしょうね」
二人は並んで訓練施設を後にする。
朝になれば身体を鍛え、仕事へ向かう。困っている者がいれば手を差し伸べ、また次の日も同じように鍛える。
ヒロ・アシハラにとって。
今日も、いつも通りの朝だった。
少なくとも――このときは、まだ。




