第八茶番 主人公退場
ユウカの一言を受け、ヒロは完全に硬直していた。
耳元には、まだあの甘い声が残っている。すぐそばではユウカがいたずらっぽく微笑み、そして何より
――背後から、何とも形容し難い気配を感じていた。
振り返る勇気はない。
だが、分かる。
カヨナだ。
理由は分からないが、ものすごく機嫌が悪い。
――不味い。
これは非常に不味い。
このままでは、何かが起こる。
ヒロは必死に逃げ道を探した。右を見る。駄目だ。左にはゆかり。正面にはユウカ。そして背後には、正体不明の圧を放つカヨナがいる。
逃げ場は、どこにもなかった。
絶体絶命である。
……かと思われた、そのとき。
ヒロは見つけた。
一筋の光明を。
「あっ」
「?」
カヨナの眉が僅かに動く。
「カヨナ」
「え?」
ヒロは何食わぬ顔で、彼女の頭へ視線を向けた。
「ポニーテールが解けてるぞ」
「えっ!?」
カヨナが慌てて自分の髪へ手を伸ばす。
その隙だった。
ヒロの手がそっと伸び、長い黒髪を束ねていた髪留めへ指先が触れる。
そして――外した。
サラリ。
束ねるものを失った艶やかな黒髪が、肩から背中へ流れ落ちる。そのまま重力に従って柔らかく広がり、カヨナの背中を覆った。
その瞬間。
「きゃぁぁぁぁぁぁぁ!!」
神速。
本当に、神速だった。
カヨナ自身にも、何が起きたのか分かっていなかったのだろう。
驚いた身体が先に反応した。床を強く踏み込んだ身体が跳ね上がり、しなやかな右脚が天井へ向かって一直線に伸びる。そのまま腰を軸に身体が返り、振り上げられた踵が凄まじい勢いで落下した。
踵落とし。
完全無意識。
完全反射。
そして――。
見事に。
ヒロの脳天へ直撃した。
ドゴォォォォン!!!
「ぐぼぉっ!?」
巨体が沈んだ。
床が揺れ、筆頭室全体へ鈍い衝撃が走る。つい先ほどまで壁を何枚も拳でぶち抜いていた筋肉の塊が、たった一発の踵落としによって床へ叩き付けられていた。
静まり返った筆頭室で、誰も動かなかった。
ユウカも、ホシも、ゆかりも。
そして――やった本人であるカヨナも。
「……」
床に突っ伏したヒロだけが、僅かに震えている。
「み……」
「え?」
「見事だ……」
「……え?」
カヨナの顔から、みるみる血の気が引いていった。
自分の右脚へ目を落とし、床に沈んだヒロを見る。そして、もう一度ゆっくりと右脚へ視線を戻した。
「……あ」
理解した。
「ああぁぁぁぁ!?」
慌ててヒロのそばへしゃがみ込む。
「ヒロっ!!」
返事がない。
「ご、ごめんなさい!! 大丈夫ですか!?」
ヒロは薄れゆく意識の中、ゆっくりと顔を上げた。
「昔は……」
「はい!?」
「喜んでいたのだがな……」
「何をですか!?」
ヒロの瞳から、徐々に光が失われていく。
その脳裏を、まるで走馬灯のように遠い記憶が流れていった。
若い頃のカヨナの笑顔。共に汗を流した訓練。夕焼けに染まった帰り道。くだらないことで笑い合った、何でもない日々。
そして――。
まだ、何も失われる前の時間。
「ヒロ!? しっかりしてください!」
カヨナが必死に身体を揺する。
しかしヒロは、どこか遠い場所を見るような目で天井を見つめていた。
「ようやく再会して……」
「はい!」
「恐縮だが……」
「はい!?」
一度、大きく息を吐く。
「行ってくる……」
「どこに!?」
「あと六巻ほど……いや、七巻か」
「何の話ですか!?」
何やら意味不明なことを呟いている。
もはや、この場にいる誰にも理解できない。
「留守を頼む……」
ガクガクッ。
「ヒロ!?」
バタン。
動かなくなった。
「……」
一秒。
二秒。
「ヒローーーっ!!」
カヨナの絶叫が筆頭室を揺らした。
「起きて!! ヒロ!!」
必死に肩を揺する。
しかし、返事はない。
「まだ序章ですよーーー!!」
ユウカが眉を上げた。
「序章?」
「物語が終わっちゃいますーーー!!」
「何のことか存じ上げませんが」
ユウカは至って冷静だった。すぐさまヒロのそばへ膝をつき、首筋へ指を当てて脈を確認すると、そのまま瞳孔や呼吸状態にも目を配る。先ほどまでの小悪魔のような姿が嘘だったかのように、手際よく状態を確認していった。
「脈拍低下。血圧も基準以下ですね」
「だ、大丈夫なんですか!?」
「すぐ医務室へ運びましょう」
「いつものことだ」
ホシが静かに立ち上がった。
「いつものことなんですか!?」
「俺が運ぶ」
「聞いてください!!」
ホシは気にする様子もなく、倒れているヒロへ近付いていく。
その横では。
「ギャハハハハハ!!」
ゆかりが腹を抱えて笑っていた。
「筋肉が退場した!!」
床を叩く。
「戻るまで、あーしが主人公だぜぇ!!」
「ヒロさーーーん!!」
カヨナの悲鳴だけが、いつまでも筆頭室へ響いていた。
◇
さて。
読者諸氏。
私です。
地の文――a.k.a.神の声にございます。
……おっと。
失礼。
どうやら以前クビになった職場での名乗り方が、つい口をついて出てしまいました。
改めまして。
私は――神の声。
またの名を、地の文と申します。
第五話以来となりますが、皆様におかれましては、ここまで無事に辿り着かれたことを心よりお慶び申し上げます。
もっとも。
主人公の方は、無事ではないようですが。
物語も始まったばかりだというのに、主人公が踵落とし一発で退場するなど――言語道断。本来であれば、私も地の文という立場を弁え、粛々と物語を進行すべきなのでしょう。
しかしながら。
この有様です。
そこで、作者――南馬一六三に代わりまして、この場をお借りし、読者諸氏へ一言、謝罪を申し上げたい所存にございます。
誠に申し訳ございません。
……と。
ここまで序章をお読みになった読者諸氏であれば、もう薄々お気付きかもしれません。
ヒロ・アシハラ。
そして。
カヨナ・ワダツミ。
この両名。
どういうわけか、作者の意図に反した行動を取ることが多々ございます。
主人公は壁を拳でぶち抜き、土鍋を片手に現れる。ようやく十年ぶりの再会を果たしたかと思えば、今度はヒロが怪しげな惚れ薬を購入。
挙げ句の果てには、自らカヨナの髪留めを外し、神速の踵落としを脳天へ受けて退場。
私といたしましても、いったい何をどう語ればよいのか。
些か、頭を抱えている次第にございます。
しかし。
困ったことに、この物語を最後まで無事に完結できるかどうかは、どうやらこの二人にかかっているようなのです。
つまり。
この世界は――。
二人の手にかかっていると言っても、過言ではありません。
一頁めくった先で、突如として最終回を迎える可能性もあれば、反対に、いつまで経っても終わらない可能性もある。
私にも分かりません。
なにしろ。
私もまた、この長い茶番に巻き込まれた一人なのですから。
それでも。
願わくば。
この先、彼らが笑い、泣き、傷つき、ときには道を間違えながらも歩いていく姿を。
そして。
その長い、長い茶番が――。
いつの日か。
本当に『キセキ』へ辿り着く、その瞬間まで。
どうか。
ヒロ・アシハラと。
カヨナ・ワダツミを。
そして、私。
地の文a.k.a.神の声を。
温かく見守っていただければ、幸いにございます。
……おっと。
これ以上話が長くなりますと、編集部から連絡が来そうですので、この辺りでやめておきましょう。
もっとも。
まだ編集部など存在しないのですが。
それでは、読者諸氏。
次回も無事に物語が続くことを願いまして――。
これにて。
序章。
閉幕にございます。
序章 主人公退場~その名はびんびん小町
――完




